学位論文要旨



No 217265
著者(漢字) 野原,卓
著者(英字)
著者(カナ) ノハラ,タク
標題(和) 日本の工業都市空間における計画概念とその実践的展開に関する研究 : 生産空間と生活空間の関係性に着目して
標題(洋)
報告番号 217265
報告番号 乙17265
学位授与日 2009.12.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17265号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 教授 北沢,猛
 東京大学 准教授 窪田,亜矢
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近代以降の日本の経済成長を支え、都市化を牽引してきたにもかかわらず、これまで都市空間の問題として扱われてこなかった工業空間、及びこれを含んだ工業都市空間を対象として、工業都市空間が計画されてきた企図と背景(計画概念)、そして、工業都市空間は実際にどのように展開していったのか(実践的展開)を明らかにするものである。その上で、近年の産業構造の変革や経済状況の変化とこれに伴う低未利用地化などの課題も踏まえつつ、都市空間における工業空間の位置づけおよび、これからの工業都市空間の将来像を検討することを目的としている。

中でも特に、生産空間と生活空間との関係性に着目し、工業生産や雇用、地域経済への波及効果といった従来の研究視点に加えて、生産空間とこれに影響を受けた周辺部を含めて、これらを(生産空間を保持しつつも)生活空間としてどのように捉え直すことができるかという問題提起を試みている。

なお、本論文は、2部構成となっており、第一部では、日本の工業都市空間の計画概念の変遷とその展開を概観し、第二部では、京浜臨海部を事例に、具体的な工業都市空間の形成と展開についての分析を通して、これからの工業都市空間の在り方について検討を行っている。

第一章では、研究の背景と目的を整理した上で、工業都市空間を巡る先行研究を整理した。産業構造の変革、経済状況の変化、環境問題への対応、人口減少時代の到来という社会的変革期において、成長型都市の代表でもある工業都市の在り方が今後問われることが予想される中で、これまでの工業都市空間の役割、及び今後の展望を検討することの重要性を提起した。また、これまでは、経済学的、社会学的側面、あるいは工業地理学的側面を中心としてきた先行研究に加えて、都市空間、都市計画の立場から、都市空間における工業空間の意義と影響を明らかにすることを課題に挙げた。

第一部にあたる第二章~第四章では、日本において、工業都市空間はどのように捉えられ、計画されてきたのか、その計画概念の流れを整理しつつ、実際の工業都市空間の展開についても扱っている。

第二章では、第一部の前段として、先行的に工業化と都市化の問題に取り組んできた欧米における工業都市空間像の展開を、著作や既往研究等のレビューを中心に整理し、論点を抽出した。そこでは、1)ユートピアンによる理想都市における工業空間の位相、2)工業資本家によるカンパニー・タウンの生成、3)建築・都市計画専門家による工業を含めた都市システムの検討、4)工業ディベロッパーによる工業団地の開発、という分類を試みた。理想提案としての理想都市や工業都市提案と、実際に工業空間を創出する立場であった企業家やディベロッパー、行政における実践的な取組の間で揺れ動く中で、立場によって工業都市空間の捉え方も異なることが整理できた。

第三章では、日本において工業都市空間がどのように捉えられてきたのか、工業都市空間に関する計画概念の変化を明らかにした。

そこでは、工業都市空間の計画概念を生産空間と生活空間の関係性の観点から、(1)官営工場による生活空間内包型、(2)民間資本による福利厚生型、(2)工業不動産業の登場と工業地帯型、(4)軍需産業と生産-生活一体計画型、(5)戦後臨海工業地帯の発達と後背地型、(6)工業団地型工業空間の導入、という流れで整理を試みた。

工業都市空間の計画概念を考える上では、その整備主体・計画主体の位置づけが大きな影響を与えており、例えば、明治政府による官営工場や、民間資本による工場発展期では、工業生産を自ら行うための工業空間整備であったが、浅野総一郎の京浜工業地帯整備等を契機とした「工業ディベロッパー」の登場により、工業資本家が他の企業家等に賃貸・分譲する、工業空間整備主体の二重性が見られた。戦後は、この役割を公共体が担うこととなり、民間主体の工業空間整備は少なくなると同時に、工業整備の目的が、殖産興業や工業生産そのものから、雇用確保や地域経済への波及など、地域開発の手段へ変化し、これに応じて、整備手法も、オーダーメイドの工業都市空間整備から、先行的に工業空間を整備してから誘致する形へと移行していった。

この変化は、同時に、工業都市における生活空間供給主体の変化でもあった。官営工場では、生産管理を目的とした外国人技師や上級官吏の生活空間が内包されており、民間資本中心の工業化時代には、労務者急増に応じた工員の生活環境を企業自ら一体的に整備していた。しかし、整備主体が工業経営を自ら行うものではなくなるにつれて、整備主体が直接的に生活空間を提供する必要がなくなり、生活環境整備という課題は、工業空間整備主体の役割から徐々に離れてゆくと同時に、生産空間と生活空間との関係性自体も徐々に離れていった。

第四章では、現在の日本の諸都市の動向を、各種統計、あるいは、各工業都市の都市構造から、日本の工業都市空間の現状と傾向を概括し、計画概念だけでは図ることができない実際の工業空間の展開も含めた今後の工業都市空間における論点を付加した。

現在の日本における各自治体の製造品出荷額等をみれば、大都市やいわゆる工業都市のほかに、輸送機械系産業を中心とした都市が人口規模の割に上位を占めている一方、鉱業、もしくは重工業を中心とした企業城下町は、閉山、合理化の波の下でシェアを落としている。また、工業都市の空間構造を見ると、各工業都市形成の契機、すなわち当初の計画概念が都市構造に大きく影響していた。

ただし、ミクロでみれば、工業都市空間の形成や発展は、個々の都市における事情により異なっている。例えば、水島工業地帯の事例では、企業が付与した生活空間が、その後の経緯の中で、企業の手を離れながらも、工業地帯に隣接する市街地として発展するとともに、厚生空間を受け継ぎながらも変容してゆく過程が見られた。

第二部にあたる第五章から第七章では、我が国有数の工業地帯である京浜臨海部(主に横浜市部分)を舞台にして、マスタープランのない中で、工業都市空間の各整備主体が描いてきた空間の計画概念と実態、そしてそこに生まれた生産空間と生活空間との関係性の変化に着目した。

第五章では、京浜臨海部の基盤形成、特に、埋立造成とインフラ(主に鉄道インフラ)整備の経緯について、その整備主体に着目した整理を行った。

京浜臨海部では、実業家浅野総一郎による大規模埋立て及び工業地帯整備が知られているが、これにとどまらず、様々な整備主体による埋立てやインフラ整備が少しずつ積み重ねられながら形成されていること、そして、各整備には、それぞれ目的や構想がありつつも、実際には、これらの調整、妥協により整備が進められたことがわかる。同時に、はじめから敷地割や道路整備までなされている工業団地とは異なり、各企業が引込線等をそれぞれ整備しながら利用されており、そのため、各企業の状況により、都市空間の様相も変化していることも明らかとなった。

第六章では、京浜臨海部における工場の進出状況とその後の土地利用の変遷、都市空間の変容を見ることで、京浜臨海部に起きている工業都市空間の質的変化について明らかにした。

特に、1970年代以降、産業構造の変革や経済状況、企業統合などが要因となり、土地利用転換の起こる大規模敷地が出現したが、重工業中心とはいえ様々な業種が独立して立地しているため、土地利用転用は突発的、かつ、個別的であった。転用の内容としては、敷地の細分化や流通拠点施設の立地、土地利用規制によっては、住宅立地も進んだ個所もある。

また、京浜臨海部では、横浜市による積極的な誘致策も功を奏して、研究開発機能への土地利用変容が進展しているとともに、敷地全体としては工場・事業所として変わらなくとも、内部的にも研究開発機能化が進行するという、「小さな転換」現象も起こっていることが明らかとなった。その結果、昼間人口として京浜臨海部に訪れる人々の様相が変容しており、工業地帯においても生活環境整備の必要性があることを示した。

第七章では、京浜臨海部における福利厚生空間の供給を中心として、工業地帯内部における生活環境への支援はどのように行われ、そして、周辺市街地に向けて工業地帯はどのような供給もしくは影響を与えてきたのかを明らかにした。

当初は工業生産にとっても職住近接が合理的であったことから、工場に近接して労務者空間も整備され、特に戦後復興期から高度経済成長期において、急増したが、その後は徐々に拡散し、合理化の中で労務者空間は姿を消すと同時に、生活空間・福利厚生空間整備主体としての企業の位置づけが失われていった。その一方で、工業地帯内部にはまだ福利厚生空間が残存しており、これらの資源を第六章の変容も併せて、工業地帯内部を都市空間として捉える可能性についても提示した。

第八章では、これまでの議論を踏まえ、今後の工業都市空間の在り方に対する示唆を示した。工業を中心に(あるいは契機として)発展した都市にとって、工業都市空間とは、地域アイデンティティそのものでもあり、全く新たな土地利用転換を行うには、また別の論理を必要とする。例えば、ドイツ・エムシャーパークのように、産業遺産として空間を保全しながら土地利用転換を行う方法もあるが、日本の工業空間は、活力低下も招きながらも、活動は続いている。そうした中で、京浜臨海部における、工業空間の「都市化」(研究開発機能化と生活環境化)という質的変化は、完全な土地利用転換とは異なる、新たな工業都市空間再生の選択肢を提示しており、ここに「産業遺産」再生から「産業資産」再生を中心とした空間再編、そして人間のための空間としての工業(産業)空間の可能性を見ることができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は日本の工業都市空間における計画論と実態を、生活空間の側面から明らかにし、今後の都市空間計画のあり方を探ることを目的とした論文である。本論文の目的は、さらに日本の工業都市空間における計画の考え方を体系化すること、特に工業都市空間における生活空間に対する考え方を明らかにすること、計画だけでは測れない実態の空間変容から工業都市空間のあり方をさぐることの3つの目的からなっている。

論文は、研究の枠組みと目的、方法を述べた第1章に続いて、工業都市空間における計画概念の情勢と展開を論じた第1部、および事例研究として京浜臨海部における工業都市空間の構想と実践を詳述した第2部、そして結論を述べる第8章から成っている。

第1部はさらに欧米における工業都市空間概念の形成過程を述べた第2章、日本の工業都市空間における計画概念の形成と展開を論じる第3章、日本における工業都市空間の現状を述べる第4章から成っている。

京浜臨海部を取り上げる第2部は、形成における工業都市空間の展開を明らかにした第5章、京浜臨海部内部における工業都市空間の質的転換を述べる第6章、生活空間の展開を論じる第7章から成っている。

第2章は、欧米における工業都市空間の概念形成を都市機能の面から生活重視と生産重視の両極の軸とコミュニティを重視した職住併設型と生産システムを重視した職住分離型という両極の軸という2軸によってとらえることができることを示している。

第3章は、前近代の鉱山集落等の生活空間と生産空間が未分化な状態から高度成長期以降のエコタウンなどの工業団地まで、日本における工業都市空間の考え方の変遷を幅広く概観し、特に生産空間と生活空間の関係が内包型から分離型へと移行すること、計画の目的が工業生産から地域開発へ転換すること、計画主体が次第に公的組織へと移行すること、既成市街地との関係が次第に浮上すること、生産空間が次第に開放型へ移行することなどが特徴として挙げられることをまとめている。

第4章は、工業化の契機の特性がそのままその後の工業都市空間を規定していること、母都市への依存度合いは臨海型か内陸型かの工業立地に規定されること、品目・業種ごとに立地の地理的要因が異なり、そのことが生活空間発展の状況を規定していることを明らかにし、水島工業地帯を例に生産と生活の一体型計画の実践状況とその後の変容を明らかにしている。

第5章から第7章にかけては、京浜臨海部を対象に論じている。第5章は、埋め立て事業の経緯を軸にインフラ形成の特徴を明らかにしている。すなわち、京浜臨海部は百年に及ぶ埋め立ての積層、民間埋め立てから公営埋め立てへの移行、インフラ形成の多様性などの特色を有していることを明示している。

第6章は、ここ五十年間の京浜臨海部の変容を詳細に跡づけ、敷地の細分化、土地利用の混在化、流通拠点化、住宅圧力の増加など、工業空間の都市化が進行している様子を明確に描き出している。

第7章は、前章で明らかにした傾向のうち、特に生活空間の状況に焦点をあて、散在する労務者住宅空間の形成と都市への浸透がすすんでいること、福利厚生施設が工業地帯内部に戻ってきていること、多様な機能を有する周辺市街地が形成されてきていることを明らかにしている。

以上をもとに結章である第8章では、工業都市空間が工場内包型から職住分離型へと変遷してきていること、生産と開発の分離によって生活空間供給主体が曖昧化してきていること、工業都市空間計画を総合都市戦略として意識することが少なかったことを系統立てて論じている。さらに、本来あるべき複合的リサーチパークへの展開可能性と工業都市空間計画の一般への公開や解放、これらを通して次世代の空間計画の中で工業都市空間を計画する新しい都市計画モデルを提起している。

以上、本論文はこれまで直接的に学位論文のテーマとして取り上げることのほとんどなかった日本の工業都市空間の計画概念とその変遷、そして工業都市空間形成の実践の歴史を詳細に跡づけた初めての論文として貴重である。とりわけ生活空間と生産空間との関係、およびその変容過程について細かく調査し、明らかにしたことは、この分野の研究に新しい考察の視点を提供するものとして高く評価することができるとともに、今後の工業都市の計画論を豊かなものにした点で特筆することができる。

よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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