学位論文要旨



No 217215
著者(漢字) 榊原,哲也
著者(英字)
著者(カナ) サカキバラ,テツヤ
標題(和) フッサール現象学の生成 : その方法の成立と展開
標題(洋)
報告番号 217215
報告番号 乙17215
学位授与日 2009.09.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17215号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 熊野,純彦
 東京大学 教授 村田,純一
 大阪大学 教授 浜渦,辰二
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、現代哲学および現代思想に大きな影響を及ぼしつつもさまざまな批判にさらされているフッサール現象学の生成の過程を、その最初期から辿り、とりわけ彼の「方法」思想がいかに成立し展開したのかを、テクストに即しつつ、しかもフッサールがその時々に見つめていた〈事象〉との関わりにおいて、内側から理解しようとする試みである。

第一部「現象学の誕生と方法の成立」では、フッサール現象学の誕生と方法の成立過程を追跡して・中期の主著『イデーンI』までの歩みをたどり、方法がはじめて表立って体系的に提示されたこの書物において、いわゆる静態的方法がどのような内実を持つものであったのかを解明することが試みられる。

第一部第一章では、数学研究から出発したフッサールが意識の志向性という〈事象〉に目を向けるようになった経緯が、テクストに即して丹念にたどられる。『論理学研究』までの間に彼がこの〈事象〉を、〈心理的作用が対象への志向的関係においてイデア的意味を構成し、この意味を介して対象に関係する〉という、一見極めて逆説的な事態として見つめるようになったことが明らかにされるのである。

第一部第二章では、フッサールがこの〈事象〉を解明するに当たって、『論理学研究』初版において、イデア的意味の形式論たる純粋論理学の理念を提示すると共に、純粋論理学の諸概念や諸法則を認識論的に解明し基礎づけるために〈論理学的諸体験の現象学〉を要請した経緯が、テクストに即して丹念に辿られる。『論理学研究』初版ではまだ明確な方法意識は見られないが、そこでの「純粋記述」の手続きのうちには、のちの方法の萌芽が見て取れるのである。

第一部第三章は、『論理学研究』以降、『イデーンI』までの間に、フッサールが「現象学的還元」をいかなる仕方で「方法」として形成したのかを、彼の見つめていた〈事象〉との関わりにおいて解明する。意識の志向性という〈事象〉を純粋に取り出すべく、『論理学研究』以来行われた〈心理的体験の実的成素を超えた一切の理論的仮定の排除〉や〈あらゆる超越化的統覚の遮断〉が、「現象学的還元」として次第に自覚化され定式化されるのである。

第一部第四章では、『論理学研究』以降、『イデーンI』までの間に、もうひとつの方法、すなわち「本質直観」がいかなる仕方で「方法」として形成されたのかが詳細に辿られる。フッサールは時間意識という〈事象〉を見つめることによって、体験を超える客観的時間や心理学的統覚を遮断しても、本質ではなく個体的なものの流れが見出されることに気づき、まさにこの現象学的個体性という〈事象〉に促されて「本質直観」を方法として確立していったのである。

第一部第五章では、以上のようにして確立された二つの方法に基づく「純粋現象学」の営みが、『イデーンI』において、いかに提示されているのかが明らかにされる。本論文はこの営みを、〈理念的統一としての体験流への理念化的反省に支えられつつ、現象学的還元と本質直観とが力動的に絡み合うなかで、自然的態度と超越論的次元とを往復しながら、体験流の個々の体験の反省をもとに、言語表現作用を通じて志向的体験の類型的本質を記述していく力動的認識運動〉として解釈する。『イデーンI』のフッサールは、まさにこのような営みによってこそ、〈意識の立場に徹底的にとどまり、原本的現出という直観的「起源」から、世界についてのあらゆる認識と学問を徹底的に基礎づける哲学〉が可能になると考えたのである。

第二部「静態的現象学から発生的現象学へ」では、フツサールが『イデーンI』で確立した方法に則って記述を進めるなかで、新たな〈事象〉に直面し、この〈事象〉のほうから「発生」という問題次元に導かれていった経緯が、主として『イデーンII』の未刊の原草稿を手がかりにして丹念に辿られる。

まず第二部第一章では、現行の『イデーンII』の複雑な成立史が明らかにされ、そこに収録されたテクストを成立年代に注意しつつ読むことの重要性が確認される。その上で、未公刊の二つの「原草稿」が可能な限り復元され、その内容が概観される。

第二部第二章では、『イデーンI』の鉛筆書き草稿で「純粋自我」に関する現象学的記述の可能性を初めて認めたフッサールが、『イデーンI』で定式化された方法に則って純粋自我の現象学的記述を試みた『イデーンII』原草稿において、早くもこの方法の射程を超えるような〈個々のコギトを貫いて時間的に存在する純粋自我〉という〈事象〉に直面したことが、明らかにされる。この〈事象〉の記述・分析によって、フッサールは発生的現象学への決定的な一歩を踏み出した。しかもこのく事象〉は、〈歴史をもつ心〉と〈絶えず生成のうちにある人格〉という事象との関わりにおいて見て取られていたのである

第二部第三章は、『イデーンII』原草稿に見られるこの〈心と人格の発生〉という事象への洞察が、主としてディルタイとの思想的交流をつうじて生れてきたことを、フッサール所蔵のディルタイのテクストの下線や書き込みをもとに、浮き彫りにする。

第二部第四章では、『イデーンII』原草稿から時間的に遡って、初期時間論において内的時間意識の次元が発見された経緯が明らかにされる。初期時間論に属するテクストを年代順に追跡することによって、フッサールが〈自己現出する意識流〉としての「内的時間意識」概念に到達したことが解明され、一九一万年ごろには純粋自我がこの内的時間意識において構成されるものとして位置づけられたことが確認される。

第二部第五章では、現行の『イデーンII』に収められているテクストのうち、一九一五年に成立したとされる部分に、〈習慣性を具えた純粋自我〉という概念が成立する現場を見て取り、また一九一七年一月末の草稿をもとに、〈受動的自我〉の層がいかに解明されていったのかが概観される。内的時間意識の次元が考察に引き入れられることによって初めて、純粋自我は〈習慣性を具えた自我〉として捉えられるようになり、また純粋自我の底で機能する受動的志向性という〈事象〉にも眼差しが向けられて、身体性と結びついた感性的な「自然の側面」が解明されるようになったのである。

第三部「発生的現象学の方法論」では、見つめる〈事象〉とその分析において、すでに発生的現象学への歩みを進めていたフッサールが、その理念と方法をいかに自覚化したのかがテクストに即して明らかにされる。次いで発生的現象学の具体的分析の一端を参照し、また還元の道の新たな展開をも概観しつつ、フッサール現象学の営みが後期時間論を経て最終的にどのような形に行き着いたのかを解釈する試みが行われる。

まず第三部第一章では、遺稿をもとに、フッサールが発生的現象学の理念を自覚化していくプロセスが明らかにされ、発生的現象学の方法が〈静態的現象学によって与えられる意味および統覚の基づけ関係を手引きとして、高次の諸層を「解体」しつつ、最下の層から順次、意味の原創設を遡行的に問うて、発生をあまねく説明する方法〉として浮き彫りにされる。本論文では、原創設への遡行的問いを二つの次元に区別することが試みられ、生き生きした現在における時間化という最深の次元にまで分け入っていく問いが、〈生き生きした発生〉への問いとして概念化される。

第三部第二章では、『デカルト的省察』第五省察の他者経験論に即して、静態的分析と発生的分析との関係、および発生的分析のあるべき姿が、際立たせられる。また第五省察のいくつかの箇所と最晩年の遺稿を手がかりに、フッサールが最終的に〈生き生きした現在において自我と共に他者たちがそのつどの時間化に関与して機能している〉と考えるに至ることも見届けられる。

第三部第三章では、発生的現象学への思索の歩みとその自覚化を受けて、フッサールが〈還元の道〉に関しても思索を深めていったこと、そしてそこに含まれる諸問題が最晩年の思索に受け継がれていったことが、主として一九二三/二四年冬学期の『第一哲学』講義に即して明らかにされる。そこでは「哲学者になろうとする者」の発生や、そこに潜むエートス、倫理性が際立たせられ、また還元を遂行する「生き生きした現在」がクローズアップされるが、他方では、「デカルト的な道」の位置づけや「必当然性」批判の帰趨、それに現象学と歴史との関係などが、解明されるべき課題として残されたのである。

第三部第四章では、後期時間論草稿を(未刊のものも含め)できる限り年代順に辿ることによって、後期時間論において〈生き生きした現在への反省〉が実際にいかに遂行され、いかに自己理解されていたのかが、際立たせられる。その結果、明らかになるのは、フッサールが機能する自我の自己感触に支えられて生き生きした現在への「適切な反省」を遂行していたこと、彼が認識論的アプローチと存在論的アプローチの間を揺れ動きつつ、最終的に両者を綜合する現象学的反省の道を提示したこと、そして、反省が内的な自己感触に基づいている限り、機能現在の匿名性も後からの反省によるその存在者化も、致命的な方法論的困難にはならないと彼が自己理解していたであろうことである。本章ではさらに、後期時間論の一草稿を手がかりに、「適切な反省」に関する認識論的かつ存在論的な解釈を、存在論的方向にさらに一歩進め、「目覚めた自我」の〈時間化しつつ時間化される自己触発的な在り方〉に「適切な反省」を基礎づける方法論的考察の試みも行われる。生き生きした現在における〈生き生きした発生〉への遡行的問いは、このような「適切な反省」に基づいてこそ行われうるのである。

第三部第五章では、『危機』書における歴史的省察とそれに続いて歩まれる二つの還元の道の内実が検討されるとともに、そこでの歴史的省察の方法を、関連草稿をも参照しながら、発生的現象学の遡行的問いの方法として際立たせることが試みられる。『危機』書や関連草稿では、諸学問やとりわけ哲学の原創設が、時間化された間相互主観的な内的歴史性の次元で遡行的に商われるが、後期時間論の思索の帰趨を踏まえると、それは〈時間化しつつ時間化され、歴史化しつつ歴史化される目覚めた自我生〉という在り方に基づけられた営みであると解釈されうる。この営みは、現象学者たる私によって、そのつど私に開かれる生き生きした歴史的現在から、私の知的自己責任において遂行されざるを得ず、その意味で現象学を営む自我の優位は揺るぎえない。けれども歴史的省察を遂行する私の時間化・歴史化の機能に、共に機能する他者たちの諸機能が抜きがたく入り込んでいる限りで、その営みは決して独我論的なものではない。しかし、そこには幾つかの危険も潜んでいる。フッサールが最終的に提示した発生的現象学の遡行的問いの方法は、現代に生きるわれわれに、〈自らの知的自己責任において自らの現在から、哲学や歴史の意味を絶えず遡行的に問い直すべきである〉というそのエートスをこそ示しているのである。

終章では、本論文の考察が要約されたあと、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィナス、デリダのフッサール批判に対する本論文の立場からの暫定的な応答がなされ、認識論と存在論とが切り結ぶ地点に立つフッサール現象学が、今日においてもなおもちうるアクチュアリティの一端が示される。

審査要旨 要旨を表示する

榊原哲也氏の博士号申請論文『フッサール現象学の生成 -その方法の成立と展開-』は、フッサール現象学の基盤をなす方法概念に焦点を当てながら、それが、どのように形成され展開していったのかを、文献的に丹念にたどり、明らかにしようとしたものである。フッサール現象学の方法は「現象学的還元」とよばれる。これまですでにこの「現象学的還元」に関しては無数の文献学的研究が発表されてきたが、この方法の成立と展開をフッサール哲学の最初期から最晩年期に至るまで全体にわたって首尾一貫した形で解釈して見せた研究はほとんど見当たらない。その意味でこの榊原氏の研究は、国際的視点から見ても、フッサール研究の歴史に大きな一歩をしるすものといえるだろう。

本論文は、三部構成で、第1部が「フッサール現象学の誕生と方法の成立」、第2部が「静態的現象学から発生的現象学へ」、第3部が「発生的現象学の方法論」である。

第1部においては、「現象学的還元」という方法の成立過程がまず文献的に丹念にたどられる。現象学的還元が成立するのは、記述現象学の立場の『論理学研究』から超越論的現象学の立場で書かれた『イデーンI』に至るまでの期間であるが、榊原氏はこの期間に書かれた多くの草稿を手掛かりにして、現象学的還元の成立がもう一つの方法概念である本質直観という方法と密接な関係にあることを描きだす。榊原氏によると、フッサールは『イデーンI』では、世界が存在しない可能性のもとでも、「世界についての」意識の方は成立し続ける可能性があることを根拠にして「還元」の可能性について語っており、このような本質直観にもとづくデカルト的意識観が現象学的還元の方法の成立に決定的な影響力を持っていたことが示されるのである。

第2部においては、『イデーンI』に続いて書かれながら生前には公刊されずに終わった『イデーンII』の複雑な成立史が明らかにされる。この課題に取り組むために榊原氏は、公刊されたテキストとは別に、もとになった二つの未公刊草稿の復元を試み、それによって、この『イデーンII』の原稿を仕上げるフッサールの試みのうちに、現象学的還元が、静態的見方から発生的見方へと変化していくきっかけを見出しうることを明らかにする。この研究は、フッサール文庫に残された未公刊の草稿を見出し、解釈することによって可能になったものであり、榊原氏の文献研究の最大の成果の一つといえるだろう。

第3部においては、『デカルト的省察』第五省察、最晩年の遺稿、さらには、いわゆる後期時間論草稿をもとに、フッサールの後期時間論が、いわゆる「生き生きした現在」を主題化しながら、いかに展開されたのかがたどられ、それによって、フッサール現象学の方法論が、認識論および存在論を総合した新たな見方へと変貌していく姿が、ここでも文献に即して丹念に描かれる。

本論文は、基本的に文献学的な手法で、議論を展開したものであり、その点で、哲学的な観点からすれば、未消化で、内容的に不分明と思われる箇所も散見される。しかし、これまでの研究のなかでは依然不明瞭なまま安易に語られていたフッサール現象学の多くの発展史的な局面が、テキストに即して明確になったという成果は、刮目に値する。

よって、審査委員会は、本論考が博士(文学)の学位を十分に授与しうるものと判定する次第である。

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