学位論文要旨



No 217348
著者(漢字) 蝦名,玲子
著者(英字)
著者(カナ) エビナ,リョウコ
標題(和) 1991年から1995年にかけてのクロアチア紛争の直接的な影響を受けた若者の首尾一貫感覚と対処
標題(洋) Sense of Coherence and Coping in Young People Directly Affected by the 1991-1995 War in Croatia
報告番号 217348
報告番号 乙17348
学位授与日 2010.04.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第17348号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木内,貴弘
 東京大学 准教授 島津,明人
 東京大学 教授 衛藤,隆
 東京大学 教授 神馬,征峰
 東京大学 講師 永田,智子
内容要旨 要旨を表示する

【背景と目的】

自己のアイデンティティや、自分自身や社会的な発達において基本的な志向性が育まれ、社会的、経済的、政治的、文化的な秩序の変化に特に敏感な青少年期に、激戦地域にいたにも関わらず、ストレス対処能力である首尾一貫感覚(Sense of Coherence, 以下SOCと略す)を高く育めた人もいれば、そうできなかった人もいる。そこにはどのような人生経験の違いがあったのだろうか?

この研究設問の答えを探究すべく、本論文では、クロアチア紛争激化地域(セルビア国境近隣地域)で青少年期を過ごした女性たちの心理社会的脈絡を記述し、その脈絡においてSOCの形成に関連したと考えられる人生経験を、主に戦争ストレスへの対処と資源の動員の観点から明らかにすることを目的とした。

【方法】

クロアチア紛争の激化したセルビア国境近隣地域で、2002年と2004年の2回にわたって、1)半構造化面接、2)29項目7件法版のSOCスケール、3)参与観察、を用いたエスノグラフィー的方法を用いた質的縦断研究を実施した。

激戦地であったクロアチア東部、Osijek-BaranjaとVukovar-Sijem カウンティ在住の、1991年の戦争開始時年齢が13歳から23歳までの女性17名が、研究参加者として、スノーボールサンプリング法を用いて集められた。参加者は皆、英語の話せる、PTSD未発症者だった。倫理的配慮として、調査前、紙ベースおよび口述におけるインフォームドコンセントがとられ、同意書にサインした人のみが調査に参加したと共に、個人が特定されないように常に配慮がなされた。

約2時間の半構造化面接調査の内容は、参加者の同意を得た上でテープに録音され、逐語録が作られたうえで、質的内容分析とシークエンス分析がなされた。

SOCスケールのクロンバックαはそれぞれ0.88と0.84だったため、本スケールをクロアチアで使用することは文化的に問題ないと判断した。またSOCスケールの回答の選択理由を、半構造化面接で把握した。SOC得点を基に参加者を高群・中群・低群にわけ、SOCレベルによる回答(逐語録)の違いを比較分析した。

参与観察では、参加者2名との同居生活(各1か月)について、フィールドノーツがとられた。内容は情報源・内容別に分類された上で、逐語録と比較・検討された。

その後、全参加者を統合させた時期別概念の枠組みが作成された。また全参加者もしくはSOCレベル別に共通する点やパターンが見つけられ、説明づけがなされた。

分析におけるデータ解釈の妥当性は、メンバーチェックやpeer examinationにより、随時確認された。

【結果】

参加者17名の追跡時のSOC 得点は、高い順から高群、中群、低群に、概ね1:2:1に人数が入るように3 群に分けて検討された。2時点の得点の相関係数は0.85だった。

参加者のうち、6名がクロアチア以外の民族、もしくはクロアチア人と他民族との混血であった。家族の民族構成や年齢と現在のSOCレベルに、大差はなかった。参加者のうち2名は、精神/身体的問題のため、定期的に通院していたが(医師の許可を得て調査に参加)、人口統計的な共通点はなかった。

戦前から現在までの心理社会的脈絡を明確にするために4つの時期区分に、参加者が回顧した主観的真実を要約した内容を配列した。その上で、SOC形成に関連したと考えられる次の4つの人生経験が示された。

1)幼少期の安定性

SOCの得点に関係なく、参加者のほとんどが戦時中、近所の人や学校の友だち、家族ぐるみの友だちや親戚から、民族の違いによる裏切りやそれによる失望を少なからず経験しており、こうした経験は、世界を信頼できるものとして見ることを、そして戦前のように他者を信頼することを難しくしていた。しかしそのような中でも、SOC高群の参加者は皆、「幼少期は感情面、社会面、経済面において安定していた」と回答しており、安定した幼少期を送った参加者は、少なくとも家族や、同じ民族の人や同じ状況にいる人を信じる傾向にあった。一方、SOC中群・低群の半分が不安定だったと回答しており、そうした参加者は、人を信頼することが更に難しくなっている傾向にあった。

2)不確実性の処理

SOCの高い参加者は、戦争中の意味や見通しの見出せない事柄については、関心の外に置き、あえて考えないようにするとともに、努力をすれば生きがいを感じられるようなことに打ち込んでいる傾向にあった。一方、SOCの低い参加者は、動乱の社会への関心や心配から逃れられない傾向にあった。

またSOCの高い参加者は、戦争や社会変化の結果もたらされた状況に失望しても、その状況や限界を受け入れ、新しい社会でできることや手に入れられるものに焦点を当て、満足できるように自分の考え方を適応させる傾向にあった。一方、SOCの低い参加者は、新しい社会の状況や限界を受け入れられず当惑・失望している傾向にあった。

SOCの高い参加者が、愛する人の死など、関心の外には決して置けない大切な問題に対面したときには、使命を持つ等、自分にとっての意味を見出す、もしくは意味を捉え直す傾向にあった。一方、SOCの低い参加者は、当惑・失望し続け、先に進むのが困難な傾向にあった。

3)自己の民族的なアイデンティティの受容

民族問題は、本紛争において、避けられない問題であるが、紛争中やその直後、クロアチア人以外の人種もしくは混血の参加者は、SOCの高低にかかわらず、"純粋なクロアチア人"でないため、差別やいじめを受け、その状況を改善しようと、クロアチア人の多くが信仰しているカトリック教を信仰し始め、クロアチア人のように行動していた。

しかしSOCの高い参加者は、しばらくすると、自分の祖先や自分自身を受け入れたうえで、民族的なアイデンティティを確立する傾向にあった。一方、SOCの低い参加者は、クロアチアで受け入れられて暮らすために、本来とは別の"純粋なクロアチア人"という枠に、現在でも、自分のアイデンティティを歪めて入れ込んでいる傾向にあった。

4)仕事の意味

失業率の高い当域では、就職している参加者は皆、就職できている現状に満足していた。

SOC 中高群の参加者は、仕事に対して、経済的安定以外に、喜びや満足感、人との出会いやつながりをもたらしてくれるもの、社会貢献、自信、という意味を見出していた。一方、SOC低群の参加者は、中高群に比べると消極的な意味を見出していた。

【考察とまとめ】

1) 戦前の幼少期の安定性とSOC形成について

幼少期、安定していた人は、(1)安心基盤としてのアタッチメントが提供された, (2)その安定した環境において、新しい見知らぬ環境を探究するのに必要な存在価値(有意味感)を理解し、認知・行動する能力(把握可能感、処理可能感)を高める経験を積み重ねることが可能であった, (3) それにより高めのSOCの基礎が形成された, (4)その形成されたSOCを用いて、青少年期にさらされた戦争関連ストレッサーに柔軟かつ適切に対応するのに成功した, (5)その度重なる成功体験を経て戦時下でも高いSOCの形成が可能となった,と考えられた。

一方、幼少期、不安定だった人の場合、安定していた人のプロセスの(1)(2)がなく、低めのSOCの基礎を築き、自分自身の存在や起こっている人生出来事の意味を他者にゆだねるようになった。国の解体や政治・社会・文化的変化、戦争といった動乱の社会で、意味づけを他者にゆだねると、存在自身が振り回され、ストレッサーへの対処に繰り返し失敗した。その度重なる失敗体験を経て、低いSOCが形成されたと考えられた。

2) 戦時下・戦後の不確実な事柄への対処とSOC形成について

一般的に、有意味感を持ったうえでの一貫性のある体験は高いSOCの形成を促進するといわれているが、戦時下や戦後の動乱の社会においては、そこで起きている事柄を関心の外に置きあえてこだわらないことが必要な場合と、その事柄の意味づけをする必要がある場合があると考えられた。

高いSOCを形成した参加者は、それまでに形成されたSOCを用いて、動乱の社会の中で起こる意味や見通しが見出せない事柄については深く考えず、努力をすれば生きがいが感じられるようなことに打ち込み、その体験が高いSOCの形成を促したと考えられた。

また愛する人の死や自己の民族的なアイデンティティ等、個人と密接に関わる重要な事柄については、それまでに形成されたSOCを用いてしっかりと向かい合い、自分にとってのその事柄の意味を見出し、それが高いSOCの形成を促したと考えられた。

3) 仕事上の経験と現在のSOCとの関係について

雇用され、職務保障のある状況は、将来の見通しを持たせ、安心させ、それが把握可能感を高めた。また人間関係が軸となる「資源が活用できる」という感覚は、過大負荷がかかっても、対処できると思わせ、それが処理可能感を高めた。さらに「自分の仕事は、楽しみ、社会的貢献、自信、満足感、社会的つながり、良い人間関係を与えてくれるものだ」と思えると働きがいを感じ、それが有意味感を高めた。こうした一連の人生経験を、1日の大半を占める職場で繰り返し持つことで、戦後の再建期から現在にかけてのSOCが、維持・向上されていたと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、クロアチア紛争激化地域で青少年期を過ごした女性たちの心理社会的脈絡における、首尾一貫感覚(Sense of Coherence, 以下SOCと略す)の形成関連要因を、戦争ストレスへの対処と資源の動員の観点から質的縦断的に明らかにしたものである。

1991年に勃発したクロアチア紛争前から現在までの心理社会的脈絡の中で、高いSOC形成に関連したと考えられる人生経験及びその結果に対する考察のポイントは次の4点であった。

1.幼少期の安定性

SOCの得点に関係なく、参加者のほとんどが戦時中、近所の人や学校の友だち、家族ぐるみの友だちや親戚から、民族の違いによる裏切りやそれによる失望を少なからず経験しており、こうした経験は、世界を信頼できるものとして見ることを、そして戦前のように他者を信頼することを難しくしていた。しかしそのような中でも、安定した幼少期を送った参加者は、少なくとも家族や、同じ民族の人や同じ状況にいる人を信じる傾向にあった。

その理由として、幼少期、安定していた人は、(1)安心基盤としてのアタッチメントが提供された, (2)その安定した環境において、新しい見知らぬ環境を探究するのに必要な存在価値(有意味感)を理解し、認知・行動する能力(把握可能感、処理可能感)を高める経験を積み重ねることが可能であった, (3)それにより高めのSOCの基礎が形成された, (4)その形成されたSOCを用いて、青少年期にさらされた戦争関連ストレッサーに柔軟かつ適切に対応するのに成功した, (5)その度重なる成功体験を経て戦時下でも高いSOCの形成が可能となった,と考えられた。

2.不確実性の処理

SOCの高い参加者は、戦争中の意味や見通しの見出せない事柄については、関心の外に置き、あえて考えないようにするとともに、努力をすれば生きがいを感じられるようなことに打ち込んでいる傾向にあった。また戦争や社会変化の結果もたらされた状況に失望しても、その状況や限界を受け入れ、新しい社会でできることや手に入れられるものに焦点を当て、満足できるように自分の考え方を適応させる傾向にあった。しかし愛する人の死など、関心の外には決して置けない大切な問題に対面したときには、使命を持つ等、自分にとっての意味を見出す、もしくは意味を捉え直す傾向にあった。

一般的に、有意味感を持ったうえでの一貫性のある体験は高いSOCの形成を促進するといわれているが、戦時下や戦後の動乱の社会においては、そこで起きている事柄を関心の外に置きあえてこだわらないことが必要な場合と、その事柄の意味づけをする必要がある場合があると考えられた。高いSOCを形成した参加者は、動乱の社会の中で起こる意味や見通しが見出せない事柄については深く考えない一方で、愛する人の死など個人と密接に関わる重要な事柄については、それまでに形成されたSOCを用いてしっかりと向かい合い、自分にとってのその事柄の意味を見出し、そうした対処経験が高いSOCの形成を促したと考えられた。

3.自己の民族的なアイデンティティの受容

民族問題は、本紛争において、避けられない問題であるため、紛争中やその直後、クロアチア人以外の人種もしくは混血の参加者は、SOCの高低にかかわらず、差別やいじめを受け、その状況を改善しようと、クロアチア人の多くが信仰しているカトリック教を信仰し始め、クロアチア人のように行動していた。しかしSOCの高い参加者は、しばらくすると、自分の祖先や自分自身を受け入れたうえで、民族的なアイデンティティを確立する傾向にあった。

前述の通り、動乱の社会においては、そこで起きている事柄を関心の外に置きあえてこだわらないことが必要な場合もあるが、自己の民族的なアイデンティティといった個人の存在に関わる事柄については、それまでに形成されたSOCを用いて自分にとってのその事柄の意味を見出すことが大切であり、それが高いSOCの形成を促したと考えられた。

4.仕事の意味

失業率の高い当域では、就職している参加者は皆、就職できている現状に満足していたが、SOC 中高群の参加者は、仕事に対して、経済的安定以外に、喜びや満足感、人との出会いやつながりをもたらしてくれるもの、社会貢献、自信、という意味を見出していた。

本結果から、(1)雇用され、職務保障のある状況は、将来の見通しを持たせ、安心させ、それが把握可能感を高めた, (2)人間関係が軸となる「資源が活用できる」という感覚は、過大負荷がかかっても、対処できると思わせ、それが処理可能感を高めた, (3)「自分の仕事は、楽しみ、社会的貢献、自信、満足感、社会的つながり、良い人間関係を与えてくれるものだ」と思えると働きがいを感じ、それが有意味感を高めた,という一連の人生経験を、1日の大半を占める職場で繰り返し持つことで、戦後の再建期から現在にかけてのSOCが、維持・向上されていたと考えられた。

以上、戦争ストレスへの対処と資源の動員の観点からSOCの形成関連要因を明らかにした本研究は、戦時下の青少年の人生経験とSOC形成との関連を描いた世界初のものであり、またクロアチア紛争激化地域をはじめPost-conflict 地域においてWHOヘルスプロモーションで重要視されているSOCの形成・向上の取り組みに貢献をなすため、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク