学位論文要旨



No 217246
著者(漢字) 保坂,高殿
著者(英字)
著者(カナ) ホサカ,タカヤ
標題(和) ローマ帝政中期の国家と教会 : キリスト教迫害史研究 193-311年
標題(洋)
報告番号 217246
報告番号 乙17246
学位授与日 2009.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17246号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 本村,凌二
 東北大学 名誉教授 松本,宣郎
 上智大学 教授 豊田,浩志
 東京大学 教授 池上,俊一
 東京大学 准教授 西川,杉子
内容要旨 要旨を表示する

本書はキリスト教が成立した帝政初期から大迫害の終了を宣言したガレリウス帝寛容令発令に至るまでの時期(311年)における帝国と教会との関係を、教会側の視座に立ち迫害史として叙述するのではなく、帝国側の視座に立ち宗教政策史として、文献資料、碑文資料、図像資料、貨幣資料他を精査しつつ叙述することを目的とする。ただし共和政末期からティベリウス帝期までのローマ人の市民意識、およびクラウディウス帝期から2世紀後半マルクス帝期までの帝国と教会との関係、これらについては既に前編『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』(「参考論文」として提出済)で扱ったため、本書では冒頭部第I章で帝国政府の宗教政策の時代的変遷に関する鳥瞰図を提示した後、2世紀末セウェルス朝期から4世紀初頭における大迫害の終了までの時期に考察対象を絞り、該当資料の文献学的精査に集中した。また帝国の宗教政策の理解には教会側の内部事情の理解も不可欠なため、第III章と第IV章では殉教および背教に関する教会内の意見対立について考察し、大迫害へと至る歴史的経緯の解明への手掛かりとした。

方法論的再検討

本論を展開するに先立ち、まず最初に「序論」で過去の研究史を批判的に吟味した。それは従来の伝統的な考察方法が帝国側の政策に関する特定の誤った認識をアプリオリに前提して資料を解釈したがために歪んだ歴史像を提示してきたことを示して、考察方法の再考の必要性を根拠づけるためである。そこで以下に研究史における種々の方法論的欠陥のうち、特に重要と思われる2点を示す。

1) 帝国は教会に対し専ら司法的に、すなわちキリスト教徒の何らかの反社会的属性に照準を合わせて、対処したとの前提に立ち、その反社会的属性が何であったのか(superstitio崇拝者、人類憎悪者、儀礼犯罪者、陰謀集団等々)の点に議論を集中していること。しかし慎重な資料分析をすれば、実際帝国はキリスト教徒を犯罪者とは見ておらず、単にその都度その都度の行政指導に従わなかったことゆえに処刑しただけであることが理解される。キリスト教徒であることそれ自体(もしくは所謂「名そのもの」)は帝国の眼に処罰に値する反社会的属性とは映らず、したがって帝国は教会破壊を意図したわけでも、また"迫害"を断行したわけではなかった。

2) もう一つは、迫害史関連資料のテキストを根底から規定しているキリスト教的なバイアスに無関心であり資料批判(史料批判)をなおざりにしたため、帝国の政策目標を教会組織の破壊に求めた古代教会の視点に捕らわれて続けていること。その結果は帝国側の真の意図の見損じである。これは帝国のコンスタンティヌス大帝以前の対教会政策を迫害政策と捉える従来の通俗的解釈を支えてきた最も大きな要因であり、大帝以降のキリスト教化過程の原因解明にもネガティブな影響を及ぼす。すなわち、大帝が改宗を介してそれまでの迫害政策を改め保護政策へと転換したように4世紀の諸迫害帝も改宗を介して帝国のキリスト教化を推進したのだと、専ら為政者の宗教的心情に政策転換の主原因を求め、政策的観点からの分析を省略することになったのである。

教会に対する帝国の基本的な対応方針

個々のキリスト教徒もしくは教会組織に対し帝国がとった数々の措置は教会の眼には紛れもなく迫害と映ったのは確かに事実だが、しかし帝国側には教会を迫害したとの自覚は全くなかった。そのため両者の関係を迫害史という枠組みの中で理解する"迫害史観"に依拠する限り、われわれは教会固有の先入観に妨げられて帝国側の統治原理を認識することはできず、ガレリウス寛容令(もしくは313年"ミラノ勅令")をもって教会が帝国に勝利したという、およそ1700年前から教会が抱き続けてきた自画自賛史観を無意識のうちに共有することになる。コンスタンティヌス帝の時代まで帝国は教会を迫害したわけではなく、すなわちキリスト教(会)に何らかの反社会的属性を認めた上でこれを非合法宗教 religio illicitaとして司法的に対処、断罪したのではなく、市民間の衝突を収拾する目的から私訴に始まるキリスト教徒訴訟において単に行政指導もしくは調停工作を行ったか、あるいは3世紀中葉以降はそれに供犠強制を通した国家安寧の実現という目的をも加味して、衝突当事者間にルールを定め、ルール作りを通して帝国の平穏を回復せんとした、これが歴史的な真相である(第II章)。このように理解すると大迫害は神々の戦いとしての宗教戦争としての位置づけを失い(なぜなら寛容なるローマは帝国民がどの神々を崇めようと、原則的にそれを許容したから)、国家再興という帝国の国策を意図的かつ組織的に妨害しているとディオクレティアヌスが嫌疑した教会の作為に対する抑圧として、その政治的、より正確に言えば、宗教政策的側面が現わとなる(第V章)。その意味で本書は東アジア史研究に喩えて言えば、日韓関係を安重根の視点からではなく、伊藤博文および当時の日本政府の視点から考察する試みとも言える。

教会の法的位置づけ

上のように国家と教会との関係を迫害史ではなく宗教政策史として理解すれば、313年の"ミラノ勅令"をもってキリスト教が公認宗教化されたと考える通俗的な学説が歴史的事態を正しく言語化しておらず、妥当性に欠けることが分かる。帝国は前コンスタンティヌス期において帝国内の諸宗教を法的に公認宗教と非公認宗教とに分類することは一切せず、3世紀中葉までは主に治安的観点から、それ以降はそれと並んで相互授受思想(do ut des)に基づく政策的観点から、キリスト教徒をも含む帝国民全般に行政命令を行っただけであり、キリスト教を非公認宗教として特別視したわけではなかった。コンスタンティヌス期において変化したのはむしろ、それまでは帝国の眼には法的に"無"でしかなかったキリスト教徒という人的集団すなわち教会に、民族(ethnos, natio)としての資格、そして都市国家と同等の資格を付与した点にある。ローマ人(キケロ)の考えによれば各民族は国家を持つ権利を、そして国家は独自の神々を拝し独自の祭儀を執行する権利を有する(宗教政策史において皇帝礼拝が果たした役割の強調は誤り。デキウスもディオクレティアヌスも都市国家に、そして信徒にも、皇帝礼拝を強要してない)。"ミラノ勅令"によって教会はこの都市国家と同じ権利を獲得したのであり、公認宗教団体化されたのではない。公認宗教団体と都市国家とは質的に異なる。法人格という点では同じだが、前者には政治的活動が禁止され、集会に関する規制も設けられていた。

ローマ史を概観すると、キリスト教の公認、あるいは公認宗教化に最も近接した現象は実はコンスタンティヌス期にではなく、むしろテオドシウス期に見出される。通俗的に「キリスト教の国教化」と言われる事件がこれである。380年の勅令 "cunctos populos" においてテオドシウスは全帝国民のカトリック派 secta catholica (s. orthodoxa)への帰属を命じたが、これによって帝国は初めて宗派を基準とした公認・非公認の区別を設け、カトリック派を唯一の公認宗派として認知したのである。国教化とは公認宗教化のことであった。

宗教政策史展望

共和政期末期から帝政後期までの時期における帝国の宗教政策をそれぞれの時代の個別資料に即してミクロの眼で子細に観察した後、収集された時代別データをマクロの眼で通史的に概観すると、そこには一定の傾向性があることに気づく。

共和政期 帝国は共和政期には干魃、疫病等の自然災害や戦争等の人災が生じた場合、神々の怒りを宥め地上に平和が訪れるようにと願って敬虔を尽くし、積極的に嘆願儀礼を執行した。神々への依存心が強かったのである。ここでは依存心が強かったとはいえ、災害の原因が不敬虔者に帰せら不敬虔者が処罰されることはなく、したがって単に敬虔行為の実践だけが市民に要求された。

それが帝政初期に入ると、皇帝の絶対的権威の高揚と、その結果としての自己完結性の観念の台頭と歩調を合わせるかのように神々への依存心が消失し、災害があっても国家的宗教儀礼は執行されなくなる。しかしながら不敬虔者が処罰されることはなかった(iniuriae deorum dis curae「神々への不法行為は神々の関心事」。不敬虔を処罰するのは神々であって人間ではない、の意)という点では共和政期との連続性を保っている。

それに続く帝政中期は宗教政策史においては一つの転換期であった。この時期(西暦200年頃)、災害の原因が史上初めて不敬虔者に帰せられ、処罰要求の声が民間のみならず元老院内部からも挙がったのである。しかし皇帝や総督はこの声に従って不敬虔者を即刻処罰することはなく、逆に粘り強く、しかも時代の推移と共により多様となる拷問等の手段を駆使しながら不敬虔者に供犠という敬虔の実践の説得を試みるようになる。敬虔深き時代への回帰、神々への依存性の台頭である。

ところが帝政後期、特に4世紀後半期にはこの依存性は内的強度を増し、共和政期や帝政中期のそれとは異なり、不敬虔者に対する説得を放棄した上での直接的処罰に着手する。これを実行するために敬虔者と不敬虔者との法的範疇化が行われ、先述のようにカトリック派のみが敬虔者、すなわち公認宗派secta orthodoxaとみなされ、それ以外のキリスト教異端派、ユダヤ人、サマリア人および異教徒は法的掣肘の対象とされる。

先に指摘した「一定の傾向性」とは、帝政初期に顕著であった帝国指導部(皇帝、元老院)の自信の漸進的な喪失、換言すれば、神々への依存心の萌芽と成長であり、われわれはこの歴史的過程の最終的着地点にキリスト教の「国教化」を見出すことができる。

審査要旨 要旨を表示する

保坂高殿(ほさか たかや)氏の博士学位申請論文(乙種いわゆる論文博士)に関する審査委員会は7月14日、14号館706会議室で開催された。

論文『ローマ帝政中期国家と教会:キリスト教迫害史研究 193-311年』はキリスト教が成立した帝政初期から大迫害の終了が宣言された311年にいたる時期の帝国と教会との関係をめぐって、教会側の視座から迫害史として叙述するのではなく、帝国側の視座に立ち宗教政策史として、文献、碑文、図像、貨幣などを詳細に検討しつつ叙述することを目的とするとの説明を受け、各委員より質問があった。

「キリスト教の普及」は「多神教世界から一神教世界への転換」であり、世界史上の最大級の問題のひとつである。それをめぐる問題を解明しようとするのが本論文であり、これはすでに公刊され600頁を超える大著であり、わが国では比類なく広く深く検討した本格的な研究書であると高く評価された。

被害者(という意識でいる)側(=キリスト教会)からのみ語られがちな「迫害史」を加害者(と見なされる)側(=ローマ帝国)からながめればどうなるか、という一貫した観点から描かれた「新しい歴史像」に目をむけた慧眼には先駆的な意味がある。その新機軸のひとつは、現代風の表現で言えば「キリスト教へのハラスメント」の歴史として捉え、公平な立場で分析している点にあるとの指摘があった。というのも、加害者にその意志・意図もなかったのに、被害者はこのうえなくトラウマを蒙ったと主張しているのだから。現代社会ではことさら被害者の「意識」を問題にする傾向にあるから、その観点からしてもやはりローマ帝国は加害者の謗りをまぬがれない。それでも、その立場の言い分も充分にふまえて実態に迫るという公平な視座の転換には好感を感じさせるものがあった。

また、夥しい史料群をほとんど網羅的といえるほど渉猟して論理的整合性を追及した点には余人の追随を許さない力量で迫るものがある。それについては大方の審査委員が敬意を表した。この分野は欧米のキリスト教世界の学界のなかでは古くから研究されつくしたとの印象もある。しかし、それらは個々別々のテーマについてであり、それらの基本的なテーマについて本書ほど徹底的・網羅的に論拠にあたって分析した研究はまれである。すでに学士院賞を授与された前著『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』(参考文献として提出済)と合せると国際的にも皆無と言えるほどの大作である。しかも、その議論は大筋においてきわめて整合的であり、説得的であったと判断されている。

しかし、問題点がないわけではない。ひとつには民族概念の曖昧さがあげられ、宗教集団を民族とよぶことへの疑問が出された。また、教父の考え方がどのようにして信徒に届くのかというような指導者と俗人信徒との関係が必ずしも解明されてはいないとの指摘もあった。さらに、地中海世界一般ではなく、地理的な多様性についてももう少し考慮すべきではないかとの指摘もなされた。また、「恣意的で横暴な民衆」と「理性的で温情のある国家」という二項対立図式のような記述が散見され、そこには国家と民衆をめぐる歴史学の共通認識からすればいくらか短絡的すぎるとの批判もなかったわけではない。

だが、それらの疑問はあるにしても、それらは本論文の全体的評価をいささかも損なうものではないということにおいては、審査委員すべてが一致して認めるところであった。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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