学位論文要旨



No 217317
著者(漢字) 木村,直樹
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ナオキ
標題(和) 幕藩制国家と東アジア世界
標題(洋)
報告番号 217317
報告番号 乙17317
学位授与日 2010.03.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17317号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 松井,洋子
 立教大学 教授 荒野,泰典
 神戸女学院大学 教授 真栄平,房昭
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、一九八〇年代から活性化し大きく議論が深化した、日本近世の対外関係に関する諸研究に対して、二つの視点から、さらなる検討を行った研究である。

その課題とした二つの視点とは、第一に、十七世紀に対外関係が固定化していく過程を動態的に把握すること、そして第二に、その対外関係の場である長崎を構成する諸要因の特質を社会的編成と政治的枠組みかの関係から検討するというものであった。

第一の視点に関しては、本論文の第一部の第一章から第五章において、おおよそ一六三〇年代から一六七〇年代までの約半世紀の時代を中心に取り扱った。この時代は、寛永一六年のポルトガル船の日本追放以後、新たな異国との関係を持たなくなることから、結果的に一八世紀末に祖法として認識されていくことになる体制ができあがり、またそれに続く家綱政権後半期、寛文延宝年間に定着し、伝統化していったとされる。

しかし、当時の日本を取り巻く周辺の事情はまったく異なり、むしろ中国大陸における明から清への王朝交代の影響が、いよいよ東アジア全体の勢力関係に及び始め、日本近海は不安定な時代へ突入していった。また同時に、幕府自身による国内でのキリシタン禁制政策貫徹という政策的要請から、幕藩制国家が自らの政治選択として主体的にポルトガルなどのカトリック諸国と対峙するという方針をとっており、日本沿岸における警備体制の強化が迫られた時代であった。その中で、幕府は、キリシタン禁制政策を国内において堅持し、さらにそれを強化しなければならず、また寛永年間前半以来行われている日本人の海外渡海規制、つまりキリスト教、特にカトリックと日本人との接触を絶つために、日本人自身が、朝鮮釜山の和館や琉球以外の海外へ出国することができないという制度も存在し変更はできなかった。その上で、貿易制度を維持して、安定的に海外から必要な物資の調達しなければならなかった。

東アジア世界の混乱という外在的な状況と、キリスト教禁制政策の延長線上にあるカトリック勢力との対峙状況、という二つの状況に対して幕藩制国家は対外政策を打ち出し、そして現実的に対応する必要があった。

刻々と変動するアジアでの勢力間の力関係について、幕府は、「華夷変態」の編纂やオランダ風説書の提出に代表されるように、可能な限り海外情報を収集し、その情報を踏まえて、日本近海での平和を実現化していくことが重要であった。すでに、国内に対しては、ポルトガル・スペイン船の襲来に備えて一六四〇年代に構築した沿岸警備体制を、船籍確認を優先させるという方針をのもとで現実的かつ穏健に運用していた。一六六〇年代以降は、その国内体制を前提として、今度は来航する異国船に対して、激化する日本近海での異国船間の紛争を停止するよう幕府は調停した。紛争調停の手段として、違反する勢力に対する科料と、琉球船の全面的な保護政策が打ち出されていった。

また、西洋諸国との関係で言えば、幕府は寛永年間末の段階で、ポルトガルとスペインとの関係を断絶し、オランダとの関係は維持するという、三ヶ国に対する方針ができていたが、それ以上に体系的な政策が存在していたわけではなかった。一六七三年のイギリス船への対応という経験を経て、体系的に幕府内部で方針を考える機会が出来たとみることができるであろう。

このように幕藩制国家は、東アジア世界の混乱を視野にいれつつ、一方で西洋諸国との関係についての政策を一六七〇年代にいたるまでに構築していった。オランダ人を誤って捕縛したブレスケンス号事件、唐船間の抗争、オランダ東インド会社と鄭成功一族との日本近海での紛争、本国での戦争状態波及によるイギリス東インド会社とオランダ東インド会社の対抗関係、明清交代によって清を宗主国とした琉球の船への鄭成功一族の襲撃など、さまざまな事件が勃発し、そして、それぞれが日本に貿易などで来航する勢力の船であったために、幕府はその政策実現化のためにさまざまな要素を考慮に入れた政策を行ったのである。

また、キリスト教禁制政策を遂行する上で、外に対してはその勢力の日本への浸透を拒み、国内においては残存するキリシタンを取り締まるという二つの側面の一体的運用が必要であったため、結果的ではあるが、幕府大目付井上政重が、異国船対策と「長崎仕置」とキリシタン禁制を、一六三〇年代から五〇年代にかけて実務面で統括していた。この体制のもとで基本的な政策基調が体系化し、家綱政権がその方針を踏襲する中で、井上に一元的に実務レベルでの指揮と情報収集が集中される体制は解除され、キリシタン禁制は大目付、異国船は長崎奉行と老中とか処理する体制が寛文年間に登場する。老中―長崎奉行による異国船政策の処理システムの登場は、ちょうど日本近海の混乱がピークに達する一六六〇年代と一致するため、この新たな政策処理体系の下で、幕藩制国家は日本近海での諸問題に対処していった。もともとは一六四〇年代にポルトガル船追放という対カトリック教国政策に端を発した来航する異国船への警戒体制の模索が、実はその後のアジア動乱時期に完成を見ていると位置づけられる。

本研究の第二の課題であった、長崎を構成する諸要因の特徴の分析については、第二部第一章から第五章までで検討し、下記のような結論を得た。

対外関係の場としての長崎には、幕府直轄地という性格を持ち、そのために、長崎奉行を頂点とする長崎奉行所が設置され、長崎支配を行った。島原の乱以降は、長崎奉行が現地に駐在するという近世を通じた長崎支配の原型ができあがった。

しかし、長崎奉行は、その僅かな家臣団と、奉行を補佐するために派遣されてくるやはり少数の幕臣だけでは、長崎支配を行うことはできない。そのため、固有の軍事力を持たない長崎奉行は、交互に駐留する佐賀・福岡両藩の軍事力を管理した。さらに九州諸藩と奉行との連絡のために、近世中期以降は、西南諸藩から長崎へ、聞役が連絡担当者として常駐するようになっていった。佐賀藩の場合、近世初期から長崎との関係が深く、十八世紀末になると、警備の遂行に加え、金融や流通による関わりといった諸点を考慮に入れながら、幕府の役儀を果たし、そして長崎市中との関係を円滑に維持するという方向をとる必要があった。

また、対外関係の場としての長崎は、幕府にとり、単に外交交渉を行うために場所にとどまるだけではなく、来航する中国・オランダ船を管理し、必要な外国産の物資を貿易によって手に入れる場でもあった。貿易を行うためには、取引の実務を担う長崎市中の存在が重要であり、貿易を円滑に実施するために様々な役割の人々が必要であり、その中で対極的な存在が、通訳者としての特殊な技能を要する通詞であり、また港湾都市の荷役業務に欠かせない単純労働を提供する日用たちであった。本研究で検討対象としたオランダ通詞は、文化的媒介者として、日本の近代化を理解するうえでも重要な役割を果たしているという従来からの諸見解は確かに一面では正しいが、しかし、彼らは貿易によって成り立っている長崎の一構成員という立場を逸脱することはできない。長崎の構成員であるからこそ、十八世紀末の段階でオランダ通詞たちは、貿易条件の緩和などの長崎にとっての利潤となる政策が実現化するよう行動をとった。その行動を支えていたのは彼らの長崎構成員としての側面である。本研究では、一側面としての分析に留まったが、彼らの縁戚関係からしても、長崎の貿易利潤と一体的な立場にあることを素描することができた。

また、歴代の長崎奉行は、その支配のあり方を、比較的に緩やかにするにせよ、あるいは厳密な方向にするにせよ、長崎の成り立ちを考えなくてはなかった。本研究でとりあげた、安永・天明・寛政の年間の奉行で言えば、長崎市中やオランダ商館の期待の高かった久世広民、厳密な支配で望み怨嗟の対象となった戸田氏孟、緩やかな支配の度が過ぎて失脚した末吉利隆らは、在任中にその長崎の経済的規模を維持することに腐心していたことは同様であった。いずれも幕府の財政事情の悪化という背景を共有しつつも、日用など下層労働者も含めた都市長崎の成り立ちを考えていた。

しかし、松平定信に重んじられ戸田に続く路線を継承すると見られながらも汚職を防げず未完の改革者となった水野忠通の登場は、長崎にとり、都市としての機能や規模を縮小させる新しい指向性を持った局面を迎えることを意味していた。十九世紀の長崎支配、あるいは長崎から一面では離脱し幕臣化するオランダ通詞の存在など、近代への胎動に応じた姿を垣間見ることができるのである。

十八世紀末に変容を遂げてくるオランダ通詞に注目した場合、その語学の力量は一七七〇年代に高められる準備がなされ、天明年間には集団的翻訳体制をある程度運用することが可能となっている。そして、彼らを通じて発信される日本情報が欧米で受容され、やがてその理解にたった幕末の欧米列強の来日を迎えることにつながっていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本近世の対外関係の成立過程を17世紀の東アジア世界のなかで政治史的に考察し、さらに対外関係を担った都市長崎の特質に迫ろうとしたものである。まず「序章」で近世対外関係史研究の課題を提示し、10章からなる論文を2部に編成している。

第I部「十七世紀の東アジア世界と幕藩制国家」では、江戸幕府の17世紀の対外政策が、明清交替期の東アジア世界で活動する諸勢力と関連づけて論じられる。1章ではポルトガル船追放後の異国船対策を取り上げ、諸大名に海岸防備を命じるとともに、渡来船の船籍と来航目的を確認する対応策が家綱政権期に確立したと指摘する。2章は17世紀半ばのキリシタン禁制強化を大目付井上政重の活動から検討し、宗門改め役の成立過程を解明する。3章は明清交替期の東アジア海域における諸勢力の角逐と紛争への幕府の対応を論じ、来航船舶と琉球船の保護を基本方針としたと指摘する。4章は1673年にイギリス船が貿易再開交渉に来日した事件を論じ、オランダ風説書の情報が重要な役割を果たし、要求拒絶を通して西欧諸国との関係を固定化したと主張する。5章はオランダが日本に提供する情報について、取捨選択を経て作成されるオランダ風説書とそれ以外について論じる。

第II部「幕藩制国家の対外政策と長崎」では、直轄都市長崎が江戸幕府の対外関係を担う諸構成要素から論じられる。1章は未解明であった長崎奉行との連絡調整にあたる長崎聞役の成立過程を熊本藩の事例で検討し、17世紀後半に長崎奉行との個別的な関係から吏僚的な関係に転換したと指摘する。2章は18世紀後半の幕府の長崎支配政策を論じ、長崎奉行により支配のあり方に差異が生じたことを明らかにする。3章では、1790年の貿易半減令が、完全実施に半世紀を要して貿易面にさしたる影響はなかったものの、通詞や地役人の再編成により長崎に大きな影響を及ぼしたことを解明する。4章は、長崎警衛担当の佐賀藩が18世紀後半に多様な関係を長崎と結び、オランダ通詞は語学力を向上させるとともに、貿易に絡むさまざまな関係を住民と結んでいたことをえぐり出す。5章は、18世紀後半のオランダ商館長ティツィングの日本史理解と馬場文耕の著作との関連を追う。

本論文の主要な成果は、(1)江戸幕府の対外政策の形成を、明清交替期の東アジア世界に登場する諸勢力とキリシタン禁制策との関わりで捉えることにある程度成功したこと、(2)オランダが提供した情報の作成と伝達の実態、およびその意義を具体的に解明したこと、(3)未解明であった長崎聞役の成立過程を一例ながら明らかにしたこと、以上三点である。

本論文は、オランダ語史料、幕府史料、西南諸藩の藩政史料を博捜し、着実かつ綿密な史料読解と分析を通して多くの新たな事実を発掘し、その成果を活かして近世対外関係史研究の進展に貢献している。しかし、第1部と第2部のつながりが未整理であり、18世紀への展望を描き切れていないところもあるが、本審査委員会は、上記のような顕著な成果に鑑みて、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するとの結論を得た。

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