学位論文要旨



No 217384
著者(漢字) 堀内,晃
著者(英字)
著者(カナ) ホリウチ,アキラ
標題(和) 高機能特殊鋼複占市場における生産者の最適戦略
標題(洋)
報告番号 217384
報告番号 乙17384
学位授与日 2010.07.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17384号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 茂木,源人
 東京大学 教授 青山,和浩
 東京大学 准教授 安達,毅
 東京大学 教授 元橋,一之
 東京大学 教授 六川,修一
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景

ステンレス鋼は年率約5%の成長率を過去に記録し、また足元の景気減速の影響はあるものの今後も同じように成長すると予想される成長性の高い材料として世界的に注目されている。しかしステンレス鋼は世界的に見れば成長性は高いものの、ある限られた地域での成長が主体となっており、すでに市場が存在している欧米日本などでは、あまり大きな成長は認められず、むしろ成熟市場とみなしたほうが妥当と思われる。このような状況での既存メーカーの生き残り策として、欧米の各メーカーは経営統合を行って企業体力を向上させる道を選んだ。しかし既存メーカーの生き残り策はこれだけではないと考えられる。大きな生産規模を持つ企業が増えている現況においては、逆に大規模生産に見合わない品種に製品主体を移行させ、比較的狭い領域の"すきま"市場を狙う戦略も考えられる。

2.研究の目的

本論文は、ある市場においてすでに圧倒的なシェアを持つメーカー(多くの場合先行メーカーである:企業L)とシェアの小さいメーカー(多くの場合後発メーカーである:企業F)の二社による複占市場を考え、両社が生産量の拡大投資を行う場合の最適戦略を求める事を目的とした。この設定は既存のステンレス鋼メーカーがステンレスではない特殊な合金を製造する状態を想定している。すなわちステンレス鋼に比べれば市場の小さい、しかしながらある程度の成長が見込まれる"すきま"市場において二社の複占状態を想定し、双方が生産量を拡大させようと競争する場合の双方の最適戦略を各種パラメータを多様に変化させて検討した。

3.事業の評価方法

投資可否判断を行うためにはその投資活動の事業価値を評価しなければならない。本研究では、Imai and Watanabe(2005)の多期間投資ゲームのモデルに対し、Barraquand and Martineau(1995)によって開発された、多資産のアメリカン・オプション価値を算出する際の強力なシミュレーション手法であるSSA(Stratified State Aggregation)法のアルゴリズムを適用し、企業の複雑なキャッシュフロー構造について、現実性を損なうことなく柔軟に記述できるモデルを開発した。その上で、このモデルに対して、LNGタンカー用特殊合金事業におけるケースを適用し、企業の費用構造を固定費と変動費に分類することや、企業間におけるシェアなどをモデリングした上で、事業価値や一定期間内で投資を行う確率を算出し、そこから得られる示唆について詳細に分析した。

4.結果と考察

I.変動費、固定費を変化させた場合

当然のことながら、変動費、固定費とも低い方が投資確率、事業価値ともに高い値となるが、企業Lは企業Fの変動費、固定費の変化に影響を受けないのに対して、企業Fの側は、企業Lの変動費、固定費の変化に影響を受ける事が判った。

ここで、代替率(η)の変更を行った。代替率(η)とは、発注される新技術に対する需要について、これを受注する製造企業が新技術に投資していない時に、発注者が発注する量をどれくらい他の需要に代替させてしまうかを意味する。受注側から見ると、投資を行わないと市場が縮小してしまうので、投資に対するモチベーションが上がることになる。この結果、次の事が判明した。

(1)ηを100%にすると、50%の場合よりも、特に企業L側の投資行動が複雑になり、自分が投資をすることによって相手企業の投資を抑制させる,『防衛的』な投資をする『防衛投資行動』と、それとは反対の『モラトリアム行動』が認められるようになる。ここで『防衛投資行動』は先行研究におけるpreemptionの考え方に通じるものであり、『モラトリアム行動』は延期オプションの価値が有効となっている状態である。

(2)ηを100%にすると、50%の場合よりも、投資をしなくても市場が縮小しないので、両企業とも投資行動は控えめになる。つまり、市場が要求しない場合、新技術の導入投資は延期される確率が高くなる事がわかる。

(3)企業経営を行う立場から考えると、投資行動が複雑になるような局面はその状況判断が難しくなるので、極力避けるべきである。すなわち、ηの増大は企業L、Fの区別無く企業経営にとって望ましくない。よってメーカー企業は市場からは常に新しい技術の導入を求められるべきであり、またそのような局面になるようにメーカーサイドは新技術の魅力を市場にアピールし続けるべきである。

さらに、代替率の変更を行った上で原資産需要変動モデルとして採用した幾何ブラウン運動のトレンド項をゼロに下げて、その変化を調査した。この結果トレンド項μを小さくすると、企業L、Fの両企業にとってさらに経営判断を難しくするような、複雑な投資行動が要求されるようになる事が判った。上記と合わせて、企業経営はηを小さく、μを大きくできる方向へ志向するべきである。

II.増設ライン数と発注シェアを変化させた場合

一般に、均衡した寡占市場においては、フォロワー企業が設備投資を行うことで双方のシェアが変化することが予想される。事業者、特にフォロワー企業にとって投資後のシェア変化によって事業価値がどのような影響を受けるかは経営上重要な問題であり、その上でいかなる投資単位を選択するかは切実な意思決定課題となる。

そこで、両企業の増設ライン数及び企業 が投資を行った後の発注シェアを変化させたときの事業価値及び投資確率の変化についての分析を行った。この結果、企業L企業Fの投資行動は,投資単位数と投資後のシェアを変化させた場合に5つのパターンに分類できる事が判った。

(1)常にどちらか一方が投資確率=100%となるパターン.

(1)-1. 投資確率が100%となる企業が入れ替わるパターン.

(1)-2. 一方の投資確率が100%のまま変化しないパターン.

(2)両社ともに投資確率=100%ではない領域があるパターン(両社ともに延期する確率が生じているパターン.)

(2)-1. どちらの企業にも投資確率=100%となる領域があるパターン

(2)-2. どちらか一方の企業のみに投資確率=100%となる領域があるパターン.

(2)-3. どちらの企業にも投資確率=100%となる領域がないパターン

なかでも(2)-1.のパターンは大変複雑で興味深く、上記の『防衛投資行動』と『モラトリアム行動』がそれぞれ認められる。

投資を延期するのが良いのか、防衛的であるとしても先に投資に踏み切ってしまうのが良いのか、どちらが最適かは、わずかな条件の違いで大きく結果が異なるので厳密な計算が要求される。

5.まとめ

すべてをまとめて、企業の包括的な最適戦略を述べると以下のようになる。

(1) 最適戦略の基本は各企業の自助努力で実現できるコストダウンである。これは、変動費、固定費の差を問わず、また効果の大小はあるものの、コストを下げる方が競争力が増すという方向性については相手企業の行動に左右されない。

(2) 複占状態には防衛投資やモラトリアム行動など複雑な最適投資行動が要求される場合があるが、現実の企業戦略としては、相手企業の収益力を正確に把握することは不可能であるため、このような厳密な計算を要求されるような状況にならないような環境で企業活動を行えるように考えていくべきである。

(3) 市場の性質を変えるシミュレーションとして、代替係数(η)を変化させることにより実行したが、最適行動の中から防衛投資のような複雑な投資行動を排除できなかった。また昨今の経済環境を踏まえて市場成長率(μ)をゼロと置くシミュレーションを行うと、企業の最適行動はより複雑化する事が判った。このことから、複雑化を防ぐには、複占市場を構成する企業側の投資に対する考え方に頼らざるを得ない事になる。いくつか考え方を提案したい。ここで重要なのは『住み分け』についての考え方である。

a.パターン(1)-1であれば防衛投資が起こらないので、両企業とも投資を行う際はなるべく小さい投資単位で投資を行うべきである。

b.投資単位数を最小にしても単位投資コストが高い場合は、本研究でシミュレーションしたnL:nF=3:3や4:4のようなパターン(2)-1や(2)-2といった防衛投資の起こる領域に突入する可能性がある。ここでは

b-1フォロワー企業:

フォロワー企業はパターン(2)の3つの例においては領域CやDを目指すのがベストである(領域CやDに住み分ける)。領域CやDとなる市場とは以下が挙げられる。

b-1-1.フォロワー企業が大きなシェアを取れる、即ち自らの競争力が優位に発揮できる市場

b-1-2.リーダー企業が本気で事業を営んでおらず、容易にフォロワーに譲り渡すことができる市場

◎フォロワー企業の活路はこのような市場を探す、あるいは創出することにある。これらの戦略はいずれも上記a同様、本研究で見出した防衛投資行動の防止につながる。

◎そして探索できた、または創出されたニッチな新製品の魅力を市場にアピールする事が重要である。この戦略は、本研究で見出したηの低減、μの向上につながる。

b-2リーダー企業:

リーダー企業はパターン(2)の3例においては領域Aを目指すのがベストである(領域Aに住み分ける)。領域Aを実現するには、その市場を強固に守り抜くという考え方に立ち、

b-2-1.徹底したコスト競争力の向上によって圧倒的なシェアを確保し、

b-2-2.挑みかかってくる企業がある場合は徹底的に戦う、というサインを出し続ける事によって企業Fにフォロワーとしての立場を維持させ、投資意欲を損なわせるような市場環境作りをする

事が重要である。

一方で、ニッチな新領域が見出された場合、あるいは、本気で事業を営んでいなかった市場が成長を始めたような場合、

b-2-3.自らの競争力をよく吟味し、無理な競争をしかけずに、フォロワー企業に新領域を譲り、

b-2-4.もともとの本業のほうに経営資源を集中するべきである。

以上リーダーの四つの戦略はいずれも上記a同様、本研究で見出した防衛投資行動の防止につながる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「高機能特殊鋼複占市場における生産者の最適戦略」と題し、既存のステンレス鋼メーカーがステンレスではない特殊な合金を製造する状態を想定し、市場シェアが大きく異なる複占市場における二社間の設備拡大投資戦略を、ゲーム理論を組み込んだリアルオプション分析により評価し、各種環境下における双方の最適戦略に関して、実務面からの視点を織り込んだ考察を行うものである。本論文は以下の7章から構成されている。

第1章では、ステンレス鋼製造業の現況を示し、本論文の目的、課題および評価手法について述べている。

第2章では本研究で構築したモデルの詳細を示している。本稿で想定する競合状態とは、一方の意思決定がもう一方のキャッシュフローに直接的に影響を及ぼす複占市場において、両企業がそれぞれ事業を拡張する機会(拡張オプション)を同時に有しているという状態である。両企業はともに、一定の期間内において毎期発生するキャッシュフローの現在価値の合計を最大化するために最適な判断をするものとして、両企業の事業価値を算出する。なお、判断の際には、両企業ともに、相手企業のキャッシュフローに関する情報を全て把握しているものとした。通常は事業を拡張する際には投資意思決定直後から投資が完了するまでに一定の時間がかかるが、本稿では単純化のために投資の意思決定をした瞬間に投資が完了するものとした。また、投資は1度しか行えず、かつ不可逆であるとし、キャッシュフローについては、市場の状態および両企業の投資状態に応じて毎期発生するものとし、Barraquand and Martineauによって開発されたSSA法およびImai and Watanabeによって開発された不確実性を考慮した多期間の投資ゲームのモデルを応用した、モンテカルロシミュレーションによる事業価値評価のアルゴリズムをステップ毎に記述している。

第3章では、競合を考慮したリアルオプション分析による事業評価の適用例として、メンブレン型LNGタンカー向けのアンバー合金製造事業の事業環境について詳細に述べている。この事業は、既存のステンレス鋼メーカーがステンレスではない特殊な合金を製造する状態を想定しており、ステンレス鋼に比べれば市場の小さい、しかしながらある程度の成長が見込まれる"すきま"市場の実例である。メンブレン型LNGタンカー向けのアンバー合金を製造している企業は世界で2社しか存在しない。この意味で、メンブレン型LNGタンカー向けのアンバー合金市場は複占状態にあると言える。この2社の相対的な立場は、主体的に意思決定を行うリーダー企業(企業L)と、リーダー企業の意思決定を踏まえて意思決定を行うフォロワー企業(企業F)に分類される。現在、メンブレン型LNGタンカーは20万ma未満級が主流であるが、全世界のLNG需要が増加傾向にあることを受け、今後はより輸送能力の高い20万ma超級タンカーの需要が増えると予測されている。しかしながら、20万ma超級のタンカーには20万ma未満級に使用されるものより長いメンブレンを使用しなければならず、両企業ともに現行の製造設備では製造できないため、20万ma超級の需要に対応するためには製造設備を増強する必要がある。ここで、投資コストを支払うことにより20万ma超級の需要に対応した製造設備を手に入れることができるという拡張オプションを両企業が保有していると考え、両企業のプロジェクト価値を評価するための前提条件を整理した。

第4章では、3章で設定した仮定に基づき、ベースケースとなる変数のセットを用いてシミュレーションを行った結果、及びそこから得られる示唆について述べている。今回設定した標準データセットを用いた場合、企業Lの事業価値は、1ラインあたりの投資コストを100としたときに1,394であり、企業Fの事業価値は1,589であることがわかった。また、企業Lがプロジェクト期間である25年のうちに投資を行う確率は38.5%であるのに対し、企業Fの投資確率は100%、すなわち必ず投資を行うことが最適戦略であることが判明した。

第5章では事業価値および投資確率に影響を与える各種パラメータの値を変えて感度分析を行っている。変化させたパラメータは、需要のトレンドとボラティリティ、固定費用係数、変動費(生産1単位あたり利益)、時点0で想定する増設ライン数、想定される受注シェアである。

第6章では、第5章の感度分析のうち、需要のトレンドとボラティリティ、固定費用係数と変動費、増設ライン数と想定される受注シェアの組み合わせ、及び、大型船に対する需要のうち供給が不足した分のうちどの程度が小型船で代替されるかを示す代替係数に着目し、シミュレーション結果の背景にある、企業から見た市場に対しての投資モチベーションの考察を行っている。この中で、相手企業の投資を抑制するための防衛的な投資行動や、顧客の流出が限定的な環境における消極的な投資姿勢(モラトリアム行動)の背景及び要因が合理的に説明されている。

第7章では本論文を総括し、そこから導き出される課題ならびに今後の展望を示している。

以上要するに、本論文は、ゲーム理論を組み込んだリアルオプション分析により、複占市場における企業の包括的な最適戦略としてコストダウンの重要性を示すと共に、防衛投資やモラトリアム行動など複雑な投資行動の合理性を明らかにし、リーダー企業、フォロワー企業それぞれの状況に応じた最適戦略の導出を行ったものであり、技術経営戦略学及びプロジェクトマネジメント理論の発展に寄与するところ大である。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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