学位論文要旨



No 217236
著者(漢字) ジョセフィン エリザベス シレガー
著者(英字) Josephine Elizabeth Siregar
著者(カナ) ジョセフィン エリザベス シレガー
標題(和) アトバコン耐性Plasmodium bergheiをモデルとしたマラリア原虫ミトコンドリアの遺伝学
標題(洋) Mitochondrial genetics in the malarial parasites : Atovaquone-resistant Plasmodium berghei as a model.
報告番号 217236
報告番号 乙17236
学位授与日 2009.09.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第17236号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,洋史
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 特任教授 野本,明男
 東京大学 准教授 田中,輝幸
 東京大学 准教授 馬淵,昭彦
内容要旨 要旨を表示する

世界人口のおよそ40%がマラリアの危険に晒されており、その大半は最貧国に居住している。毎年5億人以上がマラリアによって重篤な症状を示し、数百万人が死亡している。病原体はPlasmodium属の原虫であり、これに感染した蚊が吸血することで伝染する。ヒトのマラリアには4種、Plasmodium falciparum、P. vivax、P. malariae、P. ovaleがありそれぞれ生活環の周期や転帰が異なっている。

過去数十年間でクロロキンやスルファドキシン・ピリメタミン合剤といった抗マラリア薬への耐性が急速に広がり、これがマラリア治療に際しての大きな問題となっている。これまでとは異なる代謝経路を標的とする新規で安全で低価格な薬剤が求められている。新規の薬剤を開発するには、原虫の細胞レベルおよび生化学レベルでの生物学を正しく理解することが必要である。

アトバコンやドキシサイクリンのように、ミトコンドリア機能を標的とすることが示唆される抗マラリア薬が実際に使用されており、ミトコンドリアに対する阻害剤は新たな化学療法剤として期待されている。しかしマラリア原虫のミトコンドリア生合成や機能の実態についてはまだほとんどわかっていない。

本論文ではげっ歯類に感染するPlasmodium bergheiをモデルとし、アトバコン耐性についてマラリア原虫ミトコンドリアの遺伝学的解析を報告する。

1.P. bergheiシトクロムb遺伝子のキノン結合ドメイン2に存在するアトバコン耐性に関わる変異

アトバコンはナフトキノン誘導体であり、ミトコンドリア電子伝達系に関わる補酵素ユビキノンと構造が類似した、最近開発された抗マラリア薬である。クロロキン耐性のP. falciparumに対しても有効であり、プログアニルとの合剤MalaroneTMの主要構成成分である。これまでアトバコン耐性に寄与する変異はP. berghei、 P. yoelii、 P. falciparum、 Pneumocystis carinii、 Toxoplasma gondiiのミトコンドリアDNAにコードされているシトクロムb(cytb)遺伝子に見出されている。マラリア原虫では10種類の変異(M133I、L144S、I258M、F267I、Y268C/N/S、L271F/V、K272R、P275T、G280D、V284F)が報告されており、その大部分はキノン結合ドメイン2(Qo2)に存在している。

これまでに私はP. bergheiでM133IとL144Sの2つの変異を報告したが、これらはキノン結合ドメイン1(Qo1)に存在していた。この変異株作成においては生体内のP. bergheiに対してアトバコンの投与量を徐々に増加することにより変異体を分離したが、今回は原虫に対し一定量の薬剤の負荷を時間をおいて繰り返した。これによって、さらに4つの新規な変異(L271V、K272R、Y268C、Y268N)を得たが、今回はほとんどがQo2ドメインの変異であった。今回の方法はマラリアの治療現場での状況により近く、この方法によってP. falciparumの臨床分離株に対応するQo2変異(Y268S・Y268N・Y268C)を得たことは興味深い。

2.アトバコンがP. bergheiのシトクロムbc1複合体に作用する直接的証拠

アトバコンはシトクロムbc1複合体の強力で特異的な阻害剤であり、その分子標的はシトクロムbc1複合体のユビキノール酸化ポケット(Qo部位)であることが知られている。この薬剤は様々なアピコンプレックス門原虫に対し幅広く活性を示すが、マラリア原虫、トキソプラズマ、さらにはニューモシスチス、酵母などでシトクロムb遺伝子の変異がアトバコン耐性に関与していることが示されてきた。しかしこれまで変異と耐性の関連を示す直接の証拠は得られていなかった。そこで、アトバコン耐性に関わる構造と機能の相関を明らかにするためにP. bergheiのアトバコン耐性株の生化学的解析を行った。

最近、私達の研究グループで確立したマラリア原虫ミトコンドリアの単離法を用いてミトコンドリアを調製し、様々なP. bergheiアトバコン耐性株ならびに感受性株についてアトバコン濃度におけるシトクロムbc1の活性阻害を検討した。その結果、変異株のミトコンドリアは野生株(0.327 nM)に比較して高いIC50(1.45-43.5 nM)を示し、シトクロムb遺伝子のQo siteに変異が入ることで耐性を獲得する点を直接示すことができた。IC50は268Cおよび268N変異を持つクローンで最大となりおよそ100倍に増加していた。アトバコンがシトクロムbc1複合体のみを特異的に阻害していることを確認するため、アトバコン存在下でのDHOD活性を独立に測定した結果DHOD活性は100 μMまでのアトバコンに対して影響を受けないことがわかり、アトバコンの標的がシトクロムbであることが明確になった。

3.シトクロムb遺伝子へのアトバコン耐性変異がP. bergheiの蚊ステージでの発生に与える影響

真核生物のミトコンドリア呼吸鎖は核DNAとミトコンドリアDNA(mtDNA)という2つのゲノムに支配されている。マラリア原虫は2つの核外DNAを持っており、その1つがミトコンドリア遺伝子(シトクロム酸化酵素の2つのサブユニット、シトクロムbと断片的なrRNA遺伝子)を持つ6 kbの直鎖状繰り返し配列である。シトクロムbc1複合体におけるアトバコンの作用機構が判明したので、次にアトバコン耐性がどのように遺伝するかを調べた。すなわち、原虫の集団中での抗マラリア薬耐性の出現と広がりを理解することを目的として、ミトコンドリアDNAにコードされているシトクロムb遺伝子の細胞質遺伝について解析を行った。

アトバコン耐性株のガメトサイトと親株に由来するガメトサイトを試験管内で混合し蚊(Anopheles stephensi)に吸血させることにより交雑させた。蚊の体中でランダムな受精が起き、その結果生じるスポロゾイトをマウスに感染させて遺伝子型を決定した。シトクロムb遺伝子の第268コドンに変異を持つPbLSJ2.1と野生型PbEpyr-rとの交雑では、野生型PbEpyr-rの遺伝子型のみが得られた。第271・272コドンに変異を持つPbLSJ3.1とPbEpyr-rとの交雑では双方の遺伝子型が得られる場合と野生型PbEpyr-rの遺伝子型のみが得られる場合があった。マラリア原虫ミトコンドリアのシトクロム b遺伝子は哺乳類同様に母性遺伝するが、PbLSJ2.1とPbLSJ3.1を母方とするものの割合が少なかった。以上の結果は野生型のPbEpyr-r株のシトクロムbは、アトバコン耐性変異型に対して優性であることを示している。

この実験で得られるアトバコン耐性型がアトバコン感受性型よりも少ないことから、蚊の中での原虫の生活環の進行が阻害を受けていると考えられる。そこで親株を自家交雑させ、原虫の発育について、オーキネートから蚊の唾液腺中のスポロゾイトの形成まで観察した。アトバコン耐性株はオーキネート期まで発達するが、オーシストを形成せず、アトバコン耐性株ではオーシスト形成の過程に障害があることがわかった。一方、アトバコン感受性株は全てスポロゾイトまで進んだ。

以上、ミトコンドリア機能を阻害するアトバコンの標的はシトクロムbである点を、耐性株ミトコンドリアのシトクロムbc1複合体の酵素活性が実際にアトバコン耐性に変化していることを直接示すことによって明らかにした。P. bergheiのアトバコン耐性変異がシトクロムb遺伝子に入ると、赤血球中での原虫の増殖を抑えるが、さらにこの変異が、媒介蚊の体内での有性生殖の時期においても、原虫の生活環の進行に障害を与えることを交雑実験により示した。つまりアトバコン耐性株ではシトクロムb遺伝子の変異により野生型と比べて適応度が低下していることを示した。これはP. falciparumの臨床現場でのアトバコン耐性の出現および拡大の可能性が低いことを示唆する重要な結果である。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、薬剤耐性の広がりが問題となっているマラリア原虫について、その細胞レベルおよび生化学レベルでの理解を深めて新規薬剤開発に資するため、げっ歯類に感染するマラリア原虫Plasmodium bergheiをモデル系に用い、ミトコンドリアに対する阻害剤であるアトバコンへの耐性について遺伝学的解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.治療現場での状況に近い方法で薬剤負荷を繰り返し、P. bergheiの新規アトバコン耐性株を10株樹立した。これらの株は、ミトコンドリアDNAにコードされているシトクロムb遺伝子に、それぞれY268C、Y268N、L271V+K272Rのいずれかの変異を持っていた。これらの変異はシトクロムbのキノン結合部位に存在しており、とくにY268CとY268Nはヒトの熱帯熱マラリア原虫P. falciparumのアトバコン耐性臨床分離株に対応する変異であった。

2.P. bergheiのアトバコン耐性株ならびに感受性株からミトコンドリアを調製し、アトバコン濃度によるシトクロムbc1の活性阻害を検討したところ、変異株のミトコンドリアは野生株(0.327 nM)に比較して高いIC50(1.45-43.5 nM)を示した。とくにY268CおよびY268N変異を持つ株で最大となりおよそ100倍に増加していた。このことから、シトクロムb遺伝子のキノン結合部位に変異が入ることで耐性が獲得されるということが直接的に示された。またアトバコン存在下でのDHOD活性を独立に測定したところ、DHOD活性は100 μMまでのアトバコンに対して影響を受けなかったことから、アトバコンがシトクロムbc1複合体のみを特異的に阻害していることが示された。

3.ミトコンドリアDNA上のシトクロムb遺伝子にY268C変異を持つアトバコン耐性株PbLSJ2.1と、核ゲノム上のDHFR遺伝子にS110N変異を持つピリメタミン耐性株PbEpyr-rに由来するガメトサイトを、試験管内で混合して蚊(Anopheles stephensi)に吸血させることにより交雑させ、その結果生じるスポロゾイトをマウスに感染させたのち両遺伝子の遺伝子型を決定した。得られたシトクロムb遺伝子がすべて野生型であったことから、アトバコン耐性変異をもつシトクロムb遺伝子は次世代へ受け継がれないことが示された。そこで親株を自家交雑させ、原虫の発育をオーキネートから蚊の唾液腺中のスポロゾイトまで観察した結果、アトバコン耐性株はオーシスト形成の過程に障害があることが示された。

以上、本論文はP. bergheiのアトバコン耐性株を用いた生化学的・遺伝学的解析から、アトバコンの標的がシトクロムbであることを直接示し、アトバコン耐性株ではシトクロムb遺伝子の変異により野生型と比べて適応度が低下していることを明らかにした。これは臨床現場においてアトバコン耐性の出現・拡大の頻度が低いことをよく説明しており、今後耐性が出現しにくい抗マラリア薬開発の可能性を示唆する重要な結果であると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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