学位論文要旨



No 217245
著者(漢字) 西本,陽一
著者(英字)
著者(カナ) ニシモト,ヨウイチ
標題(和) 周縁化と宗教変化の社会的経験 : 北タイの伝統派およびキリスト教徒ラフ集団の事例
標題(洋)
報告番号 217245
報告番号 乙17245
学位授与日 2009.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17245号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 岩本,通弥
 東京大学 教授 川中子,義勝
 東京大学 教授 船曳,建夫
 京都大学 教授 林,行夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、タイの山地少数民族ラフの二集団を対象として、周縁化の経験および周縁化への宗教的な対応のあり方を比較検討するものである。

ラフが居住してきた大陸部東南アジア北部から中国西南端に広がる地域(「ラフ居住地域」)では、前近代から近代への移行の中で、地理環境に適応した山地と低地の住民の住み分け関係から、領域国家理念による支配と被支配へと関係への重心移動が見られた。近代化はラフの周縁化の過程であり、かつての自立性は剥奪され、低地勢力への従属が強まった。

キリスト教徒ラフの周縁化と宗教変化をめぐる経験は、語りの中に反映されている。「ラフ」について否定的に語るという独特の形式の語り(「自嘲の語り」)の中心モチーフは、低地多数民族に対する相対的簒奪である。一方でラフは自身をより肯定的にも描き、否定と肯定の相半ばする自己規定が、ラフの両義的な経験を構成している。

「自嘲の語り」のうち「知恵」に関する語りは、キリスト教徒において頻繁に聞かれる。ラフの伝承は、彼らの現在の苦難は原初における祖先の考えのなさと邪悪な低地民の迫害の結果だと語る。このような伝承はキリスト教が伝えられる以前から存在したが、長期にわたるキリスト教会の「文明化」政策により、文字/本による「知恵」の欠如という点から、キリスト教徒ラフの否定的な自己意識が再生産され増幅さた。今日、キリスト教徒ラフの間では、(本や教育から得られる)「知識」は(長い人生経験から得られる)「知恵」と同一視され、主流の語りはラフ民族繁栄のために「知恵を求めよ」と繰り返す。一方、下層の村人の舞台裏の語りは、本来のラフ的なものと彼らが考える、文字/本以外による「知恵」を強調し、主流の語りに対抗する。主流と舞台裏の語りの対抗によって、両義的な自己意識が再生産されている。

「ラフの国」と預言者の物語は、キリスト教徒ラフが定型化して語るテーマである。キリスト教徒ラフの物語は(1)原初の栄光とそれからの転落、(2)離散・流浪と苦難、(3)預言者の登場と預言の実現(聖書の到着)、(4)知恵を学ぶことと団結への呼びかけ、(5)未来の栄光と「ラフの国」の再興という筋で語られ、預言者の物語を軸として民族の運命は、転落と退行から漸次的な進歩として描かれる。長い歴史を経て、キリスト教徒ラフの間には預言者伝承が確立され、彼らの神話世界は大きな変容を経た。ユダヤのそれとパラレルな形に再構築されたラフの神話世界とそれが提示する新しい歴史観は、キリスト教徒ラフの経験を分節化し、より明確な形に作り上げた。

伝統派ラフの宗教においては、形而上学的な教義に対して、安寧や繁栄を求めるために行われる儀礼や実践が卓越している。伝統派ラフにおける超自然的な存在は、神と精霊に二分され、人間の側でもこの「神側」と「精霊側」それぞれに対処する宗教職能者たちが、それぞれに働きかける儀礼を行っている。伝統派ラフの宗教の特徴は、「神側」と「精霊側」からなる二元性である。

同時に、伝統派ラフの歴史では千年王国的な宗教運動が繰り返され、メシア的イデオロギーは、超民族的な組織化の契機となってきた。これらの運動は、伝統への回帰という主張にもかかわらず、実際には伝統派ラフの宗教に変化をもたらす宗教改革運動であった。伝統派ラフの宗教運動で見られるのは、実践における「精霊側」から「神側」への傾斜であり、神崇拝強調の言説の発達である。だが急激な至高神崇拝への傾斜の一方で、精霊祭祀は継続し、さらには運動の衰退局面では「精霊ネ側」への再傾斜が見られる。伝統派ラフの宗教の歴史は、「神側」と「精霊側」の間の勢力の振り子運動を示してきた。

繰り返されてきた宗教復興・改革運動の一方で、より長期的に見れば、「森」(村外)での山の精霊に対する村落祭祀は、村内の神殿におけるグシャ崇拝によって代替されてきた。伝統派ラフの宗教の動態は、振り子運動的な重心移動だけでなく、精霊祭祀から至高神崇拝への漸次的な重心移動という点からも捉えられなければならない。

言説面においては、伝統派ラフはキリスト教徒ラフと異なる様相を呈している。キリスト教徒ラフの語りの形式性や饒舌さとは対照的に、過去について伝統派ラフは、「辛かった」等の拙く少ない語彙を用いて、断片的に、短く言及するだけである。

全体的に断片的で未発達な語りにあって、伝統派ラフは「オヒ」/「オリ」(慣習・やり方)という語を用いて「ラフ」について頻繁に語る。千年王国的な宗教運動の主導者たちは、既存のラフの倫理宗教的な戒律を再強調しながら、様々な新しいやり方を導入する・彼らは、宗教的な説明言語を発達させ、より饒舌に語るが、その中で彼らが導入した新しいやり方は、昔の先祖の時代のラフの本当のやり方への回帰とされる。危機に陥った民族性を救いだす試みの中では、「ラフのやり方」が限られた数の語彙の繰り返しによって再強調されてきたが、一方、急激な運動の陰であまり目立たないネ祭祀の実践者たちもまた、自らの実践を「昔からのやり方」だと主張する。宗教運動の主導者たちとネ祭祀者のいずれも、「先祖のやり方」という同じ語によって、それぞれの実践の流儀を正当化するのである。

内向的・復古的な外見にもかかわらず、「オリ」/「オヒ」の強調は同時に、伝統派ラフがその共同体の自立性をある程度保ちながら、低地のタイ政体と付き合ってゆく途を開いている。宗教的な意味に関して「オリ」/「オヒ」は、言語化された内面的な教義ではなく、慣習的に行われる外面的な様式(「やり方」)である。伝統派ラフは宗教帰属の問題を、教義よりも実践の様式から判断するが、そのことによって、信仰の対象や内容の違いにかかわらず、伝統派ラフは自らを「点蝋者」(ラフ)であると同時に「仏教徒」(タイ)だと主張することができる。宗教に関して外面的な様式を重視する観点によって、伝統派ラフは、宗教的な独自性についての意識を損なうことなく、低地のタイ社会への親和性をもつことができるのである。

ラフの両集団の事例に見られるように、世界規模で進行する合理化と近代化および伝統社会と強大な外部社会との距離の縮小は、少数者集団の宗教のあり方に変化をもたらすこととなった。このような宗教変化の方向は、少数者集団が近代や外部社会からの圧力に対して反発・適応しようとする志向性に無関係ではない。

歴史的にラフの間で繰り返された千年王国運動は、強力な外部社会からの圧力の高まりに対する反応であり、外来の宗教の諸要素を取り入れながらも、発達した政治組織を欠いた少数者集団による宗教的な反発や抵抗という形を取うた。運動の高まりにおいては、至高神崇拝の強調や言説化など、より「合理的宗教」への傾斜が見られたが、運動の鎮圧や沈静化は、より「伝統的宗教」への再傾斜として現われてきた。現在も伝統派ラフの間では、精霊祭祀と神崇拝の間の振り子運動が継続していると言える。一方、ラフの一部による世界宗教への改宗は、精霊祭祀と至高神崇拝との間の力学にひとつの区切りをつけ、より高い「合理的宗教」の性格を固定することとなった。宗教的な動態において、キリスト教徒ラフは、伝統派ラフとは別の方向性を得た。

キリスト教徒ラフの宗教における「合理性」には、至高神への崇拝対象の収飲、大規模で体系的な教会組織、呪術的な実践の否定の他に、言説の発達と精緻化が挙げられる。それは、聖書という書かれたものを基礎とした教義の合理化と体系化に留まるものではない。旧約聖書的な世界観によるキリスト教徒ラフの神話・歴史物語は、彼らの改宗前と改宗後の歴史を橋渡し、彼らが経験してきた苦難により分節化された意味を与えた。低地タイ人が主体となる仏教国タイにあって、キリスト教徒ラフは宗教的にも民族的にも低地との差異を明確化しながら、キリスト教会の提供する諸手段によって、近代社会によりよく適応する途を得ている。

「伝統的宗教」に留まる伝統派ラフの宗教は、千年王国的な宗教運動においてより「合理的宗教」へと重心移行するが、その変化は非可逆的なものではなく、より「伝統的宗教」への逆移行が見られた。しかし、精霊祭祀と至高神崇拝の間の振り子運動の一方で、より「伝統的宗教」からより「合理的宗教」への長期的で暫時的な重心移動が進んできた。伝統派ラフの宗教は、近代化や外部からの圧力に対して抵抗と失敗のみを繰り返しているのでなく、近代的な論理により適合的な宗教形態へと変化してきたのである。

伝統派ラフにおいては、キリスト教徒ラフに見られるような宗教的な言語の体系化や精緻化は見られないが、「オリ」/「オヒ」に代表される断片的で朴訥な伝統派ラフの宗教的な言語は、非分節で曖昧さを残すものであるゆえに却って、彼らが低地集団から異なりながら親和性をもつものとして振舞うことを可能にしている。宗教的な言説の未発達さや非分節性は、少数者集団である彼らと強力な低地集団との権力関係自体を曖昧にする意味で、外部の近代社会に対応してゆくひとつの消極的な手段であるとさえ言える。

近代における周縁化に対して、ラフの両集団はそれぞれ違った宗教的な対応を示してきた。キリスト教徒ラフは、低地のタイ仏教徒と対照的な宗教形態への変化を経験しながら、近代社会によりよく対応できる合理性を身につけた。一方、伝統的な宗教に留まるように見える伝統派ラフは、低地のタイ仏教徒との差異を曖昧にするという一見消極的にみえる対応の中で、自らの独自性を維持している。

審査要旨 要旨を表示する

西本陽一氏の博士学位請求論文「周縁化と宗教変化の社会的経験―北タイの伝統派およびキリスト教徒ラフ集団の事例―」は、中国・東南アジアにまたがって山地・丘陵に居住するラフ族の民族誌であり、主要な材料は北タイでの長期現地調査にもとづいている。論文は、近現代の国民国家体制の下、いずれの国家でも周縁化されたラフが、「伝統派」「キリスト教徒」という二つの異なる集団形成を通じ、近代のシステムに適応し抵抗し、集団的自己意識を維持するさまを論ずるもので、民族としての自己についての人々の定型的語りが詳細に記録・分析されている。筆者は過去10年以上にわたり、フィールドワーク、現地資料と二次文献の渉猟、アメリカ系キリスト教宣教師団体についての文献研究を続けてきた。そこからこの浩瀚な研究が生み出された。論文の構成は、宗教変化について、また集団的歴史的経験の語りについて、先行する人類学的研究を批判的に検討する序章に始まり、ラフ族の概況を過去から現在まで論ずる第2章、さらにキリスト教徒ラフをめぐる3-5章、伝統派を扱う6-7章に続き、結論に至る。

論文の主要な貢献は3つにまとめられよう。第1は、東南アジアから中国南部に至る地域の少数民族中でもとりわけ周縁的位置に置かれ先行研究に乏しいラフについての、数少ない貴重な労作ということである。第2は、近代世界の周縁における宗教変化、キリスト教化の研究に新しい詳細な事例を付け加えたことである。第3は、自己についての定型的語りというテーマを巡り、人類学的研究に新分野を開いたことである。

ラフの多くは中国雲南省西南部とビルマのシャン州に居住する。近代の国民国家から見れば辺縁の地であり、中央政府の支配の浸透と抵抗、中国の国共内戦、独立ビルマにおける内乱などが続いて、外部者の学術的研究をほとんど不可能にしていた。1970年代以来ビルマ軍と少数民族のあいだの戦闘が激化し、多くのラフがビルマ側から北タイに逃れ定住するようになった。だがそこでも彼らは、無視され差別・搾取を受ける無国籍者・少数者の立場を余儀なくされている。筆者西本氏はこうした人々の中に住んで調査を続け、国と国のはざまにある少数民族の不安定な暮らしと自己意識について重要な民族誌を完成させた。このことの学術的・社会的意義は大きなものがある。ラフの歴史について、そもそも一次史料は乏しいのだが、アメリカ系宣教師たちによる著作をはじめ利用できる文献を渉猟し、中国、ビルマ、タイにまたがるラフの過去の歴史をまとまった形で明らかにしたことも、重要な学術的貢献である。

近代世界の周縁における宗教変化、キリスト教化のテーマに関しては、まず、伝統的な精霊信仰を残すとされてきた「伝統派」とキリスト教徒との区分が、単なる保守と革新の対比なのではなく、いずれもが、近代がもたらす危機へのローカルな対応の異なる形態であること明らかにしている。そして、両派がともに合理化の側面と「合理」を超えたローカルで個別歴史的な面とをもつことを説いている。

本論文でとりわけ高く評価されるのは、筆者がラフの村で長期に暮らし日々会話を繰り返す中で収集した、ラフ自らがラフについて語る発言の集積であり、そこから個々の発話者の個別場面での意図や主観をも越えた共通の型を取りだしていることである。それは「ラフはだめな人々だ」という自嘲の語りであるが、筆者はその自嘲の効果と、基盤にある歴史的・社会的構造を明らかにし、語りの分析を通じてラフについてのきわめて有効な理解を提出している。クリシェとして繰り返される自分たちへの自嘲は、ラフに止まらず世界の多くの人間集団に見いだされるもので、そのことを意識的に研究課題として提示したことは、今後の人類学研究にとって重要である。

以上本論文は文化人類学と東南アジア地域研究の分野で、新たな貢献を成し遂げている。今後、20世紀の初めより1950年代までこの地で活動したアメリカ人宣教師たちの、未公刊の日記・私信、それに対するアメリカ本国伝道団体の反応などを、より詳細に研究すれば、周縁世界におけるローカルなキリスト教の発展を、さらに深く明らかにすることが可能となろう。だが、パイオニア的な研究の出発点として、本論文はすでに十分優れた成果を示している。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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