学位論文要旨



No 217255
著者(漢字) 新保,和高
著者(英字)
著者(カナ) シンボ,カズタカ
標題(和) 高速・高感度アミノ酸分析用新規試薬の開発とその生命科学研究への応用
標題(洋)
報告番号 217255
報告番号 乙17255
学位授与日 2009.11.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17255号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 正木,春彦
 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 特任教授 鈴木,榮一郎
 東京大学 准教授 永田,宏次
内容要旨 要旨を表示する

生命科学の研究において、ゲノム解析、トランスクリプトミクス解析、プロテオミクス解析と並び、メタボロミクス解析として注目を集めている。特に、代謝物は遺伝的要因だけではなく、環境的な要因も含む表現型であり、代謝物の挙動の変化を的確に捉えることの意義はたいへん大きい。全代謝物の情報である"メタボローム"と称することは、1998年にTweeddaleらが大腸菌の抽出物を用いた解析において、初めて提唱しているが(1)、その概念は、古くからあり、1960年代初めには、既に、Paulingが"分子矯正医学"を提唱し、1971年に尿中の代謝物分析において、代謝物の定量分析による疾病診断が可能性についての予測を公言している(2)。

そのような代謝物の中で、アミノ酸は、生体中でもっとも多く存在する代謝物の一群であり、代謝経路においても、重要なハブの役割を果たしていることが多い。アミノ酸は、一般式でNH2-RH-COOHで表され、アミノ基とカルボキシル基、及び、Rで表される種々の置換基を含む側鎖を有する化合物であり、ペプチドやたんぱく質の構成要素となるだけではなく、側鎖官能基の特徴から様々な生理機能を有している。

そのためアミノ酸分析に関する研究についても、非常に古くから行なわれ、現在、もっとも広く使用されている、アミノ酸の検出試薬であるニンヒドリン試薬は、1910年にRuhemannらにより発見されている。1958年には、Spackman、Stein、Mooreらが、たんぱく質を加水分解したアミノ酸を陽イオン交換樹脂で分離した後に、ニンヒドリン試薬と混合し、反応カラム内で過熱し呈色し検出する方法(ポストカラム誘導体化法)を自動化に成功し(3)、その功績により、ノーベル化学賞を受賞している。しかし、Spackmanらの報告以来、近年の液体クロマトグラフィーの装置や充填材である樹脂、コンピュータの発展により、分析時間、精度は格段に進歩し、当時、たんぱく質加水分解アミノ酸を約1日かけて分析していたが、現在では1時間程度での分析が可能となった。しかしながら、同様の原理によるものであり、今後の生命科学研究の更なる発展においては、より高感度・高速な全く新たなアプローチによるアミノ酸分析法の出現が欠かせなかった。

また、アミノ酸分析においては、いわゆる濃度を測定するための定量分析だけではなく、アミノ酸中の安定同位体標識率を捉えることが出来れば、13C標識グルコース安定同位体基質を用いた、生体内の代謝物流れ(フラックス)を捉える代謝工学的な研究への応用も可能となるなど、生命科学研究に、今までにない、広がりを持たせることができる。

このようにアミノ酸を測定はたいへん重要と認識されが、従来の蛍光検出用試薬を用いる方法では、フェムトモル(femtomole)レベルの感度が限界であった。そこで、検出感度をさらに向上し、アットモル(attomole)レベルまで向上させることにより、サンプル調製に費やす手間を大幅に軽減され、その結果、多くの異なる条件でのデータの取得が可能となり、生命科学における研究を飛躍的に向上させることが出来ると考えた。さらに、分析時間を10倍に高速化することが出来れば、データ取得量として、トータルでおよそ1000倍程度増大することが可能となる。このような大量データはバイオインフォマティクス技術の発展と相俟って、データマイニング手法を用いることで、これまでに見えていなかった知見を生み出すことが期待できる。

そこで、アミノ酸分析の高感度化及び高速化を実現するため、全く新しいアプローチでのアミノ酸分析試薬の開発が必要であると考えた。これらの実現に向け、タンデム型の質量分析計(MS/MS)に注目した。特に、三連四重極型(Triplequadrupole)の質量分析計は、2つの質量フィルターと衝突室(コリジョンセル)を有する構造を取っており、非常に高い選択性を有する装置であり、高感度の定量が可能である。そこで、三連四重極型の質量分析計の原理を活用できる試薬を開発することで、これまでには無いアットモルレベルの分析が実現できると考えた。

本研究において、新しいアプローチによる試薬は、(1)~(4)の特徴を有するものとしてデザインし、鋭意検討を行なった。

(1)質量分析計において高感度に検出するための構造を有する。

(2)高速分析を行うために逆相のHPLCで保持されるために構造を有する。

(3).アミノ基と穏和な条件で迅速に反応するための構造を有する。

(4).誘導体化物がCIDで試薬骨格由来の部分とアミノ酸との間で規則的に開裂する。

結果、全て成功し、ここに全く新しいコンセプトの分析試薬を用いた画期的な高速・高感度アミノ酸分析法の完成を見ることが出来た。

特に、(4)の特徴については、試薬及びアミノ酸と試薬の反応物の電子の局在、超共役や共鳴によるフラグメントイオンの安定性など考慮することで、CIDにおける開裂位置を制御できることを見出したことから、タンデム型質量分析計のCIDにおいて試薬骨格とアミノ酸との結合部位で特異的な開裂を誘起する試薬を開発することに成功した。

開発した分析試薬のひとつであるTAHS(p-N,N,N-TrimethylammonioanilylN'-HydroxysuccinimidylCarbamateIodide)(Fig.2)はアミノ酸測定の検出感度を従来のフェムトモル(femtomole)レベルからアットモル(attomole)レベルへと飛躍的な改善に成功した。このことは、これまで見えていなかった生体中の微量アミノ酸の測定が可能とし、また、細胞内であれば103個程度、血液であれば数μLという微量サンプルでの分析を可能とし、実験者のサンプル調製に関わる時間を大幅に低減することにつながった。

また、CIDでの開裂位置を試薬とアミノ酸との結合位置に制御した試薬を開発できたことにより、アミノ酸の安定同位体標識率をGC-MSを用いた方法で行なわれるような複雑な補正計算なしに、簡便に算出することを可能とした。さらに、本手法は、高感度な分析方法でもあることから、従来の微生物の細胞内のたんぱく質加水分解アミノ酸の安定同位体標識率のみを算出しフラックスの解析を行う手法から、細胞内の遊離アミノ酸の安定同位体標識率の測定も可能とし、より細胞内の短時間の変化におけるフラックスの解析が可能となり、微生物によるアミノ酸生産技術の発展に貢献することができた(4)。

一方、本研究で開発したAPDS(3-Aminopyridyl-N-hydroxysuccinimidylcarbamate)(Fig.3)は、所要時間7.5分での高速アミノ酸分析を可能とした。さらに、本分析方法は、高感度な方法でもあることから、従来よりも分析に必要な血漿量を数μLと大幅に低減できた。

さらに、本方法は、プレカラム誘導体化試薬を用いたアミノ酸分析方法であったことから、作業者による分析前に誘導体化反応が必要であったが、臨床現場での利用においては、操作方法の煩雑さ課題となっていた。そこで、誘導体化工程を自動化した装置の開発を株式会社日立ハイテクノロジーズと共同で行った。開発した装置は、ヒト血漿を用いた分析法バリデーション試験において良好な結果を得ることができ、既存の分析方法との定量値の比較においても良い一致を示した。このことにより、従来の1日10検体しか分析できなかったアミノ酸の分析が、10倍の100検体程度処理できるようになり、年間35,000以上もの検体を分析することが可能とした。その結果、アミノ酸に関する研究の著しい発展に貢献することができた。味の素株式会社において、開発している『アミノインデックス』は、血漿中のアミノ酸濃度を統計的に解析し、複数のアミノ酸の組み合わせを疾病や健康状態の指標として用いる方法である(6、7)。このような方法においては、開発段階の症例対照研究の段階においては、大量のアミノ酸分析データが、実際の実用段階においては迅速なアミノ酸の分析による判別が必要となる。今回、アミノ酸分析の処理能力を10倍に向上させた方法の開発に成功したことで、今後の臨床現場での適用が期待される。

(1)H. Tweeddale, L Notley-McRobb and T. Ferenci, J. Bioteriol. 180, 5109-5116 (1998).(2) L. Pauling, A. Robinson, R. Teranishi and P. Cary, Proc. Nat Acad. Sci. USA, 68, 2374-2376 (1971).(3)J. D. Rabinowitz and E. Kimball, Anal. Chem., 79, 6167-6173 (2007).(4) D. H. Spackman, W. H. Stein and S. Moore: Anal. Chem., 30, 1190-1206 (1958).(5) S. Iwatani, S. Van Dien, K. Shimbo, K. Kubota, N. Kageyama, D. Iwahata, H. Miyano, K. Hirayama, Y. Usuda, K. Shimizu and K. Matsui, J Biotechnol. 128, 93-111 (2007).(6)T. Ando, Chem. Chem. Ind., 60, 40-41 (2007).(7)Y. Noguchi, Q. W. Zang, T. Sugimoto, Y. Furuhata, R. Sakai, M. Mori, M. Takahashi and T. Kimura, Am. J. Clin. Nutr., 83, 513S-519S (2006).

Fig1.開発した試薬の基本構造(左)とアミノ酸との反応物のCIDによる開裂(右)

Fig.2TAHS

Fig.3APDS

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、生命科学研究において重要なアミノ酸を高速に、また、高感度に分析するための分析技術開発とその代謝工学・臨床への応用研究を行なったものであり、緒言、3章からなる本論および結語からなる。

緒言では、メタボロミクス研究の歴史とアミノ酸分析の重要性、およびアミノ酸分析技術の現状と課題について述べている。

第1章では、アミノ酸分析における現状の課題であった、高速・高感度分析を実現するためのタンデム型質量分析計用の分析試薬のデザインおよび合成について述べている。デザインした試薬は、(1)質量分析計において高感度に検出するための構造、(2)高速分析を行うために逆相のHPLCで保持されるために構造、(3)アミノ基と穏和な条件で迅速に反応するための構造、および(4)誘導体化物がタンデム型質量分析計の衝突誘起解離(CID)により、試薬由来の構造部分とアミノ酸との間で特異的に開裂する構造、という特徴を有するものであった。特に、試薬のデザインにあたっては、CIDによる開裂位置が電子の局在が関係し、芳香環のような電子が非局在化する共鳴構造を有する場合には、その共鳴構造により、イオン化した分子が安定化することで開裂が起こりにくくなる、という仮説をもとに実施し、その仮説をもとに新規の試薬を合成し、検証をおこなっている。さらに、(4)の特徴を有することが、アミノ酸の高速、高感度分析だけでなく、簡便な同位体標識率の分析などに応用できる試薬であると結論づけた。

第2章では、開発した試薬を利用したアミノ酸の高感度、高速分析法などについて記述している。第二節においては、試薬の構造中に質量分析計において重要なイオン化を促すカチオン性のトリメチルアンモニウム基を導入したTAHS(p-N,N,N-TrimethylammonioanilylN-HydroxysuccinimidylCarbamateIodide)試薬を用いることで、たんぱく質加水分解アミノ酸を50~340アットモルという従来よりも1000倍程度、超高感度に検出することに成功し、微量試料へのアミノ酸分析への適用を可能とした。また、第三節においては、特異的な開裂位置を利用した、アミノ酸の安定同位体標識率を簡便に求める分析法について記述していた。開発した試薬を用いる方法では、従来のGC・MSを用いる手法などでは必要であった、測定結果から安定同位体標識率を算出する複雑な補正計算を不要とした。また、本手法は、TAHS試薬を用いることで、その感度も相俟って、アミノ酸生産菌体内の遊離のアミノ酸の同位体標識率の測定を可能とした。第四節では、同様に特異的な開裂位置を利用し、試薬骨格に由来する共通のフラグメントイオンを指標として、サンプル中の試薬と反応したアミノ化合物を一斉に検出する方法の開発について記述している。本手法は、サンプル中のアミノ基を有する化合物を網羅的に検出できることから、未知ピークの検出および質量情報からの同定も可能であり、メタボロミクス研究の有用なツールとなることが示唆された。さらに、第五節では、試薬骨格に安定同位体である重水素を導入した試薬(TAHS-d3)の開発について記述している。TAHS-d3はTAHSと共に使用し、異なる2種類の検体をそれぞれの試薬で誘導体化後混合し、分析することで、検体間の相対的な定量を可能にした。そして、第六節においては、アミノ酸研究におけるポトルネックであり、アミノ酸分析の最大の課題となっていた、分析時間を大幅に短縮したことについて記述している。開発した方法は、比較的小さな骨格を有するAPDS試薬を用いる方法であり、逆相HPLCでの分離と、タンデム型質量分析計の高選択性を組み合わせることで、同一質量電荷比のアミノ酸を完全に分離し、わずか7.5分と従来の10分の1程度の時間で生体アミノ酸の分析を実現している。また、質量分析計の選択性を利用することで、100種類以上の化合物を10分で分析を可能としアミノ酸研究の進展に大きく貢献するものである。

第3章では、第2章で開発した分析法の生命科学研究への応用について記述している。第二節では、第2章の第三節で開発した、安定同位体標識率の分析法の代謝工学的研究への応用展開の例について述べている。代謝フラックス解析を、従来の安定同位体ラベル基質を培養初期から添加し、菌体内のたんぱく質加水分解物の安定同位体標識率を求める手法から、培養途中にパルス的にラベル基質を投与し、細胞内の遊離のアミノ酸の同位体標識率を分析することでフラックスを求めることを可能とし、大幅な実験コストの削減を実現でき、また、目的の培養時点でのフラックス解析が可能となり、発酵菌の育種・プロセス開発に有用なツールになると結論づけている。また、第三節では、APDS試薬を用いたアミノ酸高速分析の生体試料への適用を行い、アミノグラムの測定への応用について記述している。開発した分析法は、FDAの生体試料分析のためのバリデーション法のガイダンス基準を満たすものであり、臨床応用への適用も可能であると結論づけた。そこで、第四節においては、本手法の臨床などの検査現場へ導入する上で、大きな障壁となっていたプレカラム誘導体化工程を自動化する装置の開発を行っている。開発した装置は、血漿中のアミノ酸の分析を行なう上で充分な結果が得られたことから、将来的には健康診断などへの実用化の可能性について記述している。

結語では、研究全体を総括し、今後の展望について述べている。

以上、本論文は、メタボロミクス研究で重要なアミノ酸分析技術を飛躍的に向上させ、生命科学研究へ新たな応用をしたものであり、将来的なアミノ酸研究、メタポロミクス研究、臨床研究の発展に向けた基礎的な研究として貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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