学位論文要旨



No 217283
著者(漢字) 田仲,洋己
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒロキ
標題(和) 中世前期の歌書と歌人
標題(洋)
報告番号 217283
報告番号 乙17283
学位授与日 2010.01.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17283号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 月本,雅幸
 東京大学 教授 逸身,喜一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、平安時代後期から鎌倉時代初頭にかけての和歌文学の諸相を、主に新古今時代に活躍した歌人たちの作歌活動と和歌表現の分析を通じて解明することを目的とするものである。また、彼等の活動に拠って産み出された幾篇かの歌書の真偽や成立の問題についても考察する。

本論文においては、所謂院政期以降を和歌文学史における中世と見定め、その前半期に活躍した数多の歌人の中から藤原俊成・定家父子に焦点を絞る形で論述を進める。その背景には、俊成・定家父子の文学活動こそ、王朝和歌の主流に棹差しつつ中世和歌の表現原理の基盤を固め、後代の和歌史の展開を導いたという認識がある。これは極めて平凡な文学史観であるが、『古来風体抄』『近代秀歌』の二著の論述に鮮明に示されている如く、何よりも彼等自身が、自らとその時代の和歌表現を生み出した王朝和歌史の流れについて明晰な認識を保持していたと考えられるのである。彼等の理解に沿う形で和歌史を把握することを、御子左家中心史観に囚われた研究史的に没価値の所為であると裁断することはできない。俊成・定家父子の和歌活動の具体的様相を跡付けつつ彼等及びその周辺の歌人の和歌観を闡明する作業には、依然として中世和歌文学研究の枢要に位置するだけの価値があると考える。なお、個別の和歌表現を分析するに際して、『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣物語』をはじめとする王朝物語世界との関わりを重視し、物語受容という見地から論述することが多いのも、本論文の一つの特長である。とりわけ、表現形成の中核的技法としての引歌を極めて高度に洗練された形で使いこなす『源氏物語』の文章は、本歌取についての認識を定家が深める直接の機縁となり、新古今時代の和歌表現の在り方に決定的な影響を及ぼしたと考えられる。また、『源氏物語』に描き出された世界は、保元・平治以降の戦乱の世を体験したこの時代の貴族層の人々にとって、まさに失われた王朝の盛時を現前させるものであったかと想像されるのである。

序章では、本論文が主として考察の対象とする院政期から新古今時代にかけての歌壇の動静と和歌文学の史的展開を、『後拾遺和歌集』の成立から『新勅撰和歌集』の撰進に至る範囲で展望し、とくに新古今時代の歌壇と『新古今和歌集』の内実について具体的に述べる。

第一部の諸論では、俊成・定家父子の和歌活動に様々な形で影響を及ぼした幾人かの歌人の活動について論述する。また、彼等が著した歌論歌学書の分析を通じて、その記述の背景にある和歌観 や歴史認識を検証する。第一章及び第二章では、俊成・定家父子が和歌史の先達として強く意識していた院政期の歌人源俊頼について考察する。第一章は、俊頼が自身の和歌表現をどのようにして獲得して行ったのかという過程を多少なりとも見定めることを目的とする。俊頼が同時代乃至前世代の歌人の和歌表現をどのように評価し、受容しているかということを考証するが、とりわけ白河天皇の近臣で俊頼の同族でもあった源師賢の和歌との関わりについて、具体的に論ずる。第二章は、俊頼の主著である『俊頼髄脳』の記事の内容や配列を分析し、とくに巻末の良暹連歌説話に着目することによって、その背後に窺うことができる俊頼の後冷泉朝に対する意識と本書の執筆意図について考察する。第三章は、俊成の母方の大叔父に当り、白河院政期の重要な歌人である藤原道経の和歌作品について、用語の選択や典拠表現受容の問題を中心に、その表現の特質を総合的に考察する。とくに、万葉語・万葉和歌の受容の問題や王朝物語との関わりについて具体的に検証し、併せて道経の作が俊成の和歌表現に及ぼした影響について考察する。また、道経の同時代歌人の和歌作品についても、物語受容の可能性を検討する。第四章・第五章の両論は、諸書に収められた子どもが歌を詠むという内容の記事や子どもを対象とする詠歌に着目し、その内実を検証、分析する作業を通じて、歌人たちの間に古代以来連綿と受け継がれて来た和歌観の一端を解明することを目指す。第四章では、藤原清輔の著した歌学書『袋草紙』の「希代歌」の項に「幼児歌」2首が含まれている事実に着目し、その背景に潜む古代・中世社会の子ども観と和歌の本質について考証する。第五章では、子どもが詠んだとされる諸種の詠歌について、その表現の特性を指摘し、併せて西行の家集『聞書集』に収められている「たはぶれ歌」の連作の意義について考察する。

第二部の諸論では、藤原俊成の歌人形成や著作に関する幾つかの問題を取り上げるとともに、俊成周辺の歌人や同時代に成立した歌書について考察する。第一章では、若き日の俊成が藤原基俊のもとに入門した経緯を伝える鴨長明『無名抄』の記事について分析し、当夜の俊成の発言の背景にある和歌観を検証する。第二章では、承安二年(1172)に成立した所謂歌仙秀歌選の一種である『歌仙落書』について、五味文彦氏の提唱された藤原教長撰者説に示唆を得る形で、教長と類似した経歴を持つ藤原惟方が撰者であり得る可能性を検証する。第三章では、建仁元年(1201)頃に成立したと考えられる『三百六十番歌合』の歌人選定と撰歌について分析し、先行研究を踏まえながら、本書の成立と撰者の問題について検討する。第四章では、プレ新古今時代の女性歌人としてやや目立たぬ存在である八条院六条を取り上げ、歌人としての閲歴や和歌作品を概観した上で、当代歌壇におけるその位置付けについて考察する。とくに、式子内親王の和歌との関わりを重視し、式子と六条との間の人脈的な繋がりについても論及する。第五章では、後鳥羽院の異腹の兄である三宮惟明親王の『正治初度百首』における詠歌を取り上げ、その表現の特質を分析した上で、惟明の歌学びの過程について考察する。第六章では、藤原俊成の歌論書『古来風体抄』の成立と進献先の問題について、先行諸説を踏まえながらの再検討を試みる。初撰本の進献先については、五味文彦氏が再評価された守覚法親王宛先説との比較の上で、従来の通説である式子内親王説を支持する。再撰本の執筆経緯については、前章における考察を踏まえた上で、山崎桂子氏が示された惟明親王宛先説の成立可能性を検討する。第七章では、樋口芳麻呂氏の研究によって藤原俊成の撰と考えられて来た『古三十六人歌合』(俊成三十六人歌合)の撰歌の内実を分析し、撰者の問題を再考する。本書の撰歌は後鳥羽院撰の『時代不同歌合』との関わりが極めて密接であるが、樋口説とは逆に、『時代不同歌合』の撰歌が先行すると考え、俊成真作と判断することはできないと結論付ける。

第三部の諸論では、藤原定家の個別の和歌作品と歌論書の分析を中心に、新古今時代の和歌表現がどのような形で組み立てられていたのかということを具体的に検証する。第一章は、建久元年(1190)に当時29歳の定家が慈円・藤原公衡とともに試みた二篇の速詠の百首、所謂「一字百首」「一句百首」について考察する。和歌作品の表現分析と併せて、両百首における勒句・勒字の選定の背景についても検討を加え、『伊勢物語』『源氏物語』をはじめとする王朝物語世界との関わりが随所に認められることを指摘する。第二章及び第三章は、藤原定家の本歌取に見られる或る種の性向について検討を加える。第二章では、定家が度々に亘って本歌取の対象とする古歌の中に、『源氏物語』において引歌として利用され『源氏釈』『奥入』に掲出される歌が少なくないという事実を指摘し、その背後にある定家の意識について考証する。第三章では、自撰家集『拾遺愚草』の恋部に収められている非題詠の恋歌の表現を分析し、詞書をも包摂する形で『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣物語』の世界を濃密に想起させる措辞が獲得されていることの意味について考察する。第四章は、定家の代表的秀歌と目される建久九年(1198)『御室五十首』における夢浮橋詠の表現の組立てを再検討し、当該歌が『源氏物語』薄雲巻における光源氏の藤壺哀傷の場面を踏まえつつ、亡き実母への想いを重ね合せる形で構想されている可能性を指摘する。第五章は、定家が後鳥羽院の勘気を受ける直接の原因となった承久二年(1220)二月十三日内裏歌会における野外柳詠について、当該歌の表現が菅原道真作とされる古歌2首や『源氏物語』柏木巻における柏木哀傷の場面と関わりを持つ形で構想されている事実を指摘し、その前年に没した源実朝に対する定家の哀惜の想いが潜められていると推論する。第四章・第五章はともに、定数歌や歌会における題詠の中に作者自身の個人的な体験や感懐が投影されている事例についての考察であり、新古今時代の作歌法の一面を照射する。第六章は、従来真偽両説のあった歌書『定家十体』の成立と撰者の問題について再検討を試みる。とくに今井明氏による後鳥羽院撰者説の論証過程を吟味するとともに、本書の撰歌と配列の具体的様相から看取される撰者像を検討し、定家真作説を支持する。第七章は、『定家十体』とも密接な関わりを有する歌論書『毎月抄』の真偽と成立の問題について、主に藤田百合子氏の順徳院宛先説とそれに対する松村雄二氏の批判を吟味する作業を軸として考察を試みる。『後鳥羽院御口伝』の成立時期の問題等にも言及した上で、結論としては『毎月抄』真作説を支持し、順徳院宛である可能性が高いと推論する。第八章は、後鳥羽院の近臣で定家の義弟に当る西園寺公経の和歌と王朝物語との関わりについて、個別の事例を挙げて検討を試みる。新古今歌壇の若手世代を代表する歌人でもある公経の正治・建仁期の和歌作品が、『伊勢』『源氏』『狭衣』の諸場面を積極的に取り込んでいる事実を確認し、当代歌壇における王朝物語世界の浸透の具体的様相を検証する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中世前期の三大歌人源俊頼・藤原俊成・同定家を中心に、院政期から新古今時代にかけての歌人と歌書とを考察したものである。まず序章において院政期・新古今時代の和歌史を略述しつつ考察対象の歌人・歌書を位置づけた後、本論を三部二十の章から構成する。

第一部は源俊頼およびその周辺に関わる論で、俊頼について源師賢からの影響を跡づけ(第一章)、『俊頼髄脳』が「頼通的世界」を語りつつ、藤原忠通をも読者として想定していたと推定し(第二章)、俊成の大叔父藤原道経の歌を分析して、俊頼の時代と俊成をつなぐ存在と規定し(第三章)、藤原清輔『袋草紙』の「子供の詠歌」に注目してここに和歌の無縁性への促しを発見し(第四章)、かつ子供の詠歌記事には子供らしさを作為的に演出する面があると説く(第五章)。

第二部は藤原俊成とその周辺をめぐる論で、俊成が藤原伊通・源雅定を敬慕した理由を、二人の贈答歌を解析することから明らかにし(第一章)、『歌仙落書』の撰者を藤原惟方とする新説を提起し(第二章)、『三百六十番歌合』成立の経緯を改めて解明することで覚盛撰者説を補強し(第三章)、女房歌人八条院六条の歌と事跡を精査してとくに定家と式子内親王との関係を新たに洗い出し(第四章)、惟明親王の「正治初度百首」歌を分析してその多方面の歌学びの軌跡を析出し(第五章)、『古来風体抄』初撰本の式子内親王進献先説を強化し(第六章)、『俊成三十六人歌合』が偽撰であり『時代不同歌合』を模したものであることを確定する(第七章)。

第三部は藤原定家に関係する論で、定家の初期百首「一句百首」「一字百首」を詳細に読み解いて定家の表現方法の形成を跡づけ(第一章)、『奥入』所載歌等と定家の本歌取との密接な関係を具体的に定位し(第二章)、定家の恋の実情詠における『源氏物語』『狭衣物語』の引用を整理して、そこに古典に人生の真実を見出す定家の本質を取り押さえ(第三章)、定家の「夢の浮橋」詠は『源氏物語』の藤壺と光源氏の関係をも象徴し、かつ定家亡母への哀傷の心を含むと読み込み(第四章)、後鳥羽院の勅勘を被った定家の野外柳詠に源実朝への哀悼の意の伏在を指摘し(第五章)、『定家十体』後鳥羽院撰説を否定して、定家真作説を補強し(第六章)、『毎月抄』定家真作説を再構築して順徳院宛先説を改めて支持し(第七章)、西園寺公経の正治・建仁期の『源氏物語』享受を新たな読解から明らかにする(第八章)。

いずれの論考も、深い読解と豊富な例証、周到な研究史への目配りと堅実な論理展開に支えられて説得力に富み、中世前期の和歌史の重要課題の問題点を浮き彫りにしつつ解決への道筋を明快に提示し、当該研究対象における必読論考となりえている。第二部第二章および同第七章のごとく、すでに学界において新たな定説となりつつある論考も含まれる。扱われた歌書の中には、さらに論者によって文学史的意義づけがなされることが望まれるものなども存するが、本審査委員会は上記のような研究史的意義を認め、本論文が博士(文学)の学位に十分値するとの結論に至った。

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