学位論文要旨



No 217254
著者(漢字) 中尾,嘉宏
著者(英字)
著者(カナ) ナカオ,ヨシヒロ
標題(和) ラガービール酵母Saccharomyces pastorianusのゲノム解析
標題(洋)
報告番号 217254
報告番号 乙17254
学位授与日 2009.11.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17254号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 太田,明徳
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 准教授 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

ビールは世界で最も飲まれているアルコール飲料であり、世界で年間約1億7,937万kL生産されている。またビールは、現在、日本だけでなく、中国、ロシアでも大量生産が行なわれており、世界中で飲用に供されている飲み物である。

ビールは、使用する酵母と醸造条件によって大きくエールビールとラガービールに分けられる。現在世界のビール生産量のうち、90%以上がラガータイプのビールであるため、ラガービールの醸造に使用されるラガービール酵母(Saccharomycespastorianus)は世界で最も重要な工業用酵母であると考えられる。ラガービール酵母は、ラガービール醸造にとって好ましいいくつかの生物学的特徴、例えば醸造中の適度かつ適切な時期の凝集能、低温での優れたマルトース、マルトトリオース資化能、香味安定作用を有する亜硫酸の高生成能などを有している。これらはラガービール醸造にとって重要な特性であるにも関わらず、ゲノムが明らかになっていないため、分子生物学的にほとんど解明されていなかった。

ラガービール酵母は、SaccharomycescerevisiaeとS.cerevisiae近縁種の異質倍数体であることが示唆されている。現在、多倍体化は遺伝子の重複を許し、しばしば遺伝子の副次機能化、新機能化を引き起こすため進化的に有利であり、かつ多様な系統繁栄の基礎になっていると考えられており、多くの真核生物で過去ゲノムの倍加が生じていたことが近年のゲノム解析によって明らかになっている。ゲノム倍加後の多倍体は、一定期間で大規模な遺伝子欠失、染色体乗り換えによってゲノムの冗長度が減少し2倍体化すると考えられている。異質倍数体のゲノム解読は、生命の進化を解明する上で、非常に重要な情報となると考えられているが、そのゲノム構造の複雑さによってこれまで解読されていない。

そこで、本研究では、ラガービール酵母の特性解明、産業利用、およびゲノム倍加後の進化メカニズムを解明するためにラガービール醸造に最も使用されている実用株S.pastorianusWeihenstephan34/70(W34/70)株のゲノムを世界で初めて解読し、その系統分類学的解析、および開発したDNAマイクロアレイを用いた逆遺伝学的アプローチによる高亜硫酸生成の分子生物学的解明、について検討した。

第1章「ラガービール酵母SaccharomycespastorianusWeihenstephan34/70株(W34/70株)のゲノム解読」では、W34170株のゲノム塩基配列決定を行い、別途作製したOpticalmapPingによる染色体地図と比較検証することによってW34/70株のゲノム構造を決定した。その結果、W34/70株はゲノムサイズが約26.1Mb、36本の染色体から構成されていることが明らかとなり、そのうち約96%のゲノム塩基配列を決定することが出来た。W34/70株は、一部染色体の欠失は存在するもの、ほぼ全てのS.cerevisiae(Sc)とSaccharomycesbayanus(Sb)のゲノムを有しており、2種の交雑体であることが証明された。しかしながら、Sc型ORFとS.cerevisiaeS288C株ORFとのDNA相同性は平均99.2%と極めて高かったたのに対し、Sb型ORFとS.bayanusCBS7001株ORFとの相同性は平均92.7%と明確に低かった。このことは、Sb型サブゲノムがCBS7001株と進化的に離れていることを示している。一方ラガービール酵母のミトコンドリアゲノムはSb由来でありゲノムシャッフリングが生じていないことも明らかとなった。

ゲノム倍加後に同じ機能を有する二つのORFを持つ酵母が進化的圧力から開放され一つの遺伝子になることを示す、不完全化ORFがW34/70株のScおよびSb型サブゲノムからそれぞれ28、33個同定された。また、Sc、Sb型染色体でそれぞれ1、5箇所大規模な領域での乗り換え欠失が生じており、対応するもう一方の染色体領域が非相互転座によって増加していた。更にSbXII番染色体のリボソームDNA領域が大規模に減少していた。これらのことは、異質倍数体であるW34/70株がゲノム倍加後の倍数性減少プロセスに従うことを示している。

ScとSbサブゲノム間には、交雑後の出来事を示す8つのキメラ染色体が見つり、この染色体乗り換えによって、亜硫酸生成経路上の遺伝子(ScMET3、SbMET3、ScMET14、SbMET14そしてSbMET16)や優れたマルトース・マルトトリオース取り込み遺伝子(LBYGO3039;Sb-MAL31)のコピー数が倍加していることが明らかになった。興味深いことに、発現させるとマルトース・マルトトリオース資化能が低下するトランスポーター(ScAGTI)が不完全化していた。これらのことは、W34/70株では優れたマルトース・マルトトリオース取り込み遺伝子のコピー数は増加し、糖取り込み能の低いトランスポーター遺伝子は不活化したことを示している。また、これまでSaccharomycesホモログとして同定されていないラガービール酵母特異的遺伝子としてモノカルボキシレートトランスポーターをコードする遺伝子を同定した。

第2章「ラガービール酵母およびS.bayanusの系統分類学的解析」では、ラガービール酵母のSbサブゲノムの由来系統株を明らかにすることを最終目的とした。しかしながら、現在のS.bayanus種は、正確には種が複数含まれているとみなされている。また、多くのS.bayanusで多様性があることは、S.bayanusとS.pastorianusとを分類することを難しくしている。これら二つの種を明確に区別することは通常困難であり、いくつかの主要な菌株保存機関での株は、"S.bayanusorS.pastorianus"と表記されている。そこでまず我々は、現在単離分類されているS.bayanusとs.pastorianus遺伝学的多様性を評価・系統分類すること、ラガー酵母のSbサブゲノムの親株を同定することを目的としてPCRIRFLP解析を行った。その結果、S.bayanus種は一つの交雑株と二つの純系、すなわち(1)CBS7001に代表されるS.uvarum株群、(2)NBRC1948に代表され、今回の系統分類で初めて単一のゲノムを有するグループとして見出されたS.bayanus株群、そして(3)S.bayanusとS.uvarumゲノムの一部を含むが、S.cerevisiaeゲノムを含まないs.bayanus交雑株群に分けられることを見出した。また、s.pastoriuanusにはラガービール酵母を含むS.cerevisiae/S.bayanus/Lager交雑系統および、サイダー発酵に使用される酵母を含むS.cerevisiae/S.bayanus/S.uvarum/Lager交雑系統が存在することが明らかとなった。更にラガービール酵母のSbサブゲノムの親株として最も好適な種は、ビール醸造環境下からの単離されたS.bayanusNBRC1948株であることを見出した

第3章「ラガービール酵母の亜硫酸生成機構の分子生物学的解析」では、ラガービール醸造にとって重要な特性の一つである高亜硫酸生成能のメカニズム解明、および通気醸造条件下では亜硫酸生成量が減少することの原因を明らかにするために、異なる通気条件下でラガービール醸造を行い、定期的にサンプリングした酵母からmRNAを取得し、開発したDNAマイクロアレイを用いて網羅的な遺伝子発現解析を実施した。ラガービール酵母は発酵期間中、亜硫酸生成経路上のラガービールしか有しないSb遺伝子群が対応するSc遺伝子群と比較して高い発現量を示した。また異なる通気条件下では、Sb型の亜硫酸トランスポーター(SbSSU1)の発現量に差異が見られ、亜硫酸生成量と相関を示した。そこで、SbSSU1の高発現株、破壊株を作製、発酵試験を実施することによって通気条件での亜硫酸生成量の低下の原因は、SbSSU1の発現量低下に起因することを明らかにした。またSbSSU1の上流配列の転写因子結合サイトを解析することによって、細胞壁タンパク質の発現量を制御する転写因子Mot3PおよびUpc2pの結合サイトを見出し、通気によるSbSSU1の発現量制御機構は、通気による細胞壁タンパク質の発現制御と同じであることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

世界で最も飲まれているアルコール飲料であるラガービールの醸造に使用されるラガービール酵母(Saccharomycespastorianus)は、最も重要な産業酵母の1つである。この酵母は、ラガービール醸造にとって好ましい生物学的特徴を有しているが、ゲノムが明らかになっていないことが主因として、分子生物学的にほとんど解明されていなかった。

本論文は、ラガービール酵母のゲノムを世界で初めて解読し、その系統分類学的解析、および新規開発したDNAマイクロアレイを用いてラガービール酵母の重要な特性である高亜硫酸生成を分子生物学的に解明した結果をまとめたものである。

第1章では、ラガービール実用株S.pastorianusWeihenstephan34/70(W34/70)のゲノムを解読し、染色体地図と比較検証することによってゲノムサイズ26.1Mbのうち約96%を解読した結果を述べている。染色体は36本から成り、ほぼ全てのS.cerevisiae(Sc)とSaccharomycesbayanzLs(Sb)のゲノムを有していたため、2種の交雑体であることが証明された。また、交雑後の乗り換えによって、8つのSc-Sbキメラ染色体が存在し、SbおよびSc型染色体でそれぞれ1箇所および5箇所で大規模領域欠失が生じていた。更にSb型XII番染色体上のリボソームDNA領域の大規模減少、61個のORFが不完全化していたことは、異質倍数体であるW34170株がゲノム倍加後の倍数性減少プロセスに従っていることを示している。一方、ミトコンドリアゲノムはSb由来でありゲノムシャッフリングが生じていないことも明らかとなった。また、染色体乗り換えによって、ラガービール酵母の特性である高亜硫酸生成に関する遺伝子や、低温でも優れた糖資化を示すマルトース・マルトトリオース取り込み遺伝子のコピー数が倍加していることが明らかになった。さらに、これまでSaccharomycesホモログとして同定されていないラガービール酵母特異的遺伝子としてモノカルボキシレートトランスポーターをコードする遺伝子を同定した。

第2章では、Sb型ゲノムの由来を明らかにすることを最終目的とし、まず現在単離分類されているS.bayanusとS.pastorianusの遺伝学的多様性を評価・系統分類をPCR/RFLP法を用いて実施したところ、S,bayanus種は二つの純系と一つの交雑株、S.bayanus(Sb)純系、S.ttvarum(Su)純系、SuとSbゲノムの交雑系に分けられることを述べている。また、S.pastorianusには2つの交雑系統、Su配列を含むものと含まないもの、が存在することが明らかとなった。さらに、ラガービール酵母のSbサブゲノムの親株として、ビール醸造環境下からの単離されたS.bayanusNBRC1948株を見出した。

第3章では、ラガービール醸造にとって重要な特性である高亜硫酸生成能および、酸素による亜硫酸生成減少の原因を明らかにするために、DNAマイクロアレイによる発現解析を実施した結果を述べている。この研究の結果、高亜硫酸生成能は亜硫酸生成経路上のラガービール酵母しか有しないSb遺伝子群高発現が寄与していること、また酸素による亜硫酸量低下は、亜硫酸排出トランスポーターSbSSU1の発現量低下に起因することを明らかにした。さらに、転写因子結合サイトを解析することによって、通気によるSbSSUIの発現量制御機構は、通気による細胞壁タンパク質の発現制御と同じであることが示唆された。

本研究によって得られたゲノム情報、マイクロアレイによって今までほとんどblack-boxとして扱っていたラガービール酵母を網羅的に「可視化」できるため、醸造特性の解明、育種、株間の差異解明、醸造中の酵母代謝解明において飛躍的な効率化が可能となり、ひいては、より品質の優れたビールの製造開発につながることが期待される。また、異質倍数体のゲノム解読も世界初であるため、ゲノム倍化および複合的なゲノム進化や構成を理解するための情報を提供するもので、学術的・応用的に貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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