学位論文要旨



No 217390
著者(漢字) 藤井,まい
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,マイ
標題(和) 配偶者間精子注入法(AIH)による単胎児の周産期リスク
標題(洋)
報告番号 217390
報告番号 乙17390
学位授与日 2010.07.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第17390号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 水口,雅
 東京大学 教授 赤林,朗
 東京大学 教授 上妻,志郎
 東京大学 准教授 松山,裕
 東京大学 講師 山崎,あけみ
内容要旨 要旨を表示する

1. 研究の背景

WHOの2001年の推計報告時点では,開発途上国だけで186万人, 全世界におよそ8000万人の不妊カップルがいるとされ, 不妊症に悩むカップルは少なくない。不妊症は男性側にも要因のあることがわかってきており, 近年の研究報告では男性不妊の要因となる精子減少症や精子無力症が今後も増加していく可能性が示唆されている。男性不妊症の中で最も頻繁に用いられる治療,子宮内精子注入法(Intrauterine insemination: IUI)は配偶者の精子を用いる配偶者間精子注入法(AIH:artificial insemination using husband's sperm),とドナ-精子注入法(AID:artificial insemination using donor's sperm)に大別される。日本の治療現場では前者の配偶者間精子注入法(AIH)が主流である。本研究では, 排卵誘発剤を使用していない配偶者間精子注入法(AIH)の周産期のアウトカムを評価し, 新生児にリスクはないか検討した。指標は, 周産期死亡, 低出生体重(LBW)児率, 週数換算低出生体重(SGA)児率, 形態異常児発生率, 及び男女比の5つである。

2. 対象と方法

本研究は産科施設における妊娠22週以降の分娩情報を集積した日本産科婦人科学会周産期デ-タベ-スの2次使用により行われた。2006年分の全登録63,899児のうち, 有効回答は62,964児であった。有効回答より自然単胎妊娠の53,939児, 及び配偶者間精子注入法(AIH)後単胎妊娠の576児を分析対象として選出した。排卵誘発剤, 体外受精, リズム法, 前述以外の不妊治療, 及び複数の不妊治療法の適応事例は除外した。

前述の両群においてそれぞれ平均年齢, 妊娠週数, 基礎疾患, 及び前置胎盤の保有状況等を算出し割合(%)を求めた。平均値の差はT検定、割合の差はカイ二乗検定を用いて検定した。精子注入群の自然妊娠群に対する各分娩アウトカムの粗オッズ比及び95%信頼区間をロジスティック回帰分析を用いて求めた。

このデ-タの基礎集計結果(一次分析)については2008年1月25日開催の周産期委員会で承認された。また,本デ-タの二次分析及び研究目的での使用については日本産婦人科学会の周産期専門委員会により2008年3月12日に承認された。また, 週数換算低出生体重児の算出にあたり用いられた日本超音波医学会の胎児発育発達曲線の使用は2009年4月に許可を得た。

3.結果

1. 対象者の特性

自然妊娠による単胎児数は53,939, 配偶者間精子注入法(AIH)後の単胎児数は576だった。平均年齢は自然妊娠群で30.9±5.0歳(平均値±標準偏差), 精子注入群で34.7±3.9歳(平均値±標準偏差)で精子注入群のほうが高かった。平均妊娠週数は自然妊娠群で38.2±2.7歳(平均値±標準偏差), 精子注入群で38.1±2.9歳(平均値±標準偏差)であった。

2. 周産期死亡

周産期死亡は精子注入群で10(1.7%)及び自然妊娠群で596(1.1%)であり, 割合の差は有意ではなかった。粗オッズ比, 及び分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患を調整したオッズ比も有意でなかった。(表1)

3. 低出生体重(LBW)児率

低出生体重児は 自然妊娠群で9,143(17.1%), 精子注入群で114(20.0%)であった。これらの群間の割合差は有意ではなかった。粗オッズ比, 及び分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患を調整したオッズ比も有意でなかった。(表2)

4. 週数換算低出生体重(SGA)児率

週数換算低出生体重(SGA)児率は精子注入群で102(17.9%)及び自然妊娠群で6,318(11.8%)でった。週数換算低出生体重(SGA)児率の割合は精子注入群において有意に高いことが認められた。精子注入群を自然妊娠群と比較した時の週数換算低出生体重(SGA)児のオッズ比は1.63(95%信頼区間1.31-2.02)であった。分娩時の母親の年齢, 前置胎盤, 母体基礎疾患で調整したオッズ比は1.66(95%信頼区間1.33-2.06)であった。(表3)

5. 形態異常児率

児の形態異常率は精子注入群で7(1.2%)及び自然妊娠群で1,070(2.0%)であり, 割合に有意な差は認められなかった。精子注入群を自然妊娠群と比較した時の児の形態異常のオッズ比も有意でなかった。分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患を調整したオッズ比も有意でなかった。(表4)

6. 男女比

精子注入群では男児の出生が289(50.9%), 女児の出生が279(49.1%)であった。自然妊娠群では男児の出生が27,419(51.3%), 女児の出生が26,067(48.7%)であった。これらの群間の割合に有意な差は認められなかった。精子注入群の自然妊娠群に対する男児出生のオッズ比も有意でなかった。分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患で調整したオッズ比も有意でなかった。(表5)

4.考察

単胎における自然妊娠群と排卵誘発剤不使用の精子注入群を主に5つのアウトカムにおいて比較した。周産期死亡, 低出生体重児率, 形態異常率, 男女比の4つのアウトカムにおいては群間の差, 及び調整後のオッズ比共に有意でなかった。週数換算低出生体重児では精子注入群の対照群に対するリスクが高いことが明らかになった。以下に各アウトカム別の考察を述べる。

周産期死亡

先行研究の結果は, 精子注入法の違いに加え, 排卵誘発剤使用も適用しているなど, 手法が完全に一致しているわけではないため, これらの研究と本研究を直接的に比較検討することはできない。しかし, 精子注入後妊娠と自然妊娠との間で周産期死亡の差が認められなかったことは, 少なくとも精子注入法の手技そのものがリスクとはなっていないことを示唆するものと考えられた。また, 日本のような周産期医療レベルの質が極めて高い国では, その質の高さが周産期死亡のリスクを減らすことに大きく貢献し, その結果自然妊娠との差がなくなった可能性もあるが, 背景要因についてはさらなる調査が望まれる。

低出生体重(LBW)児率

本研究における低出生児率は全国平均より高い傾向にあったが, データにハイリスク妊娠を扱う第3次病院の割合が比較的多く含まれていたからであると考えられる。既存の研究で示された精子注入後妊娠の低出生体重児発生割合はばらつきがある。2群間の差は有意でなかったため, 精子注入の手技が低出生体重児発生を高めることにはなっていないことが示されていると考えられる。低出生体重(LBW)児の自然妊娠群に対するオッズ比は調整後も有意とならなかったが, さらに週数換算低出生体重(SGA)児を算出し2群を比較した。その結果, 精子注入群における週数換算低出生体重(SGA)児の割合が有意に高く, 母体の分娩時年齢, 妊娠週数, 前置胎盤,母体基礎疾患で調整したオッズ比も1.66で有意で, 精子注入群の方が低出生体重児リスクが高いことが示された。精子注入群において低出生体重児が多い傾向にあることは過去の研究でも報告されており, 本研究はこれまでの研究の見解を支持するものであった。今後不妊治療者から採取された精子の質が本当に低出生体重の真のリスク要因であるのか詳細に検討していく必要があると思われる。低出生体重児の中において更なるハイリスクグル-プである週数換算低出生体重児が精子注入群においてより多く,リスクが認められたことは興味深い。これらの背景要因が, 不妊男性から採取された精子の遺伝的要因によるものなのか, 精子を人工的に注入することが影響しているのか, あるいは全く別な理由によるものなのか今後更なる研究が望まれる。

形態異常児率

本研究では精子注入後の出産が児の形態異常のリスクを上げるという根拠は認められなかった。本研究の形態異常児率が全国平均より少なかったのは, このデ-タベ-スは分娩時の記録であるため, 先天異常のうち, 出生時点で診断できる形態異常のみが計上されていたからだと考えられる。

男女比

配偶者精子注入法(AIH)に関する既存の研究においては, 排卵日と精子注入の時期の違いにより男女比が変わるかどうかの議論がなされてきた。先行研究では配偶者精子注入法(AIH)では男性不妊者から精子を採取しているため, 生まれてくる児も女児の比率が高いと結論付ける論文もあるが, しかし, 配偶者精子注入法(AIH)でも必ずしも排卵日0日に正確に精子注入をしているわけではないし, 排卵日と精子注入の時期が児の性別決定に影響を及ぼすのかどうかに関してまだエビデンスは十分であるとはいえない。本研究では精子注入群と自然妊娠群の男女比の差は有意とならなかった。

5.本研究の限界と今後の課題

本研究は日本産婦人科学会によって協力の同意の得られた医療機関より集められたデ-タベ-スを用いて行われたが, 不妊に関してのいくつかの重要な事項については項目が設置されていなかった。周産期リスクを評価するには不妊症そのものの影響だけでなく, 多胎, 計画帝王切開等の出産様式, 妊婦の喫煙など, 本研究で取り上げることのできなかった要因が関連している可能性もある。今後, 多角的な要因を考慮した詳細な研究が必要であると思われる。

また, 週数換算低出生体重児(SGA)の算出について, WHOの定義によれば, SGAは胎児発達曲線の10パーセンタイル以下と定義されている。しかし, 日本における, 実測値に基づいた胎児発達曲線が改定中との回答を日本小児科学会より得たため, 可能な範囲で最も近似値となる標準偏差を用いた計算により算出を行った。胎児曲線は日本超音波学会の超音波診断児の胎児曲線から推定値として作成されたJSUMの曲線を用いた。

6. 結語

配偶者精子注入による単胎の分娩は自然妊娠による分娩に対し, 周産期死亡, 形態異常, 児の性別において, リスクを上げているという根拠は見つからなかった。しかし, 週数換算低出生体重児では, 配偶者精子注入法は自然妊娠より軽い傾向にあったことが明らかになった。このアウトカムの背景要因については今後のより詳細な研究が期待されるが, 子宮内精子注入法(IUI)のような基礎治療の範疇に入る治療であっても, 周産期のリスク管理とフォロ-アップは非常に重要であると考えられる。

表1 精子注入群と自然妊娠群における周産期死亡のオッズ比及び95%信頼区間

表2 精子注入群と自然妊娠群における低出生体重 (LBW) 児のオッズ比及び95%信頼区間

表3 精子注入群と自然妊娠群における週数換算低出生体重 (SGA) 児のオッズ比及び95%信頼区間

表4 精子注入群と自然妊娠群における形態異常のオッズ比及び95%信頼区間

表5 精子注入群と自然妊娠群における男女比のオッズ比及び95%信頼区間

*分娩時の母親の年齢,妊娠週数,前置胎盤,母体基礎疾患で調整 (強制投入法)

**分娩時の母親の年齢,前置胎盤,母体基礎疾患で調整 (強制投入法)

審査要旨 要旨を表示する

本研究は, 排卵誘発剤を使用していない配偶者間精子注入法(AIH)の周産期のアウトカムを評価し, 新生児にリスクはないか検討することを目的として行われた。指標は, 周産期死亡, 低出生体重(LBW)児率, 週数換算低出生体重(SGA)児率, 形態異常児発生率, 及び男女比の5つであり、下記のような結果を得られている。

1. 対象者の特性

自然妊娠による単胎児数は53,939, 配偶者間精子注入法(AIH)後の単胎児数は576だった。平均年齢は自然妊娠群で30.9±5.0歳(平均値±標準偏差), 精子注入群で34.7±3.9歳(平均値±標準偏差)で精子注入群のほうが高かった。平均妊娠週数は自然妊娠群で38.2±2.7歳(平均値±標準偏差), 精子注入群で38.1±2.9歳(平均値±標準偏差)であった。

2. 周産期死亡

周産期死亡は精子注入群で10(1.7%)及び自然妊娠群で596(1.1%)であり,割合の差は有意ではなかった。粗オッズ比, 及び分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患を調整したオッズ比も有意でなかった。

3. 低出生体重(LBW)児率

低出生体重児は 自然妊娠群で9,143(17.1%), 精子注入群で114(20.0%)であった。これらの群間の割合差は有意ではなかった。粗オッズ比, 及び分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患を調整したオッズ比も有意でなかった。

4. 週数換算低出生体重(SGA)児率

週数換算低出生体重(SGA)児率は精子注入群で102(17.9%)及び自然妊娠群で6,318(11.8%)でった。週数換算低出生体重(SGA)児率の割合は精子注入群において有意に高いことが認められた。精子注入群を自然妊娠群と比較した時の週数換算低出生体重(SGA)児のオッズ比は1.63(95%信頼区間1.31-2.02)であった。分娩時の母親の年齢,前置胎盤,母体基礎疾患で調整したオッズ比は1.66(95%信頼区間1.33-2.06)であった。

5. 形態異常児率

児の形態異常率は精子注入群で7(1.2%)及び自然妊娠群で1,070(2.0%)であり, 割合に有意な差は認められなかった。精子注入群を自然妊娠群と比較した時の児の形態異常のオッズ比も有意でなかった。分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患を調整したオッズ比も有意でなかった。

6. 男女比

精子注入群では男児の出生が289(50.9%), 女児の出生が279(49.1%)であった。自然妊娠群では男児の出生が27,419(51.3%), 女児の出生が26,067(48.7%)であった。これらの群間の割合に有意な差は認められなかった。精子注入群の自然妊娠群に対する男児出生のオッズ比も有意でなかった。分娩時の母親の年齢, 妊娠週数, 前置胎盤, 母体基礎疾患で調整したオッズ比も有意でなかった。

以上、本研究は、配偶者間精子注入法(AIH)後の周産期アウトカムを評価し、週数換算低出生体重(SGA)児では治療群においてリスクが高いことを明らかにした。本論文は不妊治療後妊娠の周産期リスク評価の点で学術的意義が高く、周産期、及び新生児ケアの点で臨床的有用性をも兼ね備えており、学位の授与に値するものと考えられる。

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