学位論文要旨



No 217286
著者(漢字) 廣井,悠
著者(英字)
著者(カナ) ヒロイ,ユウ
標題(和) 都市空間における防災対策の行動モデリングと制度設計への応用
標題(洋)
報告番号 217286
報告番号 乙17286
学位授与日 2010.01.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17286号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小出,治
 東京大学 教授 浅見,泰司
 東京大学 教授 目黒,公郎
 東京大学 特任教授 関澤,愛
 東京大学 教授 田中,淳
 東京経済大学 教授 吉井,博明
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景

兵庫県下における犠牲者の約9割が自宅の崩壊によるものであったといわれているように,1995年に発生した阪神・淡路大震災は深刻な地震被害とともに日本の都市の脆弱性を露呈させた.この災害の反省のみならず,わが国の地震発生の蓋然性とその被害の大きさを考慮すると,都市空間の安全性の確保はまちづくりの計画的基盤になるべきと考えられる.ところが,大震災より10年あまりが経過した今日に至っても,住宅の耐震化をはじめとした都市の安全化は期待通りの進捗を見せていない.特に日本の都市内に広範に分布している密集市街地はその傾向が顕著で,安全性のみならず住環境上の様々な問題からも,その改善は行政上の大きな課題となっている.

2.研究の目的

このように,都市空間の安全性確保が期待通りに進まない原因は様々なものが考えられるが,都市の防災性向上を論ずる際に,人間行動に関する議論が欠けていたこともその一因である.長引く不況による行政の予算難や地震現象の大きな不確実性もあいまって,公の対応に限界があることは既に自明であり,現実問題として自助や共助によってきたる災害に備えざるを得ない現状がある.また,そもそも都市の災害に対する脆弱性は人間の活動の帰結そのものとも考えられるため,個人の行動の如何を議論することは,安全都市の形成と危険な市街地の再生産を防ぐ上でも意義は大きい.本研究はこれらの問題意識から,個々人が防災対策に関する行動を起こすメカニズムを把握し,それを平易な数理モデルで記述し,都市の安全性確保を目的としてそれらを制度設計に生かすための方法論を明らかにするものである.本研究ではこの一連の流れを,防災行動マネジメントと呼称する.

3.「防災行動マネジメント」の定義

本研究で提案する防災マネジメントは,市街地の環境性や安全性を高めるための動機付けを起こさせる制度設計のあり方およびその方法論を指す.これには,助成金の交付や防災情報の伝達,同調行動の促進等多岐に渡るが,すべて個々人の行動を数理的にモデル化し,計画評価を行うといった点で共通である.なおこの「マネジメント」という言葉は,経営や市場メカニズムを利用するという意味ではなく,管理,取り扱いの訳語である.

4.本研究の位置付けと特徴

これまでに,消費者行動論,交通工学などの分野で個人の行動を記述する多くの数理モデルが提案されてきた.しかし現在のところ,これらの膨大な研究蓄積を防災分野に応用し,ひとつの理論体系を構築したものはほとんどみられない.これは防災行動のもつ,選択肢の多様性と類似性,選択肢の効用に対する不確実性,防災行動の稀少性,意思決定方略の多様性,選択肢集合の不完全性,などの特性に由来するものと筆者らはみている.すなわち,防災行動を記述的に説明するためには,防災対策行動に付き纏うこれらの特性を緩和しうる工夫が必要となる.本研究の前半はこれを一義的な目標とし,これらの解決を目指したものである.一方,都市防災計画の評価手法も現在のところ十分に確立されているわけではなく,むしろ規範的計画評価と技術的計画評価が多分に混同され,かえって議論を困難なものにしているケースも多々見受けられる.一般均衡モデルなどに代表される計量経済モデルが本質的に人命損失の生じない状況を想定していることや,市場の存在を暗に仮定していることを考慮すると,計画評価は費用便益分析のスキームを用いるのが適当と考えられる.ただし,災害現象のもつ不確実性や貨幣価値換算の難しさから,費用便益分析を防災投資に対して用いるべきではないとの批判も多い.本研究はこれに対し,経済性と安全性の両者を同時に追及する多目的最適化の概念を用いることで,後者の課題を解決した.これにより,計画案はパレート最適解なる計画案の集合で表される.また,本研究は7章,8章に実際の調査データを用いてこれらの数値例を算出し,耐震補強工事への最適助成額や地震保険加入率予測など,実務的な要請を解決しうる成果を述べている.すなわち,本研究は前半(6章まで)からなる理論研究と後半(7,8章)からなる実務研究の2種類の性格をもつものである.

5.論文の構成

本論文は,序章と終章を含めた全10章からなる.第1章では都市防災計画の系譜と防災行動の理論を詳説する.また,2章は3章以降の議論の前提とするため,防災行動の分析手法を逐次的に紹介する.このうちのいくつかは,7章で実データをもとに分析を行っている.3章以降の概要は,以下の如くなる.なお,本稿の研究フローは下図の如く示される.

第3章の概要

第3章では,本研究全体を通じてその理論的基盤となる,防災行動モデルの基本形について論じる.AHP分析を利用することで防災対策の評価値を定量的に把握し,それを効用関数の確定項のひとつとすることにより,意思決定者が抱いている定性的要因や対策間の相互作用を考慮した行動モデルが構築された.さらに排他的選択時に起こりうる類似性を解決するためのランダムパラメータモデルや,防災行動のもつ稀少性に注目し,ボアソン分布で約束される対策を行う契機を定義することで定式化した微分方程式系での予測モデルなど,より精度高い将来予測を可能とする方法論をここで示した.

第4章の概要

第4章では意思決定者の限定合理性に注目し,モデル化を試みた.これは消費者行動論や交通工学などと同様に,防災行動を分析する上でもっとも解決せねばならない課題と考えられる.ここでは,意思決定者の情報処理能力の自由度を考慮した2段階意思決定モデルや,認知的不協和を説明しうるモデルなど,主に心理学的見地からその行動の記述につとめた.

第5章の概要

第5章は,これまで暗に仮定していた単一主体の独立な行動という制約を捨象し,複数主体のもとで利用しうるモデル式に拡張を試みた.これにより,特に集団的防災対策についての規範的モデルと記述的モデルが示され,特に後者は複数の均衡解をもち,それが初期条件によってあらかじめ規定されることが示唆された.他方,リスク情報の提供に関する施策効果を定量的に扱うことをにらんで,防災行動に大きな影響を与えるものと考えられる主観的リスク認知が時々刻々変化する状況を想定し,ベイズ推定の概念を応用してその再現を試みた。既存研究においてその主観的リスク認知はおおむね一定とみなした議論が一般的であり,本章の成果は防災行動の概念と情報提供のあり方に関する議論に新たな解釈を提案するものである.

第6章の概要

第6章では,第3章~第5章までで示した防災行動モデルを用いた都市防災計画の評価のあり方を提案する.ここでは,防災投資をうまく表現できないと批判の多い費用便益分析の手法について多目的最適化を試みることで,その解をパレート最適集合の概念で導出した.これは,費用便益分析のもつ貨幣価値換算の困難性を多少なりとも解決しうるものである.また後半では,特に防災対策に関する助成金に対象を絞り,社会的最適を実現するための計画評価の方法論についても言及した.

第7章の概要

第7章は住宅の耐震補強工事の選択行動を対象として,実データからその行動を分析し,行動を予測し,最終的に最適な助成額のあり方を明らかにするものである.この結果,防災計画の程度には著しい地域性がみられることや,耐震性能の分布如何ではその意思決定が大きく異なることが明らかとなった.また,耐震性の低い住宅への割増助成や,簡易補強への助成が経済的にも安全性の面からも良い計画案であることがこれによって示された.これらは,これまで確たる基準を持ち合わせていなかった,耐震補強工事への促進計画に対し,実務上の示唆を与えるものである.

第8章の概要

第8章では,主に地震保険の加入者率を精度よく予測する目的で,実データをもとにして3章で記述したAHP値を用いた防災行動予測の微分方程式モデルを適用した.これより,地震保険加入率の時系列的な予測が可能となったほか,耐震補強や簡易補強などに代表される,他の防災対策の効用増加が地震保険の加入率に与える負の効果が示された.

6.結論

本研究で得られた結論を簡単にまとめる.

6-1.様々な状況下における防災行動モデルの構築(第3章~第5章)

本研究は,これまで防災分野で用いられてこなかった行動分析の手法を援用し,防災行動における特殊性をある程度解決した上で,限定合理的状況や複数主体が考えられるケースなど様々な状況下における防災行動モデルを提案した.

6-2.都市防災計画の評価のあり方と方法論の提案(第6章)

本研究の第6章において,防災行動の記述モデルを所与とした上で都市防災計画の評価をどのように行い,制度設計に生かすための方法論を構築した.特に,複数の基準から定義されるパレート集合をその最適解とすることで,これまで懸念されていた貨幣価値換算の困難性の解決につとめた.

6-3.防災行動マネジメント手法の提案と実データでの応用(第7章~第8章)

意思決定者の防災行動を誘導し,社会的最適な状態へ導くための定量的な方法論を示し,実際の調査データを用いて実証を行った.特に,本稿では耐震補強工事の選択と地震保険の加入行動に焦点を絞って記述し,様々な具体例を議論した.この結果,助成額の妥当性などこれまで実務者を悩ませてきた数々の課題に対して示唆に富む結論を得ることができた.

以上

図1:本研究のフロー

審査要旨 要旨を表示する

阪神・淡路大震災の深刻な倒壊被害はもとより、都市空間における安全性の確保はまちづくりの計画的基盤となる重要な政策課題である。ところが大震災から約15年が経過した今日に至っても日本の都市内に広範に分布している密集市街地は、住宅の耐震化をはじめとして都市の安全化が期待通りの進捗を見せておらず、その改善は行政上の大きな課題となっている。本論文はそのような解決の難しい課題に対し、経営工学的手法に基づいて意思決定者の防災行動の記述を試み、その成果を都市防災計画に内生化して計画評価を論じる画期的なものである。

これまでにも、ミクロ経済学や消費者行動論、交通工学などの分野で個人の行動を記述する多くの数理モデルが提案されてきた。しかしここでは特に、防災行動のもつ不確実性の大きさや選択肢の多様性と類似性などに着目し、期待効用理論によらない手法でこれらの特性を緩和しうる工夫を行っている。この試みは防災研究のなかでも初めての試みであり、その独自性ならびに以降に果たすであろう先駆的役割は極めて高いものと考えられる。またこの方法論を応用し、不完全情報下や他者依存性にも着目してより実用的な方法論を模索し、結果的に1つの理論体系を構築したという点は、都市防災研究のみならず都市計画研究や防災研究全般においても多大な貢献をするものと考えられる。

他方で計画評価については、人的被害評価の困難性や目的関数の多様性により、費用便益分析のスキームを用いつつ、経済性と安全性の両者を同時に追及する多目的最適化の概念を用いている。これにより計画案はパレート最適解という計画案集合で表されるが、これは簡易補強への助成の妥当性などこれまで評価の難しかった都市の安全性向上に関する施策決定の見通しをよくするものであり、実務的課題への貢献も大きい。

また本論文は理論研究にのみとどまったものではない。ここでは、7章と8章において実際の調査データを用いてこれらの数値例を算出し、耐震補強工事への最適助成額や地震保険加入率予測、適切な割引指標の導出やリスクコントロールとリスクファイナンスを組み合わせた政策提案など、現実の政策決定における問題点を解決しうる成果を説得的に述べている。この、理論研究にとどまらず具体的なデータを用いてその実装を目指しているという特徴は、これまでの研究と比べても一線を画すものである。

以上、本論文は既存研究のなかでも極めて高い水準をもつものであり、当該分野において1つの学術分野を構築する画期的なものである。またこれによって得られた政策提言は、即座に現実の投資防災計画に反映しうるものであろう。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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