学位論文要旨



No 217280
著者(漢字) 田端,純
著者(英字)
著者(カナ) タバタ,ジュン
標題(和) ガ類の性フェロモン生産および反応性にみられる種間・種内変異とその遺伝に関する研究
標題(洋)
報告番号 217280
報告番号 乙17280
学位授与日 2010.01.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17280号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 石川,幸男
 東京大学 教授 嶋田,透
 東京大学 教授 富樫,一巳
 東京大学 准教授 宮下,直
 東京大学 名誉教授 田村,貞洋
内容要旨 要旨を表示する

ガ類を含むチョウ目は,昆虫綱の中でも最も種多様性に富み,形態・生態的に多岐に分化したグループのひとつである.その一方で,ほとんどのガ類は特徴的な配偶様式を共有している.すなわち,性フェロモンを介した異性間コミュニケーションである.メス個体がそれぞれの種によって決まった情報信号帯(成分組成)の性フェロモンを放出し,オス個体がこの信号に対して特異的に反応(誘引・探索)することで配偶行動が開始される.この信号の種特異性によって,時間的・空間的に共存する他種との交配を避けるように配偶活動を行うことができる.そのため,性フェロモンはガ類の交尾前生殖隔離機構として重要な役割を担っていると考えられている.この性フェロモン・コミュニケーションの分化が,ガ類の種分化や種多様性に大きく寄与してきたであろうことは想像に難くない.本研究は,性フェロモンの分化の一端を解明することを目的として,メスの生産する性フェロモン成分組成とそれに対するオスの反応性にみられる種間変異・種内変異に注目し,それらが起因する遺伝的背景について研究したものである.

第1部:ゴボウノメイガ種群における種分化と性フェロモン

1.ツワブキノメイガの性フェロモン成分

ゴボウノメイガOstrinia zealis,フキノメイガO. zaguliaevi,ツワブキノメイガO. spの3種(ゴボウノメイガ種群)は外部形態が互いによく似ており,分子系統学的にも非常に近縁であることが確認されている.また,しばしば同所的あるいは側所的に採集され,成虫の活動時期も重なっている.これらの事実は,ゴボウノメイガ種群内の種分化には性フェロモン・コミュニケーションの分化とそれに伴う生殖隔離機構の進化が強く関与してきた可能性を示唆する.これら3種のうち,新種のツワブキノメイガの性フェロモンは未解明であった.そこでまず,ツワブキノメイガの性フェロモン成分を分析した.その結果,(Z)-9-tetradecenyl acetate(Z9),(E)-11-tetradecenyl acetate(E11)および(Z)-11-tetradecenyl acetate(Z11)の3成分が同定された.ゴボウノメイガとフキノメイガもこれと同じ3成分から構成される性フェロモンを使用している.これら3種の性フェロモンは,含有量や放出時刻には大きな違いは認められなかったが,3成分の平均組成比(Z9/E11/Z11)は互いに異なっていた.そのため,交尾前生殖隔離に性フェロモンが影響しているとすれば,各成分の組成比が重要な役割を担っているものと考えられた.

2.ゴボウノメイガ種群の性フェロモン成分比の種内変異と種特異性

そこで次に,日本各地からゴボウノメイガ種群を採集し,その性フェロモン成分比の種内変異と種特異性を調査した.ゴボウノメイガの性フェロモンは,幾何異性体比E11/Z11が他の2種と一貫して明瞭に異なっており,高い種特異性が認められた.そのため,ゴボウノメイガと他の2種との間には性フェロモンに起因する交尾前生殖隔離が機能していることが示唆された.これに対し,フキノメイガとツワブキノメイガの性フェロモンでは,二重結合の位置異性体比Z9/Z11が異なる傾向にあったが,いずれの種でも種内変異が大きく,はっきりとした種特異性は認められなかった.フキノメイガでは,量的遺伝学的手法(親子回帰)によって種内変異の遺伝率も高く評価された.また,両者が同所的に分布する地域においても,性フェロモン成分比の種内変異の幅は互いに重なり合っていた.これらの結果から,フキノメイガとツワブキノメイガの間では,性フェロモンによる交尾前生殖隔離機構は不十分であると考えられた.

3.ゴボウノメイガ種群の性フェロモン成分比の種間変異をもたらす遺伝的背景

さらに,ゴボウノメイガ種群の種間交雑体を利用して性フェロモン成分比の種間変異をもたらす遺伝的背景を調査した.ゴボウノメイガ フキノメイガ(またはゴボウノメイガ ツワブキノメイガ)間の,幾何異性体比E11/Z11を制御する遺伝子は常染色体上に存在し,不飽和脂肪酸アシル補酵素A複合体を還元・アセチル化する酵素の基質特異性に関わっていることが示唆された.これに対し,フキノメイガ ツワブキノメイガ間で,位置異性体比Z9/Z11を制御する遺伝子は,やはり主に不飽和脂肪酸アシル体の前駆体を還元・アセチル化する生合成経路に関与しているが,少なくとも常染色体と性染色体上に1つずつ存在することが示唆された.ゴボウノメイガと他種間では性フェロモンに明瞭な種間差がみられるのに対し,フキノメイガ ツワブキノメイガ間の種間変異は量的ではっきりと分別されないのは,このような遺伝的背景の違いに 因があると考えられた.フキノメイガとツワブキノメイガは,実験室内では高い頻度で交雑し,野外からも交雑を示唆する個体がしばしば採集された.これらの事実は,両者の間での性フェロモン・コミュニケーションを含む交尾前生殖隔離機構が不十分であるという仮説を支持した.

第2部:チャノコカクモンハマキの交信撹乱剤に対する抵抗性の発達と性フェロモン

4.チャノコカクモンハマキの交信撹乱剤抵抗性系統の確立

チャノコカクモンハマキの性フェロモンは,Z9,Z11,E11および10-methyl-dodecyl acetateの4成分で構成される.このうち,Z11を有効成分とする交信撹乱剤(テトラデセニルアセテート剤:TDA剤)が1980年代の中頃から使用されてきた.交信撹乱剤は,害虫の性フェロモンによる交尾相手の誘引を干渉・阻害してその繁殖を抑える製剤で,従来の殺虫剤よりも抵抗性が生じにくいメリットがあると主張されてきた.ところが,1990年代後半には静岡県の一部でTDA剤の効力の低下が認められ,世界で最初の交信撹乱剤に対する抵抗性の事例として報告された.今後の類例が生じることを防ぐためにも,本事例を対象とした応用昆虫学的な研究は極めて重要である.加えて,この現象は交信撹乱剤という人為選択圧に対する性フェロモン・コミュニケーションの進化的応答であり,進化生物学的にも非常に興味深い.そこでまず,抵抗性が認められた個体群から採集されたチャノコカクモンハマキをTDA剤処理下でさらに選抜飼育し,強力な抵抗性を安定して発揮する系統(R系統)の確立を試みた.70世代以上の室内選抜飼育を行ったところ,この系統のハマキガは1 mg/LのTDA剤で処理しても高い頻度で交尾できるようになった.このようにして作出したR系統は,R系統と同じ個体群から採集したがTDA剤を経験していない対照系統(S系統)との比較を通じて,交信撹乱剤抵抗性が発達した生物学的要因やそれに伴う性フェロモン・コミュニケーションの進化を理解する上で重要な材料になると期待される.

5.チャノコカクモンハマキの交信撹乱剤抵抗性系統にみられた特異なオスの性フェロモン反応性

次に,様々な濃度・組成比に調整した性フェロモン誘引源に対するR系統とS系統のオスの反応性を室内風洞施設下で観察・比較した.誘引源の濃度が低いと,R系統のオスの方がS系統よりも反応が鈍かった.しかし,誘引源の組成比を変えると,R系統のオスはS系統よりも極端に幅広く反応できることが明らかとなった.特に,誘引活性に不可欠なZ9またはZ11を欠く(したがってS系統のオスは全く反応しない)誘引源に対しても,R系統のオスの大半は反応した.また,系統間交配実験の結果から,このような特異な性フェロモン反応性が常染色体上の比較的少数の遺伝子座によって制御されていることが示唆された.TDA剤のように,性フェロモンを構成するある一部の成分を大気中に過剰に処理すると,オス個体は自然条件ではあり得ない誤った成分組成比の性フェロモン信号を受容することになる.しかし,例えそのような"不均衡な"性フェロモン信号を受信したとしても,R系統のような幅広い成分組成比に反応できるオスであれば,信号の発信源であるメスを見つけ出すことができ,撹乱効果を乗り越えられる可能性がある.

性フェロモン・コミュニケーションの進化モデルとして,これまでにstasisモデルとasymmetric trackingモデルの2つが提示されている.stasisモデルでは,メスの性フェロモン信号はオスの反応性による強い安定化選択に曝されていることを想定する.これに対し,asymmetric trackingモデルでは,性フェロモン信号に課される安定化選択圧はそれほど強くなく,stasisモデルで予想されるよりも進化しやすい状況を想定する.本研究では,ゴボウノメイガとフキノメイガ(あるいはツワブキノメイガ)の性フェロモン・コミュニケーションの差異に関わっていた幾何異性体比E11/Z11にはstasisモデルが,フキノメイガとツワブキノメイガの差異に関わる位置異性体比Z9/Z11にはasymmetric trackingモデルが当てはまることを示した.このように,同じ分類群の性フェロモンであっても,成分によって「進化しやすさ」が異なるようであった.チャノコカクモンハマキの性フェロモン成分(Z9/Z11)もasymmetric trackingモデルを支持する事例である.実際に,交信撹乱剤の使用に伴い,オスの性フェロモン反応性が遺伝的に変化したことを明らかにした.また,交信撹乱剤がさらなるasymmetric tracking効果を促し,性フェロモン・コミュニケーションの進化が助長される可能性があることを示した.

以上,本研究はガ類の性フェロモンにみられる種間および種内変異を詳細に調査し,その遺伝的背景を解析したものであり,性フェロモンの分化と種分化の関係に関する新たな知見を与えるとともに,フェロモン交信撹乱剤に対する抵抗性発達メカニズムの一端を明らかにしたものである.

審査要旨 要旨を表示する

ガ類の性フェロモンは種間の交尾前生殖隔離に重要な役割を担っていると考えられており,性フェロモンの分化がガ類の種分化や種多様性に大きく寄与してきたであろうことは想像に難くない.本研究は,性フェロモンの分化の一端を解明することを目的として,メスの生産する性フェロモン成分組成とそれに対するオスの反応性にみられる種間変異・種内変異に注目し,それらが起因する遺伝的背景について研究したものであり,ゴボウノメイガ種群を題材とした第一部3章およびチャノコカクモンハマキを題材とした第二部2章から構成されている.

第1部:ゴボウノメイガ種群における種分化と性フェロモン

1.ツワブキノメイガの性フェロモン成分

ゴボウノメイガOstrinia zealis,フキノメイガO. zaguliaevi,ツワブキノメイガO. spの3種(ゴボウノメイガ種群)は外部形態が互いによく似ており,分子系統学的にも非常に近縁である.これら3種のうち,新種のツワブキノメイガの性フェロモンは未解明であったので,本種の性フェロモン成分を分析した.その結果,(Z)-9-tetradecenyl acetate(Z9),(E)-11-tetradecenyl acetate(E11)および(Z)-11-tetradecenyl acetate(Z11)の3成分が同定された.ゴボウノメイガとフキノメイガも同じ3成分から構成される性フェロモンを使用しているが,3種の性フェロモンは,3成分の平均組成比(Z9/E11/Z11)が互いに異なっていた.そのため,交尾前生殖隔離に性フェロモン成分の組成比が重要な役割を担っている可能性が高いと考えられた.

2.ゴボウノメイガ種群の性フェロモン成分比の種内変異と種特異性

日本各地からゴボウノメイガ種群の3種を採集し,その性フェロモン成分比の種内変異と種特異性を調査した.ゴボウノメイガの性フェロモンは,E11/Z11の幾何異性体比が他の2種と一貫して明瞭に異なっており,高い種特異性が認められた.そのため,ゴボウノメイガと他の2種との間には性フェロモンに起因する交尾前生殖隔離が機能していることが示唆された.これに対し,フキノメイガとツワブキノメイガの性フェロモンでは,二重結合の位置異性体比,すなわちZ9/Z11が異なる傾向にあったが,いずれの種でも種内変異が大きく,はっきりとした種特異性は認められなかった.したがって,フキノメイガとツワブキノメイガの間では,性フェロモンによる交尾前生殖隔離機構は不十分であると考えられた.

3.ゴボウノメイガ種群の性フェロモン成分比の種間変異をもたらす遺伝的背景

ゴボウノメイガ種群の種間交雑体を利用して性フェロモン成分比の種間変異をもたらす遺伝的背景を調査した.ゴボウノメイガ フキノメイガ(またはゴボウノメイガ ツワブキノメイガ)間で,幾何異性体比E11/Z11を制御する遺伝子は常染色体上に存在し,不飽和脂肪酸アシル補酵素A複合体を還元・アセチル化する酵素の基質特異性に関わっていることが示唆された.これに対し,フキノメイガ ツワブキノメイガ間で,位置異性体比Z9/Z11を制御する遺伝子は,やはり主に不飽和脂肪酸アシル体の前駆体を還元・アセチル化する生合成経路に関与しているが,少なくとも常染色体と性染色体上に1つずつ存在することが示唆された.ゴボウノメイガと他2種間では明瞭な種間差がみられるのに対し,フキノメイガ ツワブキノメイガ間の種間変異がはっきりと分別されないのは,このような遺伝的背景の違いに一因があると考えられた.

第2部:チャノコカクモンハマキの交信撹乱剤に対する抵抗性の発達と性フェロモン

4.チャノコカクモンハマキの交信撹乱剤抵抗性系統の確立

チャノコカクモンハマキの性フェロモンは,Z9,Z11,E11および10-methyl-dodecyl acetateの4成分で構成される.このうち,Z11を有効成分とする交信撹乱剤(テトラデセニルアセテート剤:TDA剤)が本種の防除に使用されてきた.交信撹乱剤は,従来の殺虫剤よりも抵抗性が生じにくいと主張されてきたが,1990年代後半には静岡県の一部でTDA剤の効力の低下が認められた.本章では,抵抗性が認められた個体群から採集されたチャノコカクモンハマキをTDA剤処理下でさらに選抜飼育し,強力な抵抗性を安定して発揮する系統の確立を試みた.70世代以上の室内選抜飼育を行うことにより1 mg/Lという高濃度のTDA剤で処理しても高い頻度で交尾できる系統(R系統)を確立した.

5.チャノコカクモンハマキの交信撹乱剤抵抗性系統にみられたオスの特異な性フェロモン反応性

様々な濃度・組成比に調整した性フェロモン誘引源に対するR系統と感受性(S)系統のオスの反応性を室内風洞施設下で観察・比較した.誘引源の濃度が低いと,R系統のオスの方がS系統よりもかえって反応が鈍かった.しかし,誘引源の組成比に関しては,R系統のオスはS系統に比べて極端に幅広い組成比に反応できることが明らかとなった.特に,誘引活性に不可欠なZ9またはZ11を欠く(したがってS系統のオスは全く反応しない)誘引源に対しても,R系統のオスの大半は反応した.また,系統間交配実験の結果から,このような特異な性フェロモン反応性が常染色体上の比較的少数の遺伝子座によって制御されていることが示唆された.撹乱剤抵抗性を示す野外のオスも幅広い成分組成比に反応することで,撹乱剤の効果を乗り越えている可能性がある.

以上,本研究はガ類の性フェロモンにみられる種間および種内変異を詳細に調査し,その遺伝的背景を解析したものであり,ガ類の種分化およびフェロモン交信撹乱剤に対する抵抗性発達メカニズムの一端を明らかにするなど,学術上,応用上価値が高い.よって,審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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