学位論文要旨



No 217377
著者(漢字) 斎藤,民
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,タミ
標題(和) 大都市における後期高齢者の抑うつ度および主観的幸福感と社会的環境との関連に関するマルチレベル分析
標題(洋)
報告番号 217377
報告番号 乙17377
学位授与日 2010.06.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第17377号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川上,憲人
 東京大学 准教授 李,廷秀
 東京大学 准教授 松山,裕
 東京大学 准教授 福田,敬
 東京大学 准教授 梅崎,昌裕
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

(1)背景

近年、個人の健康に対する地域環境要因の重要性が認識されつつある。老年心理学や環境老年学領域においては、古くから住環境が高齢者の健康や主観的幸福感に関連する可能性が指摘されてきた。高齢者は就労割合が低く、生活圏が自宅周辺に限定されやすいこと、また環境からのストレスに対処する心身の機能に乏しいことなどがこれらの研究を推進する意義として挙げられている。しかし当該領域におけるこれまでの研究のほとんどは、対象者個人による評価や満足度といった対象者の主観に基づいて評価される環境との関連を検討しており、個人の認識によらない環境と個人の健康との関連に関する実証研究はいまだ十分ではない。

他方、社会疫学領域においては、近年、個人の健康と地域単位で測定した諸近隣環境要因との関連をマルチレベル分析により検討する研究が急増している。しかし、高齢者の健康と地域環境との関連についての研究は少なく、いくつかの課題がみられる。これまでの研究では、高齢者の精神的健康との関連を検討した研究や、個人の保有資源の多寡による環境影響の違いを検討した研究、アジア人高齢者を対象とした研究がほとんどみられない。

日本は世界で最も高齢化率が高く平均寿命が長い国のひとつである。今後、75歳以上の後期高齢者の急増と大都市圏における集中が予測されており、大都市において後期高齢者の急増に対応した環境整備が重要と考えられる。日本では従来社会経済格差が小さく、大都市内部における貧困や、社会病理といった問題は少ないといわれてきた。しかし近年の構造改革に伴う大都市圏内での経済格差拡大と東京都心部における大規模都市再開発に伴う地域社会の崩壊がこうした地域に暮らす高齢者の健康に大きく影響している可能性が否めない。

そこで本研究では、大都市に居住する後期高齢者の精神的健康や主観的幸福感と近隣環境との関連を個人の保有資源の多寡による影響の違いも考慮して検討することとした。

(2)分析枠組

本研究では、近隣環境のうち、地域の社会人口学的特性や社会組織的特性といった社会的環境に着目した。近隣レベルで測定した環境指標と高齢者個人の抑うつ度や主観的幸福感との関連を検討した先行研究はアメリカ6本、イギリス2本、日本で1本みられた。そのうち、後期高齢者を対象とした研究は2本のみであった。これらの研究から抑うつ度や主観的幸福感といくつかの社会的環境要因との関連が報告されていた。ただし、これらの研究においても、検討すべき近隣環境変数が十分ではない可能性、設定する近隣環境のレベルの問題、環境影響を把握するうえで調整すべき個人レベルの交絡要因についての議論が十分ではないという課題がみられた。本研究では、高齢者の生活圏に着目し、自治体内の「町」を近隣環境として設定した。測定する社会的環境指標として、社会経済的環境、老年人口割合、人口密度、安定的居住割合といった地域の社会人口学的特性に関する指標とともに、社会的無秩序性、支援意識、組織帰属や愛着度といった社会組織的特性に関する指標を用いた。調整する個人要因として、性、年齢、教育年数の他、抑うつ度や主観的幸福感の主要な関連要因である生活機能、経済状況、社会関係を用いた。

個人の保有資源の多寡による環境影響の違いの検討には、LawtonとSimon(1968)による環境従順仮説に依拠し、個人の保有資源(資力)である生活機能、経済状況、同居者の有無により環境影響が異なる、すなわちこれらの資力が低いほど環境影響が大きくなるという仮説を用いた。

2.方法

調査対象地域は東京都A区である。A区は東京のインナーシティの典型的特徴を有することが先行研究から明らかになっている。近年大規模都市開発に伴い、A区内において伝統的インナーシティ地区と、ホワイトカラー層やファミリー層が流入した開発地区とが混在している。

本研究では複数のデータから分析データセットを作成した。高齢者の抑うつ度および主観的幸福感や個人要因については、2001年7月に実施したA区75歳以上男女1000名を対象とした訪問面接調査から得た。有効回答の618名から、住民数が著しく少ない1町に居住する者、有効回収者が著しく少ない町に居住する者、居住年数が3年未満の者、および日常の生活行動が住居内に限定される者を除く570名を分析対象とした。高齢者が居住する各町住民の支援意識や行動等の把握を目的に、2002年3月、調査対象者以外のA区40歳以上住民3997名を対象とした郵送自記式質問紙調査を実施した。有効回答は2252名であった。その他、平成12年国勢調査データおよび警視庁から得た平成12年-14年の3ヵ年の各町における諸犯罪検挙数を用いた。

各測定項目については、従属変数はGeriatric Depression Scale (GDS)15項目日本語版およびLife Satisfaction Index A (LSIA)3項目日本語版を用いた。それぞれある程度の信頼性と妥当性が確認されている。個人の資力については、生活機能については総合的移動能力を、経済状況は世帯のやりくりに対する困窮感を、社会関係については同居家族の有無を尋ねた。近隣環境変数については先述の通りである。

分析方法は、始めに各近隣環境変数の相関関係を把握した。各近隣環境変数が抑うつ度および主観的幸福感に及ぼす影響については、混合効果モデルを用いて検討した。まず切片の固定効果および変量効果のみを予測するモデルから、従属変数の分散に占める町間分散の程度を把握した。次にこのモデルに個人変数のみを加えその固定効果を予測するモデルから個人変数を調整した際の町間分散を把握した。最後に第2のモデルに各近隣環境変数をひとつずつ投入し、その固定効果を予測するモデルから各近隣環境変数の影響を検討した。個人の資力による環境影響の違いについては、まず個人特性と切片の固定効果および切片と資力を表す変数ひとつずつの変量効果を予測するモデルを検討し、次に各近隣環境変数と各資力を現す変数との交互作用効果(固定効果)をひとつずつ予測するモデルを検討した。最後に、各資力別に層別分析を行った。以上についてSPSS13.0J for Windowsを用いて検討した。有意水準はp<.05とした。

3.結果

分析対象者570名の63.0%が女性であり、平均年齢は79.6歳であった。経済的に困窮していると認識する割合が38.2%、移動能力が近隣もしくは庭先に限定される者が26.5%、独居者割合が24.0%であった。GDS平均得点は4.2点、LSIAは7.1点であった。町あたりの対象者数は8-66人(中央値15)であった。近隣環境変数間の相関については、社会経済的環境と犯罪発生度、安定的居住割合と老年人口割合との間に0.5以上の正の相関が、社会経済的環境と安定的居住割合、犯罪発生度と安定的居住割合との間に-0.5以上の負の相関がみられた。近隣環境変数の抑うつ度および主観的幸福感への直接効果については、統計的有意な関連がみられなかった。各資力の多寡による環境影響の違いについては、LSIAにおいて社会経済的環境と総合的移動能力との有意な交互作用効果がみられた。各資力別の層別分析においては、総合的移動能力が近隣庭先に限定される者において社会経済的環境とGDSおよびLSIAとの有意な関連がみられ、同居群において、老年人口割合とLSIAとの有意な正の関連がみられた。またいずれの資力についても資力の低い群では高い群と比較して町間分散の占める割合が高かった。

4.考察

大都市における後期高齢者の主観的幸福感および抑うつ度と近隣環境変数との関連を検討した結果、これらの分散に占める町の分散は小さく、近隣環境変数との関連は弱かった。

地区差が健康度の分散に占める割合が小さいという知見は先行研究とも共通しているが、本研究は地理的に限定された一自治体の数百名、分析町数24のみを対象としたこと、回収率が6割強と必ずしも高くはないことから、抑うつ度や近隣環境変数双方の分散が十分ではなかった可能性が考えられた。今後、健康度や地区特性がより多様な地域における大規模データでの検証が必要である。また、社会組織的特性に関する指標については、指標に関する理論的枠組みや測定方法を再度吟味する必要が考えられた。

本研究は、環境従順仮説に依拠し、資力による近隣環境の健康影響の違いを検討した。資力が少ないほど地区差の分散が全体に占める割合が大きく、移動能力に制限があるほど社会経済的環境との関連が強い点において一部仮説を支持していた。ただし、資力が高い同居群でのみ老年人口割合と主観的幸福感との間に有意な正の関連がみられるなど、当仮説を支持しない結果も得られた。その理由として、設定した資力指標の妥当性の問題、環境従順仮説のみでは説明力に乏しい可能性、資力の低い群のサンプルサイズの小ささが考えられた。

本研究は一地域を対象とした比較的小規模な横断研究であるという限界がみられるものの、日本人高齢者の健康と近隣環境との関連を、個人特性の違いによる環境影響の差違も考慮して検討した稀少な研究である。今後は、より健康度や近隣環境特性の多様な地域における大規模な縦断的研究において、抑うつ度や主観的以外の健康度との関連、他の年代との比較、本研究で捉えきれなかった他の環境特性の測定や、環境と健康との関連に関するメカニズムの解明を行うことが重要と考えられる。これらにより、急速に高齢化が進む社会における地域づくりのあり方について示唆を与えることができると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、大都市における75歳以上後期高齢者570名を対象に、抑うつ度および主観的幸福感と社会的環境要因との関連について、全体への影響とともに、高齢者の資力が低いほど環境の影響が大きくなるか否かを検証し、下記の結果を得ている。

1.後期高齢者の抑うつ度の地域差は非常に小さく、主観的幸福感の地域差が全体の分散に占める割合は5%程度と小さいことが示された。

2.地区特性を表す8つの近隣環境変数(社会人口学的特性:社会経済的環境、人口密度、安定的居住割合、老年人口割合、社会組織的特性:犯罪発生度、組織帰属割合、町平均愛着度、町平均支援意識度)と抑うつ度および主観的幸福感との関連には統計的有意差は認められなかった。

3.主観的幸福感について、高齢者個人の資力を表す3つの変数(総合的移動能力、経済状況、同居者の有無)のうち、総合的移動能力と社会経済的環境との有意な交互作用効果が示された。経済状況と同居者の有無については有意な交互作用効果が認められなかった。抑うつ度についてはいずれも有意な交互作用効果は認められなかった。

4.資力を表す各変数について、それぞれ層別分析を行った結果、いずれの資力についても、資力が低い群ほど、主観的幸福感に占める地域差の分散が大きいことが示された。抑うつ度については、資力のうち、総合的移動能力と同居者の有無についてのみ、資力が低いほど地域差が全体に占める分散が大きいことが示された。

5.資力を表す各変数についてそれぞれ層別分析を行った結果、総合的移動能力に制限のある者においてのみ、社会経済的環境と抑うつ度および主観的幸福感との有意な関連が認められた。一方、「資力の低い群ほど環境の影響が増大する」という仮説と異なり、同居者のある者のおいてのみ、老年人口割合と主観的幸福感との有意な関連が認められた。

以上、本論文は、大都市に居住する後期高齢者の抑うつ度および主観的幸福感と居住地区の社会的環境特性との関連について、その影響が全体としては小さいが、高齢者の資力によりその影響が異なることを示した。日本では、個人の健康と地域単位で測定した環境要因との関連を検討した研究は非常に少なく、本研究の貢献は重要であると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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