学位論文要旨



No 217310
著者(漢字) 中村,明朗
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,アキオ
標題(和) 香気成分のストレス調節効果に関する研究
標題(洋)
報告番号 217310
報告番号 乙17310
学位授与日 2010.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17310号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 特任教授 佐藤,久典
 東京大学 特任准教授 中井,雄治
 東京大学 准教授 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

香気成分は様々な構造を有する低分子化合物であり、食物や環境についての情報を与えてくれる。さらには,多岐に渡る生理心理的効果を引き起こすことが古くから経験的に知られており、最近ではストレス調節に関する報告例も多い。中でもリナロール(3,7-dimethyl-1,6-octadien-3-ol)は鎮静作用、ホルモンバランス調整作用など比較的多くの研究例が報告されており、また生体への作用は中枢神経系を介していることが示唆されている。リナロールは鎖状モノテルペンアルコールの一つであり、香料原料として食品と香粧品の両方に幅広く使用されている。またリナロールには香気の異なる2種類の光学異性体が存在しているが、 (R)-(-)-体と(S)-(+)-体とでは、異なる生理作用が報告され、(R)-(-)-リナロールには心拍数を減少させる鎮静作用が報告されている。

近年、こうした香りの生理的心理作用に対する関心が高まっており、健康維持や健康促進への貢献が期待されている。しかしながら、生理面と心理面が複合的に影響する作用は複雑であり、in vivoにおける香気吸入の作用を客観的に評価した研究は限られている。そこで本研究では香気成分吸入の生体に対する作用を考証すること目的とし、心理的身体的複合ストレスとして2時間拘束した急性ストレスモデルラットを使用し、香気成分吸入がもたらす血球細胞構成や遺伝子発現プロファイルの変化について考察した。

1.香気成分吸入の血球成分、全血中の遺伝子発現プロファイルに与える作用

Wistar系ラット(8週齢、雄)16頭を以下の4群(対照群;香気成分提示・ストレス負荷共になし、ストレス群;ストレス負荷のみ、ストレス中香気群;香気成分提示・ストレス負荷共にあり、香気群:香気成分提示のみ)に分けた。ストレス中香気群には2時間拘束中に、香気群にはストレス負荷なしに、20μLの(R)-(-)-リナロール(92% ee)を40 Lの香気提示装置中に加熱拡散させて提示した。2時間後速やかに断頭採血した。

対照群とストレス群の比較により、各ストレス指標への拘束の影響を調べた結果、拘束により血漿ACTHとコルチコステロン濃度は有意に上昇した。さらに白血球中の好中球割合は拘束により有意に増加、リンパ球割合は有意に減少していた。対照群とストレス中香気群の比較では、好中球やリンパ球の組成比には、拘束による有意な増加、減少は検出されず、(R)-(-)-リナロール吸入は好中球、リンパ球割合に関してストレス誘導性の変化を抑制した。

次に、血中の遺伝子発現量の変化として香気成分のストレス応答に対する作用を検出することは可能であるか検討するために、全血より抽出した全RNAを用いてDNAマイクロアレイ解析を行った。ヘモグロビンmRNAの除去後、3万以上の転写産物の遺伝子発現量を網羅的に定量可能なGeneChip Rat Genome 230 2.0 Array(Affymetrix)を用い、ANOVA検定で対照群・ストレス群・ストレス中香気群間での発現量に有意差が認められた1,695プローブセット(遺伝子)の発現変動に着目した。これらの遺伝子群を対象にした階層型クラスタリングにより、個体間の発現プロファイルの類似性を解析した。大きくクラスターが分かれたのはストレス負荷の有無であり、さらにストレス中香気群とストレス群は別々のクラスターに分類された。各試験群内で発現プロファイルの類似性は高く、1,695プローブセット中には(R)-(-)-リナロール吸入による影響を受ける遺伝子群が含まれることが示唆された。そこでtukey検定により拘束によっても(R)-(-)-リナロール吸入によっても発現変動する遺伝子群の絞り込みを行うことで、ストレスによって発現量が有意に変化した遺伝子群に対する(R)-(-)-リナロール吸入の影響を解析した。その結果、拘束によって有意に血中発現量が変動した696プローブセットのうち、香気成分吸入の影響を受ける115プローブセットを見出した。よって、香気成分のストレス応答に対する作用を血中の遺伝子発現量の変化として検出可能と考えられた。さらにこれら115中109プローブセットのシグナル値は、(R)-(-)-リナロール吸入によりストレス状態から正常状態に近づく発現変動を示しており、好中球やリンパ球割合と同様の変動パターンであった。

2.香気成分吸入の視床下部の遺伝子発現プロファイルに与える作用

2時間の急性ストレス中の(R)-(-)-リナロール吸入が、血中のストレス応答に作用することを遺伝子発現量の変化として検出できた。しかし、全血における遺伝子発現プロファイルの変化は血球成分構成の変化も反映していることが考えられるため、必ずしも血球細胞レベルでの遺伝子発現の転写調節がなされているとは限らない。ではどのような生物学的機能を持った遺伝子群の発現量が変化したかについて解析するために、ストレス応答中枢であり、また(R)-(-)-リナロールの作用部位であることが示唆されている視床下部を対象部位とし、遺伝子発現プロファイル比較とGene Ontologyによる機能グループ解析を行った。

断頭した直後の16頭のラットから摘出した視床下部を含むブロックから抽出した全RNAを用い、GeneChip Rat Genome 230 2.0 Arrayにより遺伝子発現プロファイルを比較解析した。全遺伝子群を対象として行った階層型クラスタリングは、(R)-(-)-リナロール吸入が遺伝子発現プロファイル変動に大きく寄与することを示す結果であり、次にストレス条件下での(R)-(-)-リナロール吸入の作用に着目したGene Ontology解析を行った。その結果、(R)-(-)-リナロール吸入により神経突起発達、転写調節、細胞形態形成、RNA代謝関連遺伝子群の発現が誘導されたことが示唆された。特に神経細胞分化と遺伝子発現調節関連遺伝子の発現が亢進していた。また香気吸入によるこれらの遺伝子発現量の亢進は非拘束ストレス下の(R)-(-)-リナロール吸入では確認されず、ストレス条件下で生じていることが示唆された。

ストレス変動性の遺伝子群、つまり拘束ストレスによって変動した372プローブセットに対する(R)-(-)-リナロール吸入の作用に着目すると、372中(R)-(-)-リナロール吸入によって変動した遺伝子群は104個であり、このうち77プローブセットのシグナル値は(R)-(-)-リナロール吸入によりストレス状態から正常状態に近づくような発現変動を示していた。一方、残りの27プローブセットには、熱ショックタンパク質類(Hspa1L, Hspb1、Hsph1、Dnajb1)、CCAAT/エンハンサー結合タンパク質(Cebpb、Cebpd)、前初期遺伝子(Fos)など、ストレスに対して必要な生体応答を引き起こす役割を果たす特徴的な遺伝子群が多数含まれていた。特にストレスが引き起こす細胞死を抑制しうる、拘束ストレス誘導性の熱ショックタンパク質関連遺伝子群の発現亢進が顕著であった。

従って、拘束ストレス中の(R)-(-)-リナロール吸入は視床下部において神経細胞の分化や成熟過程を活性化しうる遺伝子群の発現量を亢進し、また拘束ストレスが引き起こす細胞死を抑制しうる機能に作用すると考えられた。

3.香気成分吸入によるストレス調節効果

本研究では香りがもたらす生理心理的作用の一端を明らかにするため、香気成分吸入によるストレス調節効果を定量的に解析する試みとして、2時間の急性拘束ストレス中に、(R)-(-)-リナロールを吸入したラットの血球細胞構成解析や遺伝子発現プロファイル解析を行った。香気成分が生体に及ぼす作用を評価する上で,生体恒常性に与える影響は考慮すべきであり,生体恒常性が十分に維持されている状態においては,香りを提示しても測定した指標に有意な変化が現れないことも考えられる。本研究では(R)-(-)-リナロール吸入は特にストレス負荷条件下で生体指標に有意な変動を引き起こし、好中球やリンパ球割合、血中の遺伝子発現量に関して、拘束ストレスによる影響を抑制することを見出した。また、中枢神経系においても確かに遺伝子発現に影響を与え、転写調節系や神経細胞の分化に関連した遺伝子群の発現を亢進し、ストレス誘導性遺伝子群の発現量を変化させることを見出した。(R)-(-)-リナロールは嗅覚系を介して作用したのか、体内に吸収されて作用したのかは不明である。また(R)-(-)-リナロールによりストレスが緩和されたのか、生体にとって良い方向へ変化したのか言及することは難しい。しかし、香気成分吸入がストレス応答の中枢としても機能する視床下部の遺伝子発現に影響を及ぼしたことは明らかであり、ストレス応答に対する作用をDNAマイクロアレイ解析により検討した本手法は、香気成分の生体に及ぼす作用を考証する上で有効な手法と考えられる。また、経験的に知られる香りの作用は多様であるが、これらを科学的に評価することは難しく、特にヒトを対象とする場合、その評価方法は大幅に制限される。こうした中、血液を解析対象とした研究で香気成分による影響を確認できたことから、ヒト試験における香気成分の新しい評価方法の確立に大きく寄与するものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は香りがもたらす生理心理的作用の一端を明らかにするため、香気成分吸入によるストレス調節効果を定量的に解析する試みとして、2時間の急性拘束ストレス中に、(R)-(一)-リナロールを吸入したラットの血球細胞構成や遺伝子発現プロファイルを解析したもので、論文は2章からなる。

第1章では、20μLの(R)-(一)-リナロール(92%ee)を吸入した急性拘束ストレスモデルラットの血液を分析することにより、好中球、リンパ球割合に関して、(R)-(一)-リナロール吸入が拘束ストレス誘導性の変化を抑制することを見出した。また全血より抽出した全RNAを用い、GeneChipRatGenome2302.OArrayにより遺伝子発現プロファイル解析を行った結果、ANOVA検定で試験群間での発現量に有意差が認められた1,695プローブセット(遺伝子〉中に(R)-(一)-リナロール吸入による影響を受ける遺伝子群が含まれることが示唆する結果を得た。このうちtukey検定により拘束によっても(R)-(一)-リナロール吸入によっても発現変動する遺伝子群の絞り込みを行うことで、ストレスによって発現量が有意に変化した遺伝子群に対する(R)-(一)-リナロール吸入の影響を解析した結果、拘束によって有意に血中発現量が変動した696プローブセットのうち、香気成分吸入の影響を受ける115プローブセットを見出した。香気成分のストレス応答に対する作用を血中の遺伝子発現量の変化として検出可能であり、さらにこれら115中109プローブセットのシグナル値は、(R)-(一)-リナロール吸入によりストレス状態から正常状態に近づく発現変動を示しており、好中球やリンパ球割合と同様に(R)-(一)-リナロール吸入が拘束ストレス誘導性の変化を抑制することを見出した。

第2章では全血の遺伝子発現プロファイル解析では困難であった発現変動遺伝子の生物学的な意味について考察するために、ストレス応答中枢であり、(R)-(一)-リナロールの作用部位の一つとも考えられる中枢神経系の視床下部を対象部位とし、遺伝子発現プロファイル比較とGeneOntologyによる機能グループ解析を行った。全遺伝子群を対象として行った階層型クラスタリングは、(R)-(一)-リナロール吸入が視床下部の遺伝子発現プロファイル変動に大きく寄与することを示し、次にストレス条件下での(R)-(一)-リナロール吸入の作用に着目したGeneOntology解析を行った結果、(R)-(一)-リナロール吸入により、特に神経細胞分化と転写調節関連遺伝子の発現が亢進することを明らかにした。また香気吸入によるこれらの遺伝子発現量の亢進は非拘束ストレス下の(R)-(一)-リナロール吸入では確認されず、ストレス条件下で生じていることが示唆された。ストレス変動性の遺伝子群では、372中(R)-(一)-リナロール吸入によって変動した遺伝子群は104個であり、このうち77プロープセットのシグナル値は(R)-(一)-リナロール吸入によりストレス状態から正常状態に近づくような発現変動を示していた。一方、残りの27プローブセットには、熱ショックタンパク質類(Hspa1L,Hspbl.Hsph1、Dnajb1)など、ストレスに対して必要な生体応答を引き起こす役割を果たす特徴的な遺伝子群が多数含まれていた。このように拘束中の香気吸入は、神経細胞の分化や成熟過程を活性化しうる遺伝子群の発現を亢進すること、ストレスが引き起こす細胞死を抑制しうる、拘束ストレス誘導性の熱ショックタンパク質関連遺伝子群の発現を亢進することを明らかにした。また香気吸入による生体内変動は条件に依存し、これら遺伝子発現の亢進はストレス条件下で生じていることを示唆する結果を得た。

香気成分吸入がストレス応答の中枢としても機能する視床下部の遺伝子発現に影響を及ぼしたことは明らかであり、ストレス応答に対する作用をDNAマイクロアレイ解析により検討した本手法は、香気成分の生体に及ぼす作用を考証する上で有効な手法と考えられる。また、経験的に知られる香りの作用は多様であるが、これらを科学的に評価することは難しく、特にヒトを対象とする場合、その評価方法は大幅に制限される。こうした中、血液を解析対象とした研究で香気成分による影響を確認できたことから、ヒト試験における香気成分の新しい評価方法の確立に大きく寄与するものと期待され、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク