学位論文要旨



No 217300
著者(漢字) 渡邊,日日
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ヒビ
標題(和) 社会の探究としての民族誌 : ポスト・ソヴィエト社会主義期南シベリアに於ける集団範疇と民族的知識に関する記述と解析
標題(洋)
報告番号 217300
報告番号 乙17300
学位授与日 2010.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17300号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 准教授 木村,忠正
 東京大学 准教授 名和,克郎
 国立民族学博物館 教授 佐々木,史郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,ロシア連邦ブリヤート共和国セレンガ郡でのフィールドワーク(1996~1998年,計1年)による,モンゴル系民族であるブリヤート人を対象とした民族誌である。この民族誌は,序章,後の民族誌的記述の為に歴史的背景が描かれる第1部,セレンガ・ブリヤート人の集団範疇・儀礼・言語と言説・儀礼・学校教育についての記述と解析の第2部,そして7つの補遺などから成り立っている。

序章では,民族誌としての本論文が依拠する理論的視座及び著者の民族誌観が述べられる。1989/91年の北ユーラシアと東欧に於ける社会主義体制の瓦解は,単なる政治体制の変更ではなかった。それは,政治・経済・宗教・教育など,社会の様々な領域(下位システム)が同時に,一挙に変化させられる出来事であった。而るに,議論の趨勢は,政治と経済とを可能な限り分離する新自由主義の世界的席巻も手伝って,綜合的・統合的概念としての社会概念の株価を下落させている。そこで本論文は,学の専門分化と社会分化の過程を認めつつも,理論的脈絡及びポスト社会主義状況の解釈双方の観点から,様々な下位システムに於いて集団範疇が如何に多様に縁取られるのかに注目しつつ,全体論的な民族誌を試みている。または,どの様に語りに見られる知識が社会的に生成・循環しているのかという広義のメディア論的視座も重視する。

第1部「ソヴィエト史とソヴィエト『文化』」,第1章「ブリヤーチアの歴史的文脈」では,ブリヤーチアの略史と調査地の概要が述べられる。民族とその準国家的領域([自治]共和国)を基本的支柱として形成されたソヴィエト連邦及び現在のロシア連邦の特徴が指摘され,調査地のトホイ(ザグスタイ村行政区)・ズルガン=デベ(ノヨホン村行政区)・ヌル=トゥフム(ウブル=ゾコイ村行政区)の3村の現状が描かれる。どの村も民営化の影響で,インフラが機能不全となり,失業者が増加している。

第2章「氏族からコルホーズへ-作業仮説による記述」は,セレンガ・ブリヤート人の氏族構成の史的変容を,氏族の社会統合的機能がソ連時代になってコルホーズに取って代わられたという仮説を暫定的に採りながら,描いている。歴史的には,ザグスタイは相対的に西ブリヤート人が多く,ノヨホン,ウブル=ゾコイでは殆ど東ブリヤート人が占め,前者ではTsongol,後者ではTsongol乃至はTabangutが,帰属する氏族範疇として言及される。学校の分布などからしても,ウブル=ゾコイはノヨホンと比べ統合が弱いという特徴がある。

第3章「ソヴィエト『文化』の建設」では,シベリア少数民族に対するソ連文化政策の特徴について記されている。特に,大きな影響を与えたスターリンの「内容に於いてプロレタリア的,形式に於いて民族的」というテーゼ,「文化建設」という理念と実践,識字率向上キャンペーン,女性の「抑圧の解放」,世俗的なソヴィエト新儀礼の導入,そしてこうした諸実践を説明する言説の特徴などが記述,検討される。

第2部「集団範疇と民族的知識の民族誌」,第4章「集団範疇の諸審級-民族と共同性について」は,旧ソ連に於ける民族の在り方及びブリヤート人の東西の差について,語りと統計それぞれに於いて詳述される。旧ソ連では民族が即自的な集団範疇であり,ブリヤート人にとっても同様であること,西ブリヤート人に対する東ブリヤート人の見方,及びモンゴル人に対する見方が,ソヴィエト的「文化」の定義と実践にその根拠の多くを持つこと等が描かれる。ソ連崩壊に伴い「世界」に放り出されたブリヤート人は,少数派であることを意識せざるを得ないが,中には独特の認識でロシアとの民族的共同性を構築しようとする者もいる。他方,ブリヤート性を保持しているという語りに反して,ロシア名が多く名付けられており,語りと実在とのずれが指摘される。最後に,民族を分析するに当たって必要と考えられる6つの基準が提示される。

第5章「民族の断片化-言語変種・親族名称・『多』言語状況」は,ブリヤート標準語・ブリヤート語諸変種・ロシア語の三者関係に関するデータを用い,セレンガ・ブリヤート人の「言語」と集団範疇との関係を考察している。セレンガ郡の諸変種について概観されたのち,ヌル=トゥフム住民の中に,ツォンゴール変種を話すから自分はTsongolだとみなす者が少なくないという特徴が指摘される。親族名称に関する先行研究のデータ及び調査データの比較から,ブリヤート語の変種の多様性が示される一方で,ロシア語の使用の頻度が低くないことも示される。また,ブリヤート語とロシア語のダイグロシア及びコードスィッチについて,考察される。ロシア語使用の領域が狭くない現実がありながらも,セレンガ・ブリヤート人は,両言語を包括する次元で「自分たちの」言語を捉えている処があり,ここに,彼ら彼女らが言語と民族の関係を考える上で孕まざるを得ないジレンマが存在している。

第6章「転換する環境に於ける経済と社会」では先ず,社会主義経済の特徴として屡々挙げられる集団主義概念について吟味され,旧社会主義圏の民営化を扱った文化人類学の先行研究が,文化概念に過度に依拠している点が批判される。その後,ノヨホンの「党大会」コルホーズ,ウブル=ゾコイの「科学」コルホーズが民営化される過程が描き出される。その過程の特徴は,民営化の手法や方向性に関する朝令暮改とも言える変転,及び書類上の民営化というものである。しかし実質的には,コルホーズは破産寸前の状況にあり,村人の多くが失業している。コルホーズの機能不全は,それが単なる生産組織ではなく村落の生活を全面的に支える全的制度であったゆえ,村落全体に影響を及ぼしている。ここで見えて来るのは,自分の故郷(toonto)の境界が民営化によって脅かされ,ソ連時代ならばコルホーズとの相補的関係で維持されていた私的領域がコルホーズとの関係を切られてしまうゆえ,語りの上では,新コルホーズによる村落の統合,その「国家」への対峙関係が表象されるが,実際はその新コルホーズは殆ど「空集合」化している,という事態である。

第7章「oboo儀礼とその言説環境」では,東ブリヤート人の間に見られるoboo儀礼について詳述され,その儀礼の構成要素と儀礼にまつわる語りが分析される。主に石の塚で示されるobooは,嘗て氏族の領地の標識であり,ラマが読経する場であったが,ソヴィエト時代,その反宗教政策により,大々的に儀礼を行うことがなかった。また,チベット仏教寺院(dasan)及び祈祷堂(dugan)は,文字通り,破壊された。ソ連崩壊後,宗教施設が復興・再建され,oboo儀礼にしても多くの人々が参加する形で行われている。こうしたなか,oboo儀礼が仏教的か,シャーマニズム的かと定義しようとする言説上の特徴が見られる。oboo儀礼は,日常的に行われる様々な身体的所作から成り立っており,それゆえ,ソヴィエト時代にしても,部分的には継続して行われてきた。ポスト・ソヴィエト時代に変化したのは,儀礼それ自体というよりも,儀礼を取り巻く言説環境であると言える側面があるが,同時に見逃せないのは,何をもって宗教的とみなすかという判断基準が,宗教的要素を民族的要素と読み換えるソ連時代の言説的特徴に影響されている点であり,定義という行為自体が,ブリヤート人という民族的集団範疇の画定に作用し,作用するゆえ儀礼を語りの対象とするという社会的メカニズムである。だが同時に,oboo儀礼には言説の対象にはなりにくい,という特徴が見られ(次章),知識の社会的布置という問題が浮上する。

第8章「学校教育と民族的知識の社会的循環」は,前章での問いを引き継ぎながら,学校教育の現場とその外部,両者の関係を,民族的知識の社会的循環・布置と集団範疇との相関性を焦点にしつつ,記述・考察する箇所である。先ず新生ロシアで生じた教育の多元主義,及び民族教育の制度化が描かれる。次に,そうした条件下に於いて学校で行われる民族教育の様々な集団行事が概観される。授業の現場に関して本章で報告されるのは,郷土学習と歴史授業,及び慣習や伝統に関する授業の3点である。郷土学習は生徒に自分の故郷(toonto)を調べさせ,記録に残す,という点で,生徒を「ミニチュア民族誌家」にする活動であった。ここに見えるのは,民族的知識が,生徒の作文・パネル,新聞記事,専門書としての民族誌,教師が教材として用いる記事のスクラップなどを通じて,循環するという情報の社会的構図である。その循環は決してなだらかに進むのではない。寧ろ,循環するに連れ,学校でやりとりされる知識(とその定義)と,学校外で用いられる知識(とその定義)とのずれが生じている,と言った方が実在に即している。このことは,上記の2つの授業の現場とその外の日常的文脈との間で見て取れる。授業では,氏族レベルの集団範疇が言及されるのに対し,学校の外では,氏族レベルと父系出自分節(-tan)とが相互に置換可能な形で言及されたり,また,氏族レベルにしても使用する言語変種の基準でもって帰属氏族が言及されたりしてしまう事態があり,さらに,この事態をブリヤート語とロシア語との二言語使用(特にブリヤート語でいうiahan及びugとロシア語のrodの意味の一致とずれ)が一層複雑なものとするのである。

結語では,これまでの記述と解析を踏まえ,新自由主義に於ける社会概念の探求の営みと民族誌作成との間に親和性があることが指摘されて,本論文が閉じられる。

審査要旨 要旨を表示する

渡邊日日氏の論文、『社会の探究としての民族誌 ー ポスト・ソヴィエト社会主義期南シベリアに於ける集団範疇と民族的知識に関する記述と解析』の目的は、南シベリアのブリヤート人の社会範疇と民族的知識を、社会と文化のさまざまな下位システム、政治、経済、言語、宗教、教育等においてとらえ、ポスト社会主義期の混沌と見えるブリヤート人の現実を記述し、それを最終的には現在の世界状況において理解するために、その現実を成立させている要因を解析することである。同氏は、1989/91年の社会主義体制の瓦解に始まるポスト・ソヴィエト社会主義期の、ロシア連邦、ブリヤート共和国、セレンガ郡において、1996年より98年にかけて、計12ヶ月間、モンゴル系民族であるブリヤート人を対象としたフィールドワークを行い、データを収集した。本論文は、そのデータに基づいて書かれた民族誌による分析である。

論文全体は、第1部「ソヴィエト史とソヴィエト『文化』」、第2部「集団範疇と民族的知識の民族誌」から成る。

第1部の第1章「ブリヤーチアの歴史的文脈」では、ブリヤート人の住む土地、ブリヤーチアの歴史的、地理的概況が示され、調査地である3村の現状が描かれる。第2章ではソ連時代に氏族がコルホーズに取って代わられた、という仮説をもとに、各村の成り立ちを記述する。第3章「ソヴィエト『文化』の建設」ではソ連時代に行われたシベリア少数民族に対する文化政策が、彼らの文化に大いなる影響を与えたことが記述される。ことにスターリンの、「社会主義文化」とは何かに関する、「内容においてプロレタリア的、形式において民族的」という有名なテーゼに基づいて、ブリヤート人の文化が「構成」されていったことの指摘がなされる。

第2部の第4章、「集団範疇の諸審級 ー 民族と共同性について」では、ブリヤート人という自意識が、通常、文化的伝統をその淵源と想定されるのとは異なり、ソ連時代の「民族」概念によって強く形作られていることを示す。そこでは、ブリヤート人内部における、東ブリヤート人の西ブリヤート人に対する認識、また、その外部における「モンゴル人」についての見方などが、ソヴィエト的「文化」にその根拠を持つという、意外であるが説得力を持つ分析が行われる。第5章「民族の断片化 ー 言語変種・親族名称・『多』言語状況」では、ブリヤート標準語・ブリヤート語諸変種・ロシア語の三者関係に関する、まことに興味深く重要なデータが提示される。渡邊氏はそれを用い、ブリヤート人はロシア語を少なからず使用しているのではあるが、そうした二つの言葉を使っている言語活動全体を、「自分たちの言語」としてとらえていることを明らかにする。そして、このことが生み出す、ブリヤート人であるということと実際の言語行動とのあいだのジレンマが、彼らの自己認識に大きな影響を与えている様相を的確に描き出す。

第6章「転換する環境に於ける経済と社会」では、文化人類学の先行研究が、コルホーズの民営化を、それを行う人々の民族文化との関係で、理解しようとしてきたことを批判する。民営化の実態は、場当たり的な決定と方向無き改革であり、しばしば書類上のみの民営化であったりする。その結果として、民営化は決して人々の暮らしを自由に豊かにしたのではなく、ソ連時代はコルホーズとの補完的関係の中で維持されてきた「私的領域」がむしろ劣化しているのが現状であることを暴いた。第7章「oboo儀礼とその言説環境」では、ソ連崩壊後、宗教の自由化で、寺院や儀礼が復興されているが、真の変化は、宗教や儀礼そのものではなく、それを取り巻く「言説環境」がソ連の崩壊前後で異なることを示した。また、一方で、宗教的要素を民族的要素と読み換えるソ連時代の言説が、いまも機能していることも明らかにした。この儀礼に見いだされる集団範疇の多層性がポスト・ソヴィエト期にも継続されていることは、続く第8章「学校教育と民族的知識の社会的循環」のテーマにも関連する。学校での民族に関わる三つの授業、郷土学習、歴史授業、そして、慣習や伝統に関する授業は、生徒たちを、小さな民族誌家とする。こうして学校で集められた知識は、生徒の作文・パネル、新聞記事、準民族誌的な叙述とまとめ上げられ、そして、それらを教師が教材として生徒に教えるという回路で循環する。しかし、教育の現場での民族的知識と、日常的な民族的知識は、必ずしも一致しない。ことに、ブリヤート人の社会カテゴリーの根底を成す、氏族、父系リニージといったレベルにおける相違は、ロシア語使用によるずれとあいまって、現在の彼らの民族的知識にさらなる複雑さをもたらしている。

本論文の学問的功績は次の二つにまとめられる。第一に、ブリヤート人の広範囲な社会・文化現象を調査の対象とし、その中に重要箇所を発見し、そこを深く調べることで、他に類を見ない厚みのある民族誌を書ききった。そのことによって本論文は、社会主義崩壊前後の社会変動に関する分野におけるこれまでの研究を乗りこえ、ここから新たな研究を導く役割を果たしている。第二に、通常の研究のように、社会と文化の諸側面を交差させることで変化する社会・文化の様相を描き、その変化の質と方向を見定めるだけではなく、言語と言説を第三の軸として導入することで、社会の諸分野の相関関係をさらに立体的なものとして理解する手法の先鞭を付けた。

むろん、本論文にも問題点がないとはいえない。審査委員からは、その表現が時として難解であることや、広範な諸領域の論証に、軽重のまだらがあり、全体の統一はいまだ十分とは言えないこと、などが指摘された。

しかしながら、こうした点は、本論文の本来の価値をそこなうものではなく、本論文は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしていると判断された。したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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