学位論文要旨



No 217276
著者(漢字) 石原,英樹
著者(英字)
著者(カナ) イシハラ,ヒデキ
標題(和) 最終提案ゲームの社会理論 : 公平性規範の合理性と進化
標題(洋)
報告番号 217276
報告番号 乙17276
学位授与日 2009.12.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17276号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,俊樹
 東京大学 教授 山本,泰
 東京大学 准教授 清水,剛
 聖学院大学 教授 松原,望
 帝京大学 准教授 大浦,宏邦
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、社会学や経済学の基礎となっている「囚人のジレンマ」が社会の状態を表現したゲームとして本当に適しているのかという疑問が社会科学者から少しずつ出てきている。本研究では、囚人のジレンマでは表現できない権力状態や分配の不均等など社会学的、政治学的に重要な社会状態を表現するのに、「最終提案ゲーム」という別のゲームが、より適していることを示すことを目的としている。さらに、社会唯名論と社会実在論の理論的対立についても一つの案を提示することを目的としている。

本研究は9章構成になっている。序章では本研究における問題意識と分析枠組みの提示をした。

第1章では「合理性」概念を「進化」概念との対比により議論をした。合理的選択理論のうち非協力ゲームをとりあげ、本研究の視点である、合理性と進化の双方から網羅的に分類をした。

続く第2章では1990年代の数理社会科学において、社会についての基礎的な考え方が変化したことを、科学社会学的観点と「自生的秩序」概念を用いて指摘した。最も重要な変化は「合理性」から「進化」へと説明図式が変わったということがあげられる。もうひとつの無視できない側面が、「社会唯名論」の代表ともいえる非協力ゲーム理論においても、個人合理性だけではなく、それにくわえて何らかの個人の性能(合理的とは言い難い諸現象)が説明前提になってきたことである。こうした視野が、昆日注目されている感情の経済学などの発展に大きく寄与している。

3章では、1章で定義された非協力ゲームの概念を用いて、保証ゲームとチキン・ゲームを概説した。2章で指摘したように、本論文で扱う「最終提案ゲーム」は、チキン・ゲームの変種ということを明らかにする。

4章では、「最終提案ゲーム」の研究史をサーヴェイする。1980年代の理論的対立軸(「合理性」なのか、合理性の外部に公平性規範を想定するか)が「進化」概念の導入以降大きく変わった(「進化」なのか、進化とは別の構造を想定するか)ことを明らかにした。これは2章で素描した人間観や社会モデルの大きな変化と対応するものだと考えることができる。

さらに、5章で示された近年の最終提案ゲームの説明モデルのうちもっとも有力なもの、特に進化ゲーム理論のうち適応的学習を中心としたSamuelsonの理論モデルの批判的検討と拡張(確率微分方程式を用いたもの)を行った。Samuelsonのモデルに導入されている決定論的ノイズは、「進化」とは別の構造の存在を示唆しているものと解釈した。

6章では、Samuelsonモデルを応用した実験についてレビューし、日本においても再実験を行ってモデルの検証を行った。大学生に最終提案ゲームを実施してもらい、理論に従ったトリートメントの効果を、多変量解析(ランダム効果モデル)によって検証した。ここでは、「進化」とは別の構造が何であるのか、その内実を部分的にではあるが解明している。「進化」(適応的学習)とは別に、「公平性規範」の存在が示唆されることとなった。

7章では、6章の実験を前提に、「公平性規範」を前提にしたゲームシミュレーションを行った。「公平性規範」の存在を前提とした適応的学習モデルが先行研究としてあるのだが、本章で行った拡張版では、「公平性規範」をもった個体の生存の背後には、他者への羨望から「懲罰」する個体の存在の重要性が示唆された

合理的個人という経済学の前提が、世界的な金融危機で揺らいでいるという事実からも明らかなように、合理的な個人(「社会唯名論」)のみを社会モデルとすることはもはやわれわれにはできない。その反動として、「信頼」「ソーシャルキャピタル」「感情」などの諸概念が社会科学の重要な概念となってきた。本論文もそうした流れのなかにある。しかしこうした概念は、「社会実在論」という対立軸に議論が移ったということに無自覚なものも多い。本論文は、この「社会唯名論」と「社会実在論」の不毛な対立には与さない。合理的な個人にどんな性能を加えてゆくという漸進的な方法をとった。非常に単純な「最終提案ゲーム」においても、個人合理性、公平性規範、適応的学習では説明しきれない行動がみられることが示された。この結果から出発して概念の諸整理を行うことは、正義論や権力論などへの理論的貢献が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「最終提案ゲーム」というユニークな構造をもつゲーム理論を用いることによって、方法論的個人主義(「社会唯名論」)と方法論的全体主義(「社会実在論」)のいずれの枠組みでも十分に説明できなかった公平性規範の成立について解明を試みた研究である。

規範の成立過程については、これまで囚人のジレンマゲームを用いた説明などが主流であった。たしかに繰り返し囚人のジレンマゲームでは、個人(場合によっては人間以外の生物)が規範に従っている「かのような」行動をシミュレートすることはできるが、人間社会における規範の特徴を社会科学的に考えた場合、このモデルではその特徴を十分にとらえられていない。それゆえ、規範の生成をより的確にとらえるモデルが必要であるというのが、本論文の基本的な問題意識である。

その上にたって、本論文ではまず、従来の経済学や社会学での規範研究を再検討し、規範には、(1)一般性をもつ理念の存在という側面と、(2)逸脱を抑制する強制という側面があることが示される。一般的な理念の存在と理念をめぐる個別的な行動を記述できて、はじめて規範を表現した社会モデルが可能になるといえる。そこで著者が注目したのが最終提案ゲームである。

最終提案ゲームは役割の違う二人が参加する交番ゲームである。まず、全体のパイをどのくらいに分けるのかを提案者Aが提案し、応答者Bはこの提案に対して賛成するか反対するかの選択肢をもつ。Bが賛成するとAの提案どおりにパイが分割される。Bが反対(拒否)すると両者の取り分は0となる。分割に関して主導権をもつAが、もしゲーム理論上の予想に反して5:5の配分を提案するとすれば、そこには「公平性」という形で社会状態に関する何らかの規範が組み込まれていると考えられる。また、Bが9:1の提案に対して、同じくゲーム理論上の予想に反して拒否する場合にも、公平性規範を前提としたサンクションが発動されたとみなしうる。このような最終提案ゲームのプレイヤーの行動を説明することは、規範の成立における一般的な理念と理念をめぐる個別的な行動(例えばサンクション)双方の働き方を理論的および実験的に再現するものになっている。

最終提案ゲームのこうした構造は、社会科学の根本問題の一つである規範の存立構造の解明にとって有用な道具となる。本論文では、公平性規範をめぐるプレイヤーの行動をさまざまな手法――理論、実験、シミュレーション――を用いてモデル化することで、社会状態をめぐる理念の内容や理念関係的な行動について、特定の強い前提に依拠することなく、普遍的に議論できる可能性を示している。従来、方法論的個人主義では規範や制度、秩序といった社会性を考察することはできないのではないか、といわれてきたが、本論文は、ゲーム理論という方法論的個人主義の立場からのモデル化であっても、規範に関わる理念の存在やそれをめぐる個人の判断や行動に相当する機制をモデル内部に組み込むことで、社会規範や制度、秩序に近い状態を再現できることを示した。それによって、素朴な「社会実在論」のように、安易に外部に「社会」を仮定し、その機制をブラックボックスにすることなく、自ら判断し、他人に反応し、時に偶然的な環境におかれる人間の行動の蓄積として、社会を分析する方法論の発展に重要な寄与を果たしている。

簡単に論文の構成を述べると、前半部の第1章から第3章では、主要な方法論であるゲーム理論の理論的展開を追いながら、「社会」概念との関連に焦点をおいて、それらの社会モデルとしての特性が論じられている。

第1章では、合理性の概念を進化の概念と対比することで、5章から7章で用いる進化ゲームの基本的な考え方を整理している。また、チキン・ゲームの一変種として、最終提案ゲームが紹介されている。

続く第2章では、学説史的な視点から、1990年代の数理系社会科学における社会についての基礎的な考え方の変化を論じている。「自生的秩序」をめぐる説明図式が個人レベルの合理性だけのものから進化を取り込んだものへ変わったことや、「社会唯名論」の代表といえる非協力ゲーム理論でも、必ずしも個人合理的とは言い難い前提が加えられるようになったことなどを指摘して、従来の囚人のジレンマモデルでは規範の成立を十分にあつかえないことが示されている。

第3章では、最終提案ゲームの構造が、囚人のジレンマモデルに代わる有力な社会モデルになりうることが述べられている。

後半部の第4章では、ゲーム理論における最終提案ゲームの研究史を追い、その位置づけを再検討している。最終提案ゲームの理論的予測に反する実験結果(公平提案および不公平提案の拒否)の解釈として、限定合理性(錯誤)によるという解釈と公平性理念に従った行動という対立軸があったこと、そして、進化ゲームの研究が進むにつれて、その対立軸が進化なのか、それとも進化とは別の構造を想定するか、へ大きく変わったことが指摘されている。

第5章では、進化における適応的学習を中心としたSamuelsonの理論モデルの修正と独自の拡張が行われている。Samuelsonのモデルは近年の最終提案ゲームの研究のなかで最も有力なものの一つだが、公平性規範を導出するために決定論的ドリフトをもちこんだ。本論文では、このドリフトが進化の中で生じるものとは別の構造である可能性が示されている。さらに第6章では、このSamuelsonモデルにもとづく実験について過去の主要な結果をレビューした上で、独自の再実験を行っている。従来の実験では応答者が適応的な学習をしているのか、懲罰を行っているのかが曖昧になっていたが、それを識別できる枠組みで実験し、提案者Aの適応的学習と応答者Bの懲罰行動が見られることを明らかにしている。

5章の数理的分析と6章の実験をふまえて、第7章では、個人が提案者と応答者の双方の役割を確率的に担う形でシミュレーションを行っている。先行研究では、提案者のときは5:5を提案し応答者のときには5:5と9:1のどちらも受諾する"Gamesman"に対して、提案者のときは5:5を提案するが応答者のときには5:5を受諾し9:1を拒否する"Fairman"がどのような初期条件の下で進化するのかに主要な関心が向けられてきた。本論文では、提案者のときには9:1を提案し、応答者のときには5:5を受諾、9:1を拒否する類型が進化の初期段階で重要な役割を果たすことが新たに発見している。さらに、この類型を"Pure Envier"と名づけてその社会学的意義を考察し、"Pure Envier"が公平性規範成立に対して果たす役割から、社会規範は理念に加えて、理念に関する戦術的行動(マヌーバー)を当事者が行うことで成立するという、興味ぶかい解釈が示されている。

以上のように、本論文では、理論モデル、実験、シミュレーションなど、さまざまな角度からのアプローチを通じて、規範を天下り的に「個人を超えて社会にあるもの」とするのではなく、(1)公平性という理念(規範の共有)と(2)逸脱を抑制する実効性(規範に従わせる力)の組み合わせとして定式化することに成功している。これは(1)公平性という理念と(2)公平性をめぐる当事者間のやりとりの複雑な組み合わせにもなっており、それによって、方法論的個人主義的なモデルでは十分に考察できてこなかった公平性規範、そして社会規範一般の特性や働き方を分析的に明らかにしている。特に以下の点は重要である。

第一に、従来の方法論的個人主義系の研究では「合理性からの逸脱」の一類型として扱われてきた最終提案ゲームが、社会規範や秩序を解明する上で有力なモデルになることを示した。

第二に、ドリフトを入れた微分方程式への拡張、実験結果のマルチレベルモデルによる統計分析、ゲームシミュレーションなど、複数の手法から多面的に迫ることで、最終提案ゲームの持つ複雑さを十分に活かし、非数理的な社会規範研究との間に幅広い接点をもちうることを示した。

第三に、サンクションをゲーム理論の内部に組み込めるようにしたことで、公平性規範がたんに理念として共有されているだけでなく、その理念に関わる行動と組み合わさって、初めて規範たりえる可能性を実験でも明らかにした。

むろん本論文にも問題点がないわけでない。まず、最終提案ゲームでは配分の提案という形で、当事者以外の他者への顧慮も間接的に取り入れられているが、この他者を例えば理論社会学でいう「一般化された他者」などへそのまま拡張することはできない。その点で、社会学的に見た場合、「社会唯名論」と「社会実在論」を架橋したというには不十分な部分もある。また、ゲーム理論内在的には、認知理論的な研究への言及がほとんどない。社会学と経済学の橋渡しとして認知科学が果たしうる役割を考えた場合、それとの関係についても十分な考察が必要であろう。

しかし、このような欠点は本論文の価値を損なうものではない。本論文は社会学と経済学の境界領域から、どちらにとっても重要な知見を導き出しており、また、ゲーム理論の先端的な研究に新たな社会科学的解釈をあたえている。これらの点で、今後の社会理論の発展、とりわけ秩序問題や規範の生成に関する研究に大きく寄与するものである。特に相関社会科学的な視座から、精緻な理論枠組みと着実な実験分析を重ねて、「社会的唯名論」と「社会的実在論」という大きな対立の間をつなぎ、公平性規範や社会規範一般の存立構造を科学的に解明する手がかりをあたえたことは、高く評価される。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク