学位論文要旨



No 217238
著者(漢字) 佐藤,一子
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,カツコ
標題(和) イタリア学習社会の歴史像 : 生涯学習の統合的協働システムの発展過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 217238
報告番号 乙17238
学位授与日 2009.10.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第17238号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 教授 白石,さや
 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 影浦,峡
 東京大学 教授 佐藤,学
内容要旨 要旨を表示する

1960年代半ば以降、ユネスコで「生涯教育」(lifelong education)の理念が提唱され、学校教育後の継続的な教育システムのあり方に国際的な関心が寄せられている。国や地方の文化的伝統の多様性を超えて成人教育の共通理解が深まり、各国の教育政策にも影響を及ぼすようになった。その後さらに「生涯学習」(lifelong learning)や「学習社会」(learning society)などの用語も用いられるようになり、教育のみならず、人権や公共政策、労働市場の人材養成、開発途上地域の発展支援や民族の文化的アイデンティティ形成などにかかわる社会政策的な関心からも生涯学習の問題が論じられるようになった。グローバル化が進展する今日、生涯学習は教育政策と社会政策の連携を促す鍵のひとつとなっている。

本論文で考察の対象としているイタリアは、文化的蓄積の豊かさにもかかわらず、ルネッサンス教育思想やファシズム期教育政策などへの関心を除くと、日本の教育史研究ではほとんど注目されてこなかった。イタリアでは北部産業都市と遅れた南部農村地域との格差が教育においても歴史的制約となってきた。近代産業社会の形成期、ファシズム期、戦後の経済成長期などの歴史的変容過程をつうじて、非識字の解消、義務教育学校未修了者のための成人夜間民衆学校の設立など、主に学校補完的な成人教育が展開されてきた。

1970年代に北部の労働組合が提起した労働者の学習権問題をつうじて、義務制中学校未修了者のための成人教育コースが全国的に設置され、ようやく成人教育の課題が国民的関心となり、本格的な教育政策として位置づけられるようになる。その後、1990年代に入ると、知識基盤社会への移行のもとで生涯学習の継続性・統合性を重視するEU生涯学習戦略が提起され、イタリアでも学校制度改革による義務教育年限の延長、生涯学習の継続的・統合的な発展と職業訓練機関の拡充、州を主体とする地域振興に即した人材養成と教育文化計画の推進など、学習社会の質をさらに高めることが課題とされている。

イタリアには常に先進地域と発展途上地域、異なる民族の共存など、国際社会の縮図のような諸課題が累積しており、成人教育の組織化に従事する担い手も、教育分野だけではなく社会政策や社会運動の立場からも多様に形成されてきた。民間のアソシエーションが国家に先駆けて主導的に成人学習の機会を創出してきたこともイタリアの独自性といえる。今日では市民主体の成人学習の広がりを基盤として、行政と市民社会のパートナーシップが構築されつつある。後進的な歴史的制約をもつが故に、現代の国際社会が直面する諸課題にとりくむ先進的な学習実践が展開されてきたという側面も読み取ることができる。

本論文では、イタリア成人教育の先行研究をふまえ、そこで掘下げられてきた以下の3つの視点から成人学習の組織化過程を歴史的に検討し、国際的な成人教育の展開との相関関係のもとでイタリア学習社会の歴史像を把握する試みをおこなった。

第一に、民衆教育(educazione popolare)、成人教育(educazione degli adulti)、生涯学習(formazione)などの3つの用語の変遷に注目し、イタリアにおける成人学習の組織化の発展過程を把握することである。

第二に、イタリア学習社会の歴史像を通底する独自性として、アソチアツイオニズモ(民間団体の社会連帯的ネットワーク)の存在に注目し、成人学習・文化活動の組織化に際して民間団体の役割・機能がどのように発揮されてきたのか、その発達形態を明らかにすることである。「集合する」(adunarsi)という市民社会の原理が民衆教育の源流を形成し、1970年代における成人教育の発展を促す原動力となったと、先行研究では解釈されている。

第三に、特に1990年代以降、EUの生涯学習戦略の推進において課題とされている生涯学習の継続性と統合性の理念に注目し、行政と民間との協働をつうじてイタリアの学習社会がどのように構築されてきたのか、生涯学習の統合的協働システムの発展とその特質を明らかにすることである。

以上の視点をふまえつつ、近代国家成立期から現代にいたる約150年間を3つの歴史的段階に区分し、イタリア学習社会の歴史像の構造的な把握をおこなった。すなわち、第一に民衆教育の組織化の段階、第二に成人の独自性をふまえた成人教育の原理的探究の段階、第三にEUの人材養成戦略の一環としての生涯学習の継続的統合的な計画化の段階である。時間軸としては、(1)イタリア国家統一から1960年代、(2)1970年代から80年代、(3)1990年代から2000年代までの3つの時期に対応させて、その変化を検証した。しかし(1)の戦前期は、現代に対する前史として位置づけ、主要には1970年代を転換点とする戦後成人教育史を対象とした。また、時系列に即した記述にはよらず、6章にわたる問題史的な構成によって3つの歴史的段階の変遷の特質を明らかにすることを意図した。

論文作成に際しては、主要なイタリア成人教育研究の先行研究の成果を摂取しながらも、約30年間にわたって直接イタリアでのヒヤリング調査を継続し、地方自治体や民間諸団体の政策資料、活動報告等の一次資料の収集をおこなってきた筆者自身の課題意識にもとづき、問題史的な構成と考察をおこなった。基本的には文献資料による実証的な歴史研究の方法をとったが、1970年代以降については、成人教育政策の担当者、団体組織の責任者、実践当事者などに対するヒヤリング調査による検証もおこなっている。システム自体の組織的研究というよりも、成人学習の実践的展開をつうじてシステムの発展過程を検証し、成人教育の本質理解を深めることが本論文の方法意識であり、オリジナリティともいえる。

論文は序章、第I章から第VI章、そして終章によって構成されている。

序章ではイタリア成人教育の先行研究を整理し、論文で扱われる用語の概念規定をおこなったうえで、本論文の課題意識と方法、章構成について述べた。

第I章は、現代史の前史として位置づけ、近代イタリア成人教育史の草創期の概観をふまえ、歴史的独自性を析出することに力点をおいた。ここでは成人教育史を通底するイタリアの独自性としてアソチアツイオニズモの発達に注目し、その理念的特質と民衆教育の組織化過程における歴史的課題を明らかにした。

第II章では、戦後における学校補完的な民衆学校の制度化に対して、民間団体が成人に対する識字教育とともに社会文化的、職業的な民衆教育の組織化をおこない、成人教育独自の実践的な方法論の探究にとりくんでいたことを明らかにした。この過程では国際的な視野にたつ成人教育の理解が深められていた点にも注目した。

第III章では、1970年代における労働者の学習権への覚醒から150時間コースが設置され、義務制中学校未修了問題を社会的に解決するための国民的な教育運動が展開された過程を検証した。成人の学習権の問題が労働の現場から提起され、学校的な学びではない成人・労働者の学習内容編成が全国的に実施されたことをつうじて、イタリアにおける成人教育への関心が社会的に共有されるようになった経緯を明らかにした。

第IV章では、1970年代以降アソチアツイオニズモが現代的刷新をとげ、非営利セクターの法制化という新たな枠組みのもとで、生涯学習・社会文化活動の推進主体として社会的に認知されるようになった制度的発展について考察した。アソチアツイオニズモが国や地方自治体との協働システムのもとで、創造的な学習過程を発展させる基盤となっていることを明らかにした。

第V章では、狭義の教育制度に関する権限をもたない地方自治体が、1970年代の地方分権化以降、職業訓練、成人教育、地域社会文化活動などの領域で総合的な計画性をもつようになり、州が主体となる生涯学習の計画化のもとで、各地方自治体レベルにおいて機関や団体の協働システムが構築されてきている状況を具体的に検証した。

第VI章では、EUの生涯学習戦略のもとで、青年の雇用支援の観点から職業教育・訓練システムの改善が課題となり、グローバル化の影響が顕著になった状況のもとでの教育制度改革と生涯学習政策に焦点をあてた。州に主導された地域経済振興と積極的労働政策の展開が学校制度の改革にも影響を与え、成人教育、職業訓練、学校と社会の連携の3つの軸によって生涯学習の継続性と統合性にむけた体系化が進んでいる状況を明らかにした。

終章では、今後の研究課題として新たに提起されているコンピテンスの認証など、5つの残された研究課題に言及した。

本論文では、高度な芸術文化、宗教、職人的工芸など、国際的に知られるイメージとは対照的な、社会の底辺から民衆の学習が組織化されてきたイタリア学習社会の歴史像を提起している。それは社会連帯的な民衆世界の思想的・実践的な伝統を基底とし、ヨーロッパ共同体、アフリカや南米、中国、アメリカなど、全世界につながるグローバル化の諸問題を内包している多元的な学習社会である。成人学習の多様な担い手が、識字、移民問題、教育の南北格差、知識基盤社会への移行のもとでの青年や社会的弱者の人材養成・職業訓練など、国際的に共通する成人教育の諸課題に直面しながら、生涯学習の統合的協働システムを構築してきた歴史的過程が浮き彫りにされたといえよう。

審査要旨 要旨を表示する

生涯学習社会の設計が世界的課題になって以来個別領域の研究は進んでいるが、生涯学習社会に至るプロセスの全体像を明らかにしようとした研究はきわめて少ない。本論文は近代イタリア社会を協働的な学習社会ととらえる観点から、著者が30年かけて文献調査と現地でのインタビュー調査を継続し、これを現代的な学習社会論の観点によってとらえかえしながら一つにまとめた日本で初めての包括的なイタリア生涯学習社会研究である。

本論文は6つの章に序章と終章がつく8章から構成される。序章で、本論文全体に関わる成人教育や生涯学習概念の理解と先行研究の現状、そして明らかにすべき課題と方法について述べた後、第I章では、イタリアには歴史的にアソチアツイオニズモと呼ばれる社会連帯的な民衆教育のネットワークがあったことを確認し、それが近代史に通底する前提条件を形成していることを述べた。第II章では、第二次大戦復興期のとくに南部の非識字者や小学校未修了者に対する成人教育政策の立ち後れについて述べたうえで、二つの民間団体が果たした成人教育運動が大きな力をもったことを述べた。第III章では、ユネスコの生涯教育論、OECDのリカレント教育論などの影響を受けて、1970年代以降、労働者の学習権運動に焦点をあてた国民的な運動が起こり、労働組合の全国組織、大学、州政府、地方自治体が義務教育未修了労働者への学習プログラムの提供に取り組んだことを述べた。

続く第IV章は、アソチアツイオニズモが現代化されるプロセスを3つの民間団体の教育文化事業の展開過程を通じて検討した。第V章では、地方分権化のなかで地方自治体が、職業訓練と成人教育を統合し体系化するとともに、市民と協働化する政策を積極的に採用していることを、現地調査を交えながら検証した。第VI章では、引き続いて雇用問題が社会的な重要課題になる1990年代以降において、EUの生涯学習戦略のもとで学校改革、職業訓練機関の拡充、高等教育レベルの高度技術教育の検討が進められたことを述べた。最終章では、これらを総括し、イタリア学習社会の歴史像をまとめ今後の課題を提示した。

19世紀後半の近代国家成立にも関わらず、イタリアはその国家的な紐帯の脆弱さが常に指摘されてきたところであるが、著者は、社会の基層に家族、職場、地域をベースにした相互扶助と協働的な学習システムがあることを見いだし、これが1970年代以降に地域成人教育政策として制度化され、さらに1990年代以降はEUの生涯学習戦略の枠組みのなかで実質化されていった過程を丹念に検証した。本論文は、現地での長年にわたるインタビュー調査をもとに、近代イタリアの社会的特性を踏まえ、識字教育、成人教育、文化運動、雇用支援といった政策領域を横断的に検討して、マクロな視点から像を結んだ研究であり、その精緻な記述も含めて、博士(教育学)を授与するのに十分な内容をもっていると認めることができる。

UTokyo Repositoryリンク