学位論文要旨



No 217345
著者(漢字) 中西,広樹
著者(英字)
著者(カナ) ナカニシ,ヒロキ
標題(和) 質量分析法を用いたリン脂質とその酸化代謝物の包括的解析と応用
標題(洋)
報告番号 217345
報告番号 乙17345
学位授与日 2010.04.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17345号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 准教授 有田,誠
 東京大学 准教授 武田,弘資
 東京大学 特任准教授 松沢,厚
内容要旨 要旨を表示する

生体における代謝物の詳細な変動解析はタンパク質の機能や病態の解明にとって欠くべからざる情報であり、病因や生理作用因子の解明など、ターゲット分子を推定するためにも必須の過程である。生体代謝物を網羅的に解析するメタボロミクスの特徴は、多数の構成分子を包括的に分析し、解析の対象となっている表現型の形成に最も関連性の高い因子群に特徴的な変動プロファイルを探り出すという点である。メタボロミクスで用いられている測定法としては、質量分析法が主要な手段となってきている。その対象はアミノ酸、有機酸、糖、脂質およびそれらの代謝物などである。生体からの抽出条件、カラムでの分離、そして質量分析での測定条件などについて、その最適な条件や手法は代謝物の物性によって大きく異なっている。本研究では、特に脂質に対象を絞って包括的解析法の確立を進めた。

生体膜を構成する脂質の組成は組織・細胞特異性があり、さらに生理状態および病態時において動的に変化する。また、細胞膜脂質の多価不飽和脂肪酸鎖が生体内で生じた活性酸素によって攻撃を受けると、ラジカル連鎖反応が起こり、まず過酸化脂質が生じ、さらに過酸化脂質の分解によってアルデヒドなどの二次酸化生成物が生成されてくる。これらの脂質過酸化物は、反応性が非常に高く、タンパク質や核酸との共有結合を介して細胞機能に有害な影響を及ぼし、動脈硬化症、心筋梗塞などの酸化ストレスによる疾病発症の一因となっていると考えられている。一方、脂質過酸化物のなかには、プロスタグランジン(PG)やロイコトリエン(LT)などのアラキドン酸代謝物に代表されるように脂質メディエーターとして生理活性を持つものも同定されている。さらに2000年以降では、ω3系多価不飽和脂肪酸のエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)から生合成されるレゾルビンやプロテクチンが、抗炎症作用や創傷治癒作用を持つことが報告されており、ω3系多価不飽和脂肪酸の酸化代謝物が着目されてきている。

メタボリックシンドロームをはじめとする生活習慣病やそれに起因する各種の炎症性疾患である動脈硬化症や心筋梗塞などの分子メカニズムの解明には、多価不飽和脂肪酸およびそれを含むリン脂質とその酸化代謝物の分子種パターンの変化を捉えることが重要である。本論文では、様々な疾患の分子メカニズム解明のため、質量分析計を用いた脂質メタボローム解析のための基盤技術の向上を目的とし、酸化脂肪酸および酸化リン脂質の包括的測定系を構築した。また、酸化脂質と疾患との関連を調べることでその有効性を検討した。さらに、レーザーマイクロダイセクション(LMD)やイメージングマススペクトロメトリー(IMS)を用いて組織内での脂質分子種の局在を解析する測定系を確立し、網膜や小脳の層構造における分子種および心筋梗塞の病巣部位における分子種の脂質プロファイル解析を行ったので、その有効性と得られた知見を併せて考察した。

〈結果と考察〉

酸化ストレスマーカーとしての酸化脂質の役割

一度の測定でおおよそ100種類の酸化脂肪酸を概ね5pgから定量的測定できる分析系を確立した。確立した酸化脂肪酸の解析系を用いて、炎症誘発時において産生される酸化脂肪酸のメタボローム解析を行った。炎症モデルには、酵母の細胞壁成分であるzymosanを腹腔内投与することにより惹起する、zymosan腹膜炎を用いた。分析の結果、シクロオキシゲナーゼ(COX)経路で産生されるPGE2などは、炎症誘発後12時間までの初期と24時間以降の後期の両方で産生のピークを示した。一方、5-リポキシゲナーゼ(5-LOX)経路で産生されるLTB4などは炎症の初期に、12/15-リポキシゲナーゼ(12/15-LOX)経路で産生されるプロテクチンD1(PD1)などは、炎症前および後期に産生されてくるという、それぞれが特徴的なパターンを示した(図1)。この結果から、炎症の初期と収束期で産生される経路別代謝群で「脂質メディエーターのクラススイッチ」が起きていることが明らかになった。質量分析法を用いて代謝物全体を網羅的に観察することで、脂質メディエーターがそれぞれの機能を発揮する時期に特異的に産生されるための統合的な制御機構の存在が示唆された。

次に、確立した酸化リン脂質の包括的測定系を用いて、心筋虚血再灌流障害時において産生される酸化リン脂質のメタボローム解析を行った。虚血再灌流障害により心筋ではリノール酸やアラキドン酸由来に比べDHAを有するリン脂質の酸化代謝物が多く産生された。特にDHAが酸化、開裂して4位にアルデヒドを生じたような酸化リン脂質の生成が有意に増加していた。今回の結果から、他の多価不飽和脂肪酸に比べてDHAは活性酸素ラジカル分子のトラップ作用が強いことが示唆された。

質量分析計を用いた組織局在解析法

様々な病態解明において、その病巣部位での解析は必要不可欠であることから、本研究では脂質分子種の組織局在解析法として質量分析計を基盤としたIMSならびにLMD-LC/ESIMS/MSシステムを確立した。微細領域であるマウス網膜の層構造別のリン脂質プロファイルをLMD-LC/ESIMS/MSシステムで解析したところ、光受容体層には22:6/22:6を始めとする32:6/22:6や34:6/22:6、36:6/22:6といった極長鎖脂肪酸を含んだボスファチジルコリン(PC)が非常に豊富に存在することを明らかにした(図2)。この結果から、これらの分子種が視細胞の機能に重要に働くことが想定された。

さらに、IMSならびにLMD-LC/ESIMS/MSシステムを用いてマウス脳の各領域の分子種分布を観察した結果、分子種の違いで組織局在は大きく異なることを明らかにした。例えば、DHA含有分子種は小脳の分子細胞層や顆粒細胞層に豊富に局在しており、18:0/18:1といったモノ不飽和脂肪酸を含んだ分子種は脳梁や小脳のミエリン鞘などの白質部分に多く局在していることが分かった。各分子種の組織特異的局在が、その領域においてどのような機能に関わっているのかを考えるうえで非常に意義のあるデータであると考えている。この二つの局在解析手法は、相補的に用いることでより詳細な組織局在解析を行うのに有効であると考えている。

〈結語〉

脂質やその酸化代謝物は様々な炎症性疾患の進行を予測する有用なマーカーになりうる。本研究により、疾患病巣部位での原因因子やバイオマーカー、さらには新規生理活性脂質を探索するための基盤技術が完成できた。脂質メタボロミクスは今後、メタボリックシンドロームの診断やこれらの病態の予防に大きく寄与する可能性があり、本研究がその一助となることが期待される。

図1. 急性炎症時における酸化脂肪酸の一斉定量分析

オレンジ色はCOX経路、青色は5-LOX経路、緑色は12/15-LOX経路で産生される酸化代謝物の経時時間の変動を示す。説明本文参照。

図2. 網膜の層別のPC分子種のプロファイル比較

(A)LMDの回収領域。(B)PC分子種のプロファィルDHA含有分子種を赤字、炭素数32以上の分子種を緑字で示した。説明本文参照。

審査要旨 要旨を表示する

生体代謝物を網羅的に解析するメタボロミクスの特徴は、多数の構成分子を包括的に分析し、解析の対象となっている表現型の形成に最も関連性の高い因子群に特徴的な変動プロファイルを探り出すという点である。メタボロミクスで用いられている測定法としては、質量分析法が主要な手段となってきている。その対象はアミノ酸、有機酸、糖、脂質およびそれらの代謝物などである。生体からの抽出条件、カラムでの分離、そして質量分析での測定条件などについて、その最適な条件や手法は代謝物の物性によって大きく異なっている。本研究で中西は、特に脂質に対象を絞って包括的解析法の確立を進めた。

生体膜を構成する脂質の組成は組織・細胞特異性があり、さらに生理状態および病態時において動的に変化する。また、細胞膜脂質の多価不飽和脂肪酸鎖が生体内で生じた活性酸素によって攻撃を受けると、ラジカル連鎖反応が起こり、まず過酸化脂質が生じ、さらに過酸化脂質の分解によってアルデヒドなどの二次酸化生成物が生成されてくる。これらの脂質過酸化物は、反応性が非常に高く、タンパク質や核酸との共有結合を介して細胞機能に有害な影響を及ぼし、動脈硬化症、心筋梗塞などの酸化ストレスによる疾病発症の一因となっていると考えられている。

メタボリックシンドロームをはじめとする生活習慣病やそれに起因する各種の炎症性疾患である動脈硬化症や心筋梗塞などの分子メカニズムの解明には、多価不飽和脂肪酸およびそれを含むリン脂質とその酸化代謝物の分子種パターンの変化を捉えることが重要である。本研究で中西は、質量分析計を用いた脂質メタボローム解析のための基盤技術の向上を目的とし、酸化脂肪酸および酸化リン脂質の包括的測定系を構築した。また、酸化脂質と疾患との関連を調べることでその有効性を検討した。さらに、レーザーマイクロダイセクシヨン(LMD)やイメージングマススペクトロメトリー(IMS)を用いて組織内での脂質分子種の局在を解析する測定系を確立し、網膜や小脳の層構造における分子種および心筋梗塞の病巣部位における分子種の脂質プロファイル解析を行った。

まず中西は、一度の測定でおおよそ100種類の酸化脂肪酸を5pgから定量的測定できる分析系を確立した。さらに、確立した酸化脂肪酸の解析系を用いて、炎症誘発時において産生される酸化脂肪酸のメタボローム解析を行った。炎症モデルとしては、酵母の細胞壁成分であるzymosanを腹腔内投与することにより惹起する、zymosan腹膜炎を採用した。解析の結果、シクロオキシゲナーゼ(COX)経路で産生されるPGE2などは、炎症誘発後12時間までの初期と24時間以降の後期の両方で産生のピークを示し、一方、5-リポキシゲナーゼ(5-LOX)経路で産生されるLTB4などは炎症の初期に、12/15-リポキシゲナーゼ(12/15-LOX)経路で産生されるプロテクチンD1(PD1)などは、炎症前および後期に産生されてくるという、それぞれが特徴的なパターンを示すことを明らかにした。この結果から中西は、炎症の初期と収束期で産生される経路別代謝群で「脂質メディエーターのクラススイッチ」が起きていることを提唱した。さらに、質量分析法を用いて代謝物全体を網羅的に観察することで、脂質メディエーターがそれぞれの機能を発揮する時期に特異的に産生されるための統合的な制御機構の存在も示唆した。

次に中西は、確立した酸化リン脂質の包括的測定系を用いて、心筋虚血再灌流障害時において産生される酸化リン脂質のメタボローム解析を行った。その結果、虚血再灌流障害により心筋ではリノール酸やアラキドン酸由来に比べDHAを有するリン脂質の酸化代謝物が多く産生されることを見出した。特にDHAが酸化、開裂して4位にアルデヒドを生じたような酸化リン脂質の生成が有意に増加していた。この結果から中西は、他の多価不飽和脂肪酸に比べてDHAは活性酸素ラジカル分子のトラップ作用が強いことを示唆した。

様々な病態解明において、その病巣部位での解析は必要不可欠であることから、本研究で中西は、脂質分子種の組織局在解析法として質量分析計を基盤としたIMSならびにLMD-LC/ESIMS/MSシステムを確立した。まず、マウス網膜の層構造別のリン脂質プロファイルをLMD-LC/ESIMS/MSシステムで解析し、光受容体層に22:6/22:6を始めとする32:6/22:6や34:6/22:6、36:6/22:6といった極長鎖脂肪酸を含んだホスファチジルコリン(PC)が非常に豊富に存在することを明らかにした。

さらに中西は、IMSならびにLMD-LC/ESIMS/MSシステムを用いてマウス脳の各領域の分子種分布を観察した結果、分子種の違いで組織局在が大きく異なることを明らかにした。例えば、DHA含有分子種は小脳の分子細胞層や顆粒細胞層に豊富に局在しており、18:0/18:1といったモノ不飽和脂肪酸を含んだ分子種は脳梁や小脳のミエリン鞘などの白質部分に多く局在していることが分かった。各分子種の組織特異的局在が、その領域においてどのような機能に関わっているのかを考えるうえで非常に意義のあるデータであると考えられる。

本研究により中西は、疾患病巣部位での原因因子やバイオマーカー、さらには新規生理活性脂質を探索するための脂質メタボロミクス基盤技術を完成し、博士(薬学)に充分値するものと判断した。

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