学位論文要旨



No 217292
著者(漢字) 荒田,明香
著者(英字)
著者(カナ) アラタ,サヤカ
標題(和) 盲導犬の早期適性予測に関する行動遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 217292
報告番号 乙17292
学位授与日 2010.02.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17292号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

視覚障害者の歩行を誘導する盲導犬は、ユーザーの生活を身体的に補助するばかりでなく、精神的な支えにもなることが期待されている。国内の盲導犬実働数は2008年度についに1000頭を超えたが、いまだ需要を満たすにはほど遠い状態である。その背景として低い育成率があり、候補個体のうち厳しい訓練を経て実際に盲導犬になれるのはわずか3割程度でしかない。盲導犬の育成には、繁殖犬の選抜から、候補個体の誕生・養育・訓練という長い期間を要し、約1歳6ヶ月齢以降に、健康状態・歩行誘導技術・気質面について評価され、盲導犬として適格であるかどうかが最終的に判断される。不適格となる理由の約70%は気質上の問題であることから、気質評価をもとにした盲導犬の早期適性予測が強く望まれている。本研究では、財団法人日本盲導犬協会の協力のもと、盲導犬の早期適性予測を目指した行動遺伝学的研究を行った。

第1章では、気質の定義やその評価方法、気質の遺伝的要因について概説し、盲導犬の適性に関連する文献を渉猟し、これら過去の研究に共通する問題点として結果の再現性が確認されていないこと、客観性の低い適性判断が基準として用いられていることを示した。そこで、本研究では、まず初めに適性に関わる気質を同定し、次に気質の客観的な評価、更には気質に関連する遺伝子の探索といった段階的なアプローチを行うこととした。その際、結果の再現性に常に留意し、それぞれの段階で得られる情報を総合的に扱うことで盲導犬の適性予測方法の開発を目指した。

第2章では、盲導犬適性に関わる気質を同定するために、訓練士による候補個体の気質評価を行った。ラブラドールレトリーバーを対象とし、最終的に盲導犬として適格であると判断された候補犬を"合格"個体、気質上の理由により不適格であると判断された候補犬を"不合格"個体とした。まず、気質に関する22項目からなる既存の評価系について、回答率の高い8項目を用いて因子分析を行ったところ、"落ち着き""作業意欲"という内的整合性の高い2因子が抽出され、合格群の方が"落ち着き"が有意に高いことを示唆する結果が得られた。そこで、既存の評価系と同一の項目からなるアンケート評価を訓練開始3ヶ月後に実施し、担当訓練士1名が5段階評価により回答する方法に改良した。その結果、回答率の高い19項目を用いた因子分析により、"注意散漫""感受性""従順さ"という内的整合性の高い3因子が安定して抽出された。因子ポイントと適性の関連を調べたところ、合格群の方が"注意散漫"が有意に低く、"従順さ"が有意に高く、いずれも再現性が確認された。また、"注意散漫"ポイントを基準とした適性予測では、予測的中率は80.3%に達することが示された。以上より、盲導犬適性に一貫して関連する気質として"注意散漫""従順さ"が同定され、"注意散漫"は適性判断に特に強い影響を与えることが明らかとなった。

第3章では、訓練開始1ヶ月目および2ヶ月目に行動実験を行うことで、アンケート評価よりも早い時期に気質を客観的に評価しうるかを検討した。まず、実験中の心拍・行動反応と盲導犬適性との関連に着目し、実験1~4を通して行動実験の改良を行った。実験1では犬舎ピリオド(15分間の犬舎滞在期間)から始まり、隔離および恐怖刺激(着ぐるみ・ピストル)の提示を含む行動実験を実施したところ、訓練開始2ヶ月目の犬舎ピリオドにおいて、合格群の方が不合格群に比べて有意に低い心拍数を示した。今回用いた恐怖刺激は強度が不適切であったと判断されたため、実験2では犬舎ピリオドのみを実施した。実験2において、心拍数と盲導犬適性の関連は再現されなかったものの、2ヶ月目において合格群の方が伏せ時間は長く、起立時間は短い傾向にあることが示された。犬舎ピリオドが反映するものを明らかにするために、実験3では犬舎における心拍数が高い個体と低い個体に対し、ホルター心電計による日中12時間の心拍数連続測定を行った。その結果、犬舎ピリオドの心拍数は12時間平均心拍数と強い相関を示し、食事時間帯のΔ心拍数は「興奮性」と中程度の相関を示したことから、犬舎ピリオドは平常状態を反映し、興奮刺激提示により興奮性を測定できることが示唆された。そこで、実験4では犬舎ピリオドに引き続き、興奮刺激提示(リード提示・お皿提示・リード入室)を加えたところ、2ヶ月目の犬舎における心拍数・伏せ時間・起立時間は盲導犬適性と有意な関連を示し、リード入室に対して合格群の方が低い姿勢を保つという結果が得られた。次に、全個体に共通して行った犬舎ピリオドおよび適切な刺激であることが判明したリード入室を対象として、心拍・行動反応と盲導犬適性および気質因子の関連性を調べた。犬舎ピリオドについては、2ヶ月目の心拍数は盲導犬適性と一貫した関連を示し、"注意散漫"と弱い正の相関を示す傾向があった。また、2ヶ月目の伏せ時間および起立時間は盲導犬適性と有意に関連し、いずれも"注意散漫"および"従順さ"と弱い相関を示していた。一方、リード入室による10秒後のΔ心拍数は"従順さ"と中程度の負の相関を示していた。以上より、平常状態を反映する犬舎ピリオドでの心拍数や行動反応は盲導犬適性の客観的指標となり、興奮刺激に対するΔ心拍数は"従順さ"の指標となる可能性が示された。

第4章では、盲導犬の適性予測に役立つ遺伝子多型マーカーの探索を目的とし、神経伝達物質関連遺伝子における新規多型を同定し、既知の多型とともに気質因子および盲導犬適性との関連を調べた。まず、グルタミン酸脱炭酸化酵素の遺伝子(GAD1・GAD2)およびモノアミントランスポーターの遺伝子(SLC6A2・SLC6A3・SLC6A4)について、ビーグルの脳由来mRNAをもとに各遺伝子のコード領域の塩基配列を決定し多型を検索した。GAD1に3多型、GAD2に1多型が、SLC6A2に4多型、SLC6A3に4多型が同定され、いずれも新規の一塩基置換多型であり、うち2つは非同義置換であった。多型分布を5犬種(ゴールデンレトリーバー、ラブラドールレトリーバー、マルチーズ、ミニチュアシュナウザー、柴犬)について調べたところ、GAD2の多型を除き、いずれも分布に犬種差が認められた。これまで分布に犬種差が認められ、ラブラドールレトリーバーでの存在が確認されている神経伝達物質関連遺伝子における多型(10遺伝子26多型)を対象として、各個体の遺伝子型を決定し、気質因子および適性との関連性を調べたところ、HTR1B-T955C・SLC1A2-C129Tは"注意散漫"と、GAD1-A339Cは"感受性"と、SLC1A2-C129T・DBH-C789Aは"従順さ"と一貫して関連し、SLC6A3-G528Aは"注意散漫"と強い関連を示していた。一方、盲導犬適性と一貫した関連を示す多型は認められなかった。以上より、新規遺伝子多型の同定は有用であり、気質因子と関連を示した5つの遺伝子多型は、盲導犬適性に関わる気質の予測に役立つ多型マーカーとなりうることが示唆された。

ここまでの情報をもとに、第5章では盲導犬適性および気質因子の予測を目的とした多変量解析を行った。盲導犬適性の予測には、適性(合格または不合格)を目的変数とし、第2章~第4章において適性と一貫して関連を示した気質因子・心拍数・行動反応を説明変数とし、判別分析および名義ロジスティックを行った。判別分析では80.4%、名義ロジスティックでは82.5%の精度でそれぞれ適性予測をすることができ、また異なる群に予測式をあてはめた場合にはいずれの解析でも80.6%の予測的中率が得られた。一方、気質の予測に関しては、各気質因子のポイントを目的変数とし、心拍数・行動反応・遺伝子情報の中から各因子と一貫して関連を示したデータを説明変数とし、重回帰分析を行ったが、いずれの因子も予測精度は低く(R2=0.229, 0.059, 0.225)、異なる群においても実測値と重回帰式から得られる予測値の間に相関は認められなかった。以上より、本研究のデータから気質因子の予測は困難であるものの、盲導犬適性に関しては精度の高い予測が可能であることが示された。

第6章では、総合考察を行った。本研究より、(1)盲導犬適性に一貫して関わる気質として"注意散漫"および"従順さ"が同定され、(2) これら気質因子および行動実験に関するデータを用いて盲導犬適性の予測を高い精度で行えることが示された。気質因子の客観的評価を目的として行った行動実験および候補遺伝子関連解析では、平常状態を反映した犬舎ピリオドにおける心拍・行動反応や、神経伝達物質関連遺伝子における3つの多型が気質因子と一貫した関連を示していた。しかしながら、これらの情報を用いた気質因子の予測精度は低く、今後は気質因子に焦点をあてた行動実験の開発が必須であることが明らかとなった。また、本研究で示した盲導犬適性の予測は訓練士によるアンケート評価を基盤としているため予測時期は訓練開始3ヶ月以降となるが、より早期の予測を行うためには、訓練開始前の客観的な気質評価やゲノムワイドな気質関連遺伝子の探索が必要となるだろう。その際、総合的な判断に基づく盲導犬適性を基準とするのではなく、本研究で見出された安定して評価可能な気質因子を基準とすることで、適性予測に役立つ指標の検出がより確実に行えると考えられた。

適性や気質の予測は、盲導犬に限らず、その他の使役犬や家庭犬においても望まれているが、イヌは人間社会と関わりが深い動物であるがゆえに、各個体の背景は様々であり、行動特性を擬人的あるいは主観的に捉えられることも多く、こうした点が研究進展の障壁となっている。本研究で実施したアプローチを基盤に、盲導犬など遺伝的・環境的な変異の少ない集団を対象に、科学的・客観的データを統計手法を駆使して総合的に評価するシステムを確立することによって、今後イヌの気質評価系が確立され、気質の遺伝・環境要因の解明が進展することを期待したい。

審査要旨 要旨を表示する

視覚障害者の歩行を誘導する盲導犬は育成率が3割程度と低く、育成率向上が求められている。候補個体の適性判断は、健康状態・歩行誘導技術・気質面をもとに行われているが、不適格となる理由の約7割が気質上の問題であることから気質評価系を用いた早期適性予測が強く望まれている。本研究では、盲導犬早期適性予測の基礎となる行動遺伝学的解析が行われた。本論文は6章から構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第5章では本研究で実施された各実験について記述され、第6章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が展開されている。

第2章では、盲導犬適性に関わる気質を同定するためにアンケート評価が行われた。ラブラドールレトリーバーを対象に最終的に盲導犬として適格であると判断された個体を"合格"、気質上の理由により不適格であると判断された個体を"不合格"とし、気質に関する22項目について、訓練開始3ヶ月後に担当訓練士が5段階評価を行った。項目スコアを用いた因子分析により、"注意散漫""感受性""従順さ"という内的整合性の高い3因子が安定して抽出され、合格群の方が"注意散漫"が低く、"従順さ"が高いという有意な関連が一貫して認められた。また"注意散漫"ポイントを基準とした適性予測では80.3%の合否的中率が得られた。

第3章では、盲導犬適性および気質因子を客観的に評価することを目的とした行動実験が考案された。訓練開始1ヶ月後および2ヶ月後に、心拍・行動反応と適性との関連に着目した行動実験が行われた。そこから適切な実験条件と判定された犬舎ピリオドおよび興奮刺激提示(リード入室)について、心拍・行動反応と適性および気質因子との関連が調べられた結果、2ヶ月後の犬舎ピリオドにおける心拍数には適性と一貫した関連がみられ "注意散漫"とは弱い正の相関を示した。伏せ時間・起立時間は適性と有意に関連し、いずれも"注意散漫""従順さ"と弱い相関を示した一方で、リード入室による10秒後のΔ心拍数は"従順さ"と中程度の負の相関を示した。すなわち平常状態に近い犬舎ピリオドでの心拍・行動反応は盲導犬適性の客観的指標となり、興奮刺激によるΔ心拍数は"従順さ"の指標となる可能性が示された。

第4章では、盲導犬の適性予測に役立つ遺伝子多型マーカーの探索を目的に、神経伝達物質関連遺伝子の多型を対象とした候補遺伝子関連解析が行われた。まずグルタミン酸脱炭酸化酵素(GAD1・GAD2)およびモノアミントランスポーター(SLC6A2・SLC6A3・SLC6A4)について翻訳領域における多型が検索され、分布に犬種差のある新規の一塩基置換多型が、GAD1に3つ、SLC6A2に4つ、SLC6A3に4つそれぞれ同定された。次に、新規多型を含む10遺伝子26多型を対象として気質因子および適性との関連が調べられた。その結果、"注意散漫"とHTR1B-T955C・SLC1A2-C129Tの間、"感受性"とGAD1-A339Cの間、"従順さ"とSLC1A2-C129T・DBH-C789Aの間にそれぞれ一貫した関連が示され、この4多型が適性に関わる気質探索の有用なマーカーとなりうることが示唆された。

第5章では多変量解析を用いて盲導犬適性および気質因子の予測が行われた。名義ロジスティックによる適性予測では合否を目的変数に、適性と一貫して関連を示した気質因子・行動実験データを説明変数に用いたところ、予測精度は82.5%と高い値が得られ、また独立した群に適用した際にも80.6%の的中率が得られた。一方、重回帰分析による気質の予測では、各気質因子のポイントを目的変数に、各因子と一貫して関連を示した行動実験データ・遺伝子多型情報を説明変数に用いた解析が行われたが予測精度は低かった。以上より、本研究で得られたデータから気質因子の予測は困難であるものの盲導犬適性の予測は高い精度で行えることが示された。

以上、本研究ではまず盲導犬適性に関わる気質の分析が行われ、"注意散漫"や"従順さ"といった重要な気質因子が同定され、さらに行動実験データを組み合わせることで精度の高い適性予測が可能であることが見出された。また今後の課題として気質因子に焦点をあてた行動実験開発と遺伝子マーカー探索の必要性が示された。こうした研究の成果は、盲導犬の効率的な育成に貢献することはもとより、私たち人を含む高等動物の個性や行動特性とその生物学的背景を理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク