学位論文要旨



No 217303
著者(漢字) 澤田,晴雄
著者(英字)
著者(カナ) サワダ,ハルオ
標題(和) 秩父山地イヌブナ-ブナ林における構成樹種の空間分布・更新特性とブナ類2種の豊凶特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 217303
報告番号 乙17303
学位授与日 2010.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17303号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 石橋,整司
 東京大学 教授 鎌田,直人
内容要旨 要旨を表示する

イヌブナ(Fagus japonica Maxim.)とブナ(Fagus crenata Blume)は太平洋側の山地帯林を構成する主要樹種で,秩父山地の山地帯にもイヌブナとブナが混生し優占する林分が広く見られる。イヌブナとブナについて,その生育立地・更新・豊凶などの特性,さらに両種が互いに及ぼす影響などを考究することは,イヌブナ-ブナ林の維持機構やそれを構成する主要樹種の更新特性などの基礎的課題の解明にとって重要であり,森林生態系の安定性向上,種多様性の維持などの課題,さらにはイヌブナ-ブナ林の管理手法や造成技術などの応用的技術の開発にも資するところが大きい。しかしイヌブナ-ブナ林に関するこれまでの研究では,空間分布特性に関して大きさの異なる複数の尾根および沢で構成される連続した複雑な斜面上を大面積にわたって調査したことによるイヌブナとブナの混生状況,更新様式に関してイヌブナとブナの更新様式を種別に示したものは多いが実際に混生する両種が互いに与える影響を加味した更新特性,堅果生産量に関して日本海側のブナ林(以下,ブナ優占林分)ほど研究事例の多くない太平洋側のイヌブナ-ブナ林(以下,イヌブナ-ブナ優占林分)における長期に亘る定量的な調査による豊凶特性,などの解明が十分ではではない。本研究では以上の課題に対し,大面積調査区によるイヌブナ-ブナ林における構成樹種の空間分布と林分動態の解明,ギャップ修復過程の追跡調査と年輪解析によるイヌブナとブナが互いの更新に与える影響を加味したイヌブナ-ブナ林の更新特性の解明,イヌブナとブナの堅果生産特性と豊凶のメカニズムの解明,などの基礎的課題の解明を目的とする。

調査地は,埼玉県秩父市大滝(旧大滝村)の東京大学秩父演習林栃本作業所管内第27林班から第28林班ろ1小班にかけてのイヌブナ,ブナ,ツガが優占する天然林である。標高は1,142~1,314mの範囲にある。調査地の年平均気温は8.9℃,暖かさの指数は67.8℃・月で温量的には山地帯の中央部にある。年平均降水量は1,416mmである。積雪は冬季に20~30cmあるが,ほとんど根雪にはならない。

面積6.785haの大面積長期生態系プロット(以下,大面積プロット)における胸高直径5cm以上(7,942本)の毎木データを用い,TWINSPANにより4つの植生型に区分し,CCA(Canonical Correspondence Analysis)により各植生型の地形傾度との対応を分析した。4つの植生型は尾根部から谷部に向かってツガ型,イヌブナ-ツガ-ブナ型,イヌブナ-ブナ型,イヌブナ-落葉広葉樹混生型の順で分布していた。こうした空間分布特性は,地形条件による乾湿傾度の違いと,表土層の侵食・移動・堆積が植生分布に影響を与え,ツガ林からシオジ林への移行部まで緩やかに植生パターンが変化していた。

大面積プロットの毎木調査データを用いて,本調査区における各樹種の胸高直径範囲における中点周りの歪度(Skewness about Midpoint of Range of DBH;以下,SMRD)により各樹種の個体群構造の定量化を行い,時間傾度と植生型との関係を検討した。大面積プロット内の4つの植生型のSMRAは何れも-0.84~-0.86と連続更新型(SMRDが0以下)を示し,樹種別に解析した52種のうち46種が連続更新型(SMRDが0以下),6種が断続更新型(SMRDが0以上)で連続更新型の割合が非常に高かった。また大面積プロット内には,25m×25m(0.625ha)の小区画よりも大きい林冠ギャップ(以下,ギャップとする)は発生していなかった。したがって大面積プロットではイヌブナ,ブナ,ツガなど耐陰性の高い連続的な更新を行う樹種を主体に,ギャップの大きさや地形によっては断続更新型のミズメ,オノオレカンバ,シオジ,メグスリノキ,ケヤキなどが混ざってギャップを修復し,4つの植生型それぞれが安定した個体群維持を行っていた。

大面積プロットの入川林道から下側の4.4375haについて,1994-1996年と2003-2005年に行った毎木調査データから最近9年間の動態特性を明らかにした。大面積プロット林道下側の本数は1,148.4本/ha,BAは44.9m2/haで,他のイヌブナ-ブナ優占林分と比較して本数・BAともに大きく,成熟した林分であると考えられた。また最近9年間の枯死率が1.4%/yr. ,新規加入率が1.7%/yr. で,各動態パラメータは台風の頻度の高かったブナ林よりも,自然攪乱の少ないイヌブナ-ブナ林に近かった。さらに大面積プロット林道下側に調査以前に生じていた枯死木の量から判断して,近年大面積プロット林道下側では台風などによる大規模なギャップが発生していないものと考えられた。

林冠ギャップの修復過程を知る目的で,1989年2月の雨氷害により直径が68.2cmのブナと直径が61.0cmと20.5cmのイヌブナが幹折れして形成された約170m2のギャップの追跡調査を行った。ギャップ内部では低木層あるいは亜高木層にあったイヌブナ,ブナなどが直径と樹高の成長速度を大きくして更新し,ギャップに樹冠を接する位置にある亜高木層あるいは高木層に達していたイヌブナ,ブナなどが樹冠をギャップの中心方向に拡大し,これらがギャップを修復していた。ただし1989年から2008年の19年間で低木層から亜高木層あるいは高木層へと成長した個体の直径は,イヌブナが6.5cm以上,ブナが6.0cm以上であったことから,ブナ類2種がギャップを修復するためにはギャップが形成された時点である程度のサイズが必要であると考えられた。またイヌブナとブナの稚樹は全て,イヌブナが萌芽由来,ブナが実生由来であったことから,林冠木となる稚樹の主な供給様式が両種で異なることが示唆された。

イヌブナ-ブナ林の更新様式を探る目的で,1990年に毎木調査と年輪解析を行い,樹冠群ごとの更新特性を明らかにした。イヌブナが優占する樹冠群では幅広いサイズや樹齢を持つ多くの幹からなるイヌブナ株が樹冠群全体に広く分布していたことから,イヌブナは樹冠群の全体が一斉に更新した林分ではなく,イヌブナ株が枯死と萌芽再生により株内の幹を交代させながら更新しているものと考えられた。それに対しブナが優占する樹冠群は現在の面積が118m2~328m2で,何れも1740~1770年に発生したブナにより林冠が構成されていたことから,ほぼ同年代に更新したものと考えられた。ブナ樹冠群はイヌブナ樹冠群の中にパッチ状に配置され,ブナ樹冠群内のブナ大径木が枯死して林冠ギャップが形成されることにより,その時点である程度のサイズに達していた実生由来のブナ稚樹が更新していた。なおブナは直径成長の良好な時期が個体により異なり,成長量を増大させた年にそのブナと樹冠が接していた場所に林冠ギャップが生じ,光条件が好転したことが理由のひとつとして考えられた。一方,ブナ大径木が根倒れして形成した223m2のギャップの修復過程とギャップ内の更新過程と,先に述べた約170m2のギャップでの調査結果などから,イヌブナ-ブナ林で100m2以上のギャップが発生した場合,ブナ類2種だけではギャップを修復できずに他の落葉広葉樹類も加わってギャップを修復するものと考えられた。

ブナ稚樹の実生からの供給,あるいはイヌブナの実生による分布拡大の可能性を探るために,1984~2006年の23年間シードトラップを設置して両種の堅果生産量を調査した。イヌブナ-ブナ優占林分はブナ優占林分と比べて同等の最大年堅果生産量があったが,前者は後者よりもブナの健全堅果率最大値が低く,虫害堅果率最大値が高かった。イヌブナの豊作年(健全堅果が200個/m2以上落下)あるいは並作年(健全堅果が50個/m2以上)の間隔は3.8年で,こうした年に100m2以上の林冠ギャップの形成がタイミング良く起こればイヌブナが実生により更新することが可能であると考えられた。ブナは豊作あるいは並作年が1993年に1回しかなかったが,凶作年(健全堅果が50個/m2未満)にも健全堅果が200個/m2以上,あるいは50個/m2以上落下しているシードトラップのある年が3度あり,こうした場所に100m2以上の林冠ギャップがタイミング良く形成されれば,ブナが実生により更新することが可能であると考えられた。

一方,シードトラップに落下した両種堅果の解析から,ブナ類2種はともにイヌブナ+ブナ総堅果落下数が多い年ほど両種の虫害堅果率が低くなっており"飽食"が起きていた。またブナ類2種ともに前年比の大きい年ほど各樹種の虫害堅果率が低く"抑制"されていた。これらのことから捕食者飽食仮説を支持する結果が得られ,両種の前年比が小さく同時に両種が多くの堅果を結実させた年に限っていえば,お互いの虫害堅果数を下げる存在であると考えられた。しかし,イヌブナとブナがともに50個/m2未満しか開花しない年は必ずしも一致しないので,イヌブナ+ブナの開花数が50個/m2未満となる年は,ブナ優占林分よりもイヌブナ-ブナ優占林分で少なくなっていた。またイヌブナとブナがともに50個/m2未満しか開花しない年にブナ類2種に共通する種子食性昆虫は個体群を大きく減らすので,イヌブナとブナが混生することで種子食性昆虫の個体群を大きく減らす機会(年)が少なくなっており,互いの豊凶に負の影響を与え合っているものと推察された。

イヌブナとブナについて結実の年変動,落葉量,BA成長量を12年間にわたり調査し,結実の年変動が樹体の成長にどのような影響を与えるのかについて明らかにした。結実の年変動と落葉量は,両樹種とも堅果+穀斗の落下量が多い年ほど落葉量が少ない傾向が見られ,50個/m2以上結実した年には,それよりも結実の少ない年に比べて葉の生産量が減少していた。また,50個/m2以上結実した年にBA成長量が減少する傾向が認められ,その傾向が50個/m2以上結実した年の後も数年続く個体が見られた。これらのことから,ブナ類2種は開花・結実のために大量の貯蔵物質と光合成生産物を生殖器官に分配し,そのことによって消費した資源を回復するために少なくとも数年を要することが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

イヌブナ(Fagus japonica Maxim.)とブナ(Fagus crenata Blume)は太平洋側の山地帯林を構成する主要樹種で、秩父山地の山地帯にもイヌブナとブナが混生し優占する林分が広く見られる。イヌブナとブナについて、その生育立地・更新・豊凶などの特性、さらに両種が互いに及ぼす影響などを考究することは、イヌブナ-ブナ林の維持機構やそれを構成する主要樹種の更新特性などの基礎的課題の解明にとって重要であり、森林生態系の安定性向上、種多様性の維持などの課題、さらにはイヌブナ-ブナ林の管理手法や保全技術などの応用的技術の開発にも資するところが大きい。

本研究は上記の基礎的課題に対して、第1章では、本論文に関係する先行研究をレビューし、本研究の目的および学術上の位置づけを明確にした。また、本研究の主要対象樹種であるイヌブナとブナの秩父山地周辺地域における詳細な分布を明らかにした。その結果を踏まえて、調査対象地域である秩父山地の自然植生におけるイヌブナ-ブナ林の位置づけを明確にした。

第2章では、面積6.785haの大面積長期生態系プロットを4つの植生型に区分し、各植生型の地形傾度との対応関係を明らかにした。さらに大面積プロットではイヌブナ、ブナ、ツガなど耐陰性の高い連続的な更新を行う樹種を主体に、ギャップ(林冠欠所)の大きさや地形によっては断続更新型の樹種が混ざってギャップを修復し、安定した個体群維持を行っていることを明らかにした。

第3章では、大面積プロットの入川林道から下側が、自然攪乱の少ないイヌブナ-ブナ林の動態パラメータに近いことと、調査以前に生じていた枯死木の量から判断して、近年台風などによる大規模な攪乱が生じていない森林であることを示した。また約170m2のギャップでの19年間の追跡調査から、ギャップの修復特性と、イヌブナとブナが更新するにはギャップが形成された時点である程度の個体サイズが必要であることを示した。さらにイヌブナ-ブナ林の毎木調査と年輪解析から、イヌブナの樹冠群ではイヌブナ株が枯死と萌芽再生により株内の幹を交代させながら更新していること、ブナが優占する樹冠群はほぼ同年代に更新したもので、ブナ樹冠群はイヌブナ樹冠群の中にパッチ状に配置されていること、イヌブナ-ブナ林で100m2以上のギャップが発生した場合にはイヌブナとブナだけでなく他の落葉広葉樹類も加わってギャップを修復することを示した。

第4章では、シードトラップを用いた23年間の調査から、イヌブナ-ブナ優占林分はブナ優占林分と比べて同等の最大年堅果生産量があるが、前者は後者よりもブナの健全堅果率最大値が低く、虫害堅果率最大値が高いことを示した。またイヌブナとブナは、豊作あるいは並作年に100m2以上の林冠ギャップの形成がタイミング良く起これば実生による更新が可能であることを示した。一方、イヌブナとブナがともに少量しか開花しない年は必ずしも一致しないので、ブナしかないブナ優占林分と比べて、イヌブナとブナが混生することで種子食性昆虫の個体群を大きく減らす機会(年)が少なくなっており、互いの豊凶に負の影響を与え合っているものと推察した。さらにイヌブナとブナについて結実の年変動、落葉量、BA成長量を12年間にわたり調査した結果、ブナ類2種は開花・結実のために大量の貯蔵物質と光合成生産物を生殖器官に分配し、そのことによって消費した資源を回復するために少なくとも数年を要するという、新しい知見を明らかにした。

第5章の総合考察では、イヌブナとブナの更新予測を個体群構造および更新阻害要因、とくに近年顕在化しているニホンジカによる食害との関係から考察した。そのなかで、ブナは、今後もニホンジカによる食害が継続するとその個体群維持が難しいことを予測した。また、それを回避するためのいつかの具体的な方策を提示した。

以上、本論文では、とくにイヌブナ-ブナ林における構成樹種の空間分布と林分動態、イヌブナ-ブナ林の主要構成樹種であるイヌブナとブナの堅果生産特性と豊凶メカニズムについて既往の研究成果との関連で考察し、イヌブナ-ブナ林の動態およびその維持機構について示唆に富む知見を提供したものであり、学術上応用上寄与するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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