学位論文要旨



No 217259
著者(漢字) 石原,美奈子
著者(英字)
著者(カナ) イシハラ,ミナコ
標題(和) エチオピアのムスリム聖者崇拝 : ティジャーニー導師アルファキー・アフマド・ウマルと西部オロモ社会
標題(洋)
報告番号 217259
報告番号 乙17259
学位授与日 2009.11.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17259号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 准教授 森山,工
 東京大学 准教授 名和,克郎
 大阪府立大学 教授 宮脇,幸生
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、エチオピアのムスリム社会に広くみられる聖者崇拝に関する歴史民族誌である。具体的には20世紀初めに西アフリカからやってきたティジャーニー教団の導師アルファキー・アフマド・ウマルと西部オロモの人々との交流を描いている。論文は、一人の宗教神秘家(スーフィー)が、エチオピア西部のオロモの人々の間で「聖者」として崇敬の対象とされるようになった経緯、さらには、その没後において成立した「聖者」を崇拝する慣行がどのような状況の下に存続し、変化しているのかについて明らかにすることを目指している。

序章では、エチオピアのイスラーム研究における本論文の位置づけをおこなった。エチオピアはキリスト教国として知られており、エチオピアにおけるイスラーム・ムスリム社会の政治・経済・社会的特色はキリスト教徒社会との歴史的関係のなかで形成された。4世紀にキリスト教を受容したアビシニア王国は、紅海対岸のメッカで7世紀に生まれ、その後拡大発展した新興宗教イスラームの政治勢力に飲み込まれることをまぬがれ、10世紀以降は王国の南方および東方にムスリムの自立的な侯国が複数形成された。その後、貢属を求めるアビシニア王国との間に緊張関係が生まれ、16世紀にはイマーム・アフマド・イブラーヒームによる「聖戦」の呼びかけのもとにムスリム勢力が集結したが、これはアビシニア王国に甚大な被害を与えたものの最終的には敗北した。それ以降、ムスリム諸侯国が団結してアビシニア王国に対抗しうる勢力に発展していくことはなかったがアビシニア王国にとっては潜在的な脅威として認識されるようになった。今日のエチオピアは、アビシニア高原の覇権をめぐるキリスト教徒の地方諸侯の争いを勝ち抜いたメネリク2世によってその礎を築かれ、キリスト教徒アムハラ・ヘゲモニー体制のもとでの多民族・多宗教構成の国家となった。

エチオピア研究においてイスラーム・ムスリム研究は、エチオピアにおけるイスラーム・ムスリムの位置づけ同様、周縁的なものであった。トリミンガムの『エチオピアのイスラーム』(1952)以降、1980年代までエチオピアにおけるムスリム諸民族およびイスラーム諸慣行に関して特筆すべき研究はなされてこなかった。1980年代以降、地域・民族単位でのイスラーム化に関する歴史研究がさかんになった。また2000年以降は、イスラーム化のエージェントである個人の功績・活動に着目する研究もなされてきた。本論文は、アルファキー・アフマド・ウマルという一個人の功績に注目しながら、その個人が関連をもった複数の地域において、その没後に、一定の共通性を持ちながら地域的特異性のある地域カルトを形成しているという点に着目しているところに特色がある。

第一部は、アルファキー・アフマド・ウマル(以下、アフマド・ウマル)の人生誌を通して一人の宗教指導者が「聖者」として人々の崇敬の対象となる過程を記している。まず第一章では、西アフリカに生まれ育ったアフマド・ウマルがどのような経緯でエチオピアにたどり着き、エチオピア西部でどのように受け入れられたかについて、伝記とインタビューをもとに再構成している。エチオピア西部のベニシャングールは歴史的にスーダンのムスリム・アラブ社会との結びつきが強かったが、19世紀末にエチオピア帝国に編入された。この変動期にアフマド・ウマルはベニシャングールで神秘家としての修行に従事しながら、領主と権力のかけひきを展開した。その後、南方のオロモ居住域の西ウォッレガ地方に移住したアフマド・ウマルは、エチオピア帝国に征服されキリスト教徒アムハラの搾取・圧政に苦しむオロモ農民の立場に立ちながら呪医・薬師として受け入れられた。

第二章では西ウォッレガ地方のミンコ村に定着したアフマド・ウマルが、ジンマ地方のムスリム・オロモの人々とのやり取りのなかでティジャーニーヤの導師として崇敬されるとともに病治しなどの「奇跡」を起こす「聖者」として崇拝されるようになる過程を記している。ミンコ村を拠点にして、アフマド・ウマルはティジャーニーヤひいてはイスラームの普及・教育につとめるとともに、家族をもうけ、崇敬者の応対をアフマド・ウマルひいては神への奉仕と捉える下僕(カーディム)に囲まれて暮らすマサラ共同体を構成した。エチオピアがイタリア植民地支配を受けた5年間、アフマド・ウマルは住民の安全を守り、聖者としての名声を高めた。植民地支配から解放された後、アフマド・ウマルは崇敬者が押し寄せるのを避けるようにしてクサイェ村に移住した。そこでのアフマド・ウマルの隠遁生活と奇異な行動についてはさまざまな解釈がなされているが、その「聖者性」を否定するものはなかった。

クサイェ村に5年間滞在した後、アフマド・ウマルは崇敬者の大半が居住するジンマ地方に移住し、そのなかでも未開拓の土地や森林が残存するゲラ地区に居を構えた。同じ頃、ゲラ地区は戦後のコーヒー需要の増加にともないコーヒー・ブームに湧いており、コーヒー事業への参入を目当てに多くの移民が流入していた。アフマド・ウマルの子孫もジンマ地方中心に居住するようになった。ゲラ地区アファッロに4年ばかり滞在した後、アフマド・ウマルはメッカ巡礼に向かった。メッカで、アフマド・ウマルは自らの死地がヤアであるという天命を受け、その1年後ヤアに向かった。そしてヤアで崇敬者の援助を受けて新たなマサラ共同体を建設しているさなか、逝去した。

以上のように、一介の神秘家にすぎなかったアフマド・ウマルは、(1)20世紀前半のエチオピア帝国形成期という政治社会的状況、(2)地元オロモの霊媒師/呪医カッルとの類似性、(3)イスラーム世界との結節点、という3つの条件が重なって「聖者」とみなされるようになった。

第二部では、アフマド・ウマル没後、エチオピア西部のオロモ社会を中心に成立した「聖者」をめぐる地域カルトを明らかにしている。

まず第四章では、アフマド・ウマルが25年間滞在した西ウォッレガ地方において出現した霊媒師の役割に焦点をあてている。生前アフマド・ウマルは、シャイフ・イドリースと呼ばれる精霊を介して数多くの「奇跡」を起こしたとされる。そのシャイフ・イドリースが西ウォッレガ地方の一人の女性に憑依し、そしてアフマド・ウマル同様、信者のために祈祷や病気治しを行ったりするようになったのである。それだけでなく西ウォッレガ地方にはシャイフ・イドリース、ひいてはアフマド・ウマルに忠誠を誓うムスリム精霊に、キリスト教徒/ムスリム地元住民がつぎつぎに憑依される現象が生じたのである。本章では精霊憑依がキリスト教徒の被憑依者のイスラームへの改宗を伴うとともにムスリムの被憑依者に対してはより敬虔なムスリムになるべく導く効果をもたらしている点に着目している。

第五章においては、アフマド・ウマルの崇敬者を最も多く輩出しているジンマ地方のイスラーム化の歴史的プロセスに着目している。ジンマ地方は19世紀初めにイスラームを受容したが、この初期のイスラーム化は「商人」と類型化される人々によって着手された。その後、エチオピア北東部ウォロ地方やスーダンなどイスラーム諸学の中心地から到来したイスラーム学者の指導のもとに、地元オロモの伝統的慣習は少しずつイスラーム的なそれに置き換えられていった。アフマド・ウマルをティジャーニー導師として受け入れ、その「聖者性」を認識することができたのは、20世紀前半のジンマ地方のムスリムにそれを評価する視点が備わっていたからである。1990年代になると、ジンマ地方には中東で改革主義的なイスラームに感化されて帰国したイスラーム学者の影響のもとにイスラーム復興主義が広まっており、聖者崇拝の諸慣行は攻撃の的となっている。

第六章では、アフマド・ウマルの墓廟を中心に成立した崇敬者村ヤアの形成と変容をとりあげている。ヤアは、1953年成立以降、エチオピアの政治経済的変化・スーダンとの外交関係の変化の影響を受けて変容した。ヤア村は、アフマド・ウマルへの崇敬心から移住してきた人々から構成されており、共産・共同所有体制を理念とした、いわば「コミュニタス」を日常とする村落を形成してきた。この理念は、社会主義政権のもとでは国家理念とも合致していたが、現政権のもとで自由市場経済が導入されると、移民二世の間から私有財産の所有を求める声が高まり、村の「コミュニタス」の局面は参詣儀礼および参詣者へのもてなしに関わる部分に限定されるようになり、村は変貌した。

第七章では、現代エチオピア各地にみられるムスリム聖者崇拝の動向とアルファキー・アフマド・ウマルを崇敬の対象としてエチオピア西部の複数の地域を舞台に成立した地域カルト、「ティッジャーニー・カルト」の新たな展開について記している。現政権は、集会・結社・表現の自由に対する規制を大幅に緩和し、自由市場経済への参入を果たし、国家規模で基盤インフラの拡充と整備に従事している。グローバル化の波を受け、それにともなう人・モノ・情報の流入は宗教面にも影響を与え、キリスト教では「ペンテ」の布教活動がさかんになり、イスラームでは復興主義が勢いを増している。そうした潮流のなかでムスリム聖者崇拝の諸慣行も変化している。聖地は観光地としての将来を期待され始めており、霊媒師は祈祷集会でのとりなし行為を商売道具として利用し始めている。そして聖者の人生は、エチオピア国民にアクセスできるようにアムハラ語の書物にしたためられ、店頭で販売されるようになっているのである。近代化・グローバル化は、聖者崇拝を形骸化させるどころか、イスラーム復興主義の影響のもとで一つの選択肢におしとどめながらも、強化させているのである。

審査要旨 要旨を表示する

石原美奈子の博士学位請求論文「エチオピアのムスリム聖者崇拝―ティジャーニー導師アルファキー・アフマド・ウマルと西部オロモ社会」は、北アフリカ・西アフリカ各地に拡がるイスラム神秘主義の教団ティジャーニーの導師アフマド・ウマルを中心に、エチオピアのイスラム信仰、とりわけその神秘主義と聖者崇拝を描いている。方法はウマルの詳細なライフヒストリーを核とし、ナイジェリアに生まれ、スーダンからエチオピアに入って各地を移動しながらイスラムを広めた彼の人生を追いつつ、彼と関わった人々のネットワーク、各地域の状況と出来事を、オーラルヒストリー、現地調査、文献研究により探求し、エチオピアの民衆的イスラム信仰の様相を、つぶさに明らかにするものである。また論文では、ウマルが1953年に亡くなった後今日に至るティジャーニーの動向・変化も明らかにしている。本論文の学術への主要な貢献は、以下の3点に、まとめられる

1, キリスト教国として知られるエチオピアには、他にもさまざまな宗教が存在し、イスラムは人口の三割を占める。これまで国際的に、人類学をふくむ人文諸学でのエチオピア研究は、キリスト教徒の社会とその地域に偏ってきた。比較的数の限られたムスリム研究も、イスラム化の歴史、政治・宗教エリートの研究に偏っており、草の根に拡がる民衆的イスラム聖者信仰の実態を解明する研究はほとんど欠落している。本論文はこの欠を埋める国際的にも重要なものである。

2, 筆者石原は本研究科の大学院修士課程学生だった頃からすでに20年近くエチオピア研究、とくに南西部のムスリム研究に打ち込み、数年にわたる長期の現地滞在と調査も数回繰り返している。本論文はその長年の集中の成果と経験とが結実したもので、全体的展望と細部の叙述がみごとに結合した部厚く立体的な資料が提示され、人類学的なエチオピア・ムスリムの研究として余人の追随を許さない充実した内容をもつ。また、明快な語り口と巧みな構成により、エチオピアについて知識を持たない研究者にこの国のあまり語られなかった側面を明らかにし、人文学の分野でのエチオピア理解をおおいに豊かにするものである。

3, イスラムの師であり周囲の民衆から聖者とみなされるに至った人物の人生をたどり、その人生に関わってくるさまざまな人々や地域のネットワークを追う研究は、人類学的イスラム研究の新分野、新たな方法として貢献度が高い。

エチオピアと限らず世界のどの地域でも、イスラムにはカトリックのような単一の中心とヒエラルキー的組織は存在しない。コランの解釈がさまざまに対立する時、裁定を与える教皇や公会議は存在せず、それぞれの地域ごと、異なる時代ごとに優勢な合意が存在するに過ぎない。聖者といってもそれを認定する単一の教会組織はなく、ある場所、ある時代における住民のあいだに何時とはなく形成された不定型な合意が、ある人を影響力の強い師としたり、聖者とするのである。こうしたことを理解するには、個人のつながりやネットワークよりも制度としての集団、メンバーシップのはっきりした集団を捕まえようとする日本の新宗教研究やキリスト教研究の大勢を単純にあてはめることは、理解よりも誤解を生むことが多い。

このことは筆者石原がはじめて唱えたことではない。しかしここから発して、特定のムスリム社会の研究を、一人の聖者の空間的・時間的行程とそれに出会い結びつくさまざまな人々のネットワークとして記述していく本論文の方法は、きわめて斬新なものであり、日本人の多数をふくむ非ムスリムにムスリム社会を提示する方法として、大いに有効と認められる。この点で本論文は、人類学的ムスリム社会研究、人文学的イスラム研究にとって示唆的であり、重要な貢献をしている。

以上本論文は、オーラルヒストリーの方法を用いた歴史的民族誌として、エチオピア研究として、また人類学的なムスリム社会研究の新たな方法をふくんだ重要な成果として、学術に貢献している。審査委員からは、本論文中に概念の使い方が厳密でない点が二、三見受けられるとの指摘もあった。だがこれは本論文の優れた成果を否定するものではない。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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