学位論文要旨



No 217376
著者(漢字) 江澤,雅彦
著者(英字)
著者(カナ) エザワ,モトヒコ
標題(和) グラフェン・ナノディスクの電気的磁気的性質
標題(洋) Electronic and Magnetic Properties of Graphene Nanodisks
報告番号 217376
報告番号 乙17376
学位授与日 2010.06.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17376号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高田,康民
 東京大学 教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 上田,正仁
 東京大学 教授 常次,宏一
 東京大学 教授 押山,淳
内容要旨 要旨を表示する

グラフェン及びグラフェン派生物質に付随する物理現象は,現在の物性物理で最も注目を集めているものの一つである.特に,グラフェンを一次元状に切り出したグラフェン・ナノリボンに関しては多くの研究がなされている.同様に重要な物質として,グラフェン・ナノディスクがある.これは閉じた境界を持つグラフェン派生物である[図1].

グラフェン・ナノディスクは,その名称を含め,私が2006年に提唱した物理系であり,この物理系の物性はそれまで全く知られていなかった.ナノディスクは量子ドットに,ナノリボンは量子線に対応するという概念を提唱した.このナノディスクという新しい物理系の豊かな電磁的性質を明らかにし,バンド構造などの基礎的物性から,スピントロニクスなどの応用まで論じた私の一連の仕事を本博士論文で報告する.

先ず,ナノディスクという物質群の定式を行い,バンド計算により電気的性質を決定した.特に,サイズNのジグザグ三角ナノディスクはN重縮退した零エネルギー状態を持つ事を示した.零エネルギー状態を対称群C3vの既約表現で分類した.更に,グラフェンの連続理論であるDirac方程式を用いて定式化し,全ての波動関数と量子数を決定した.その確率密度の流れを計算することで渦糸構造を発見した[図2].特に,ナノディスクの重心での渦度は0,1,2の値をとることを示した.これらの渦糸状態は観測可能である.私の知る限り,物性系のみならず全物理系を見渡しても,渦度2の渦糸状態は観測可能量として実現したことはない. ナノディスクにおいて実現したのは三角対称性の強い制約からである.

この系にクーロン相互作用を導入し磁性を論じた.ナノディスクはスピンがN/2の磁性を示す.交換相互作用は強いので,有限系であるにも係わらず,スピンは強磁性類似の性質(擬強磁性)をもつ.この擬強磁性は1スピンと強磁性の中間の性質を持っている.この擬強磁性の熱力学的性質を調べた.温度の関数として,比熱に鋭いピークが現れ,擬強磁性相と擬常磁性相の間の擬相転移が存在する事を発見した[図3].

次に,ナノディスク・リード系を内部自由度を持つ量子ドットと見なしてクーロン・ブロッケードと近藤効果の解析を行った.中間結合領域では新奇なクーロン・ブロッケードの存在を明らかにした.化学ポテンシャルの関数として,特異なクーロン・ブロッケード・ピークのシリーズが出現する.これはエネルギー・スペクトルがSU(N)対称性を持たない事に起因する.強結合領域では,リードの効果は多スピン近藤ハミルトニアンによって記述される事を示した.

更にナノディスクの将来的な応用も提案した.グラフェン・ナノディスクの擬強磁性を用いることで様々なスピントロニクス・デバイスを提案した.グラフェン・ナノディスクは将来のナノエレクトロニクスとスピントロニクスのデバイスの基本的な構成要素になると期待される.

[図1] 3角ナノディスクとリードの概念図.3角形の一辺にあるベンゼン環の数から1を引いたのが,ナノディスクのサイズNである.この例では, .サイズNのナノディスクにはN重に縮退した零エネルギー状態が存在する.

[図2] 零エネルギー状態の波動関数はedge momentumで特徴づけられる.確率密度の流れには渦糸構造が存在する.状態の重心の渦糸の渦度は2である.

[図3] 温度の関数として,比熱に鋭いピークが現れ,擬強磁性相と擬常磁性相の間の擬相転移が存在する.サイズNのナノディスクは,低温側では,スピンN/2をもつ擬強磁性体である.

審査要旨 要旨を表示する

過去半世紀以上に亘って、炭素物質は基礎物理の観点からも工学的応用の観点からも常に注目を浴びている対象である。特に近年、2次元グラファイト(グラフェン)における「ディラック電子」の物性研究が盛んになっており、これに関連して、本論文では新規グラフェン派生物質としてのグラフェン・ナノディスクの提案、その物性予測、及び、そのスピントロニクス回路素子としての応用可能性が論じられた。

さて、英文で本文9章と補遺2つから成る本論文の第1章では、炭素物質研究の歴史を簡単に追いながら、本論文の中心課題であるジグザグ三角グラフェン・ナノディスク(N2+6N+6個の炭素原子から作られる平面三角形状の有限サイズ系)の導入に至る経緯が記された。そして、この系に関して得られた幾つかの研究成果がその位置づけと共に要約された。また、本論文の構成に沿って各成果がより具体的に解説された。

次の第2章では、炭素物質群、特に、カーボンナノチューブやナノリボン、ナノディスクが、それらの合成法や端の形状が果たす重要性にも触れつつ、より詳細に議論された。そして、第3章では、閉じた境界を持つ強束縛一電子近似模型に基づいてナノディスクの電子物性が解析され、その結果、ジグザグ状の端がある三角ナノディスクではフェルミ準位に位置する一電子状態(零エネルギー状態)がN 重に縮重して存在するという特異性が明らかにされた。また、この特異な縮退電子状態が出現する数学的な理由の詳述と共に、この零エネルギー状態の縮退を解く一体的摂動の大きさが吟味された。

本論文の中心的な成果を報告している第4章では、前章で数値的に得られた結果がk・p 理論に基づいて再検討された。特に、零エネルギー状態を表す波動関数の解析表現が得られたことは重要で、これによりナノディスクの物性をグラフェンのディラック電子の立場から簡明に捉えられるようになった。そして、その波動関数の節点が2次の零点(渦度が2)になりうるという興味深い発見があった。今のところ、この事実が具体的にどのような物理的帰結を導くかは必ずしも明確ではないものの、位相幾何学的な観点からは大変面白いものといえる。

零エネルギー状態のN 重縮退は電子間クーロン斥力によっても解ける。第5章ではこの問題が取り扱われた。ここではクーロン斥力の行列要素は定量計算されたが、N個の零エネルギー状態だけから成る(スピン自由度は考慮された)ヒルベルト空間に限定されたもので、しかも、実際には無限距離結合のハイゼンベルグ模型という可解模型に還元されたので限定的な議論といえるが、この簡単化の下で基底状態はN=2のスピン偏極を持つ強磁性状態であることが結論された。これはハバード模型でのリーブの定理や原子分子系でのフント則、バルクの平坦バンド系での強磁性出現などにおける結論と整合的であり、正しいものと期待される。ただ、この結論や有限温度での各種物性の計算結果は可解模型に立脚するものであり、その模型の正当性も含めて今後の実験的検証が待たれる。

その検証の舞台としてナノディスク・リード系が考えられる。この系は第6、7章で解析された。その結果、N 重縮退に由来する内部自由度を持つ量子ドットがリード線につながれたものという描像が得られた。特に、通常の量子ドット・リード系に比べて、その内部自由度の存在によって特徴的なクーロン障壁効果や近藤効果が導かれた。

第8章では、ナノディスクのスピン偏極した基底状態の性質、とりわけ、その長いスピン緩和時間という特徴を利用して、そのスピントロニクス素子としての可能性が調べられた。最後に第9章では、本研究で得られた新しい研究成果が要約されると同時に、将来のスピントロニクス素子としての具体的な機能、例えば、スピン記憶素子、スピン増幅素子、スピン弁、スピンダイオード、スピン論理回路などが議論された。なお、本論文の末尾には第5章の議論に関連した補遺2つがつけ加えられた。

以上、各章の紹介とともに本論文で得られた物理学上の知見を解説した。グラフェン・ナノディスクをその特徴的な電子物性の解析も含めて世界に先駆けて提案したことは非常に高く評価される。これは基礎物理学だけでなく、スピントロニクスなどの応用研究にも十分な貢献が認められるものである。したがって、審査員全員が学位論文として充分な水準にあり、博士(理学)の学位を授与できると認める。なお、本論文の内容の殆ど全ては申請者の単著論文として、Physical Review B 誌やPhysica E 誌、European Physical Journal B 誌、New Journal of Physics 誌、Physica Status Solidi (c) 誌、Journal of the Physical Society of Japan 誌、Physics Letters A 誌などに既載されている。

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