学位論文要旨



No 217337
著者(漢字) 平尾,宜司
著者(英字)
著者(カナ) ヒラオ,タカシ
標題(和) 特異的DNA配列に着目した食物アレルゲン分析技術の開発研究
標題(洋)
報告番号 217337
報告番号 乙17337
学位授与日 2010.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17337号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 特任教授 加藤,久典
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 篠崎,和子
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 准教授 八村,敏志
内容要旨 要旨を表示する

食物アレルギーの発症は極めて微量のアレルゲン(アレルゲンタンパク質、広義にはアレルギーの原因となる食品)の摂取によって起こり、重篤な場合には患者が死に至る危険性がある。現在のところ、食物アレルギーの絶対的な治療方法は確立されていないため、個々の患者がアレルギーの原因となる食品の摂取を避けることで発症の予防を行なっている。患者が適切な食品を選択するにあたっては、その食品にアレルギーの原因となる食品が含まれているか否かの正確な情報が必須となる。そこで、患者の健康危害の発生を防止する観点から、2001年の日本での施行をかわきりにして、諸外国においても食物アレルギー表示制度の整備がなされてきた。食品への正確な表示を行なうには、原料や製造工程の管理を徹底することはもちろんのこと、必要に応じて原料や製品の検査を実施して検証することが必要となる。特に注意が必要なものは、配合表などに記載されていない意図せずに原料や製品へ混入するアレルゲンであり、その混入量は極めて微量であると考えられる。そのため、食物アレルゲンの分析技術には高い検出感度が求められる。また、食物アレルギーは、分類学的に近縁な場合に共通抗原性がある可能性も報告されているため、栽培品種として知られている食用種だけに限定せず、例えば同じ植物属に含まれる野生種の植物も含めて広く特異的に検出する分析技術の確立が望まれている。

以上の背景をもとに、本研究では、small subunit ribosomal RNA遺伝子とlarge subunit ribosomal RNA遺伝子に挟まれたinternal transcribed spacer(ITS)領域に着目して、主要な食物アレルゲンを高感度かつ特異的に検出する分析技術の開発を目的に、1)そばの定性PCR法の開発、2)そばの定量PCR法の開発、3)落花生、大豆、小麦の定性PCR法の開発についての研究を行なった。

1)そばの定性PCR法の開発に関する研究

そばの定性PCR法の開発においては、そばのITS領域をPCR標的とすることで、そばを高感度かつ特異的に検出する分析技術の開発を行なった。

PCRシミュレーションソフトウェアを活用することにより、GenBankに登録されているそば属(Fagopyrum spp.)とその近縁植物種のITS領域の配列や、解析した市販そばのITS領域の配列からの標的PCR産物の増幅有無を予測しながら、普通そばやダッタンそばなどの栽培種を含むそば属の植物を広く検出できるプライマーを設計することが可能であった。また、このプライマーを用いることで、普通そば、ダッタンそばを既存法よりも高感度(50~500 fg DNA)で検出することのできるPCR法を確立できた。特異性に関しては、そばの近縁植物の一つであるそばかずらが偽陽性となったが、PCR産物の配列を解析することにより、そばとの識別が可能であった。また、PCR増幅産物由来の蛍光シグナルを、インターカレーターであるSYBR Greenによるreal-time PCRで測定した結果、そばDNA 50 fg~5 ngと広いダイナミックレンジにおいて直線性の高い検量線を作成することができた。

これらの結果から、ITS領域をPCR標的とすることで、そばを高感度かつ特異的に検出できることを明らかとした。また、一般的なELISAなどと比べて、より広いダイナミックレンジでそばを定量できる可能性を明らかとした。なお、特異性については一部改善の余地があり、2)のそばの定量PCR法の開発に関する研究において検討を行なうこととした(Hirao et al., Biosci. Biotechnol. Biochem. 2005, 64: 724-731)。

2)そばの定量PCR法の開発に関する研究

そばの定量PCR法の開発においては、分析対象とする食品試料のDNA含量(抽出DNA量)やPCR効率を評価・補正することで、そばを精度良く定量する方法の開発を行なった。具体的には、

DNA抽出前に分析対象とする食品試料に観賞用の植物であるスターチスの種子を標準として添加して、real-time PCRで測定された標準が持つITS領域のDNA配列のコピー数により、食品試料中のそばの持つITS領域のDNA配列のコピー数を補正して、そばを定量するという方法を検討した。なお、特異性については、そばの定性PCR法に用いていたプライマーのうちの一つ、リバースプライマーを再設計することにより改善した。

幾つかの異なるマトリックス(小麦、コメ、小麦+コメ、黒コショウ、塩コショウ)に10、100 ppm(wt/wt)のそば粉を添加したモデル食品を分析した結果、それぞれのマトリックスのDNA含量(抽出DNA量)を加味した補正ができており、精度良くそばの定量ができることがわかった。

これらの結果から、スターチス標準による補正を行なうことで、食品試料中のそばを精度良く定量できることを明らかとした(Hirao et al., J. Food Prot. 2006, 69: 2478-2486)。

3)落花生、大豆、小麦の定性PCR法に関する研究

落花生、大豆、小麦の定性PCR法の開発においては、そば以外の主要な食物アレルゲンについて、そばと同様にITS領域をPCR標的とすることで、高感度かつ特異的に検出する分析技術の開発を行なった。

そばの場合と同様に、PCRシミュレーションソフトウェアを活用することにより、GenBankに登録されている落花生属(Arachis spp.)、大豆属(Glycine spp.)、小麦属(Triticum spp.)とその近縁植物種のITS領域の配列や、解析した市販品のITS領域の配列からの標的PCR産物の増幅有無を予測しながら、それぞれ、落花生属、大豆属、小麦属の植物を広く検出できるプライマーを設計することが可能であった。また、これらのプライマーを用いることで、それぞれ、落花生、大豆、小麦を既存法と比べて同等以上の高感度(それぞれ50~500 fg DNA)で検出することのできるPCR法を確立できた。

これらの結果から、ITS領域をPCR標的とすることで、そばだけでなく、主要な食物アレルゲンである落花生、大豆、小麦についても高感度かつ特異的に検出できることを明らかとした(Hirao et al., J. AOAC Int. 2009, 92: 1464-1471)。

まとめ

本研究では、「マルチコピー」かつ「各種植物で報告数が多い」ITS領域をPCRの検出標的配列とすることで、そば、落花生、大豆、小麦といった主要な食物アレルゲンを高感度かつ特異的に検出できる定性PCR法を確立することができた。従来の食物アレルゲンの分析技術において、検出標的とする分子は、アレルゲンタンパク質そのものやそれをコードする遺伝子配列である場合が多かった。その一方で、発症の引き金となるアレルゲンタンパク質は個々の患者により異なっており、一人の患者が複数のアレルゲンタンパク質に反応する場合も知られている。そこで、本研究においては、アレルゲンタンパク質ではなく、植物ゲノム上に存在するアレルギーの原因となる食品に特徴的なITS領域のDNA配列をアレルゲンの存在を示す特有のマーカー分子として選定した。同領域は、マルチコピー配列であるため、検出感度を高める上では有用な領域であった。また、ITS領域は、植物種の系統分類などに用いられるDNA配列の一つとして知られており、同様に系統分類に用いられるrbcL遺伝子やmatK遺伝子、一般的なタンパク質をコードする領域のDNA配列と比べても、アレルギーの原因となる食品やその近縁種での報告配列数が多い。そのため、植物体サンプルの入手が難しい近縁野生種などについても、その配列情報に基いて検出範囲や検出可否を予測しながら、特異性の高いPCR法の設計・開発が可能であった。この点、植物種間での分布に関する情報が得られにくいタンパク質やそれをコードするDNA配列を検出標的としている先述の既存の定量ELISA法、定性イムノクロマトグラフ法、定性PCR法などと比較しても、ITS領域を検出標的とするPCR法の大きなメリットの一つであると考えられる。この様に、同領域のDNA配列は、属(genus)や種(species)レベルの植物種を一括して検出するのに適した進化速度の配列を含み、高い感度と特異性が必要とされる食物アレルゲンのPCR分析技術を確立する上で有用な領域であることが示された。今後、近縁種でのアレルゲンタンパク質の分布やアレルゲン性の有無などの情報が整備されて、検出すべき対象植物種が変更された場合にも、同領域を検出標的とすることでフレキシブルに対応できるものと期待される。

また、本研究では、分析対象となる食品試料ごとに異なるDNA含量(抽出DNA量)やPCR効率などをスターチス標準により補正することで、食品試料中のそばを精度良く定量できる定量PCR法を確立することができた。現在、食物アレルゲンの定量は主としてELISA法により行われている。ELISA分析においては、目的成分の抽出効率、目的成分と抗体の反応効率や検出時の発色の反応効率などは、個々の分析対象とする食品試料への添加回収試験を行わなくてはわからない。しかしながら、毎回、添加回収試験を実施することは手間がかかるため、予め代表的な食品である範囲の回収率(一般的には50~150%、70~120%などの回収率)で測定されることを評価した上で、抽出効率や反応効率には問題がないものとして個々の食品の分析がなされている。本研究で確立したそばの定量PCR法においては、毎回の分析において、個々の分析対象とする食品試料ごとに異なるDNA含量(抽出DNA量)やPCR効率などを補正することができる。そのため、分析をする上でタンパク質検出とDNA検出という違いには注意が必要であるが、定量PCR法でも精度良く食物アレルゲンの定量を行なうことができる。また、本研究で行なったPCRにおける補正の考え方は、食物アレルゲンの定量だけでなく、例えば、コピー数ベースの定量にとどまっている他の定量法などにおいても、試料重量あたりの含有量として定量する技術への改良にも適用できるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

食物アレルギーの発症は極めて微量のアレルゲンの摂取によっても起こり、重篤な場合には患者が死に至る危険性がある。患者の健康危害の発生を防止する観点から、日本をはじめとする諸外国においても食物アレルギー表示制度の整備がなされている。食物アレルギーは、分類学的に近縁な場合に共通抗原性がある可能性も報告されており、栽培品種として知られている食用種だけに限定せず、例えば同じ植物属に含まれる野生種の植物も含めて、広く特異的に、高感度で検出する技術の確立が望まれている。

本研究では、small subunit ribosomal RNA遺伝子とlarge subunit ribosomal RNA遺伝子に挟まれたinternal transcribed spacer(ITS)領域に着目して、主要な食物アレルゲンを高感度かつ特異的に検出する技術の開発を目的として、そばの定性PCR法、そばの定量PCR法、落花生、大豆、小麦の定性PCR法の開発研究を行なった。

第1章では、そばの定性PCR法の開発研究に関して述べている。PCRシミュレーションソフトウェアを活用することにより、普通そばやダッタンそばなどの栽培種だけでなく、野生種を含むそば属(Fagopyrum spp.)の植物全般を広く検出できるプライマーを設計した。また、このプライマーを用いることで、普通そば、ダッタンそばを既存法よりも高感度(50~500 fg DNA)で検出することのできるPCR法を確立した。特異性に関しては、そばの近縁植物の一つであるそばかずらが偽陽性となったが、PCR産物の配列を解析することにより、そばとの識別が可能であった。また、PCR増幅産物由来の蛍光シグナルを、インターカレーターであるSYBR Greenによるreal-time PCRにより測定した結果、そばDNA 50 fg~5 ngと広いダイナミックレンジにおいて直線性の高い検量線を作成することができた。これらの結果から、ITS領域をPCR標的とすることで、そばを高感度かつ特異的に検出できることを明らかとした。また、real-time PCRによる増幅産物のモニタリング結果から、定量PCR法への応用の可能性が示された。

第2章では、そばの定量PCR法の開発研究に関して述べている。DNA抽出前に分析対象とする食品試料に観賞用の植物であるスターチスの種子を標準として添加して、real-time PCRで測定された食品試料中のそばの持つITS領域のDNA配列のコピー数を、標準が持つITS領域のDNA配列のコピー数により補正して、そばを定量する方法を検討した。この方法により、幾つかの異なるマトリックス(小麦粉、コメ粉、小麦+コメ粉、黒コショウ、塩コショウ)で作製したモデル食品中のそば粉10、100 ppm(wt/wt)を精度良く分析できた。この結果から、添加したスターチス標準により、それぞれのマトリックスのDNA含量(抽出DNA量)を加味した補正ができ、食品試料中のそばを精度良く定量できることが明らかとなった。なお、そばのITS領域のDNA配列のコピー数を測定するPCR法については、第1章のそばの定性PCR法に用いていたプライマーのうちの一つ、リバースプライマーを再設計することにより、そばに対する特異性を向上したものを用いた。

第3章では、落花生、大豆、小麦の定性PCR法の開発研究に関して述べている。第1章のそばの定性PCR法の場合と同様に、PCRシミュレーションソフトウェアを活用することにより、GenBankに登録されている落花生属(Arachis spp.)、大豆属(Glycine spp.)、小麦属(Triticum spp.)の植物を広く検出できるプライマーを設計した。また、これらのプライマーを用いることで、それぞれ、落花生、大豆、小麦を既存法と比べて同等以上の高感度(それぞれ50~500 fg DNA)で検出することのできるPCR法を確立できた。これらの結果から、ITS領域をPCR標的とすることで、そばだけでなく、主要な食物アレルゲンである落花生、大豆、小麦についても高感度かつ特異的に検出できることを明らかとした。

以上、本研究は、internal transcribed spacer領域を標的とした食物アレルゲン(そば、落花生、大豆、小麦)の分析技術の開発を通して、アレルゲンとなりうる食品成分の存在を感度および精度良く測定するための理論面・応用面の基盤を提供したもので、学術的、応用的に貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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