学位論文要旨



No 217313
著者(漢字) 渡辺,健太
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ケンタ
標題(和) 加齢に伴うマウス嗅神経およびその支持組織の形態学的、細胞動態学的変化に関する研究
標題(洋)
報告番号 217313
報告番号 乙17313
学位授与日 2010.03.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第17313号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 新家,眞
 東京大学 准教授 岩崎,真一
 東京大学 講師 山口,正洋
 東京大学 講師 太田,聡
内容要旨 要旨を表示する

[序論]

哺乳類の嗅覚系の末梢化学受容器である嗅粘膜は鼻腔の後上部に位置し、嗅上皮と粘膜固有層に分けられる。嗅上皮は主に3種の細胞系からなる多列層構造を示し、下層に位置するglobose basal cell (GBC)が嗅神経の前駆細胞として存在し、徐々に表層に移動、olfactory receptor neuron(ORN)に分化し軸索を嗅球に投射するというターンオーバーを生涯繰り返す。嗅上皮の下層である粘膜固有層には嗅粘膜を覆う粘液を産生するBowman腺や血管、嗅神経軸索の集合である神経束が存在する。このように嗅上皮は中枢神経系の一部でありながら生後も高い再生能力を有しているが、聴覚や視覚といった他の感覚系と同様に嗅覚も加齢に伴い減退することが知られている。65~80歳の年齢群では半数以上、80歳を超える年齢群では75%以上の人口が何らかの嗅覚障害があると報告されているものの、加齢に伴う嗅覚減弱の病態生理のメカニズムについてはほとんど明らかにされていない。また、中枢神経系でありながら生涯にわたり再生を繰り返すという特殊な能力は再生医療への応用にも期待がもてる。このような背景から、本研究では加齢モデルマウスを用い、加齢変化に伴う嗅上皮の神経細胞および支持組織のolfactory ensheathing cell(OEC)やBowman腺の形態学的、細胞動態学的変化を検討した。

[方法]

生後10日~16ヶ月までの加齢モデルマウス標本を用い、光学顕微鏡下に免疫組織化学、組織化学的手法により、嗅上皮、Bowman腺およびOECの形態学的、機能的変化や細胞動態の変化を調べた。細胞増殖能の指標としてBrdU、幹細胞様能の指標としてMusashi-1の発現を解析した。また、細胞栄養因子であるFGF-2およびその受容体の発現を粘膜固有層のOEC周囲で観察した。嗅上皮長の計測やOEC細胞密度の計測の際には画像解析ソフトなどコンピューターも用いた。さらにORN軸索断面を透過型電子顕微鏡を用いて観察し、軸索径や軸索密度を計測した。

[結果]

生後5ヶ月以降のマウス嗅粘膜では変性が明らかとなり、嗅上皮の菲薄化、呼吸上皮化生などもみとめられた。嗅粘膜全体に対する変性の割合は加齢とともに統計学的有意差をもって増加することが明らかとなった。また、粘膜下に存在するBowman腺にも形態異常がみとめられ、この異常は嗅上皮の変性と有意に相関することが明らかとなった。

嗅上皮においてBrdUは主にGBCに陽性となり、GBCの増殖活性の指標として計算した単位嗅上皮長あたりのBrdU陽性GBC数は生後10日から3ヶ月の間に有意差をもって減少した。

神経幹細胞のマーカーであるMusashi-1の発現はGBCおよび一部の未熟ORNにみとめた。10日齢マウスにおいては嗅上皮のほぼ全長にわたり嗅上皮基底部に明瞭に確認されたが、加齢によりその発現部位は減少し島状の分布となった。ただし、生後16ヶ月の老化マウスにおいても限局的ではあるがMusashi-1発現をみとめた。

電子顕微鏡による観察では、嗅神経軸索径は生後10日から生後3ヶ月の間に有意に減少したものの、軸索の密度は加齢による変化を示さなかった。変性の強い老化マウスにおいても、残存したORN軸索には形態学的異常をみとめなかった。

OEC細胞密度は月齢による統計学的有意差はみとめなかったが、OEC細胞増殖活性は生後10日から30日で統計学的有意差をもって急激に減少した。この増殖活性の減少パターンは他の末梢嗅覚器の細胞種と同様のパターンであったが、BrdU labeling indexは他細胞種より極めて低値であった。

一部のOECはFGF-2に陽性となり、全OECに対するFGF-2陽性OECの割合は生涯にわたり約35%で有意な変化をみとめなかった。FGF受容体に関してはFGFR-2とFGFR-3が加齢性変化を伴わずに粘膜固有層のORN軸索に発現をみとめた。

[考察]

加齢により嗅上皮およびBowman腺は組織学的に変性が進行することが明らかとなった。これらの形態学的変化が示されただけでなく、増殖能や幹細胞様能といった機能面でも退行性変化を起こすことが明らかとなった。このことは老化マウスが若年マウスに比較し嗅上皮傷害時に組織学的な回復に時間がかかり、かつ不完全であるという事実と符合する結果でもあり、実際のヒトの臨床において、高齢者ほど嗅覚障害の回復率が低下するという事実とも一致する。また、Bowman腺の明確な機能は未だ解明されていないが、加齢によるその機能低下も推測される。

加齢によるORN軸索の細小化は加齢による嗅神経の伝導速度が低下することも示唆し、また、神経の成熟度と軸索径の相関も推測させる。ただし軸索の密度には変化がなく、細胞間隙や神経束内の小血管、OECの突起などが増加する可能性を示している。

OECの細胞増殖活性は他の細胞種と同様のパターンで低下するが、BrdU labeling indexはかなり低値であり、OECが末梢嗅覚系において比較的安定した存在であることを示している。細胞密度においても他の中枢神経系グリアでは加齢に伴い増加する傾向にある一方、OECでは一定を保った。これらの細胞動態はOECの生物学的特徴であり、生涯にわたるORNの安定した軸索延長や嗅球への軸索誘導に寄与している可能性があると考えられた。OEC周囲のFGF-2やその受容体の発現に加齢性変化がないこともこの安定性を裏付ける結果であると思われる。これらの結果は加齢に伴う嗅覚障害の病態解明や治療だけでなく、嗅粘膜細胞を用いた再生医療への臨床応用に向けての基礎的な知識として貢献できるものと期待される。

加齢による嗅上皮変性の進行

加齢によるGBC増殖能の変化

加齢によるMusashi-1発現の変化

A:生後10日 B:生後1ヶ月 C:生後3ヶ月 D:生後16ヶ月

加齢に伴うOEC細胞密度の変化

加齢に伴うOEC増殖活性の変化

加齢に伴うOECのBrdU labeling indexの変化

審査要旨 要旨を表示する

本研究は加齢に伴う嗅粘膜の組織学的な変化を明らかにするために、生後10日から16ヶ月に至る加齢モデルマウスを用い、嗅上皮の神経細胞およびその支持組織であるolfactory ensheathing cell(OEC)やBowman腺の形態学的、細胞動態学的変化を検討したものであり、下記の結果を得ている。

1.加齢に伴う嗅上皮の変化の検討では、変性、菲薄化などの形態的変化が見られ、加齢とともに嗅上皮変性が進行することが示された。粘膜固有層のBowman腺も組織学的変性が生じ、嗅上皮変性の割合と相関することが示された。また、BrdUやMusashi-1の免疫染色性の低下が見られ、増殖能や幹細胞様能の減衰などの機能的変化に対応するものと考えられた。

2.嗅神経の粘膜固有層における軸索の形態的変化を電子顕微鏡を用いて観察した。嗅神経軸索の密度は加齢とともに変化しないものの、軸索径に関しては生後10日から3ヶ月の間に減少することが明らかとなった。変性の強い老化マウスにおいても、残存した嗅神経軸索の微細構造は非変性動物と明らかな相違はみられなかった。

3.嗅粘膜の粘膜固有層の嗅神経束内に存在するOECの加齢による細胞動態の変化を観察した。OECの細胞密度は生涯一定であるが、細胞増殖活性は生後まもなく著しく減少しその後低レベルで保たれることが明らかとなった。この細胞動態は他のグリア系細胞と異なり、OECに特徴的であることが示された。また、そのBrdU labeling indexは他の細胞種より極めて低く、OECが比較的安定した存在であることを示した。

4.嗅覚系をはじめとする中枢神経系で重要な神経栄養因子と思われるFGF-2とその受容体(FGFR)について粘膜固有層における加齢による発現の変化を検討し、FGF-2陽性OECの割合や嗅神経軸索におけるFGFR-2およびFGFR-3の発現は加齢とともに変化しないことを明らかにした。

以上、本論文はマウスにおいて、加齢に伴う内因性変化および環境因子による影響の結果として嗅上皮や嗅神経に形態学的、機能的な退行性変化が引き起こされ、粘膜下のBowman腺もそれに相関して変性することを明らかとした。一方で、OECは生涯にわたる嗅神経の軸索延長や誘導に寄与すべく、比較的安定した存在であることも示した。このように加齢過程における嗅粘膜の組織学的変化の全体像を解析したことは加齢による嗅覚の減衰の裏付けとなるだけでなく、加齢に伴う嗅覚障害の予防や治療、さらには神経幹細胞やOEC移植といった再生医療への臨床応用に向けての基礎的な知識として貢献できるものと期待され、学位の授与に値するものと考えられる。

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