学位論文要旨



No 217311
著者(漢字) 進藤,洋一郎
著者(英字)
著者(カナ) シンドウ,ヨウイチロウ
標題(和) 味蕾特異的遺伝子の同定とその発現様式および機能の解析に関する研究
標題(洋)
報告番号 217311
報告番号 乙17311
学位授与日 2010.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17311号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 特任准教授 朝倉,富子
 東京大学 准教授 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

食品産業において味は食品の評価を決定付ける主要因子であることから、食品の品質向上を実現するうえで味受容機構を理解することは極めて重要である。ヒトを含む脊椎動物の味覚は、食品中の化学情報が末梢味覚器である味蕾で受容され、味神経を介して中枢へ伝達されることによって生じる。味蕾は周辺上皮組織とは明瞭に異なる形態と性質を有するだけでなく、応答特性や分化様式が異なる多様な味細胞の集合体であることが組織学的および生理学的研究により示されてきた。また、近年の分子生物学的手法の発達により味覚受容体をはじめとした関連分子の同定がなされ、味細胞の振舞いを分子レベルで記述することが可能となった。しかし、これまでに得られた生理学的な知見の多くは未だに分子レベルで整合的に説明可能となるには至っていないことから、より詳細に味受容機構を理解するためには分子生物学的知見のさらなる蓄積が不可欠である。このような背景から、本研究ではマウス有郭乳頭由来cDNAライブラリを用いてマイクロアレイ解析および遺伝子配列解析を行うことにより味蕾特異的な発現を示す遺伝子の同定を行った。さらに、各々の遺伝子の舌組織における発現様式を解析し、遺伝子産物の機能解析を行うことにより、味受容機構の一端の解明を試みた。

以上の諸事項を概説した序論に続く第1章では、一連の研究の基礎をなした味蕾特異的遺伝子の効率的同定手法の確立に関する研究について述べる。本研究においては、(1)味蕾と周辺上皮細胞との間に観察される形態的・形質的な差異は、発現する遺伝子の種類の差異により、(2)味受容機構に関与する遺伝子は味蕾特異的発現を示すという2つの仮説に立脚して、マイクロアレイ解析を通じて味受容機構に関与する遺伝子を取得した。研究開始当初においてはマウスの全遺伝子配列を搭載したDNAマイクロアレイが入手困難であったこと、組織試料が微量であるという問題点が存在したことから、マウス有郭乳頭由来cDNAライブラリのインサート配列を固相化したcDNAマイクロアレイを作製するとともに、顕微鏡下で単離した一個のマウス味蕾、およびその周囲の上皮組織からそれぞれ標識プローブを増幅調製する手法を開発し、味蕾と周辺上皮組織での遺伝子発現パターンの比較を行った。解析の結果から味蕾特異的な発現を示すことが予想されたcDNAクローンの一部についてマウス有郭乳頭凍結切片を用いたin situハイブリダイゼーション法により発現を確認したところ、37遺伝子について味蕾特異的な発現が認められた。これらの遺伝子の中には既に味蕾での特異的発現が報告されているGβ3などが存在した。このことは本研究が立脚した仮説が妥当であったことを示している。一方、見出された遺伝子の多くについて既知の遺伝子機能から味受容への関与を予見することが困難であった点も重要であると考えられる。すなわち、本研究で確立した手法は、単に効率的に味蕾特異的な発現を示す遺伝子を探索・同定することを可能にしたばかりでなく、味受容機構をより詳細に理解するためにさらなる分子生物学的知見を得るという目的に適った方法であることが確認された。

次いで第2章の記述に入る。味蕾は応答特性や分化様式が異なる多様な味細胞の集合体であり、また、舌の前方と後方では味神経の応答特性が異なっている。これらの事実は、ある遺伝子が味蕾において果たしうる機能を考察する際に他の遺伝子との共発現様式や発現の部位差を解析することが有効であることを示唆している。そこで、第1章で得られた味蕾特異的遺伝子の機能解析を進めるのに先立ち、既知の味覚関連遺伝子の共発現関係と部位差を検討した研究について本章で述べる。本研究では、マウス茸状乳頭(前方)および有郭乳頭(後方)における甘味・うま味受容体遺伝子T1rs、苦味受容体遺伝子T2rs、味蕾特異的Gα遺伝子Gαgustの共発現様式をin situハイブリダイゼーション法を用いて確認した。その結果、有郭乳頭においてT2rs発現味細胞の97%がGαgustを共発現する一方で、T1r2およびT1r3発現味細胞におけるGαgustの共発現率はそれぞれ10%、12%であり、有郭乳頭では味覚受容体の種類によってGαgustとの共発現パターンが異なることが明らかとなった。また、茸状乳頭におけるT1r2およびT1r3発現味細胞におけるGαgust共発現率はそれぞれ93%、76%であり、茸状乳頭と有郭乳頭の間で共発現パターンが異なることが明らかとなった。これらの結果は、味の情報伝達過程におけるGαgustの寄与が味質や舌の部位によって大きく異なることを示唆しており、報告されているGαgust KOマウスの行動学的・神経科学的表現型を良く説明する。したがって、本研究により、遺伝子の共発現様式や発現の部位差を解析することが、味蕾における遺伝子機能を検討する際の有力な推論基盤を与えることが示された。

続く第3章、第4章では、味蕾特異的な発現を示す遺伝子として第1章で同定されたLrmp/Jaw1、および、Gα14についてそれぞれの発現様式と機能を解析した研究に触れる。Lrmp/Jaw1はリンパ球で同定された遺伝子で、中央部にコイルドコイルドメインを有する膜タンパク質をコードすることが報告されていたが、味蕾における機能は不明であった。Lrmp/Jaw1の発現様式をin situハイブリダイゼーション法および免疫組織化学法で解析したところ、茸状乳頭、有郭乳頭のいずれにおいても甘味・うま味・苦味受容味細胞に限局した発現が確認された。これらの細胞ではIP3受容体(IP3R3)が特異的に発現しIP3-Ca2+シグナル経路に関与することで味応答に必須の役割を果たすことが知られている。相同性解析からLrmp/Jaw1のコイルドコイルドメインがIP3受容体との相互作用に関与する可能性が見出されたため、Lrmp/Jaw1とIP3R3との相互作用の可能性をCOS7強制発現系において免疫沈降法によって検討したところ、両者の間には本ドメインを介した相互作用が認められた。本研究により、Lrmp/Jaw1が味蕾において果たしうる機能として、IP3R3との相互作用を介した甘味・うま味・苦味の情報伝達への関与が考えられることが示された。

一方、Gα14については、有郭乳頭において甘味・うま味受容味細胞に限局した発現が確認されたが茸状乳頭では発現が認められず、発現に部位差が認められた。第2章で明らかにしたとおり、有郭乳頭における甘味受容へのGαgustの寄与は茸状乳頭と比較して著しく小さいと考えられる。有郭乳頭においてGα14 、Gαgust、T1r3の共発現様式を検討したところ、Gα14とGαgustの発現は相互に排他的であり、かつ、T1r3発現味細胞をほぼ完全に充足した。すなわち、Gα14の発現は有郭乳頭のT1r3発現味細胞の中でもGαgust非発現細胞に限られていることが明らかとなった。今後評価すべき課題として甘味受容体とGα14の機能的関係性、Gα14発現味細胞の応答特性、Gα14 KOマウスの表現型が残されているが、本研究の結果は、精緻かつ複雑な味受容機構の一端を表しているとともに、味受容機構の部位差を理解するための新たな手がかりを与えるものである。

第5章は主にFxyd6についての記述である。ここまで述べてきたとおり、cDNAマイクロアレイを用いた遺伝子探索手法は味受容機構の理解を進めるうえで極めて有効な手段である。しかしながら、ライブラリの規模は本法の網羅性に限界を与え、増幅標識法は遺伝子発現強度の正確性に影響する。すなわち、本法は網羅性や正確性の観点から万能ではない。そこで、特に後者の問題を回避する目的で、マウス有郭乳頭由来cDNAライブラリの遺伝子配列解析を実施し、Fxyd6とNa, K-ATPase α1を見出した。本章ではこのFxyd6に関する研究について述べる。Fxyd6は内耳においてNa, K-ATPaseと複合体を形成して膜電位の調節に関与することが報告されていたが、味蕾での発現は報告されていなかった。Fxyd6の発現様式をin situハイブリダイゼーション法で解析したところ、茸状乳頭、有郭乳頭のいずれにおいても甘味・うま味・苦味受容味細胞に限局した発現が確認された。さらに、有郭乳頭においてFxyd6とNa, K-ATPase α1、および、既に味蕾での発現が報告されていたNa, K-ATPase β1との共発現様式を免疫組織化学法およびin situハイブリダイゼーション法で解析したところ、3者はほぼ同一の細胞群で発現することが明らかとなった。本研究の結果は、甘味・うま味・苦味の応答において共通の膜電位調節機構が存在する可能性を示すものである。

以上のように本研究では、味受容機構に関する分子生物学的知見の蓄積を目的として、遺伝子の探索手法と遺伝子機能の推論基盤を構築し、研究を通じて新たに味蕾特異的発現を示す遺伝子として見出されたLrmp/Jaw1、Gα14、Fxyd6について発現様式と味蕾で果たしうる機能について検討を加えた。今後これらの遺伝子の機能について細胞レベルでの生理学的な応答解析やKOマウスの作製と表現型解析を実施することで更に詳細な知見を得ることができると総括される。また、本研究で示した手法を継続することでさらに新たな遺伝子を見出すことが可能である。本研究の成果は、味受容機構の理解に対する新たな手がかりを与えるものであり、食品の品質向上を実現するための理論的基盤の一端を担うものであると展望し、擱筆する。

審査要旨 要旨を表示する

味は食品の評価を決定付ける主要な因子であり、味受容機構を理解することは食品の品質向上に多大な貢献を果たすと考えられる。本研究の目的は、マイクロアレイ解析および遺伝子配列解析を通じて味蕾特異的な発現を示す遺伝子を新たに同定し、その発現様式と機能の解析を行うことにより、味受容機構の一端を明らかにすることにある。

本論文は6章から成り、味蕾特異的遺伝子の同定、ならびに、各遺伝子の発現様式と機能の解析について述べた第1章から第5章までの各章と、得られた知見の総括と今後の展望を述べた第6章から構成される。

第1章は、一連の研究の基礎をなした味蕾特異的遺伝子の効率的同定手法の確立に関する研究について述べたもので、マウスcDNAマイクロアレイを作製し味蕾および周辺上皮における遺伝子発現を比較することにより37種の味蕾特異的遺伝子が見出された。

続く第2章では、味覚受容体TlrsとGタンパク質αサブユニットGαgustがいずれも舌の前部でも後部でも発現するが、その共発現様式は舌の前後で大きく異なることを見出し、味受容能の部位間差の基盤となる分子生物学的知見を得た。すなわち、甘味受容体が舌の前後で共役するGαサブユニットを使い分けていることが示唆された。

第3章では、味蕾特異的な発現を示す遺伝子として第1章で同定されたLrmp/Jaw1の発現様式と機能を解析し、Lrmp/Jawlが茸状乳頭、有郭乳頭のいずれにおいても甘味・うま味・苦味受容味細胞に限局した発現を示すことが論述されている。さらに、Lrmp/JawlがIPsR3結合タンパク質であることをCOS7強制発現系において証明し、Lrmp/Jaw1が味蕾において果たしうる役割として、IPsR3との相互作用を介してIPs-Ca+シグナル経路を調節することで甘味・うま味・苦味の情報伝達に関与する可能性を提起した。

第4章では、同様に味蕾特異的な発現を示す遺伝子として第1章で同定されたGα14の発現様式を解析し、Gα14の発現に部位差が存在することを見出した。すなわち、Gα14の発現は、有郭乳頭、葉状乳頭において認められるのに対し、茸状乳頭、軟口蓋においては認められないことが示された。さらに、有郭乳頭におけるTlr3、Gαgust.Gα14の共発現様式を解析し、Gα14の発現がTlr3発現味細胞に限局していること、Gα14とGαgustの発現が相互に排他的であり、かつ、Tlr3発現味細胞をほぼ完全に充足する関係にあることを明らかにして、第2章で示唆されたGタンパク質の使い分けを組織レベルで証明した。

第5章ではcDNAライブラリから見出したFxyd6およびNa,K-ArPaseα1が、Na,K-ArPaseβ1と共に甘味・うま味・苦味応答味細胞において共発現することを証明し、甘味・うま味・苦味の応答において共通の膜電位調節機構が存在する可能性を示した。さらに、Fxyd6、Na,K-ArPaseα1、Na,K.ArPaseβ1から構成されるアイソザイムの特性が甘味・うま味・苦味応答味細胞の電気生理学的性質と良く整合することを既知の知見に基づいて考察した。

第6章では、一連の研究によって味受容能の部位問差の分子基盤、IPs-Ca2+シグナル調節経路、膜電位調節機構に関する新たな知見が得られたことを総括し、その意義と今後の研究指針について考察した。

以上、本研究の成果は、味受容機構の部位差をもたらす分子的基盤や新たなシグナル調節機構の存在を示した点にあり、味受容機構の詳細な理解を可能にするとともに味に優れた食品を開発するための新規の理論的基盤を提供することが期待され、学術的・応用的に貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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