学位論文要旨



No 217248
著者(漢字) 服部,哲也
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,テツヤ
標題(和) 国際貿易協定の経済分析 : 交易条件の外部性、労働の流動性、生産の不確実性の役割
標題(洋)
報告番号 217248
報告番号 乙17248
学位授与日 2009.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17248号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松原,隆一郎
 東京大学 教授 小寺,彰
 東京大学 准教授 澤田,康幸
 東京大学 准教授 清水,剛
 内閣府経済社会総合研究所 研究所長 岩田,一政
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、GATT/WTO協定と労働の流動性や生産の不確実性という国内要因との相互作用を理論的、実証的に明らかにすることによって、国内に生産要素移動の不完全性や不確実性が存在する現実の世界において、GATT/WTOがどのような役割を果たしているのかということについて論考することを目的とする。本論全体は、6章から構成されているが、その理論的な枠組みからは、GATT/WTOについての静態的な経済分析とGATT/WTOに加入している国々の動学的なインセンティブ制約についての経済分析という2つの部分に分けることができる。各章は、それぞれ、その理論的な枠組みについての先行研究の概説、理論的考察、実証的考察として位置づけることができる。1章は、GATT/WTOについての静態的な経済分析の先行研究の論理を整理し、2章は、政治経済モデルによって、国内の輸入競合部門の労働の流動性が不完全である場合の貿易協定と労働の流動性の関係を理論的に明らかにしている。2章の理論的考察を受け、5章では、GATT加盟以降の日本の輸入競合部門である農業部門の貿易保護と政治要因、労働の流動性との関係を実証的に検証する。これに対して、3章は、GATT/WTOに加入している国々の動学的なインセンティブ制約についての先行研究を整理し、4章は、自国、または外国の国内に、貿易協定交渉時に明らかになっていない不確実な生産のショックが存在するときの紛争解決手続の役割を論じ、6章は、過去のWTO紛争解決手続における貿易救済法案件のデータを整理し、5章の理論モデルが示唆するような利用実態となっているかどうかを論考した。以下、各章ごとの具体的な要旨を概説する。

1章では、大国間の国際貿易において、貿易協定を締結することで、交易条件の外部性を求めて陥る囚人のジレンマの状況から脱することができるとする先行研究と、貿易協定を締結することで、政府と国内民間部門との間のゲームにおいて、政府が貿易自由化にコミットできないときに生じるコミットメント問題を解決することができるとする先行研究の理論的内容を概観する。前者が大国間の貿易を対象とする研究であるのに対して、後者が小国を対象とする研究であるため、両者を統合する理論的考察は少なく、輸入競合部門の生産要素などの国内要因の特質と貿易協定との相互作用については、まだ十分には、明らかにされていない。

そこで、2章「貿易協定と労働の流動性」では、Grossman=Helpman(1995)型の政治経済モデルに、輸入競合部門の労働の流動性を明示的に組み入れることで、輸入競合部門の労働の流動性に不完全性が存在するとき、貿易協定と国内の政治要因、および、輸入競合部門の労働の流動性の関係がどのようになるのかを考察する。ある部門の労働が国内の他の部門に移動するとき、関係特殊的な人的資本が棄損されるなどの理由で、その人的資本の価値が減価するならば、その部門の労働の流動性は不完全となり、他の部門へ移動したときの人的資本の価値の棄損が大きいほど、労働の流動性は低下することになる。輸入競合部門を重視する政府の政治的要因が大きくなれば、貿易協定において選択される協定関税は高くなる。輸入競合部門の労働の流動性が低い場合においても、貿易協定を締結し、貿易自由化を行ったとしても、国内の輸入競合部門の労働が国内の他の産業に移動しないため、貿易協定において選択される協定関税は高くなる。ただし、輸入競合部門の労働の流動性に不完全性がある場合において、貿易協定が存在する下では、そうでない場合と比較して、輸入競合部門に留まる労働は少なくなることが示される。

さらに、政府が輸入競合部門に対して社会厚生を重視する要因がある一定値を超えると、貿易協定を締結することを選択することになる。その際、輸入競合部門の労働の流動性が低下すると、政府が貿易協定を締結する社会厚生要因の範囲は狭くなることが明らかにされる。

3章では、GATT/WTO締約国の動学的なインセンティブ制約をめぐる先行研究を概観する。GATT/WTO協定が国際間の取り決めであるため、各国が今期逸脱する利得よりも、今期逸脱することで失われる協調による将来利得の割引現在価値が上回るという動学的なインセンティブ制約が満たされなければならない。従来、多数国間で貿易協定を締結する場合、不完全情報が存在する場合に、その動学的なインセンティブ制約がどうなるのかということについて研究が行われてきた。しかし、従来の先行研究では、GATT/WTO紛争解決手続は制裁をコーディネイトすると暗黙に仮定されるのみで、明示的に、その役割が示されてこなかった。

そこで、4章「生産の不確実性が存在する下でのWTO紛争解決手続の役割」では、貿易協定交渉時には明らかになっていない国内の生産について不確実性が存在し、輸入が急増する場合に、紛争解決手続が果たす役割を明示的に取り上げて論考している。国内に生産の不確実性が存在し、輸入が急増する場合に、紛争解決手続を備えていない貿易協定の下でも、各国がトリガー戦略をとることで協調は維持される。しかし、紛争解決手続を備えていない貿易協定と紛争解決手続を備えている貿易協定を比較すると、協定関税から逸脱したと申立てられる国が違反を認定された場合に支払う代償が、紛争解決手続を備えている場合とそうでない場合、それぞれの貿易協定の下で得られる将来利得の流列の期待値の比率によって表されるある値よりも小さければ、紛争解決手続が存在することにより、より大きな生産のショックの下で、貿易協定における協調が維持されることが示される。このように、紛争解決手続は、国内の生産についての不確実性が存在する下で、貿易協定に柔軟性を与えることにより、頑健性を高める役割を果たしている。

ただし、紛争解決手続が貿易協定の頑健性を高める一方で、紛争解決手続の利用により、協定関税からの逸脱が一時的に生じることはグローバルな効率性を低下させることになり、頑健性と効率性にトレードオフの関係が生じる。そこで、紛争解決手続が規範の醸成や国際的なコミュニケーションの促進など、何からの非経済的な価値を持つ場合には、貿易協定の頑健性を保ちつつ、次善の意味でグローバルな効率性を改善させる可能性があることが示唆される。

5章「GATT/WTO体制の下での日本の農業保護決定要因の実証分析」では、2章の貿易協定と労働の流動性に関する理論分析を受ける形で、GATT/WTO体制の下で、日本の輸入競合部門である農業について、専ら経済分析の視点から、その貿易保護の水準に対して、政治的な要因や農業部門の労働の流動性などがどのように影響してきたのかということについての実証的な分析を行い、理論モデルの検証を行っている。1955年に日本がGATTに加盟して以降、WTOの成立を経て、2006年までの日本の農産物の総合名目保護率を計測したところ、WTO体制の下でも、日本の農産物の総合名目保護率は高い水準で推移している。そこで、Honma and Hayami(1986)の一連の先行研究と同様にして、日本の農業の名目保護係数を被説明変数とする日本の農業保護の決定要因についての実証分析を行った。ただし、従来の先行研究が輸出部門と輸入競合部門という2部門モデルに基づいて実証分析が行われているのに対して、本章では、輸出部門、輸入競合部門に、非貿易財生産部門を加えた3部門モデルに基づき、説明変数として、日本の農業の労働の流動性の代理変数として、農林業部門のリリアン係数寄与度を加えて、実証分析を行った。政治要因を表す説明変数である全就業者に占める農業就業者比率の係数は正、農林業部門のリリアン係数寄与度の係数は負となり、ともに1%水準で有意であるとの結果を得た。このことは、日本の農業保護については、政治要因が作用しており、さらには、農業部門の労働の流動性が低下すると、その保護水準が上昇するという関係があることを示唆するものであり、2章の理論モデルと整合的な結果となっている。

6章「WTO紛争解決手続のデータ分析-貿易救済法案件について-」では、4章の生産の不確実性下でのWTO紛争解決手続についての理論分析を受ける形で、過去においてWTO紛争解決手続がどのように利用されてきたのか、その利用実態のデータ分析を行っている。協調関税からの関税率引き上げが協定からの逸脱であるとされて、WTO紛争解決手続が利用されるケースは、セーフガード、アンチダンピング措置、相殺関税をめぐる貿易救済法案件である。そこで、1995年にWTO紛争解決手続が利用されて以降、2008年までの貿易救済法案件についてのデータ分析を行った。その結果、貿易救済法案件については、米国が被申立国として申立てられる比率が著しく多い一方で、申立国にはそれほどの傾向が見られないことが確認された。さらに、パネル・上級委員会報告の採択まで手続段階がエスカレーションする傾向があり、履行までの時間がかかり、対抗措置はそれほど発動されていない一方で、パネル・上級委員会報告により、当該措置のWTO協定違反が認定され、是正勧告が行われた場合、少なくとも被申立国の行政府は受け入れる姿勢を示しているという傾向が見られた。そこで確認されたWTO紛争解決手続における貿易救済法案件の利用傾向から、WTO紛争解決手続は、問題となっている被申立国の措置に対して制裁抑制的であり、締約国のWTO違反の措置を一時的に許容する一方で、当該措置の是正を促し、逸脱と制裁の連鎖を抑制することで、WTO体制の崩壊を防ぐように利用されていると考えられる。この結果、WTO紛争解決手続がWTO体制に対して、柔軟性を与えることによって、WTO体制の頑健性を高めているとする理論分析と整合的な利用実態を確認することが出来た。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、GATT/WTO協定が、生産要素移動の不完全性や不確実性が存在する現実の世界において、どのような役割を果たしているのかを理論的、実証的に考察するものである。

本論は6章から構成されているが、理論的な枠組みとしては、GATT/WTOの静態な経済分析(1・2・5章)と、GATT/WTOに加入している国々の動学的なインセンティブ制約に注目する経済分析(3・4・6章)という2つの部分から成っている。1・2・5章および3・4・6章はそれぞれ、理論的な枠組みについての先行研究の概説一理論的考察一実証的考察という流れになっている。

第一の系列では、1章はGATT/WTOについての静態的な経済分析の先行研究の論理を整理し、2章は政治経済モデルによって、国内の輸入競合部門において労働の流動性が不完全である場合に貿易協定と労働の流動性の関係がいかなるものとなるかを理論的に明らかにしている。さらに5章では、GATT加盟以降、日本における輸入競合部門である農業部門について、貿易保護と政治要因、労働の流動性との関係がどのようなものになったのかを実証的に検証している。

第二の系列では、3章はGATT/WTOに加入している国々の動学的なインセンティブ制約についての先行研究を整理し、4章は自国または外国の国内に、貿易協定交渉時に明らかになっていない不確実な生産のショックが存在するときの紛争解決手続の役割を論じる。6章は、WTO紛争解決手続における貿易救済法案件のこれまでのデータを整理し、4章の理論モデルが示唆するような利用実態となっているかどうかを実証的に検討する。

以下は、各章ごとの具体的な要旨である。

1章では、静態的な経済分析にかんし先行研究の理論的内容を概観する。この分野には、大国間の国際貿易において、貿易協定を締結することで、交易条件の外部性によって陥る囚人のジレンマの状況から脱することができるとする先行研究と、貿易協定を締結することで、政府と国内民間部門との間のゲームにおいて、政府が貿易自由化にコミットできないときに生じるコミットメント問題を解決することができるとする先行研究の二つがある。

しかし前者が大国間の貿易を対象とする研究であるのに対して、後者が小国を対象とする研究であるため、両者を統合する理論的考察は少なく、また輸入競合部門の生産要素などの国内要因の特質と貿易協定との相互作用については、まだ十分に解明されていない。

そこで、2章「貿易協定と労働の流動性」では、Grossman=Helpman(1995)型の政治経済モデルに輸入競合部門の労働の流動性という要因を明示的に組み入れることで、輸入競合部門の労働の流動性に不完全性が存在するとき、貿易協定と国内の政治要因、および、輸入競合部門の労働の流動性の関係がどのようになるのかを考察している。

ある部門の労働が国内の他の部門に移動するとき、関係特殊的な人的資本が棄損されるなどの理由でその人的資本の価値が減価するならば、その部門の労働の流動性は不完全となり、他の部門へ移動したときの人的資本の価値の棄損が大きいほど、労働の流動性は低下する。また政府が輸入競合部門を重視する度合いが大きくなれば、貿易協定において選択される協定関税は高くなる。輸入競合部門の労働の流動性が低い場合においても、貿易協定を締結し、貿易自由化を行ったとしても、国内の輸入競合部門の労働が国内の他の産業に移動しないため、貿易協定において選択される協定関税は高くなる。ただし前者の輸入競合部門の労働の流動性に不完全性がある場合において、貿易協定が存在する下では、そうでない場合と比較して、輸入競合部門に留まる労働は少なくなることを示すことができる。

さらに、政府が社会厚生を重視する度合いがある一定値を超えると、輸入競合部門に対して貿易協定を締結することが選択される。その際、輸入競合部門の労働の流動性が低下すると、貿易協定を締結するときに政府が注目する社会厚生要因の範囲は狭くなることが明らかにされる。

3章では、GATT/WTO締約国の動学的なインセンティブ制約をめぐる先行研究を概観する。GATT/WTO協定は国際間の取り決めであるから、それが維持されるには、各国が今期協定から逸脱することから得られる利得よりも、今期逸脱することで協調が損なわれることから生じる将来利得の割引現在価値が上回るという動学的なインセンティブ制約が満たされなければならない。従来、多数国間で貿易協定を締結する際、不完全情報が存在する場合に、その動学的なインセンティブ制約がどうなるのかについて研究が行われてきた。しかし、それらの先行研究では、GATT/WTO紛争解決手続は制裁をコーディネイトすると暗黙に仮定されるに止まり、その役割は明示されなかった。

そこで、4章「生産の不確実性が存在する下でのWTO紛争解決手続の役割」では、国内の生産について貿易協定交渉時には明らかになっていない不確実性が存在するとき、輸入が急増する場合に紛争解決手続がどのような役割を果たすのかを論じる。国内に生産の不確実性が存在し、輸入が急増する場合、紛争解決手続を備えていない貿易協定の下でも、各国がトリガー戦略をとることによって協調は維持される。しかし、紛争解決手続を備えていない貿易協定と紛争解決手続を備えている貿易協定を比較すると、協定関税から逸脱したと申立てられる国が違反を認定された場合に支払う代償が、それぞれの貿易協定の下で得られる将来利得の流列の期待値の比率によって表されるある値よりも小さければ、紛争解決手続が存在する場合には、より大きな生産のショックの下で、貿易協定における協調が維持されることを示すことができる。ここから国内の生産について不確実性が存在するときに紛争解決手続は、貿易協定に柔軟性を与えることにより、頑健性を高める役割を果たしていると推測される。

ただし、紛争解決手続は貿易協定の頑健性を高めるものの、協定関税からの逸脱が一時的に生じて紛争解決手続が利用されるとグローバルな効率性が低下するから、頑健性と効率性にトレードオフの関係が存在することになる。けれども紛争解決手続が規範の醸成や国際的なコミュニケーションの促進など何らかの非経済的な価値を持つ場合には、その価値が重視されればされるほど、貿易協定の頑健性を保ちつつグローバルな効率性も次善の意味で改善させる可能性がある。

5章「GATT/WTO体制の下での日本の農業保護決定要因の実証分析」では、2章の貿易協定と労働の流動性に関する理論分析を受ける形で、専ら経済分析の視点から、理論モデルの検証を行っている。GATT/WTO体制の下で、日本の輸入競合部門である農業に対する貿易保護の水準は、政治的な要因や農業部門の労働の流動性などからどのように影響を受けてきたのかについての実証的な分析である。

1955年に日本がGATTに加盟して以降、WTOの成立を経て、2006年までの日本の農産物の総合名目保護弊を計測すると、WTO体制の下でも、日本の農産物の総合名目保護率は高い水準で推移している。そこで、HonmaandHayami(1986)の一連の先行研究と同様に、日本の農業の名目保護係数を被説明変数とする日本の農業保護の決定要因についての実証分析を行ってみた。先行研究は輸出部門と輸入競合部門という2部門モデルに基づいて実証分析が行われているが、これに対して本章では、輸出部門、輸入競合部門に、非貿易財生産部門を加えた3部門モデルとし、説明変数としては日本の農業における労働の流動性を取り、ただしその代理変数に農林業部門のリリアン係数寄与度を用いて、実証分析を行った。政治要因を表す説明変数である全就業者に占める農業就業者比率の係数は正、農林業部門のリリアン係数寄与度の係数は負となり、ともに1%水準で有意であるとの結果を得た。このことは、日本の農業保護については、政治要因が作用しており、また農業部門の労働の流動性が低下すればその保護水準が上昇するという関係があることを示唆し、2章の理論モデルと整合的な結果となっている。

6章「WTO紛争解決手続のデータ分析一貿易救済法案件について一」では、4章の生産の不確実性下でのWTO紛争解決手続についての理論分析を受ける形で、過去においてWTO紛争解決手続がどのように利用されてきたのか、その利用実態のデータ分析を行っている。協調関税からの関税率引き上げが協定からの逸脱であるとされて、WTO紛争解決手続が利用されるケースが、セーフガード、アンチダンピング措置、相殺関税をめぐる貿易救済法案件等である。そこで、1995年にWTO紛争解決手続が利用されて以降、2008年までの貿易救済法案件についてのデータ分析を行うと、貿易救済法案件については、米国が被申立国として申立てられる比率が著しく多い一方で、申立国にはそれほどの傾向が見られないことが確認された。またパネル・上級委員会報告の採択まで手続段階がエスカレートする傾向があり、履行まで時間がかかり対抗措置はそれほど発動されていない一方で、パネル・上級委員会報告により当該措置のWTO協定違反が認定され是正勧告が行われた場合、少なくとも被申立国の行政府は受け入れる姿勢を示す傾向が見られた。以上、確認されたWTO紛争解決手続における貿易救済法案件の利用傾向から、WTO紛争解決手続は、問題となっている被申立国の措置に対して制裁抑制的であり、締約国のWTO違反の措置を一時的に許容する一方で、当該措置の是正を促し、逸脱と制裁の連鎖を抑制することで、WTO体制の崩壊を防ぐように利用されていると考えられる。この結果から、WTO紛争解決手続がWTO体制に対して柔軟性を与え、WTO体制の頑健性を高めているとする理論分析と整合的な利用実態が確認された。

以下に評価を述べる。

評価しうる点としては第一に、既存の経済分析では前提の簡単化を過度に重視したため、結果に至っても現実に対し示唆するところが希薄であったが、本論文1章に対する2章、3章に対する4章の理論的拡張には明確な意義とオリジナリティがあり、結論も既存の理論に比し現実をよりよく説明するものとなっている。これらは法学の領域で扱われる「現実」にも十分に妥当する議論であり、経済学と法学を整合的に組み合わせる知見であり、本論文の最大の貢献といえよう。

内容的には、2章は、保護主義を求める国内の政治的要因として輸入競合部門において労働の流動性が不完全であることに注目し、それが協定関税を高止まりさせる原因となっていることを示した。政府の目的関数をもっとも簡単な形で再構成し、これを有意義に使用した点も評価できる。4章は、これまでいまひとつ明らかでなかったWTO協定が紛争解決手続を備えていることの意義を、国内に生産の不確実性が存在するときに協調が維持しやすくなる点に求めている。本論文は「労働の流動性」や「生産の不確実性」を媒介とすることで、経済理論の現実説明力を高めるのに成功している。

第二に、2章・4章の理論的な主張を確認するために5章・6章において適切な実証的検討がなされ、理論が正統であることを示すのに成功している。5章は日本の農業保護の水準に対する説明変数として、政治要因としては全就業者に占める農業就業者比率、農業における労働の流動性については代理変数に農林業部門のリリアン係数寄与度を採用し、それぞれの寄与度を算出している。代理変数は妥当であり、実証の結果は理論から予測されるところを支持している。

6章ではWTO紛争解決手続として相殺関税をめぐる貿易救済法案件に注目し、過去のデータを分析して、パネル・上級委員会報告の採択まで手続段階がエスカレートする傾向があり、履行まで時間がかかり対抗措置はそれほど発動されていない一方で、パネル・上級委員会報告により当該措置のWTO協定違反が認定され是正勧告が行われた場合、少なくとも被申立国の行政府は受け入れる姿勢を示す傾向があることを見いだした。この実証結果は、WTO紛争解決手続がWTO体制に対して柔軟性を与え、WTO体制の頑健性を高めているという主張と整合的である。

以上に述べたように、本論文はこれまで経済学的な含意が必ずしも明確ではなかったWTO協定や紛争解決手続にっき、最新の理論・実証研究を踏まえつつ、農業における労働移動の不完全性や生産の不確実性といった要因を媒介とすることによって、その存在意義を理論的に示すことに成功している。またその結果は、データと合致することが説得的に示されている。

他方で、残された課題もある。第一に、分析・実証にかんする静学的な1・2・5章と動学的な3・4・6章という二つの系列が示されており、静学分析においては例えばWTO協定が完全に履行されると仮定されているが、それを動学に拡張したとすれば、自己拘束的な貿易協定のもとで最適な関税の経路はどのようなものになるのかについての考察が必要になろう。

第二に、4章で生産にかんして不確実性を導入したが、それはどのようなケースが生じるのかが判明しておりそれぞれについて確率分布が付されるようなものである。F.ナイトの意味で確率分布も分からない不測の事態にまで拡張した場合については考察が及んでいない。第三に、規範の醸成などの非経済的価値は外生的に与えられるとしており、WTO紛争解決手続がどのように生み出されるのかという内生的な分析は行われていない。

ただし、これらは本論文の考察を踏まえ将来的に試みられるべきものであり、現段階で本論文が提起する学術的な成果を損なうものではない。とりわけ不確実性や労働の固定性、規範の醸成などは経済と非経済領域の境界に位置する要因であり、それらに注目しながらWTO協定の経済的意義を解明した本論文は、国際貿易協定研究に新たな地平を築くものであり、領域横断的に社会を探求する相関社会科学としてもふさわしい業績だといえる。

以上から本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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