学位論文要旨



No 217240
著者(漢字) 平沢,竜介
著者(英字)
著者(カナ) ヒラサワ,リュウスケ
標題(和) 王朝文学の形成
標題(洋)
報告番号 217240
報告番号 乙17240
学位授与日 2009.10.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17240号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 菅野,覚明
内容要旨 要旨を表示する

本書は、王朝文学がどのように形成されたかを論じたものである。

第一章では、上代文学から平安文学に至る間に生じた文学表現のあり方の変化について検討を加えるとともに、その変化をもたらした原因についての考察を試みた。例えば、自然表現においては、上代の散文表現は自然を表現した部分自体が少なく、かつそこに表現された自然も、自然そのものを表現することを目的としたものは皆無で、表現された自然も古代的な存在感を感じさせはするが、具象性を欠いている。それに対し、上代の韻文表現、特に『万葉集』に表現された自然は具象性を持ち、一首全体が自然表現で構成される叙景歌も存在する。平安時代初頭になると、散文に表現される自然は、上代の散文表現と比べると、古代的な存在感は薄れ、より平明で日常的なものとなるが、その表現は概括的、観念的であって、自然の姿を具象的に捉えているとは言いがたい。また、韻文表現においても、平安時代初頭になると、和歌に詠まれる景物は優美であるが、観念的、画一的なものとなり、そうした景物によってなされる自然表現自体も観念的で具象性を欠いたものとなる。この時期に叙景歌が認められないのもこうした自然表現のあり方に起因するのであろう。平安時代において、散文、韻文の自然表現に具象的な表現が見出されるようになるのは、ほぼ同時期、平安時代中期、西暦960年から970年と推定される。

また、心情表現について見ると、上代においては、『万葉集』の歌に見られるように、個人が韻文によって心情表現を行うことは活発になされるのに対し、個人が散文によって心情表出を行うことは全く認められない。それが平安時代に入ると、『土佐日記』に見られるように、個人の心情が散文によって表現されるようになる。その結果、和歌の抒情とともに、散文による様々な心情表現が可能となり、日記文学、物語文学といった新たな表現様式の登場を促すこととなる。また、和歌の抒情のあり方も、『万葉集』の抒情が瞬間的であったのに対し、『古今集』以降の抒情は時の推移を感じさせるものが多くなり、修辞技法も『古今集』以降、掛詞、縁語、見立てといった技法が多用されるようになる他、万葉以来の修辞法である擬人法も、人間以外の事物に人間的なものを直感的に感じとり、それを直接的に表現する直感的擬人から、対象を意識的に擬人化して捉える知的擬人へと変化する様が見て取れる。

これら、上代文学から平安文学に至る間に生じた文学表現のあり方の変化はどのような理由によって生じたのであろうか。第一章の第一節から第四節では、それを表現主体(意識)と対象の分化(意識と対象との分化は、必然的に意識が帰属する我と外界との分化を引き起こす)、および韻文、散文という文体そのものが持たざるを得ない表現上の特性、制約という要因から説明を試みた。

また、第一章第五節は、『古今集』に収められる歌を、読人しらず時代の歌、六歌仙時代の歌、撰者時代の歌に分類し、それぞれの時代に序詞、掛詞、見立ての技法がどの程度用いられているか調査し、読人しらずの時代から撰者時代に至るまでの間に、どのように歌風が変化したかを修辞技法の面から検証した。

第二章は、『古今集』の構造、すなわち『古今集』において個々の歌がどのような基準、論理のもとに配列されているかを考察した。前著『古今歌風の成立』では、四季の部の主要な景物の歌群の構造について分析を行ったが、本章ではそこで取り上げなかった歌群の分析を行い、四季の部全体の構造を明らかにし、併せて巻七、賀の部の構造の分析も行った。『万葉集』にも、雑歌、相聞、挽歌あるいは正述心緒、寄物陳思、譬喩歌などといった分類や四季別の配列が存するが、集全体は統一的な体系を持たず、個々の歌の配列の順序まで配慮した配列はなされていない。それに対し、『古今集』は全体が統一した体系のもとに構成され、部立てや歌群の順序のみならず、その内部の個々の歌の配列の順序までが、統一した論理や基準のもとに定位されており、『古今集』の撰者たちの抽象的な思考能力の高さ、さらに言えばこの時代の人々の抽象的な思考能力の高さを窺い知ることができる。このことは、第一章で述べた上代文学から平安文学に至る間に生じた文学表現のあり方の変化の原因と考えた表現主体(意識)と対象との分化、個と外界の分化という図式と見合うものと考えられる。

第三章第一節は、上代における唯一の歌学書『歌経標式』を取り上げ、その歌論の内容について検討を施すとともに、『万葉集』に認められる歌論的記事と対照しながら、上代歌学のあり方について考察した。すなわち、『歌経標式』の構成はきわめて整然とした体系性を有しているが、そこにあげられた歌病は和歌の実態に即した批評基準とは言いがたい。一方、『万葉集』に認められる歌論的記事は、それぞれが和歌の実態に即して適切な批評となりえているが、個々の歌に対する個別の批評であり、広く和歌全般に適用しうるような普遍性を持った批評基準とはなりえていない。和歌の実態に即し、かつ一般性、普遍性を持った批評基準が成立するのは『古今集』の成立を俟たねばならなかった。このような上代歌論と平安時代初頭の歌論の批評意識の相違も第一章で述べた表現主体(意識)と対象との分化、第二章で指摘した平安時代初頭の抽象的な思考能力の高さと通ずるものがあると考えられる。

第二節では、『土佐日記』から窺い知ることのできる貫之の歌論について考察した。『土佐日記』は書き手の混乱や主題の分裂などが存し、一見いい加減に書かれた作品のような印象を与えるが、これは貫之が意図的に行った操作と考えられる。というのも、『土佐日記』が書かれた時代にあっては、公的な文芸と認められていたのは漢詩文と和歌のみであり、その他の文芸は私的な二流の文芸と見なされていたからである。もし、貫之が『土佐日記』のような個人的な体験を仮名散文によって表現する作品をまともに書いたとしたら、貫之は律令官人が専らにすべきでない二流の文芸を専らにしていることになり、世間から大きな非難を受けることとなったであろう。そこで貫之は、『土佐日記』をいい加減に書かれた作品と見せかけ、世間の非難をかわしつつ、彼が本当に書きたいことを密かに書いたのであろう。彼が本当に表現したかったのは、亡児哀傷に託して表現した、土佐在任中に失った藤原兼輔をはじめとする和歌の庇護者たちへの追慕の思いであった。

とすると、日記中に見出される和歌に関する記述も、作品の主題を分裂させ、『土佐日記』がいい加減に書かれたものと見せかけるための方法の一つであったと推測されるが、主題を混乱させることを意図して取り込んだと思われる和歌に関する記述も、そこに記された歌論的記述を丹念に分析すると、貫之の和歌に対する考え方がきわめて明確に看取される。と同時に、貫之が『伊勢物語』に見られる業平と惟喬親王との関係に、貫之自身と兼輔を重ね合わせていたのではないかと推測される。

第三節は、『古今集』両序と『新撰和歌』序文、『土佐日記』を取り上げ貫之の歌論、中でも和歌の本質論、効用論について検討した。これらの資料において貫之が主張する和歌の本質論、効用論は必ずしも一致していない。これらの相違はなぜ生じたのか、それらの資料の書かれた時代、および和歌の置かれた状況なども考慮して考察を加えた。

第四章では、王朝文学の形成において、上代文学が豊かな基盤となって息づいている様相を『源氏物語』を通して考察した。『源氏物語』若紫巻で光源氏が北山の山頂に立つ場面の背後に河添房江は、古代の国見儀礼を想定し、さらに「富士の山、なにがしの岳」は「西国のおもしろき浦々、磯のうへ」に対峙する表現であり、「この東と西の水平軸、そして山と海の垂直軸の二元こそ、王権の支配のコスモロジーが集約的にたち顕れている」と指摘し、東と西の水平軸は大嘗祭の支配論理によるものではないかと推定する。それでは山と海の垂直軸の支配の論理は何によるかと考えた時、思い浮かぶのは『古事記』の日向神話である。『古事記』日向神話は天つ神の子孫が国つ神の代表である山の神の娘、海の神の娘と結婚することによって、葦原中国を領有、支配する正当性を得るという物語である。既に『花鳥余情』以来、明石の君を海の神の娘豊玉毘売に比定するという指摘は存在したが、以上のように考えると、山の神の娘木花之佐久夜毘売を紫の上、石長比売を末摘花と比定することが可能となるのではなかろうか。紫の上は山で育てられた娘であり、終世桜の花に喩えられるというように木之花佐久夜毘売の面影を持つ。末摘花も山の娘と認められる表現を有し、醜女という点で石長比売と共通性を持つ。また二人が光源氏と出逢うのは、光源氏十八歳の春である。明石の君が西の海の娘であるのに対し、紫の上、末摘花は東という属性を賦与されており、東と西の水平軸をそれぞれ担っている。ただし、紫の上、末摘花とも神の娘というより仏の娘として形象されている点は注意されねばなるまい。紫式部は光源氏に王者性を賦与するため、日向神話による支配の論理と大嘗祭による支配の論理を物語に組み入れたが、日向神話においては山の神の娘、海の神の娘とされていたものを、山の仏の娘、海の神の娘とすることによって、『古事記』神話に基づいた支配論理に仏教を取り入れ、光源氏の王者性をより強固なものとすることを企図したと考えられる。光源氏が帰京し、復権を果たすと、彼が東の山の寺=石山寺と西の海の社=住吉神社に願ほどきに参詣するのは、『源氏物語』のこの部分までが右に述べたような物語の論理によって書き進められていることを示す証左となろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、王朝文学の形成において、記紀・万葉の上代文学との間にいかなる連続と変化があったのかを考究したものである。論文の構成は、四章からなる。

第一章「上代文学から平安文学へ」の第一節「古代文学における自然表現」では、平安時代になると、自然との即自的一体感の喪失が決定的になり、上代の和歌・歌謡に見られた豊かな具象性が失われ、和歌においても散文においても対象の捉え方が抽象的・観念的になるが、十世紀後半以降、和歌・散文双方において、具象性の回復が見られるようになると論ずる。続く第二節「散文による心情表現の発生」では、平安前期においてすでに散文による心情表現にめざましい発展が見られるとし、第三節「『古今集』の時間」では、『古今集』の和歌に時間意識が尖鋭化していることを析出、第四節「『古今集』の擬人法」では、上代の和歌にはほとんどまったく見られなかったような、事象を理知的に再構成する擬人法が『古今集』において飛躍的に発達することを説くが、いずれも第一節で論じられたことと深い内的連関を有する現象として考察されている。そして第五節において、古今歌風を担う重要な修辞技法である掛詞について、従来の通説とは異なって、初期の読人しらずの歌のなかにも少なからず見出されることを指摘し、古今歌風の形成には、漢詩の影響からだけでは説明できない、新しい表現意識がはたらいていたことを指摘する。

第二章「『古今集』の構造」は、第一章第三節「『古今集』の時間」の論を受けて、『古今集』の歌の配列のすみずみにまで時間意識が浸透している様相を明らかにしている。

第三章「上代歌論から貫之の歌論へ」の第一節「『歌経標式』『万葉集』の歌論から『古今集』の歌論へ」は、藤原浜成撰『歌経標式』や『万葉集』の題詞・左注に見える上代歌論について、前者は中国詩論の詩病論を和歌に牽強に付会したところがあり、後者は個別の歌や表現に関する批評に止まっていて、真に和歌固有のありかたに即し、かつ詩論としての普遍性を有する歌論は『古今集』序において樹立されたと説く。続く第二節「『土佐日記』の歌論」では、『土佐日記』にみえる歌論も『古今集』歌論を敷衍したものであることをおさえ、第三節「貫之の歌論」では、『土佐日記』と同時期に書かれた『新撰和歌』序にことさらに和歌を政教的に意義づける言辞が見られるのは、『古今集』勅撰後三十年を経て、早くも和歌が再び沈滞しつつある状況に対する貫之の危機感のあらわれであると論ずる。

第四章「『源氏物語』と『古事記』日向神話」は、王朝文学の精華ともいうべき『源氏物語』において、その人物造型やプロットのみならず場面表現にまで記紀神話が生かされている事例を丹念に分析したものである。

論文全体の根幹をなす第一章の論述がやや概括的になっている憾みはあるが、研究が細分化した今日、王朝文学の形成について、韻文・散文双方にわたって、上代文学からの連続と変化・飛躍の諸相をトータルに捉えようとした本論文の意義は高く評価される。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に十分に値するとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク