学位論文要旨



No 217235
著者(漢字) 谷,紀夫
著者(英字)
著者(カナ) タカタニ,ミチオ
標題(和) ビルマとシャンの民族表象と文化動態に関する人類学的研究
標題(洋)
報告番号 217235
報告番号 乙17235
学位授与日 2009.09.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17235号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 准教授 木村,忠正
 東京大学 教授 山下,普司
 東京外国語大学 教授 三尾,裕子
内容要旨 要旨を表示する

本論考は、多民族国家ビルマ(現ミャンマー)とその周辺の多民族共生の構造と、同国家と周辺民族とが相克しながら、それぞれの「文化」、「伝統」を構築しつつある実像に関して、筆者が、1983年以来、通算約4年間にわたるフィールドワークを基盤に、人類学的に考察を加えてきた研究の集成である。その主目的は、マジョリティであるビルマ人とマイノリティであるシャン族の民族間関係の変遷と、独立前後から始動する国家統合と国民文化形成の過程を、民族表象とその文化動態に関する諸事象から明らかにすることにある。時代的には、19世紀後半の英領植民地化前後から今日のビルマ政府による文化政策・民族政策の実施に至るまでを視野に入れ、その過程で生成する「民族」としての自意識とその表象、及び相関する文化動態に着目している。また本論考は、学界において民族誌の登場が期待されてきたビルマのマイノリティに関する資料を含み、東南アジア世界に関する民族誌の蓄積に貢献する試みでもある。

本論考は、研究手法として、二つの軸を設定している。ビルマによる「シャン」の表象と、シャンによる「シャン」の表象である。その意図は、多民族国家ビルマとその周辺に関して、民族間関係の脈絡における民族表象とその文化動態を考察するためには、二つの軸を「合わせ鏡」としてその構図を明らかにすることが動態論的に有効だと考えたからである。

本論考において、特に「シャン」をめぐる民族表象に注目する理由として筆者は次の五点を挙げている。第一に、ビルマで生活するシャンの人々が、非ビルマ系として最大の人口を擁し、独自の文字文化を有するなど、周縁的ではあるが、歴史的に文化的影響力を周辺民族に対して及ぼしてきたことを指摘する。第二に、シャンの人々は、隣国タイ王国のマジョリティであるタイ人とは文化的には近親関係にあり、その特異性が他のマイノリティであるカレンやカチンの人々に比べ国家論的状況において際だっていることである。第三に、近年、「シャン」という民族的出自を背負う人々の全体を視野に入れた文芸文化保存運動が進行しつつあり、「シャン」という民族表象を集団的に共有したいという動向が認められることもその理由のひとつである。同様な動向は、「カレン」「カチン」をめぐる民族表象と文化動態に関して顕著ではない。第四に、シャンの人々の間では、ビルマ人と同様に仏教徒が最多数を占め、キリスト教徒の割合が比較的多いカレンやカチンの人々とは宗教的基盤が異なり、シャンであることの民族的アイデンティティと、仏教徒としての宗教的アイデンティティの境界がほぼ重なっていることである。従って、第五に、シャン文化は、仏教信仰を共通基盤として、ビルマ文化と連続しており、民族間関係の脈絡における文化動態を考察しようとする場合、"シャンのビルマ化"と"シャンのシャン化"とが、別個の文化事象ではなく、相互に影響しあう表裏一体の関係にあると考えられ、国家と周辺民族との相克を考察するための重要な視点であることも「シャン」に注目する理由である。

論文全体は五部構成を成している。

第I部は、儀礼論を手掛かりに、民族論的状況における文化動態研究を志向している。そこで追求されるのは、仏教信仰という共通基盤を有するビルマ人とシャン族の文化的営みを包括しうる理念的枠組みである。同語源のビルマ語のプェとシャン語のポイが、それぞれの儀礼体系においてもっとも一般的な呼称となっていること、プェが仏教儀礼と精霊儀礼の両方に適用されるのに対し、ポイが仏教儀礼のみに適用されることなどに注目して、ビルマ文化の外延に関して分析を加えている。第II部では、筆者の視点が、ビルマ側からシャン側へシフトするとともに、表象としての「シャン」から主体としてのシャンへと分析の焦点がシフトして、リーチ〈以mundR.LeaCh〉他の先行研究が再考されている。

本論考の根幹は、ビルマによる「シャン」の表象とシャンによる「シャン」の表象を「合わせ鏡」として、第III部と第V部にそれぞれ配置している点にある。第III部では、ビルマ側によって「シャン」と結びつくと考えられている精霊信仰の実践とその伝説を分析対象とする。そこで明らかになるのは、「シャン」に対する「周辺性」の表象としての言説と、「ビルマ」に対する「中心性」としての自己認識である。筆者は、それぞれの民族表象の動態を、"シャンのビルマ化"、"ビルマのビルマ化"と呼んでおり、その背景に、英領植民地化以来のビルマ人とシャン族との政治的に不均衡な民族間関係、特に独立以降のビルマ文化中心、主義によるマジョリティとマイノリティとの相克が強く反映していることを指摘している。精霊信仰は、仏教徒の宗教的世界観において周縁的な位置にあり、民族間関係の表象の位相と構造的に整合するのである

第V部では、シャンの人々による「シャン」文化保存運動を探求する。筆者はその動態を"シャンのシャン化"と呼ぶ。シャンの人々は、ビルマ文化中心主義の強いモーメントと矛盾しない範囲内において、「中心性」としての自己認識を形成しようと試みる。英領時代までの"シャン化''は、言語学的に非タイ系である人々をシャン文化圏の中に取り込む「求心性」を帯びていた。だが、民族間関係は、西欧人(スコット〈JameSGeorgeScott〉に代表される知識人)による当時の(そして現代でも人口に胎英している)「科学的」な平準化によって横並びとなり、近代的な国民国家形成を達成できなかったシャンの人々による"シャン化"は、かつてのような"シャン化"ではなく、特に独立以降、タイ系民族だけが主体となる"シャンのシャン化''に留まらざるをえなかったのである。またその文化的営為の力点は、仏教信仰とシャン文字への執着とその普及に置かれ、特に後者に関して、文字の統一化が図られたが、その過程では、多様なシャン文字の「真実」が対立し、現在に至るまで必ずしも普及したとはいえない。その主たる要因は、政府主導のビルマ文化中心主義を基盤としだ'シャンのビルマ化"と"ビルマのビルマ化"による阻害であり、それゆえにつねに自制を余儀なくされる''シャンのシャン化"が接合する構図なのである。

第III部と第V部の考察を繋ぐ第IV部において、市民権法(国籍法)、信仰体系及びネイティブの民族誌家による民族論をテーマに、マジョリティとマイノリティの関係に照射される「国家のまなざし」に筆者は注目している。国民国家における「人=国民」と国民形成の過程、仏教徒社会における「人=出家者あるいは在家者」とその変遷、「人=民族」という視点に立脚したマジョリティとマイノリティを平易に捉える連邦文化省・文化省研究官ミンナイン(MinN血g)の足跡などが、ビルマとシャンをめぐる民族論的状況の諸相として提示されている。

本論考の主たる研究成果は以下の通りである。

(1)マジョリティであるビルマ人とマイノリティの代表格であるシャン族との民族間関係の実像及びその双方の言説の分析から、マイノリティを周辺化することで成り立っているビルマ人中心の政治的文化的構造を明らかにしている。

(2)民族間関係の歴史的考察から、ビルマとその周辺地域において、王朝時代以来、ビルマ人が周辺民族を周辺化しながら同化する"ビルマ化"が進行し、それと平行して、特に独立前後からシャン族の自文化保存運動を中核とする"シャンのシャン化"が具体化したことを提示している。

(3)ビルマ人による"シャンのビルマ化"は、政治的にビルマ人の支配下に組み入れ、宗教的世界観において周縁に位置づけられる精霊信仰と結びつけることによって進行し、その過程において、ビルマ人の「中心性」としての自画像とシャン族への「周辺性」としての他者像が表象化されてきたことを分析している。他方、シャン族による"シャンのシャン化"は、ビルマ文化からの自立と自民族意識の覚醒を意図したものだったが、その「文化」概念と「伝統」概念の思想的枠組みは、ビルマ文化をモデルとしており、"シャンのシャン化"は、"シャンのビルマ化"、さらには"ビルマのビルマ化"と、並行して展開してきたことを論証している。

(4)独立以降、特に1980年代前後から顕著となるビルマ人、ビルマ文化中心の連邦制の堅持が、政策的に、市民権法制定、仏教宗派の公定化、国民文化の形成などを通じて推進される一方で、国家レベルの文化政策と矛盾しかねない新シャン文字普及などの文化復興活動が抑制され、次第に、多民族国家の国是と適合する衣装、舞踊などの視覚的な民族表象に力点が移行されつつあることを明らかにしている。

(5)上記の論点から、ビルマとシャンをめぐる民族表象と文化動態の実像は、民族の国家論的状況("シャンのビルマ化")と、民族の民族論的状況("シャンのシャン化")の相互作用から立ち現れるものであり、その重要な脈絡は、国家の民族論的状況("ビルマのビルマ化")であったことを指摘している。

本論考は、以上のように、ビルマとシャンの民族表象と文化動態に関して、「ビルマ」の表象を分析することでシャン族とシャン文化の動向が、「シャン」の表象を分析することでビルマ人とビルマ文化の動向が明らかになるという研究手法に則り、マジョリティ中心の国民文化形成と平行して、マイノリティとしての自民族意識が、構造的にもまた歴史的にも、民族間関係の脈絡における力関係を基盤として構築されてきたことを複眼的に解明しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

高谷紀夫氏の博士学位請求論文「ビルマとシャンの民族表象と文化動態に関する人類学的研究」は、ビルマ(ミャンマー)国内で最大の少数民族であるシャン人の民族としての表象のされ方を、多数派民族たるビルマ人との相互的関係、またビルマ国家との関係に焦点を当てて論じている。筆者の過去30年以上にわたるフィールドワーク、現地資料と二次文献の渉猟、シャン人民族文化団体との接触から生み出された浩瀚な研究である。論文の構成は、ビルマにおける民族論的状況を先行研究の批判的検討と共に概観した序章に続き、仏教儀礼からビルマ文化・シャン文化を論じた第I部、ビルマとシャンの民族間関係を論じた第II部、ビルマ人によるシャンの表象をあつかう第III部、多民族国家ビルマの民族政策を取り上げた第IV部、シャン人自身によるシャンの表象を論じた第V部、そして結論に分かれ、全16章に渡ってさまざまな角度から問題が考察されている。

第二次大戦後これまで、ビルマの少数民族を現地での長期フィールドワークによって研究した業績は、国際的に例が多くない。これまで各地で続いた中央政府に対する政治闘争・武装闘争、中央政府から調査許可を得ることの困難などが、その理由であった。人口規模が大きく、反政府武装闘争が相対的に小規模だったシャン人についても、これは例外ではない。本論文はこうした空白を埋める貴重な労作であり、ビルマ研究、文化人類学研究の分野で国際的な貢献となるものである。筆者は、特定のシャン人コミュニティで長期定住調査を行う機会を得られなかった。だが、長年にわたりシャン州各地を訪ねての調査の反復に、マンダレーなどの都市部および国外のタイや雲南でのシャン人(タイ人)コミュニティの調査を合わせ、これまで他がなしえなかったシャン人の今日についての民族誌を本論文で完成させた。このことの意義は大きなものがある。シャン人文化団体の資料を収集し活用していることも、本論文に独自の価値を与えている。

文化人類学上の民族論に対し、本論文には二つの新たな貢献が認められる。第一は、シャン人の民族表象をビルマ人とシャン人の相互関係、国家の政策との関係から描き分析したことである。第二は、特定のシャン人コミュニティの集中的研究に代えて、多数の場所ないし地域を横に連ねた調査法、記述法をとっていることである。この二点は、提案としてはすでに古くから主張されているが、実践に移され著述として完成した例は、日本国内ではまだ多くない。本論文の完成は今後の同種の試みへの大きな刺激となろう。多民族国家の少数民族は多数派民族側からの言説によって表象化される一方、自らは、自己の文化を民族意識の基盤として築く過程で、多数派=国家のポリティクスを認識しながら、自らの民族表象の多数派に対する同質化と差異化を図る。こうした集団表象の政治性について、本論文は的確な整理を行うのみならず、複数の場所の民族誌としてシャンとビルマを提示することに成功している。

ビルマ研究により即した領域では、第II部における、「シャンのビルマ化」「シャンのシャン化」が同時に進行しているという動態分析が重要なものである。これは、少数民族が、一方で、多数派言説が優越する脈絡に於いて周縁的に表象され、他方で、その制約の中で独自の自己表象を構築してきた、ということである。「シャンのビルマ化」は、シャン人がビルマ人に包摂同化されることではなく、少数派という位置づけを受容したままでの同化の過程である。また「シャンのシャン化」は、付与された少数民族としての位置づけを肯定的なものに転倒させる営みである。言語系統や生活様式から言えば、シャンは隣国タイの主要民族であるタイ人ときわめて近いし、ラオスや中国雲南省にも多くのタイ系民族が居住する。そうした中でも、主流文化への同化と少数民族としての独自化が、ビルマという国民国家の枠内で同時進行しているという指摘は注目に値する。

特定のコミュニティ内に長期に滞在したり、住民の住居に暮らすといった文化人類学のフィールドワークで常套的な方法が、法的・政治的制約から不可能だったシャン地域において、年月をかけて、国際的にも第二次大戦後はじめてというべきモノグラフを完成した意義は大きく評価されるものである。そうした方法的制約がシャン内部におけるシャン意識の多様性や対立を見えにくくしている点は、本論文の弱点と言えよう。だが、長期の研究の空白を埋めるパイオニア的業績として、本論文の持つ価値は明らかである。

したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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