学位論文要旨



No 217379
著者(漢字) 中島,隆博
著者(英字)
著者(カナ) ナカシマ,タカヒロ
標題(和) 位置尺度母数条件下における平均-標準偏差アプローチの農業生産モデルへの適用
標題(洋) Application of Mean-Standard Deviation Approach to Structural Models of Agricultural Production under Location-Scale Parameter Condition
報告番号 217379
報告番号 乙17379
学位授与日 2010.07.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17379号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,宣弘
 東京大学 教授 小林,和彦
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 准教授 中嶋,康博
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
内容要旨 要旨を表示する

天候をはじめとする自然条件による収量変動,農産物価格に対する非弾力的な消費者属性および市場の競争的構造により,農産物価格は大きく変動することが知られている.それに伴う農業収益の変動は開発途上国・開発国を問わず農業経営の存続を脅かす一大要因であり,特に,今日のWTO(世界貿易機関)体制下では所得のセーフティネットをいかに構築するかという問題が重要な政策課題になっている.このような政策課題に答えるためには,まず,不確実性下において農家がいかにリスク対応を図っているかを把握する必要があり,この実証課題に答えるため,近年,不確実性下における構造推定アプローチ,すなわち,生産の主体均衡モデルから導かれる最適化のための1階の条件を用いてリスク選好関数や生産関数に関する構造パラメータを直接的に推定するアプローチが注目されている.

不確実性下における構造推定モデルを構築する場合,主体の意思決定基準を選択する必要があるが,多くの先行研究は期待効用理論を用いているため,導かれる構造推定モデルは期待オペレータと本質的な非線形性を含んでしまい実用性もしくは操作性を犠牲にせざるをえない状況にあった.そのような中,従来から,実用的ではあるけれども一般的な分析には適さないと考えられてきた平均-標準偏差アプローチが位置・尺度分布族の下で期待効用理論と一致すること,そして,期待効用理論に基づく主要な経済モデルの多くが位置・尺度分布族を前提としていること,さらに,位置・尺度分布族の下では期待効用理論で用いられてきた各種分析手法――危険回避の定義やArrow-Prattによるリスク回避の測度――が平均-標準偏差アプローチに変換可能であることが理論的に示された(Sinn,Meyer).本研究はこのように実用的に優れ,しかも,期待効用理論に基づく主要モデルを説明しうる一般性を有する現代的な平均-標準偏差アプローチを農業生産の構造推定モデルに導入するための方法論的展開に新たな貢献を試みたものである.

まず,平均-標準偏差アプローチを構造推定アプローチのような実証分析に適用する際には,目的関数の関数形特定化が必要であるが,それは上述の平均-標準偏差アプローチを導くための理論的枠組み――確率的収益が位置・尺度分布族に制約され,効用関数に凹関数とArrow-Prattのリスク回避測度を課した期待効用理論――に追加的制約を課すことになってしまう.しかし,具体的に如何なる関数形がどのような追加的制約を課すことになるかについて十分に検討がなされていないことから,本論文の前半部分では,位置・尺度分布族下における平均-標準偏差アプローチの関数形特定化の問題を検討した.まず,第2および3章において,期待効用理論との関連において平均-標準偏差アプローチの歴史をサーベイし,その現代的解釈を導くに至る経緯ならびに関連する命題の理論的証明を整理した.これをもとに,第4章では,位置・尺度分布族下で平均-標準偏差アプローチが満たすべき条件を明らかにし,その上で,その関数形特定化が如何にArrow-Prattのリスク回避測度を制約するかを(1)加法分離可能性,(2)線形性,および(3)無差別曲線における拡張経路の曲率の観点から明らかにした.これまで位置・尺度分布族下における平均-標準偏差アプローチの関数形特定化は試行錯誤的に行われることが多かったのに対し,本章において得られる知見を用いることにより体系的な特定化がある程度可能となった点が本研究の主要な貢献の一つである.実際に,それらの理論的知見は,実証研究で広く用いられてきたSahaによる非線形の平均-標準偏差モデル(NLMSモデル)の解釈上の問題点を照らすと同時に,その改善方向をも示した.ここで得られた理論的知見をもとに,本研究の後半部分では,価格不確実性を含む生産モデルから導かれる構造推定モデルの実用性向上に関して検討した.第5章では,期待効用理論に基づく価格不確実性下の生産モデルが,何ら一般性を失うことなく,平均-標準偏差アプローチを用いて再定式化されることを整理し,第6章では,その平均-標準偏差アプローチにもとづく生産モデルから構造推定モデルを導出し,生産関数の同次性およびリスク選好における絶対的危険回避一定もしくは相対的危険回避一定といった頻繁に用いられてきた条件の下で,期待効用理論にもとづくモデルが抱えた期待オペレータや非線形性といった要素を含まない,きわめて単純な線形の構造推定モデルを導くことが出来ることを明らかにした.本稿で提示された線形の構造推定モデルは,主体のリスク選好に関するパラメータの推定のみならず,リスクプレミアムや供給弾力性といった関連する分析指標の算出を容易にする上,価格不確実性に対する主体リスク選好を図示しうる等の実践的な特長を有している.第7章では,そのモデルを1995~97年における我が国の稲作経営へ適用し,米価変動に対する農家の危険回避的選好を統計的に明らかにした.構造推定アプローチにより,我が国における農家の危険回避性が示されたのは,おそらく本研究がはじめてのことではないかと思われる.続いて,0.5~2.0ha層と2.0ha以上層とで(絶対的危険回避度を表す)危険回避パラメータ間に差異があるか否かを調べるため規模ダミーを加えた推計を行ったところ,前者の危険回避パラメータが後者のものより有意に大きく,それらの推定値をもとに算出されたリスクプレミアムには前者(32.46円/kg)と後者(25.37円/kg)とで約1.3倍の格差が観察された.このことは米供給1単位あたりの支払い保険意思額に規模間格差が存在することを示しており,保険価格を,原則,過去3年間の米価平均値の2%に設定する稲作経営安定対策は規模が小さい農家により強い参加インセンティブを与えたことや,効率的な政策策定のためには農家のリスク選好を保険価格に反映させることが保険需要の視点からは望ましいこと等を含意している.以上,本研究を通じて前提とした位置・尺度分布族は不確実要因を含む多くの生産モデルにおいて満たされるため,第5,6章において展開された構造推定モデル実用化の手続きは価格以外の不確実要因を含むモデルにおいても有効であると思われる.第8章では,収量の不確実性を含む構造推定モデルを取り上げ,主体が絶対的危険回避一定もしくは相対的危険回避一定で,しかも,確率的生産関数が乗数型でその非確率項がCobb-Douglas型関数の場合,線形の構造推定モデルを導出しうることも示した.そして,本研究のアクティビティ分析にもとづくリスクプログラミングへの含意に関しても検討し,本稿における推定結果が関連するリスクプログラミングにおいて設定される水準ときわめて近い値をとることを示した.

本研究において提示した構造推定モデルや関連する分析手法は,農業生産に関する最も標準的データのみしか必要としないので,統計データの整備が十分でない開発途上国における実証分析においてその有用性を発揮するのではないかと思われる.手法の実践性を生かし分析結果を蓄積していくことにより,収入保険をはじめとするセーフティネット施策をめぐる議論に経済学的知見を提供することが可能になると思われる.

審査要旨 要旨を表示する

「位置尺度母数条件下における平均-標準偏差アプローチの農業生産モデルへの適用」と題する本論文は,その前半部分で位置尺度分布族下の平均-標準偏差アプローチにおける関数形特定化の問題を理論的に検討し,そこから得られた知見を後半部分で農業生産の構造推定モデルへ適用したものである.本論文の目的は,現代的な平均-標準偏差アプローチの有用性を確認し,実証分析に適用する際の方法論的な展開に一つの学術的貢献を成すことにある.

第1章で本研究における課題,方法およびその構成に関して述べ,第2および3章では平均-標準偏差アプローチの歴史を1950年代から振り返っている.その現代的解釈にいたるまでの研究の概説と関連する命題の理論的証明を整理することにより,以降の章における考察の理論的準備を行っている.第4章では位置尺度分布族下の平均-標準偏差アプローチにおける関数形特定化の問題を検討している.具体的には,位置尺度分布族の下で平均-標準偏差アプローチが満たすべき条件を明らかにした上で,その関数形の特定化がArrow-Prattのリスク回避測度を如何に制約するかを目的関数の(1)加法分離可能性,(2)線形性および(3)無差別曲線における拡張経路の曲率の観点から明らかにしている.これまで位置尺度分布族下における平均-標準偏差アプローチの関数形特定化は試行錯誤的に行われることが多かったのに対し,本章において得られる知見を用いることにより体系的な特定化がある程度可能となった点は本研究の主要な貢献の一つである.そこで得られた知見をもとに,続く3つの章では,価格不確実性を含む生産理論から導かれる構造推定モデルの実用性向上について検討している.第5章では,期待効用理論に基づく価格不確実性下の生産モデルが,何ら一般性を失うことなく,平均-標準偏差アプローチを用いて再定式化されることを整理し,第6章では,その平均-標準偏差アプローチにもとづく生産モデルから構造推定モデルを導出し,生産関数の同次性およびリスク選好における絶対的危険回避一定もしくは相対的危険回避一定といった,これまで頻繁に用いられてきた条件の下で,期待効用理論にもとづくモデルが抱えた期待オペレータや非線形性といった要素を含まない,きわめて単純な線形の構造推定モデルを導くことが出来ることを明らかにしている.本稿で提示された線形の構造推定モデルは,主体のリスク選好に関するパラメータの推定のみならず,リスクプレミアムや供給弾力性といった関連する分析指標の算出を容易にする上,価格不確実性に対する主体リスク選好を図示しうる等,実践的な特長を有している.第7章では,提示された線形の構造推定モデルを我が国の稲作経営へ適用し,米価変動に対する農家の危険回避的選好を統計的に明らかにしている.そして,0.5~2.0ha層と2.0ha以上層とで(絶対的危険回避度を表す)危険回避パラメータ間に差異があるか否かを統計的に検定し,前者の危険回避パラメータが後者のものより有意に大きく,それらの推定値をもとに算出したリスクプレミアムには前者(32.46円/kg)と後者(25.37円/kg)とで約1.3倍の格差があることを指摘している.このことは,米供給1単位あたりの収入保険支払い意思額に規模間格差が存在することを示しており,保険価格を,原則,過去3年間の米価平均値の3%に設定する稲作経営安定対策は規模が小さい農家層により強い参加インセンティブを与えたのではないかといった含意を導いている.なお,本研究を通じて前提とした位置尺度分布族は主要な生産理論において満たされるため,第5および6章において示された構造推定モデル実用化の手続きはその他の不確実要因を含む生産モデルにおいても有効であることも指摘している.第8章では,収量の不確実性を含む構造推定モデルを取り上げ,主体が絶対的危険回避一定もしくは相対的危険回避一定で,しかも,確率的生産関数が乗数型でその非確率項がCobb-Douglas型関数の場合,線形の構造推定モデルを導出しうることも示している.さらに本研究のアクティビティ分析にもとづくリスクプログラミングへの含意に関しても議論し,今後の研究に関する展望を行っている.

本研究で提示される,不確実要因を含む農業生産の構造推定モデルは生産に関わる最も基本的なデータしか必要としないので,統計データの整備が十分でない開発途上国における分析においてその有用性を発揮するのではないかと思われる.手法の実用性を生かし分析結果を蓄積していくことにより,収入保険をはじめとするセーフティネット施策をめぐる議論に経済学的知見を提供することが可能になると期待される.

以上を要するに,本論文は,現代的な平均-標準偏差アプローチを方法論的な視点から検討し,その関数形特定化および構造推定モデルへの適用に関して新たな知見を明らかにしたものである.提示された構造推定モデルは,これまで提示されたものの中でもおそらく最も操作性に富むものの一つであることに加え,我が国の農家の危険回避的特性を構造推定アプローチにより明らかにしたのは本研究がはじめてのことである点も評価されてしかるべきである.よって,審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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