学位論文要旨



No 217270
著者(漢字) 上田,玲子
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,レイコ
標題(和) 食感性工学に基づく新食品開発のための官能評価手法の開発に関する研究
標題(洋)
報告番号 217270
報告番号 乙17270
学位授与日 2009.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17270号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 吉村,悦郎
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 特任准教授 朝倉,富子
 東京大学 准教授 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

現在、国際社会は、自然環境、農業、食の安全性など多様な課題を抱えながらも地球規模の大競争時代を迎えている。「食」の分野でも、食糧安定供給、BSEや中国食品等にみられる食の安全・安心問題が、長期化する構造的不況と相まって深刻な食生活への不安を招いている。食品産業においては、これら諸問題への対処策が緊急に解決すべき課題としてクローズアップされているが、健康やおいしさへの要求も健在である。食料消費が減少傾向を辿る中、食品産業の新商品開発競争はますます激化し、新製品の創造性と共に消費者ニーズへ迅速に対応する開発手法の合理性・効率性が要求されている。

食品産業の商品開発における課題は数多く、第1に、消費者にとって魅力ある製品をどのように開発するか、その創造技術とシステム化が重要となる。たとえ、製品の生産技術がいかに優れていても、顧客満足の得られない製品であれば商品開発に要した人材、資材、時間など全ての資源が無に帰すことになる。したがって、研究開発とマーケティングとの連携強化あるいは統合が重要課題である。第2に、商品開発技術とりわけ配合設計技術は、個人に帰属する経験則に依存し、組織の共有技術としての理論構築と体系化が求められる。第3に、バイオセンサーなどのセンシング技術が進んだ現在でも、ヒトの知覚と複雑なおいしさの計測・評価は不可能である。また、おいしさを評価する概念は一般に3つから4つ程度と言われる。これらの概念因子と官能値や分析値および選好との関連性を、総合的に定量化する解析ツールの導入が望まれる。

第4に、開発担当部署間で開発目標や課題を共有化する共通言語が存在しないために、商品開発のプロセスが一貫性や迅速性を欠き、セクショナリズムに陥る可能性がある。

他方、食べ物には、三次機能の生体調節が提唱され、疾病の予防からその回復までも期待する時代になった。機能性食品が、持続的に喫食されその効果を得るためには、おいしさが求められるのは周知の通りである。とりわけ、嗜好食品の開発には、おいしさを高める工夫が欠かせない。近年のおいしさに関する研究の進展は著しく、分子生物学、脳科学、味覚・嗅覚などの研究成果の中には、実用技術へと展開されているものもある。

相良(1994)は、食感性工学という新たな科学技術の研究領域を提唱した。この領域は、個々の手法や技術を統合・システム化することにより食品の味覚や嗜好の定量的計測を可能とするとともに、これらの定量的データとマーケティング手法を組み合わせ、食嗜好評価や商品開発戦略の立案に有用な学術的・技術的なスキームの開発を発展的に継続している。その理論的枠組として、ヒト個人の五感コミュニケーションを表す「食感性モデル」が提唱されている(池田ら,2004)。このモデルはヒト個人の食行為、すなわち短時間の喫食におけるおいしさ評価のプロセスを対象とし、おいしさは知覚と認知の経路およびこれらの相互関係によって決定されると仮定している。しかし、企業での実用的官能評価の事例をもとに実証的な証拠が得られれば、食感性モデルの適用範囲も拡張すると考えられる。食感性工学は、消費者起点の食に関する諸課題の解決を提供する新科学技術であり、その適応性における目標と、企業の課題は正に一致しており、現状にあった技術開発・導入が期待される。

商品開発における官能評価は、開発領域の設定、コンセプト開発、試作研究、工業化・生産・販売・流通に至るあらゆる段階に、幅広く横断的な機能を果たしている。しかしながら、各企業は膨大な情報量の官能評価データを保有しているにも関わらず、最新の統計解析ツールを適用した学術的な方法論が体系化されず十分な活用がされていない。一方、食感性工学においても官能評価は、ヒトの知覚、認知、感情(おいしさ)の変数として最重要要素である。しかし、商品開発における官能評価データやその結果に基づき、食感性モデルを検討した研究例は数少ない現状にある。

本研究の目的は、民間食品企業の商品開発の実態を踏まえた官能値や分析値に、食感性モデルを適用してその可能性と限界を明らかにし、これらの結果に基づき企業の課題解決に対応する解析ツールに着目し、その適用の可能性と有用性を明らかにすることにある。

第1章では、食品企業における商品開発のプロセスと、その各段階の官能評価の役割について、事業開発および研究開発の両面から概説した。また、本研究で扱う官能評価の各要素の要点をレビューした。

第2章では、本研究で取り扱う3つの理論を概説した。第一は、食感性モデル、第2は、配合設計技術として有効と思われる応答曲面法、第3は、社会調査や心理学での因果仮説検証で有効性が認められる構造方程式モデリングである。

第3章では、発売初年度で30億円を売り上げた新製品即席コーンカップスープ開発の成功事例における専門評価者延べ450人の官能評価と食感性モデルを照合することによりその適用の可能性と限界を検討した。課題となる設定コンセプトを実現する開発方向提示に対し、コンセプトをイメージ評価に変換し品質特性評価との関係性から課題を達成した。品質特性は食感性モデルにおける知覚の経路に、イメージは知覚を経由した認知の経路にそれぞれ対応した。最適製品設計の探索に効果的に適用するためには、まず製品コンセプトが的確に特定されるべきことが明確になった。そこで、実際にコンセプト設定時に用いた基盤マーケティング・リレーション(BMR)モデルに言及した。

第4で章は、N社のデータによる官能評価値と機器分析値あるいは配合設計との関係について、2つの試料の外観色の最適値を探索した。いずれも最適解は、2次項近似とスプライン補間の2つの応答曲面法により導出した。一つは、市販生タラコ18品について、専門評価者延べ576人の官能評価と機器分析3種のデータを食感性モデルと照合し、食品の内的属性とヒトの知覚を経て感情に至る知覚の経路に相当することを確認した。二つは、色素を加え加熱した「ほぐしタラコ」について、21種の色調試料を用い、色選好の差異が予想された東阪地区の消費者調査(N=237)による地域毎の最適解を導出した。それらの最適配合値による調製試料で再度、東阪地区の消費者による検証調査(N=120)を実施し、生タラコの表面色値にはスプライン補間の、ほぐしタラコの色素配合には2次項近似の各応答曲局面法による最適化が有効であり、配合設計技術としての有用性を明らかにした。

第5章では、構造方程式モデリングを実証すべき因果モデルと位置づけその有効性を検証するとともに、標本数の限界点について検討した。本解析手法の適用には、標本数が少なくとも200以上必要であるとされ、喫食を伴う官能評価においては、その標本数の確保が困難でその適用の障害となっている。基準値を満たす大標本(N=576)の生タラコと、満たさない中標本(N=139)のコーンカップスープによる因果モデルの設定検討を行い、共に適合度の良好な因果モデル設定が可能であることを示した。両因果モデルを起点に乱数発生による標本数変化を、各限界点を適合度指標値より検討した結果、中標本起点からは70、大標本起点からは40から20までが許容限界となった。これによりモデル適合度は構成した因果モデルの精確度に依存し、少ない標本数においてもその適用が可能となることを明らかにした。これにより、パス係数および総合・直接・間接の各効果推定値による定量化、パス図による可視化により開発研究あるいは共通言語としての可能性が広がった。その適用ポイントは、機器測定値のヒトの感覚尺度に揃えた対数変換、評価能力の高い専門評価者の起用、適切な評価用語と尺度の使用にあることを指摘した。また、因果モデルと食感性モデルの照合から、おいしさには知覚と認知の相互作用が大きい役割を果たすことが判明した。

第6章では、A社における官能評価データをもとに、3つのテーマを検討した。企業では、食品を精確且つ客観的に測定するため、あるいは、消費者と類似性が検証される場合には消費者の代替として、選定試験により選出された感覚感度の優れた専門評価者が活用されている。ここでは第1に、社内専門評価者の選定試験の概説と、その正答率を時系列的に調査し過去30年間感度変化がないことを明らかにした。第2に、社内専門評価者と5つの異質集団間の比較から消費者類似性に関わる要因を明らかにした。第3には、評価用語理解度アンケート調査の対応分析による消費者類似性の簡易推定法を提示した。

第7章では、第6章の検討に基づき、社内専門評価者と消費者間の個人的属性の差異を統合するために「修正食感性モデル」を新たに提唱した。修正済のモデルでは、個人属性を加えた認知までのパスが加えられた。個人属性には、異なる集団間の類似性に影響を及ぼす要因と見なされる性別、居住区、調理経験、喫食頻度などのすべての項目を加えることが可能であり、官能評価の結果に影響を及ぼす商品の市場占有率などの要因は、認識のルートに影響する外的属性と見なせることを示した。このように、構造方程式モデリングには、多母集団同時分析および平均共分散構造分析への展開が可能である。その有用性を実証するために、コーンカップスープの因果モデルに性別による各分析を適用し、コンセプト設定における多母集団グループとして、また平均構造分析の補助変数として、それぞれの可能性が示され、修正モデルの有用性が確認された。さらに、研究開発とマーケティングの統合の可能性を検討するため、修正食感性モデルとBMRモデルの要素を整理した。解析の結果、BMRモデルのターゲット消費者は、ヒトの個人属性に代表される集団に相当し、その知覚、認知およびその相互作用と感情が、BMRモデルのウォンツを満たすベネフィットを具体化した製品基本コンセプトへの知覚、認知に相当することから、両モデルの結合可能性を示唆した。

本研究の成果は、民間食品企業の商品開発の実態を踏まえた食感性モデルや分析手法を新しく開発してその可能性と適用限界を明らかにした点にあり、企業の実用的官能評価における諸課題の解決に対応した新しい手法として期待されている。

審査要旨 要旨を表示する

食品産業における商品開発の課題は、消費者ニーズに応える創造技術とシステム構築を目標に、研究開発と事業開発の連携強化、配合設計の組織共有化技術の理論構築、最新解析ツール適用の方法論の体系化、担当部署間の共通言語の提供、が挙げられる。近年、食感性工学という新たな科学技術の研究領域が提唱され、その理論的スキームとして「食感性モデル」が提唱されている。本研究の目的は、民間食品企業の商品開発の実態を踏まえた官能値や分析値に、食感性モデルを適用してその可能性と有用性を明らかにすることにある。

本論文は、8章から成り、本研究の背景、目的および本研究の解析モデル、商品開発におけるモデルの適用法の開発、修正食感性モデルの提唱・展開の3つから構成される。第1・2章では、商品開発プロセスと官能評価の役割およびその要素をレビューし、本研究で扱う解析モデル、すなわち、食感性モデル、応答曲面法、構造方程式モデリングの方法論を概説した。

第3章では、「食感性モデル」の商品開発へ適用検討を行い、ヒット商品即席コーンカップスープの新製品開発における、コンセプト実現の目標品質提示を課題とする官能評価手法に「食感性モデル」を適用した。その結果、イメージ評価は、知覚を経由した認知の経路、品質特性評価は、知覚の経路に相当し、コンセプトも含めて、基本的に適用できることを確認した。第4章では、タラコ製品2種の「色選好」の最適化手法として「応答局面法」の適用法について検討し、生鮮品の表面色値はスプライン補間、ほぐした製品の色素配合は、2次項近似の各応答曲面法により、それぞれ高い最適解が得られることを確認した。その結果、後者は、導出色素配合5試料中4品が現行品より好まれ、組織共有化の可能な配合設計技術として有用であることを明らかにした。第5章では、「構造方程式モデリング(SEM)」の商品開発への適用性を検証するとともに、食感性モデルの感性関数としての標本数などの適用基準を明らかにする以下3つの検討を行った。1.標本数基準200を満たす生鮮試料の機器分析値と官能値(N=576)、2.標本数基準を満たさないコーンカップスープの官能値(N=139)の適合性探索、3.各因果モデルを起点として乱数発生により連続的に縮小した標本数にSEMを適用した結果の適合性指標による最小限界値の推定、である。その結果、標本数基準に関わらず適合度のよい因果モデル設定が可能で、標本数より因果モデルの精確度に依存することを明らかにした。また、中標本からは70、大標本からは40の最小限界値を推定し、開発各段階の小規模な官能値へ適用の可能性を明らかにした。また、因果関係の定量化とパス図による可視化により、商品設計の方法論および共通言語として有用である。その適用ポイントは、知覚値と線形性のある分析値の適用、初期モデル設定法および適合度指標の検定結果のみでなく実学的検討によるパスの取捨選択にあると考えられた。第6章では、社内専門評価者と消費者類似性に関して、5つの異質集団間の比較から類似性要因および評価結果への影響要因を明らかにした。

第7章では、社内専門評価者と消費者間の個人的属性の差異を統合するために個人属性を加えた認知までのパスが追加された「修正食感性モデル」を新たに提唱した。個人属性を多母集団同時分析および平均共分散構造分析をコーンカップスープの因果モデルの「性別」に適用し、多母集団グループあるいは、補助変数としてそれぞれの適用の可能性が示され、商品開発において重要な「比較」情報を提供する修正モデルの有用性が確認された。

以上・本研究の成果は、民間食品企業の商品開発の実態を踏まえた食感性モデルや分析手法を新しく開発し、その可能性と適用限界を明らかにした点にあり、企業の実用的官能評価における諸課題の解決に対応した新しい手法として期待され、産業的意義のみならず学術的意義も少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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