学位論文要旨



No 217325
著者(漢字) 藤嶋,亮
著者(英字)
著者(カナ) フジシマ,リョウ
標題(和) 国王独裁対軍団運動 : 1930年代ルーマニアにおける権威主義体制とファシズム運動のダイナミクス
標題(洋)
報告番号 217325
報告番号 乙17325
学位授与日 2010.03.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第17325号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 高橋,進
 東京大学 教授 中谷,和弘
 東京大学 教授 高原,明生
内容要旨 要旨を表示する

戦間期ルーマニアに現れた軍団運動(鉄衛団)は、学生運動の時期も含めると、1919年から1941年までという驚異的な持続力を持つとともに、1937年末には国内最大の大衆運動に成長し、その年の総選挙では第三党に躍進、また1940年には政権参加を果たすなど、30年代のルーマニア政治の帰趨を左右した。独伊以外では最も力をもったファシズム運動と評される所以である。その一方で、死の崇拝といった独特の神秘主義や、政治家の暗殺、ユダヤ人迫害などの激烈な行動が大きな注目を集めてきた。軍団は「戦間期ヨーロッパに存在した最も特異な政治組織」(E・ノルテ)であった。

同時に、軍団と対峙した体制側も特異な性格を有していた。他の東欧諸国とは異なり、30年代後半まで19世紀以来の寡頭的議会制を改編した「再版」寡頭的議会制が存続するとともに、議会制崩壊後に樹立された国王独裁も、国王の恣意的な権力行使・物理的暴力への過度の依存という点で突出していた(「スルタン主義」への傾斜)。

さらに、この「体制」と「運動」の間には極めて複雑なダイナミクスが生じ、最終的には両者における最も赤裸々な暴力が直接対峙するという事態が生じた。本稿では、このような体制と運動の相互作用と、それと結びついた体制変動の分析を試みた。その際、「中途の」民主主義(J・リンス)の崩壊過程を分析するために、「再版」寡頭的議会制という概念と、「三つの政治空間」(「宮廷政治」空間、「立憲制-議会制」空間、「広場の政治」空間)という枠組を導入したことが本稿の最もユニークな点である。とりわけ、政治空間の相対的重要性の変化と、それぞれの空間の中での各アクターの比重の変化という二重の変動に着目し、両者が「かみ合わさる」過程・態様や、変化が生じる要因を解明することで、崩壊過程の構造的・動態的分析が可能となった。

以上の枠組みに基づき、本稿では1933年末-40年の時期の「体制-運動ダイナミクス」を分析した。この時期は、君主制では「親政モデル」への傾斜が進み、遂には国王独裁が樹立される過程、議会制・政党政治では「再版」寡頭的議会制の腐蝕・崩壊過程に対応している。「広場の政治」空間で軍団が飛躍的成長を遂げたのも、まさにこの時期であった。この三つの過程は同時並行的に進行したが、ある時期まではそれぞれ固有のメカニズムに規定されていた部分も大きかった。それが、次第に直接的かつ密接な相互関係をもつようになるのである。

まず、1933年末-35年の時期には、軍団による首相暗殺を契機として、戒厳令や検閲、包括的治安立法などの「例外体制」が導入され、それが恒常化していく。この結果、体制の権威主義化と議会政治の空洞化、つまり「立憲制・議会制」空間の収縮が徐々に進行する。同時に、国王の支持に全面的に依拠した国民自由党(PNL)内閣の下、政府高官人事を中心とする国王の政治介入が本格化し、それは政党内部にまで及ぶことになる。他方で、この時期には、軍団は政府の徹底弾圧により停滞と政治的孤立を余儀なくされていた。

続く1935-36年の時期に、軍団は合法政党の創設や青年の奉仕活動(「勤労キャンプ」)といった穏健路線によって組織再建に成功する。さらに、共産主義脅威論の高揚とPNL政府の宥和政策とが相俟って、街頭闘争に有利な環境が出現したことが運動の拡大を促進した。しかし、36年前半に軍団員の暴力行為が急速にエスカレートしたことは、統治権力側にとっても誤算であり、次第に両者の緊張が高まっていく。同時に、国民農民党(PNT)の退潮も重要な意味を有していた。同党は潜在的には議会主義の支柱となり得る政党であったが、国王への屈服と極右勢力による攻勢への後退を余儀なくされたからである。この結果、国王の権力基盤が一段と強化され、「立憲制・議会制」空間の収縮が加速する。

以上の体制変容の結果、1936年末-37年初頭の時期に、「宮廷政治」空間と「広場の政治」空間との間に直接的相互作用が生じることになった。とりわけ、宮廷側が軍団の「抱き込み」を図り、軍団指導部との接触を試みたこと、そして交渉が不首尾に終わったことは重大な意味をもった。交渉決裂に加えて、街頭を軍団に掌握され、その直接的な衝撃・圧力に晒されるという事態に直面した統治権力は、軍団の馴化の可能性を見限り、治安機関に全面的に依拠した「封じ込め」政策に着手するのである。この過程において、治安・司法機関や青少年組織への勢力扶植に努めた結果、国王の権力領域はさらなる増大を示すことになる。ここに、軍団の上昇と体制の権威主義化という二つの現象が直接的かつ全面的に結合するに至るのである。

1937年を通じて、この二つの現象が加速度的に進行し、両者の相互作用も拡大する。これを促進したのが民族問題と「国王問題」の先鋭化である。前者は、極右勢力による学生/専門家団体の掌握と少数民族の排除・襲撃、政府による「ルーマニア化」政策という上下のベクトルが絡み合った結果であるが、軍団の政治的資源を増大させたのみならず、市民的自由の制限・抑圧をさらに進行させた(「立憲制-議会制」空間の収縮)。

後者は、国王の権力領域の肥大化の反映である。これは37年秋の内閣危機において、国王が議会・政党勢力の自立性・自律性を否定し、「親政モデル」への傾斜を明白にしたことで決定的となった。同時に、「国王問題」の先鋭化は、政治勢力の配置・均衡に重大な影響を及ぼした。国王と軍団に挟撃されたPNTは、後者との提携という苦渋の決断を下すことになるが、結果的にこれは、立憲主義・議会主義を奉じる勢力の自殺行為を意味していた。他方で軍団は、国王を始めとする寡頭的支配層との対決姿勢を全面的に打ち出すことで、社会的な抗議運動として広範な支持を糾合し、PNTとの提携により政治的孤立からの脱却も可能となった。

その帰結が総選挙における軍団の躍進・政権党の敗北であり、これにより「再版」寡頭的議会制の破綻と、「統治政党」たるPNLとPNTの衰退が決定的となった。「立憲制-議会制」空間が収縮し、「広場の政治」空間が拡大した状況において、軍団の政治的プレゼンスは議席数に反映されたものより遥かに大きかった。「宮廷政治」空間の拡大という形で権力を肥大化させてきた国王カロルと、活性化した「広場の政治」空間を制し、議会にも確たる足場を築いた軍団運動が、遂に直接対峙するに至ったのである。

「再版」寡頭的議会制の破綻を受けて成立した極右政権の下で、国王親政体制への傾斜(「宮廷政治」空間の肥大化)と議会制の完全な空洞化、市民的自由の抑圧(「立憲制-議会制」空間の収縮)が一挙に進行するとともに、街頭闘争が制御不能な水準にまで高揚する(「広場の政治」空間の拡大)。ここに、国王を中心とする伝統的支配層は議会制の最低限の形式さえ維持する意思を喪失し、議会制廃棄・政党排除による国王直接統治体制、つまり国王独裁の樹立に踏み切ったのである(「議会制」空間の消滅・「立憲制」空間の全面的収縮)。

国王独裁下では、体制と運動の相互作用が根本的に変化し、両者に重大な変容をもたらした。統治権力側は、治安機関の実力行使に全面的に依拠した弾圧政策を計画・実行し、それは往々にして国王の恣意的な判断・命令に左右されることになった。これに対して、合法的な活動手段・機会を奪われ、暴力的抑圧に晒されることになった軍団側でも、武闘派が主導権を掌握し、要人暗殺を中心としたテロ戦術を展開していく。この結果、報復の連鎖とエスカレートが生じ、「立憲制」空間は極限まで収縮するのである。

他方で、国王独裁は支持基盤の拡大に失敗した。「新議会」や官製単一政党の創設は、正統性の強化にも、実効性の向上にも繋がらず、大衆的支持は脆弱なままであった。同時に、旧二大政党を中心とする穏健な反対勢力の切り崩しも進展せず、独裁樹立以前の対立構図を克服することができなかった。内政面での孤立に加え、「第三帝国」の覇権により外政面での孤立にも直面した結果、統治権力側は対軍団政策を弾圧から「抱き込み」へと180度転換した。それとともに、体制の擬似ファシズム化が急速に進行する。ここに「宮廷政治」空間と「広場の政治」空間が癒着するかに見えた。しかし、その結果もたらされたのは国王独裁体制の強化ではなく、いったんは消滅の瀬戸際に追い込まれた軍団の復権であった。

この直後に国王独裁は終焉を迎える。崩壊の主たる理由は、二度にわたる領土喪失という国際的要因に求められるが、その具体的な過程・態様や、崩壊後の新体制の形態を決定したのは国内的要因であった。つまり、ソ連への領土割譲によって深刻な打撃を受けた国王の威信は、続くウィーン裁定によって完全に失墜し、政治権力の真空状態が現出する。この局面で国王独裁の崩壊を促進したのは、極限まで肥大化していた「宮廷政治」空間における駆け引き・陰謀と、対外的危機・政治流動化によって再活性化した「広場の政治」空間における直接行動であった。

未曾有の国家的危機に直面し、前国王カロルの大権を事実上継承した「代理王」としてのアントネスク将軍と、国王独裁体制末期の「抱き込み」政策によって急速に政治的復権・組織的再建を果たし、「大ルーマニア」崩壊の時点で唯一大衆的な抗議行動や示威行為を組織し得た軍団との同盟により樹立されたのが、「国民軍団国家」であった。しかし、「立憲制」空間の部分的回復・法治国家の再建を目指すアントネスクと、「広場の政治」空間の拡大・占有による「革命」の完遂、独裁権力の掌握を目指す軍団との間には先鋭な緊張関係が存在し、これが体制のさらなる変容をもたらすとともに、両者を最終的な対決へと導くのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「国王独裁対軍団運動―1930年代ルーマニアにおける権威主義体制とファシズム運動のダイナミクス―」は、1930年代中頃から第二次大戦初期のルーマニアにおける、「軍団」と自称する政治運動と時の統治権力との間の曲折に満ちた関係を考察するものである。

「軍団」(日本では「鉄衛団」という名称で知られる)は、イタリア・ドイツ以外で最も力をもったファシズム運動と評され、30年代ルーマニア政治の帰趨に大きな影響を与えた。また、その土俗的・神秘主義的な性格(死の崇拝などの独特の儀礼)、そして激烈な暴力性(政治家の暗殺、ユダヤ人迫害など)によって、戦間期ヨーロッパの数多くの極右運動の中でも一際目を引く存在である。2000年に発表した論文「戦間期ルーマニアにおける軍団運動の興隆」(『国家学会雑誌』第113巻、5/6号)において、政治運動論の視角から軍団興隆の過程(1919年~1933年)を分析した著者は、本論文においては、政治体制変動論の視角から、運動と体制の間の政治的ダイナミクスの解明に焦点を絞り、議会制が崩壊した後に、国王独裁の下で、両者が互いに赤裸々な暴力をもって直接対決するに至る過程を分析している。

本論文の内容は以下のとおりである。

序章では、本論文の分析枠組みが提示される。著者は第一次世界大戦後のルーマニアの政治体制を「〈再版〉寡頭的議会制」と定義したうえで、その崩壊のプロセスを分析するために、君主制の2つのモデル(「調停者モデル」、「親政モデル」)、および3つの政治空間(「宮廷政治」空間、「立憲制-議会制」空間、「広場の政治」空間)という理論的枠組みを提示する。著者によれば、1934年~40年のルーマニアにおいて、君主制では「親政モデル」への傾斜が進み、遂には国王独裁が樹立される過程があり、同時に、議会制・政党政治では〈再版〉寡頭的議会制の腐蝕・崩壊過程が進行したが、それらは「立憲制-議会制」空間の収縮、「宮廷政治」空間および「広場の政治」空間の拡大の過程と平行していた。この三つの過程は、ある時期まではそれぞれ固有のメカニズムに規定される部分も大きかったが、次第に直接的かつ密接な相互関係をもつようになった、と著者は主張する。

第1章「体制の漸進的権威主義化と軍団運動の停滞」では、1933年末~35年の時期が扱われる。軍団による首相暗殺を契機として、戒厳令や検閲、包括的治安立法などの例外措置が導入され、それが恒常化していく。この結果、体制の権威主義化と議会政治の空洞化、つまり「立憲制-議会制」空間の収縮が徐々に進行する。同時に、国王の支持に全面的に依拠した国民自由党(PNL)内閣の下、政府高官人事を中心とする国王の政治介入が本格化し、それは政党内部にまで及ぶことになる。他方、この時期には、軍団は政府の徹底弾圧により停滞と政治的孤立を余儀なくされていた。

第2章「〈再版〉寡頭的議会制の腐食と軍団運動の再建」では、1935~36年の時期が扱われる。軍団は合法政党の創設や青年の奉仕活動といった穏健路線によって組織再建に成功する。さらに、共産主義脅威論の高揚とPNL政府の宥和政策とが相俟って、街頭闘争に有利な環境が出現したことが運動の拡大を促進した。しかし、36年前半に軍団員の暴力行為が急速にエスカレートしたことは、統治権力側にとっても誤算であり、次第に両者の緊張が高まっていく。同時に、国民農民党(PNT)の退潮も重要な意味を有していた。同党は潜在的には議会主義の支柱となり得る政党であったが、国王への屈服と極右勢力による攻勢への後退を余儀なくされたからである。この結果、国王の権力基盤が一段と強化され、「立憲制-議会制」空間の収縮が加速する。

第3章「軍団運動の躍進と〈再版〉寡頭的議会制の破綻」では、上記の体制変容をうけて、1936年末~37年初頭の時期が論じられる。宮廷側が軍団の「抱き込み」を図り、軍団指導部との接触を試みたこと、そして交渉が不首尾に終わったことは重大な意味をもった。街頭を軍団に掌握され、その直接的な衝撃・圧力に晒される事態に直面した統治権力は、軍団の馴化の可能性を見限り、治安機関に全面的に依拠した「封じ込め」政策に着手するのである。この過程において、治安・司法機関や青少年組織への勢力扶植に努めた結果、国王の権力領域はさらなる増大を示すことになる。ここに、軍団の上昇と体制の権威主義化という二つの過程が、直接的かつ全面的に結合するに至った。

1937年を通じて、この二つの過程が加速度的に進行し、両者の相互作用も拡大する。これを促進したのが民族問題と「国王問題」の先鋭化である。前者は、とりわけ国内における反ユダヤ主義の激化として現れたが、これは軍団の政治的資源を増大させたのみならず、市民的自由の制限・抑圧をさらに進行させた(「立憲制-議会制」空間の収縮)。

後者は、国王の権力領域の肥大化の反映である。これは37年秋の内閣危機において、国王が議会・政党勢力の自立性・自律性を否定し、「親政モデル」への傾斜を明白にしたことで決定的となった。同時に、「国王問題」の先鋭化は、政治勢力の配置・均衡に重大な影響を及ぼした。国王と軍団に挟撃されたPNTは、軍団との提携という苦渋の決断を下すことになるが、結果的にこれは、立憲主義・議会主義勢力の自殺行為を意味していた。

他方で軍団は、国王を始めとする寡頭的支配層との対決姿勢を全面的に打ち出すことで、社会的な抗議運動として広範な支持を糾合し、PNTとの提携により政治的孤立からの脱却も可能となった。その帰結が総選挙における軍団の躍進と政権党の敗北であり、これにより〈再版〉寡頭的議会制の破綻が決定的となった。

第4章「国王独裁の樹立と軍団運動の崩壊」では、1938年における体制変化と軍団運動の一時的逼塞が論じられる。主要政党の無力化を受けて成立した極右政権の下で、国王親政体制への傾斜と議会制の完全な空洞化、市民的自由の抑圧が一挙に進行するとともに、街頭闘争が制御不能な水準にまで高揚した。ここに、国王を中心とする伝統的支配層は議会制の最低限の形式さえ維持する意思を喪失し、議会制廃棄・政党排除による国王直接統治体制、つまり国王独裁の樹立に踏み切った。

国王独裁下では、体制と運動の相互作用が根本的に変化し、両者に重大な変容をもたらした。統治権力側は、治安機関の実力行使に全面的に依拠した弾圧政策を計画・実行し、それは往々にして国王の恣意的な判断・命令に左右されることになった。これに対して、合法的な活動手段・機会を奪われ、暴力的抑圧に晒されることになった軍団側でも、武闘派が主導権を掌握し、要人暗殺を中心としたテロ戦術を展開していく。この結果、報復の連鎖とエスカレートが生じ、「立憲制」空間は極限まで収縮する。

他方で、国王独裁は支持基盤の拡大に失敗した。「新議会」や官製単一政党の創設は、正統性の強化にも実効性の向上にも繋がらず、大衆的支持は脆弱なままであった。同時に、旧二大政党を中心とする穏健な反対勢力の切り崩しも進展せず、独裁樹立以前の対立構図を克服することができなかった。

内政面での孤立に加え、ナチ・ドイツの興隆により外政面での孤立にも直面した国王独裁政府は、軍団対策を弾圧から「抱き込み」へと180度転換した。それとともに、体制の擬似ファシズム化が急速に進行する。ここに「宮廷政治」空間と「広場の政治」空間が癒着するかに見えた。しかし、その結果もたらされたのは国王独裁体制の強化ではなく、いったんは消滅の瀬戸際に追い込まれた軍団の復権であった。

第5章「国王独裁の崩壊と軍団運動の〈権力到達〉」は、国王独裁の終焉と軍団の政権参加を論ずる。ソ連への領土割譲によって深刻な打撃を受けた国王の威信は、続くナチ・ドイツによるウィーン裁定(ハンガリーなどへの領土割譲)によって完全に失墜し、政治権力の真空状態が現出する。この局面で国王独裁の崩壊を促進したのは、極限まで肥大化していた「宮廷政治」空間における駆け引き・陰謀と、対外的危機・政治流動化によって再活性化した「広場の政治」空間における直接行動であった。

軍団は、国王独裁体制末期に急速に政治的復権・組織的再建を果たし、大規模な領土喪失の時点で、大衆的な抗議行動や示威行為を組織し得る唯一の政治勢力となっていた。こうしてアントネスク政権(軍人政権)への軍団の参加がもたらされた。

終章「〈国民軍団国家〉という悪夢」では、「立憲制」空間の部分的回復・法治国家の再建を目指すアントネスク将軍と、「革命」の完遂、独裁権力の掌握を目指す軍団との間の先鋭な緊張関係が存在し、これが両者の最終的な対決と軍事力による軍団殲滅へと帰結したことが論じられる。

「結び」として、反体制的運動と統治者の双方から行使された極度の暴力の根底には戦間期ルーマニアに蔓延していた「恐怖」の感情があり、その昂進が政治の営為を無に帰せしめた、という考察が置かれている。

以上が本論文の内容である。

本論文の長所として第1に挙げるべきは、丹念な史料収集である。社会主義体制の終焉以後、ルーマニアでは多くの未公開史料が利用できるようになったが、史料整理は遅れ、全体的に混沌とした状況が続いている。そのような状況において、著者は何度もルーマニアに赴き、精力的に史料の探索・蒐集に努めた。本論文では、ルーマニア内外の研究で一度も使用されたことがない重要な一次史料が用いられている。

第2に、戦間期ルーマニアという、日本の政治学界でも歴史学界でもほとんど注目されてこなかった「ヨーロッパの周縁部」をとりあげ、そこで生起した体制と運動を解析することによって、比較政治学的知見の深化と拡大に貢献したことが挙げられる。程度の差はあれ、諸外国の先行研究が、戦間期ルーマニアの政治体制や政治運動(特に後者)の性格を文化的・民俗的「特異性」に還元する――それが真に「特異」なものなのか、またそれがいかにして政治に影響するのかは論じられない――傾向があるのに対して、本論文の著者は、徹底して対象を「比較」の視座から論じている。

第3に、本論文では多くの政治学的な概念・理論が駆使されているが、それらが体制と運動の相互作用(およびその結果としての体制変動)という全体的枠組みの中に巧みに統合されており、平明な文章と相まって、錯綜した状況を構造的かつ動態的に論ずることに成功している。

とはいえ、本論文にもなお改善の余地がある。

第1に、民族問題のとり上げ方に不十分さが感じられる。具体的には、反ユダヤ主義が1937年から急速に激化・蔓延した理由、ユダヤ人以外の「少数民族」の問題、旧領土住民と新領土住民のナショナル・アイデンティティの差異などである。これらの点について触れられていないわけではないが、もっと厚みのある論述が望ましい。

第2に、文化還元論を拒否する著者の立場に共感するとしても、軍団運動の「驚異的」生命力や極度の宗教性・暴力性の理由について、著者が挙げる要因は並列的であり、これこそがという決め手の説明を欠く感がある。少なくとも、「文化」と現実政治を媒介する分析概念を発見する努力はすべきであったと思われる。

第3に、「結び」が量的に短く、些か物足りない感を与える。序論の問題設定と本論の記述を踏まえて、戦間期ルーマニア政治研究が持つ意味・意義について、より深く考察する文章がここに置かれていたならば、本論文読後の充実感は、いっそう深かったであろう。

しかし、これらの欠点は本論文の価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

UTokyo Repositoryリンク