学位論文要旨



No 217359
著者(漢字) 御厨,貴
著者(英字)
著者(カナ) ミクリヤ,タカシ
標題(和) 明治国家をつくる : 地方経営と首都計画
標題(洋)
報告番号 217359
報告番号 乙17359
学位授与日 2010.05.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17359号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 玉井,克哉
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 堀,浩一
 東京大学 教授 藤森,照信
 東北大学 教授 牧原,出
内容要旨 要旨を表示する

一八八〇年代の日本は、その前の七〇年代ともその後の九〇年代とも異なる一つの時代的画期であった。すなわち七〇年代は常に暴力と反乱と秩序破壊の危機に見舞われ、他方九〇年代ともなると組織や制度が完成し秩序安定の方向へとむかう。では間にはさまれた八〇年代はどうであったか。それは官僚制度・内閣制度・議会制度という明治国家の統治のハードコアをつくり上げる営みと、様々な政策や計画を地方や首都に課していく明治国家の統治のソフトウェアをつくり出す営みとが、どちらが先導するともなく併行して進みながら、相互に関連するダイナミックな時代であった。

言い換えれば、制度をつくる試みと政策をつくる試みとが、混在一体となって一挙に進んでいく。制度の磁場も政策の磁場もどちらも未だ固まっていない状況の中で、そこには「地方経営」と「首都計画」とを焦点とする統治の「楕円」構造が顕在化してくる。

では、統治の「楕円」構造を通して見える「地方経営」と「首都計画」とが織りなすダイナミクスについて論じよう。まず第一は共通のトリックスターとしての井上馨の存在である。井上は長州出身で伊藤博文、山県有朋と並び称せられ、元老として大正期まで君臨する。外務・内務・大蔵・農商務など担当した政策分野は広い。しかし個人的には常にスキャンダルとダーティな噂につきまとわれ、首相にはなれず仕舞だった。その意味では明治国家では明らかに"異端の系譜"に属する。

アイディアに優れたかんしゃくもち故に"電光伯"と称され、一八八〇年代は条約改正、臨時建築局、自治党にかかわる。井上は、欧化主義の流れを促進し、鹿鳴館外交や西洋流首都計画、そして官有林野払下による自治党育成など、明治国家をつくるにあたって大胆でユニークな将来構想を推進するが、ものの見事にすべて失敗に終わる。同じ時期に、伊藤が憲法と帝国議会、山県が軍制と地方自治とに一応の成功を収めるのと、それはまことに対照的である。

そこでトリックスターとしての井上馨に触れねばなるまい。統治を演技論として見立てた場合、伊藤博文や山県有朋は、なるべく敵を作らずにコトを成就させるという意味で、まさに"正統"を踏んだ演技者として立ち現れる。彼等に対して、井上馨は条約改正、首都計画、自治党育成など、常に内外に敵をつくり出す課題をとりあげたのみならず、その目標の達成のために、これまた欧化主義、臨時建築局、官有林野払下計画といった内外の攻撃を受けやすい"異端"的手段を好んで選択する。そして過剰演出のせいもあり、あたかも演技論における道化と同じ如くに井上は統治システムの内外から指弾を受け、敗者となる運命をたどるのである。

実はトリックスターにして"異端の敗者"はもう一人いる。薩摩の三島通庸がそれだ。第二にこの二人目のトリックスターをとり上げよう。三島については早逝が惜しまれるが、西郷隆盛や大久保利通の後、人材難に苦しんだ薩摩のこと、生きていれば準元老格の政治家にまで登りつめたことは疑いえない。

「地方経営」と「首都計画」を通じて三島通庸は頭角を現わす。まずは内務省土木局長として山県に仕え、福島県令時代などの現場体験から地方政治事情をよく考え抜いた画期的な地方補助政策を提案する。しかし各省対立の激化を、太政官制が収拾できなかったため、三島の政策は実現に至らない。三島はそこで土木局拡大による事態の転換をはかる。結局、工部省は三島の要求もあって廃止される。しかしどうやら山県の内務省改革と三島のそれとの間には、思惑の相違があった。それが続く「首都計画」において顕在化する。

「地方経営」において内務省土木局の強化拡大をめざした三島は、内閣制度の創設と同時に警視総監に転じるや、「首都計画」を推進する立場から、臨時建築局副総裁兼任となる。周知の如く長派の外相井上馨が総裁兼任である。ここに三島通庸のトリックスターとしての相貌は顕になり、山県内相―芳川顕正東京府知事の市区改正計画と、井上外相―三島警視総監の西洋流首都計画とは鋭く対立する。結局三島は二度(地方経営では志半ば、首都計画では全面退却)とも敗北の憂き目に会う。そして三島は井上に続く二人目の"異端の敗者"となるのだ。

一八八〇年代の明治国家をつくる動きの中で、「地方経営」と「首都計画」の「楕円」構造の中に、こうして長派から一人、そして薩派から一人、異能であるが故に政策構想は大胆で優れているにもかかわらず、同時につくり出される合理的でかつ体系的な統治システムの前にあえなく敗北を余儀なくされる、トリックスターを発見する。

次に注目すべきはマイナーレベルの対立がメジャーレベルの対立と連動し、いつしかメジャーレベルの争点がマイナーレベルの争点を規定していく関係の顕在化である。「地方経営」といったマイナーレベルにおける内務・農商務・大蔵・工部四省の地方補助政策をめぐる対立競合を、メジャーレベルの太政官制が収拾解決できない状況が続く中で、まずは太政官制から内閣制度へというメジャーレベルの制度改変が行われる。同時に各省再編の断行により、マイナーレベルの「地方経営」上の争点化は一まず収拾される。

「首都計画」は、内閣制度の創設というメジャーレベルの制度改変を契機とし、同じレベルでの臨時建築局という不可思議とも言うべき制度の創設、そして東京府と警視庁の対立、ひいてはマイナーレベルでの両者の首都計画構想の対立とが連動して、統治のダイナミクスを形成する。特にここでは会議体組織のあり方、ジャーナリズム報道のあり方が詳しく分析される。また改進党の動きも明らかにされる。

条約改正が欧化主義批判によって挫折を余儀なくされると、それと相俟って首都計画ではマイナーレベルの西洋流首都計画が止まり、メジャーレベルの臨時建築局が廃止となる。そしてメジャーレベルで確立された内務省と東京府の体制によって、マイナーレベルでは市区改正構想が進むことになる。

他方「地方経営」では、メジャーレベルでの帝国議会開設に備えるために、マイナーレベルでの地方自治政策をめぐる対立抗争が激化する。大蔵・農商務・内務の三省対立に、今回は自治党という政党構想がからむ。自治―改進連携構想は、メジャー・マイナー両レベルに、らせん状に切りこむように現われる。結局自治党育成は失敗に帰し、官僚機構の合理化が進んでいく。

要するに一八八〇年代日本においては、「地方経営」にせよ「首都計画」にせよ、マイナーレベルでの百花斉放とも言うべき多様な政策構想は、一面で藩閥対立、他面で省庁対立に充分帰しうるものではある。だから特に「地方経営」の前半では、その両側面を強調して説明を行っている。しかし「地方経営」の後半や、「首都計画」では全体を通じて、政党、メディア、政府会議体組織といった、メジャーレベルとマイナーレベルとに切りこむ、新たならせん状のレベルが出現することになる。そうなるとマイナーレベルでの対立抗争が、メジャーレベルでの制度改変によって一挙に合理的に収拾解決されるものではないことが分かってくる。それにもかかわらず、多くの場合、統治システムの合理化で説明ずみにしてしまうのは惜しい。確かにその方が楽だからであろうが、本書ではそのように単純化された説明はとらない。

続いて歴史の方法の問題がある。一八八〇年代日本の統治における、「地方経営」と「首都計画」からなる「楕円」の構造のダイナミクスの考察こそが、くり返しになるが本書のモチーフである。こう述べた時に、歴史における「精密実証」と「物語」という相反する方法論がくっきりと浮かび上がる。

そもそも「地方経営」にしても、「首都計画」にしても、一から十まで精密実証の装いを凝らしていて、スキがないかに見える。特に前者はその趣が強い。政治家たちの書翰と書類を、あるを幸い、ばったばったと対立抗争状況に持ち込み、しかる後ジグゾーパズルのようにはめこんで組み立てたからだ。後者は、会議体議事録、ジャーナリズム報道をも併用しつつ、当時の政治家・官僚・議員らの発言を追跡している。その結果、前者の時はそれでも潜在化させていた明治の元老クラスの政治家を知己友人の如く扱う癖が、後者ではものの見事にすべての明治人を知己友人とするのが習い性となり、知己友人化現象が顕在化してしまった。

ここまでくると、「首都計画」の叙述に移るにつれて、読んで楽しい物語までにあと一歩であることがわかる。「地方経営」があくまでも統治システム内のダイナミクスの話であるのに対して、「首都計画」は統治システムの内外を通じたダイナミクスの話であることにもよるだろう。

そこで最後に「明治国家をつくる」において示した視角と特色の応用可能性について触れておこう。すでに、「楕円」の構造が明確化し、「敗者」の系譜が継続化する世界の中で、トリックスター、メジャーレベルとマイナーレベルとらせん状レベル、精密実証性と物語性については、すでに説明しつくした。

私の「明治国家をつくる」研究の「先端」的意味はどこにあるかということについて述べておきたい。それは研究を始めた三十年前には予測もつかなかったことであるが、本書が「平成国家をつくる」にあたっての臨床政治学的先例と化す可能性に他ならない。では一八八〇年代日本の統治体験を、百二十年を経た二〇〇〇年代日本の統治に、どうやって生かすのか。一九九〇年代半ばから十年余、橋本行革、小泉改革が進行した中で、これからつくり出されようとしている「平成国家」の最大の争点は「地方」と「首都」に他ならないからだ。一回起的な歴史特有の具体的問題こそ異なるものの、そこには立体化された広い意味での歴史の知恵が働いて当然である。

そこで「地方経営」と「首都計画」を二つの焦点とする「明治国家をつくる」楕円構造のダイナミクスが、「平成国家をつくる」ダイナミクスと二重写しになってくるに相違ない。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1880年代の日本政治史を、「地方経営」と「首都計画」の両面から照射した、戦後政治史学の基盤を提供した業績である。

1880年代の日本は、暴力と反乱と秩序破壊を特徴とする1870年代とも、組織や制度の安定化と秩序完成を特徴とする1890年代とも異なる、独自の時代層を有する時代であった。即ちそれは、議会制度・内閣制度・官僚制度という統治のハードコアを創り上げる営みと、首都東京と諸地方における種々な政策や計画を課すソフトウェアを創り出す営みが、相互に影響を与え交錯しつつ並行して出来上がる、ダイナミックな時代であった。本論文は、「地方経営」と「首都計画」の両面について、長州出身の井上馨と薩摩出身の三島通庸を主役とし、明治期のさまざまな人物を脇役とすることによって多面的に描き出した力作である。

井上馨は、松下村塾出身の長州閥で伊藤博文、山県有朋と並び称せられ、元老として大正期まで君臨し、外務・内務・大蔵・農商務など、担当した政策分野は広かった。しかし個人的には常にスキャンダルとダーティな噂につきまとわれ、首相にはなれず仕舞だった。その意味では、明治国家の"異端の系譜"に属する。1880年代には条約改正、臨時建築局、自治党に関わり、欧化主義の流れを促進し、鹿鳴館外交や西洋流首都計画、そして官有林野払下による自治党育成など、明治国家をつくるにあたって大胆でユニークな将来構想を推進したが、すべて失敗に終わった。同じ時期に、伊藤が憲法と帝国議会、山県が軍制と地方自治とに一応の成功を収めるのと、対照的である。彼は、条約改正、首都計画、自治党育成など、常に内外に敵をつくり出す課題をとりあげたのみならず、その目標の達成のために、これまた欧化主義、臨時建築局、官有林野払下計画といった内外の攻撃を受けやすい"異端"的手段を好んで選択した。そして過剰演出のせいもあり、あたかも演技論における道化の如くに統治システムの内外から指弾を受け、敗者となる運命をたどったのである。

他方、薩摩出身の三島通庸は、「地方経営」と「首都計画」を通じて頭角を現わした。まず内務省土木局長として山県に仕え、福島県令時代などの現場体験から地方政治事情をよく考え抜いた画期的な地方補助政策を提案した。しかし各省対立の激化を太政官制が収拾できなかったためその政策は実現に至らず、土木局拡大による事態の転換を図り、それは工部省廃止の結果をもたらした。しかし、山県の内務省改革と三島のそれとの間には思惑の相違があり、続く「首都計画」において顕在化した。即ち、「地方経営」において内務省土木局の強化拡大をめざした三島は、内閣制度の創設と同時に警視総監に転じ、「首都計画」を推進する立場から、外相井上馨が総裁を兼任していた臨時建築局の副総裁兼任となった。そこで、山県内相―芳川顕正東京府知事の市区改正計画と、井上外相―三島警視総監の西洋流首都計画とは鋭く対立し、結局、地方経営構想は志半ばに終わり、首都計画では全面退却となるという、敗北の憂き目に遭った。本論文が、井上に続く二人目の"異端の敗者"として取り上げたゆえんである。

本論文は、この二人を主な対象とすることにより、明治期「地方経営」と「首都計画」という二つのトピックを「楕円」構造をなすものとしてとらえ、精密な実証と「物語性」の保持という、歴史学に常に随伴する二律背反的な課題を同時に追求したものである。戦後日本の歴史学は、マルクス主義の影響下に展開された、無味乾燥な理論を歴史事象に当て嵌める人間不在の営みと、それへの反発から叙述された、史料を絶対視し実証できないものはすべて無視するという、やはり人間不在の営みとに色濃く影響されてきた。本論文は、歴史叙述に「物語性」を回復するという、当然といえば極めて当然の営為でありながら、同時に高度な実証性を兼ね備えたものとして、斯界においてかねて高く評価されている。

委員会での審査の主たる対象は本論文であるが、今日に至る本論文の研究上の意義も、同時に審査対象とされた。著者はわが国を代表する政治学者として著名であるが、本論文の基本的視角は現在に至る研究活動において十分に生かされており、まさに今日の「平成国家をつくる」過程においても、明治期の経験が臨床政治学的な先例として生きる可能性が指摘される。種々の問題にまつわる個々的な論点を措くとすると、今日の政治過程における最大の争点は、やはり「地方」と「首都」にほかならない。本論文の対象は一回起的な歴史であり、そこに特有な具体的問題はもちろん異なるとはいえ、そこで検討され獲得された歴史の知恵は、現在の政治過程を観察する上でも、極めて有効なものである。

以上のような次第で、本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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