学位論文要旨



No 217268
著者(漢字) 宮口,一
著者(英字)
著者(カナ) ミヤグチ,ハジメ
標題(和) マイクロ化学技術を用いた法中毒分析のための高度試料前処理法の開発と応用
標題(洋) Development and Application of Advanced Sample-Preparation Methods in Forensic Toxicology by Micro Chemistry and Technology
報告番号 217268
報告番号 乙17268
学位授与日 2009.12.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17268号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 水野,哲孝
 東京大学 准教授 高井,まどか
 順天堂大学 准教授 木村,博子
 東京大学 講師 馬渡,和真
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、主としてマイクロ化学技術を用いた法中毒分析のための高度試料前処理法の開発と応用についての研究成果をまとめたものである。

法中毒分析では、主に犯罪の証拠を得ることを目的として、血液、尿、臓器などの生体試料中の薬毒物の検出と同定を行う。近年の機器分析法の劇的な発展により、極めて微量の化合物について検出・同定が可能となり、法中毒分析においてもガスクロマトグラフィー/質量分析(GC/MS)や液体クロマトグラフィー/質量分析(LC/MS)などの高感度で定性能力の高い分析手法が用いられている。そうした機器分析を行うために必須となるのが前処理である。前処理とは、試料を分析に適した状態にするための各種操作のことであり、試料からマトリックス(夾雑物)を取り除いたり、アナライト(分析種)を単離・濃縮したり、アナライトの誘導体化を行うといったさまざまな操作から構成される。一般に、前処理に要する時間と手間が全体の分析操作に占める比重はきわめて高く、さらに前処理の巧拙が分析の品質を大きく左右する。特に、法中毒分析に供される試料は微量しか採取できなかったり、腐敗・変質していたりすることが多いため、前処理はより困難なものとなる。ところが、機器分析法などの検出側の研究開発と比較すると、前処理法の研究開発は遅れているのが現状である。そこで本研究では、以下のとおり前処理法に関する系統的な研究開発を行った。

第1章では、薬毒物を利用した犯罪の巧妙化・凶悪化に伴い、法中毒分析の高感度化、ハイスループット化、オンサイト化が必要であることを示した上で、現在の分析法、特に前処理法が抱える問題点を明らかにした。その問題を解決するため、劣悪試料の微量分析に対応した徹底的なクリーンナップ法の開発と、マイクロ化学技術を用いた前処理のマイクロ化・ハイスループット化を研究の目的に掲げ、研究に対する意義を明確にした。

第2章では、劣悪試料に対するpg/gレベルの微量分析法の開発を行った。第一に、ホルマリン固定腐敗臓器中の薬毒物分析法を開発した。ホルマリン固定腐敗臓器は、腐敗により生成したアミンが分析の妨害となり、ホルマリン液がアナライトを分解し、さらにホルマリン液にアナライトが溶出して臓器中濃度が低下するため、薬毒物分析が非常に困難な試料の一つである。ゆえに、前処理による徹底したクリーンナップと、きわめて高感度な検出手法が求められる。そこで、脱脂処理とポリマー系固相抽出を組み合わせた徹底的な前処理の後、当時一般に普及し始めたばかりであった液体クロマトグラフィー/タンデム質量分析(LC/MS/MS)により、高い感度と定性能力で分析する手法を設計・開発した。その結果、アコニチン系アルカロイドの分解物について、従来法を大きく上回る10 pg/gの検出感度を達成し、殺人被害者へのトリカブトの投与を証明することができた。第二に、殺人や性犯罪などの重要事件でしばしば用いられる催眠鎮静薬の網羅的分析法を開発した。血液中の催眠鎮静薬分析にはsub-ng/mlレベルの高感度が要求されるため、ガスクロマトグラフィー/質量分析(GC/MS)では一斉分析が難しく、全ての催眠鎮静薬を対象とした投与証明法の開発が求められていた。そこで、市販の全催眠鎮静薬(46種類)の薬物動態を調査し、投与の証明に最適な39種類のアナライトを決定した。そして、常法に対して改良を加えたミックスモード固相抽出による系統的な血清の前処理の後、LC/MSで一斉分析する方法を開発した。その結果、国内市販の全ての催眠鎮静薬について、治療量1回分の投与を理論上約12時間後まで検出可能となり、所期の目的を達成することができた。

第3章では、微量尿試料のハイスループット前処理のためのマイクロ化学システムの開発を行った。わが国で薬物事犯の大半を占める覚せい剤(メタンフェタミン)使用事犯に関連して、科学捜査研究所では尿中覚せい剤分析に多くのマンパワーを費やしており、そのハイスループット化が求められていた。そこで私は、近年著しい進歩を遂げた微小空間における化学プロセス技術を本分析前処理に応用することを着想し、相合流、抽出、相分離などのマイクロ化学操作をマイクロ多相流で結合した連続流化学プロセスを、1枚のマイクロ化学チップ内に設計した。キャピラリー制限修飾法によって有機相のチャネルのみをトリデカフルオロオクチルシラン処理し、各種の条件を最適化した結果、マイクロ化学チップによって覚せい剤の抽出を連続12時間(140試料)にわたり行うことができた。また、覚せい剤に類似の構造を持つメトキシフェナミンを投与した被験者3名の尿(計14点)に適用した結果、従来法と同様の定量結果を得ることができた。さらに、抽出後連続してトリフルオロアセチル誘導体化を行う多段階のマイクロ化学システムの原理検証にも成功し、微量尿試料の自動前処理装置を実現するための基盤を築いた。

第4章では、毛髪中薬物分析のための新規ハイスループット前処理法の開発を行った。毛髪は、表面が硬いキューティクルによって保護された固体であり、その内部に存在する薬物の抽出には困難が付きまとう。ゆえに、従来の前処理法では薬物の抽出に半日から一晩を要し、その迅速化が求められていた。また、煩雑な前処理操作を必要とする一方、薬物の含有量は微量であるため、コンタミネーションの防止に常に細心の注意を払う必要があった。そこで、毛髪の均一な微細化によって界面積を増大させれば、固-液抽出の劇的な高速化が達成できると考え、毛髪の微細化と抽出を同時に行うマイクロ粉砕抽出法を設計・開発した。毛髪を少量の抽出溶媒の存在下で高速粉砕することで、覚せい剤を従来の約1/100である5分間で完全に抽出することに成功した。毛髪残渣の電子顕微鏡観察の結果、毛髪が本処理によって均一に微細化されることが確認された。また、本法は閉鎖系で行われるため、コンタミネーションの防止にも効果的と考えられた。さらに、GC/MSによる毛髪分析の感度の改善とハイスループット化のため、マイクロ粉砕抽出法に水溶液中アセチル化と固相充填マイクロシリンジ抽出(MEPS)を組み合わせた分析法(MiAMi-GC/MS法)を設計・開発した。これにより、煩雑な前処理工程の多くを自動化し、GC/MSによる毛髪分析にかかる時間を1/10以下に短縮し、感度を20倍向上させることに成功した。

第5章では、microELISAによる現場毛髪分析法の開発を行った。現場毛髪分析には高い潜在需要が存在するが、尿や唾液の現場予試験に用いられている薬物検出キットは感度が不足し、毛髪分析には適用できない。そこで、可搬型装置による迅速で高感度な定量が可能なmicroELISAを、第4章で開発したマイクロ粉砕抽出法と組み合わせることにより、現場分析が可能な毛髪分析法を設計した。各種の条件を最適化した結果、熱レンズ検出を用いた競合法microELISAにより、LC/MS/MSに匹敵する精度とダイナミックレンジを達成しつつ、d-メタンフェタミンを約15分で定量することに成功した。

第6章では、これまでの研究をまとめ、これまで不可能であったいくつもの法中毒分析が本研究によって可能になったことを示したうえで、本研究の学術的意義と社会への波及効果について示した。

以上要約したように、本研究では法中毒分析のための高度試料前処理法の開発と応用について研究した。基礎・実用両面における本研究の成果は、分析前処理の体系化と標準化を図り、さらに分析前処理が新しい学問分野として確立するために大きく貢献するものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、主としてマイクロ化学技術を用いた法中毒分析のための高度試料前処理法の開発と応用についての研究成果をまとめたものである。

法中毒分析では、主に犯罪の証拠を得ることを目的として、血液、尿、臓器などの生体試料中の薬毒物の検出と同定を行う。近年の機器分析法の劇的な発展により、極めて微量の化合物について検出・同定が可能となったが、機器分析を行うに先立ち、抽出やクリーンナップなどの前処理を行い、試料を分析に適した状態にする必要がある。前処理に要する時間と手間が全体の分析操作に占める比重はきわめて高く、前処理の巧拙が分析の品質を大きく左右するが、法中毒分析に供される試料は微量しか採取できなかったり、腐敗・変質していたりすることが多いため、従来の前処理ではデリケートな高感度分析装置の適用が極めて困難であった。本論文では劣悪条件の検体から、超高感度分析機器に導入可能な純系試料への変換を初めて可能とする高度な化学前処理法の研究をまとめたものである。

第1章では、薬毒物を利用した犯罪の巧妙化・凶悪化に伴い、法中毒分析の高感度化、ハイスループット化、オンサイト化が必要であることを示した上で、現在の分析法、特に前処理法が抱える問題点を明らかにした。その問題を解決するため、劣悪試料の微量分析に対応した徹底的なクリーンナップ法の開発と、マイクロ化学技術を用いた前処理のマイクロ化・ハイスループット化を研究の目的に掲げ、研究に対する意義を明確にした。

第2章では、劣悪試料に対するpgレベルの微量分析法の開発を行った。まず、ホルマリン固定腐敗臓器中の薬毒物分析法を開発した。ホルマリン固定腐敗臓器は、腐敗により生成したアミンやホルマリン液が分析の妨害となり、さらにホルマリン液にアナライトが溶出して臓器中濃度が低下するため、薬毒物分析が非常に困難な試料の一つである。そこで、脱脂処理とポリマー系固相抽出を組み合わせた高度なクリーンナップの後、液体クロマトグラフィー/質量分析(LC/MS)を初めてわが国の法中毒鑑定に応用することで、アルカロイドの分解物を10 pg/gの超高感度で検出することに成功した。同様に、固相抽出によるクリーンナップとLC/MSによる検出を血液中の催眠鎮静薬分析に応用し、国内市販の全ての催眠鎮静薬について、治療量1回分の投与を約12時間後まで検出可能なスクリーニング法を開発した。

第3章では、微量尿試料のハイスループット前処理のためのマイクロ化学システムの開発を行った。わが国で薬物事犯の大半を占める覚せい剤使用事犯に関連して、科学捜査研究所では尿中覚せい剤分析に多くのマンパワーを費やしており、そのハイスループット化が求められていた。そこで私は、近年著しい進歩を遂げた微小空間における化学プロセス技術を本分析前処理に応用することを着想し、相合流、抽出、相分離などのマイクロ化学操作をマイクロ多相流で結合した連続流化学プロセスを、1枚のマイクロ化学チップ内に設計した。マイクロ流路に部分的化学修飾を施し、各種条件の最適化を行った結果、覚せい剤の抽出を連続12時間にわたり行うことができるようになり、覚せい剤類似化合物を用いた実証試験にも成功した。さらに、抽出後連続して誘導体化を行う多段階のマイクロ化学システムの原理検証にも成功し、微量尿試料のハイスループット自動前処理装置を実現するための基盤を築いた。

第4章では、毛髪中薬物分析のための新規ハイスループット前処理法の開発を行った。毛髪は、表面が硬いキューティクルによって保護された固体であり、その内部に存在する薬物の抽出には困難が付きまとう。ゆえに、従来の前処理法では薬物の抽出に半日から一晩を要し、その迅速化が求められていた。そこで、毛髪の均一な微細化によって界面積を増大させれば、固-液抽出の劇的な高速化が達成できると考え、毛髪の微細化と抽出を同時に行うマイクロ粉砕抽出法を設計・開発した。その結果、覚せい剤を従来の約1/100である5分間で完全に抽出することに成功した。本法は閉鎖系で行われるため、超微量分析において常に問題となるコンタミネーションの抑止にも効果的と考えられた。

第5章では、microELISAによる現場毛髪分析法の開発を行った。可搬型装置による迅速で高感度な定量が可能なmicroELISAを、第4章で開発したマイクロ粉砕抽出法と組み合わせることにより、LC/MSに匹敵する精度とダイナミックレンジを達成しつつ、d-メタンフェタミンを約15分で定量することに成功し、これまで不可能であった毛髪中薬物の現場分析を可能とした。

第6章では、これまでの研究をまとめ、本研究の学術的意義と社会への波及効果について示した。

以上要約したように、本研究では法中毒分析のための高度試料前処理法の開発と応用について研究した。基礎・実用両面における本研究の成果は、実際にトリカブト殺人事件や覚せい剤乱用事件などに適用され、分析化学及び法化学における前処理研究に大きく貢献した。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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