学位論文要旨



No 217247
著者(漢字) シルビア・グアダルーペ・ノベーロ・イ・ウルダニビア
著者(英字)
著者(カナ) シルビア・グアダルーペ・ノベーロ・イ・ウルダニビア
標題(和) メキシコにおける近代化とユートピア : タブラーダとメキシコ性の欠如
標題(洋) Modernizacion y utopia en Mexico. Tablada y la ausencia de la mexicanidad
報告番号 217247
報告番号 乙17247
学位授与日 2009.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17247号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 斎藤,文子
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 高橋,均
 東京大学 准教授 ウリセス,グラナドス
 慶應義塾大学 准教授 石井,康史
内容要旨 要旨を表示する

メキシコの外交官、詩人、ジャーナリストであったホセ・フアン・タブラーダ(1871-1945)はこれまでモデルニスモの詩人として論じられることが多く、とくにスペイン語で書いた俳句は、オクタビオ・パスを初めのちのスペイン語詩に大きな影響を与え、その功績が高く評価されている。一方、彼がジャーナリストとして数多く書いた新聞記事・コラムについては、近年になってようやくその価値が見直されてきている。本論文は、コスモポリタンなモデルニスモの視点で書かれたタブラーダのジャーナリズムの文章は、メキシコの現実を一面的にしか捉えていない、という従来の研究では行われていない批判的立場をとり、1936年8月から1939年12月にかけて262回にわたって『エクセルシオール』紙に連載されたコラム「昼と夜のメキシコ」を分析しながら、19世紀末から始まったメキシコの近代化の問題について考察し、さらにユートピアの概念について検討するものである。

本論文は、6章からなり、その前後にイントロダクションと結論がつく。6章は大きく3つに分かれ、前半3章はラテンアメリカおよびメキシコの思想史を概観し近代化の問題について考察し、第4章、第5章でタブラーダの新聞コラムを取り上げ、最後の第6章で、ラテンアメリカ及びメキシコのユートピア概念について論ずる。

第1章「ひとつの哲学に向けて」は、ラテンアメリカ及びメキシコにおいて、独自の哲学の構築が模索されてきたことを概観する。ラテンアメリカ諸国は、独立戦争期以前から、アイデンティティーを求めて自分たちの哲学の探求が試みられてきたが、独自の思想形成にはいたらなかった。19世紀末から20世紀初頭のモデルニスモ文学運動においてはニーチェのニヒリスムへの傾倒が見られ、一方で19世紀後半からコントの実証主義哲学が広く受け入れられた。またモデルニスモ作家によって、文学とジャーナリズムの密接な関係が始まり、進歩主義的な政治思想形成に寄与した。メキシコでは、植民地時代は教会の人間によって哲学的思索が行われてきたが、独立後、袋小路に入った。実証主義哲学が19世紀から20世紀にかけてのポルフィリオ・ディアス時代に急速に同化され、大きな影響力を持つにいたった。20世紀前半から独自の哲学の模索が始まり、メキシコ性が探求された。

第2章「近代化とモデルニスモのイデオロギー」では、近代化(modernizacion)とモデルニスモ(modernismo)の関係について考察する。19世紀末、ラテンアメリカのエリートたちは、欧米をモデルとし、欧米と肩を並べることを希求した。モデルニスモ作家は、自分たちの文学、とくに詩を評価できない者として下層階級を切り捨て、その一方で、実証主義を信奉する政治権力を支持することの見返りにその庇護を受け、特権を享受した。弱体化した教会に代わり、作家の声が権威をもつようになった。モデルニスモの文学者たちは象牙の塔に引きこもり、社会と関わりをもちたがらなかったという批判があるが、そうではない文学者も存在したのだ。発展途上国におけるモデルニスモとは、近代化への希求の体現であり、近代化の夢と幻想のうえに成り立っている。その意味でナショナルアイデンティティーの形成に関与している。ラテンアメリカではモデルニスモとナショナリズムが混ざりあっており、モデルニモはユートピアの要素を内包している。

第3章「ラテンアメリカにおけるイデオロギーの構築」では、モデルニスモとナショナリズムの関係について考察する。植民地時代以来、クリオーリョとスペイン人の確執は、社会階層による差別意識を生んだ。クリオーリョは17世紀のソル・フアナやシグエンサ・イ・ゴンゴラの時代から、植民地ヌエバ・エスパーニャを自分たちの祖国であると考えていた。19世紀になるとナショナリズム思想がラテンアメリカを席巻する。19世紀末から20世紀初めにかけて、モデルニスモの若い作家たちのあいだでの、近代国家の構築、あるいは普遍的な新しい文化創成の願望は、祖国の社会・政治・経済発展を進める動力であった。モデルニスモ作家が執筆した新聞コラムは、文学として審美的な面で完成された文章を目指すと同時に、祖国の近代化への彼らの関与の仕方を表現した。自分たちのアイデンティティーを確立したいという思いは、いま現在もラテンアメリカ全体に存在するものである。それゆえ、植民地時代以来、消えることのない、社会を構成するさまざまなグループ間の深い断絶は、きわめて大きな問題である。

第4章「タブラーダの近代化におけるモデルニスモ」では、タブラーダの新聞コラムについて検討する。タブラーダはメキシコの近代化プロセスにおける典型的な知識人のひとりである。タブラーダの作品、とくに新聞記事やコラムは、モデルニスモのコスモポリタン主義的視点が顕著であり、身の回りの現実社会の問題を直視することがなかった。彼の作品のなかにメキシコ文化のメスティーソ的要素を見出すことはできない。本章では、19世紀後半にフランスから導入された新聞コラムというスタイルの文章の歴史を振りかえった後、1936年から1939年に新聞連載されたタブラーダの「昼と夜のメキシコ」のコラムをいくつか取り上げる。「皮肉」「ユーモア」など、その文体の特徴を指摘する。また262回の連載コラム全体がどのようなものであるかを示すため、テーマ別に分類し、その一部の内容を要約して示す。従来の研究では、コラムのタイトルにある昼と夜は、肯定的なものと否定的なものを表し、タブラーダはメキシコ社会の相反する二面性を描いていると言われてきたが、本論文では、このコラムが描くのは、社会の矛盾する二面性を描くというよりむしろ、近代化の実態(メキシコの現実)と近代化への希求(タブラーダが思い描くく理想のメキシコ)の間の不安定な緊張関係であり、それは、メキシコ性というアイデンティティーが欠如したまま進められた近代化における不安定さの反映である、と考える。

第5章「タブラーダとメキシコ性の矛盾」では、タブラーダの経歴に触れつつ、メキシコ性についてのその矛盾した態度を検討する。タブラーダは19歳でジャーナリストの道に入り、その後ポリフィリオ・ディアス政権の特権的知識人グループに属した。彼らのモットーは、「平和・秩序・進歩」であり、これがタブラーダの判断基準となった。ジャーナリストとして読者に情報を提供しつつ世論を形成する役割を担いながら、メキシコ社会の現実を正しく理解することがなかった。彼が描くメキシコと、メキシコの現実の間には大きな乖離があった。自らを「クリオーリョ」と定義するこの知識人は、インディオやメスティーソの問題に関心をもたなかったのだ。メキシコ社会の悪を引き起こすものとして、しばしば「ウイチロボス」というアステカの神の名前をもじった造語を使った。コラムでは、メキシコ・シティーの問題を扱うことが多かったが、首都を好意的に見ることは決してなかった。コスモポリタンの彼は、混血mestizajeに基づくメキシコ性の払拭こそが近代化の証しであるとみていたのである。この章では、ポリフィリオ・ディアス政権の末期に現れた、実証主義の独裁政権を批判する新しい世代の出現についても述べる。ホセ・バスコンセロスらは「青年文芸クラブAteneo de la Juventud」を立ち上げ、ポルフィリオ・ディアス政権の文化・教育政策を批判し、タブラーダの立場と対立した。

第6章「ラテンアメリカの現実におけるユートピア概念」では、ユートピアをめぐるいくつかの著作を通して、ラテンアメリカにおける共同幻想としてのユートピア概念を検討する。ハイブリッドな文化を特徴とするラテンアメリカにおいて「我々は何者か」という問題をどう考えるかについて、多くの思想家がさまざまな提案をしてきた。たとえば、アルフォンソ・レイェスは、旧世界が新世界に対して思い描いた「よりよい世界」、つまり「ユートピア」こそがアメリカのアイデンティティーであると考えた。これに対しレオポルド・セアは、アメリカの人間にとって、ヨーロッパの思い描くユートピアという、自分自身でないものになろうとすることは、アメリカの人間であることの否定であったと論ずる。アルトゥロ・ロイグは、シモン・ボリバルによって、アメリカはヨーロッパが目的を果たすための手段ではなく、アメリカはアメリカにとっての目的となったと述べた。またこの章では、タブラーダ以降、メキシコで推し進められたメキシコ性やメキシコ独自の思想構築の試みについても検討する。1930年代にはタブラーダが体現しているようなディアス政権時代のヨーロッパ至上主義、コスモポリタン主義に反発して、メキシコ性を追求する思潮が台頭した。マルクス主義者のアベラルド・ビジェガスはメキシコ独自の思想形成をめざし一連の著作を発表、また1940年代、50年代にはメキシコの哲学を創造しようという意図でイペリオンというグループが活動した。

モデルニスモはラテンアメリカにおける文学の近代化の出発点であり、同時に近代化についての19世紀的思想のひとつの到達点であった。モデルニスモ文学者が残したテキストは、彼ら自身の近代化の経験を映し出す鏡として読むことが可能である。タブラーダのようなモデルニスモの知識人にとっては、メキシコ性の欠如がまさに近代化を表していた。メキシコ社会の現実から目をそらし、メキシコ性を否定したモデルニスモの知識人は、メキシコ独自の哲学を発展させるための大きな障害であった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、メキシコの外交官、詩人、ジャーナリストであったホセ・フアン・タブラーダ(1871-1945)の新聞コラムや詩を切り口として、メキシコの近代化について考察し、メキシコ人が問いかけ続けているアイデンティティーの問題と、ラテンアメリカをめぐって繰り返されてきたユートピア言説を検証する論文である。

本論文は、6章から構成され、前半3章はラテンアメリカおよびメキシコの思想史を概観し近代化の問題について考察し、第4章、第5章でタブラーダの新聞コラムを中心に取り上げ、最後の第6章で、ラテンアメリカ及びメキシコのユートピア言説について論ずる。

第1章「ひとつの哲学にむけて」は、ラテンアメリカ及びメキシコにおいて、独自の哲学の構築が模索されてきたことを概観し、ラテンアメリカ諸国は、独立戦争期以前から、アイデンティティーを求めて自分たちの哲学の探求が試みられてきたが、独自の思想形成にはいたらなかったことを述べる。また19世紀末からラテンアメリカで起こったモデルニスモ文学運動において、文学とジャーナリズムの密接な関係が始まり、進歩主義的な政治思想形成に寄与したが、とりわけ新聞コラム(クロニカ)は、モデルニスモ作家の文学実験の場となった、ということを指摘する。

第2章「近代化とモデルニスモのイデオロギー」では、近代化(modernizacion)とモデルニスモ(modernismo)の関係について考察する。19世紀末、ラテンアメリカのエリートたちは、欧米をモデルとし、欧米と肩を並べることを希求した。モデルニスモ作家は、実証主義を掲げる政治権力を支持することの見返りにその庇護を受け、特権を享受した。モデルニスモとは、近代化への希求の体現であり、近代化の夢と幻想のうえに成り立つ芸術運動であった。その意味でナショナルアイデンティティーの形成に関与した。ラテンアメリカではモデルニスモとナショナリズムが混ざりあい、モデルニモはユートピアの要素を内包している、ということを論ずる。

第3章「ラテンアメリカにおけるイデオロギーの構築」では、モデルニスモとナショナリズムの関係について考察する。19世紀末から20世紀初めにかけて、モデルニスモの若い作家たちにおける、近代国家の構築、あるいは普遍的な新しい文化創成の願望は、祖国の社会・政治・経済発展を進める動力であった。モデルニスモ作家が執筆した新聞コラムは、文学としての審美的な面で完成された文章を目指すと同時に、祖国の近代化への関与の仕方を表現していたことを論ずる。

第4章「タブラーダの近代化におけるモデルニスモ」では、タブラーダの新聞コラムについて検討する。彼の作品、とりわけ新聞記事やコラムは、コスモポリタン主義的視点が顕著であり、身の回りの現実社会の問題を直視することを避けていた。本章では、1936年から1939年に新聞連載され「昼と夜のメキシコ」のコラムを取り上げ、そこから読み取れるものは、近代化の実態(メキシコの現実)と近代化への希求(タブラーダが思い描く理想のメキシコ)の間の不安定な緊張関係であり、それは、メキシコ性というアイデンティティーが欠如したまま進められた近代化における不安定さの反映である、と分析する。

第5章「タブラーダとメキシコ性の矛盾」では、タブラーダの経歴に触れつつ、メキシコ性についてのその矛盾した態度を検討する。タブラーダはポリフィリオ・ディアス政権の特権的知識人グループに属しており、彼らのモットーの「平和・秩序・進歩」がタブラーダの判断基準となった。ジャーナリストとして読者に情報を提供しつつ世論を形成する役割を担いながら、彼はメキシコ社会の現実を正しく理解することがなく、混血mestizajeに基づくメキシコ性の払拭こそが近代化の証しであるとみていたことを指摘する。

第6章「ラテンアメリカの現実におけるユートピア概念」では、ユートピアをめぐるいくつかの著作を通して、ラテンアメリカにおける共同幻想としてのユートピアの概念を検討する。ハイブリッドな文化を特徴とするラテンアメリカにおいて「我々は何者か」という問題をどう考えるかについて、多くの思想家がさまざまな提案をしてきたことを検討する。

以上が概要である。本論文の主たる功績は以下の3点にまとめられる。

第一は、従来タブラーダは、モデルニスモの詩人として、またスペイン語で俳句を作りのちのスペイン語詩に大きな影響を与えた人物として論じられることが多かったが、その詩ではなく、新聞コラム(クロニカ)に着目した点である。モデルニスモ詩人のクロニカは近年になってその価値が見直されてきているが、クロニカを通して近代化の問題を論ずるというのは、タブラーダ研究としてこれまでにない画期的な研究である。

第二は、タブラーダのクロニカ分析を通して、メキシコの近代化の本質を読み取ろうとするにとどまらず、ラテンアメリカの近代化という大きな文脈のなかにおいて、タブラーダの問題を論じている点で、これは本論文のきわめて重要な寄与である。

第三は、メキシコの近代化の矛盾が、現代メキシコ社会の諸問題と連続しており、この事実を正面から議論する必要があるという強い問題意識と、またメキシコ人が問いかけ続けているアイデンティティーの問題は、メキシコ人である筆者自身の問題として問わなければならないものだとする問題意識が論文を貫いており、このことが論文で展開される議論を深く、真摯なものにしているという点である。特筆すべきは、主観的・断定的な論調に陥ることなく、幅広い先行研究を参照しながら慎重に議論を進め説得力をもたせることに成功した点である。

審査では次のような問題点・要望が指摘された。1.広範な文脈のなかにタブラーダを位置づけ論じることを重視したために、タブラーダその人の伝記的情報やクロニカ以外の作品についての記述が手薄になっている。 2.タブラーダが近代化に対する自らの立ち位置をどう考えていたかについての議論がなされることが望ましい。 3.タブラーダのクロニカが、1930年代のメキシコでどのように受け取られたのかについての言及がほしい。 4.なぜ30年代に書かれたクロニカを中心に取り上げたのかについての根拠を明確に述べてほしい。 5.引用の仕方などに不備が見られる。 6.引用が続き、論旨の展開が明快でないところがある。

しかしこれらはいずれも、本論文の全体としての質の高さを、本質において損なうものではない。この論文が、この領域の研究において大いなる寄与を果たしたことは間違いないと判断される。

以上から、本審査委員会は、全員一致で、本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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