学位論文要旨



No 217396
著者(漢字) 大澤,隆文
著者(英字)
著者(カナ) オオサワ,タカフミ
標題(和) 生態学的・歴史的因子と地形によって形成される山岳地におけるコナラ属の遺伝構造に関する研究
標題(洋) Study on genetic structure of Quercus in mountainous areas shaped by ecological and historical factors in combination with topographies
報告番号 217396
報告番号 乙17396
学位授与日 2010.09.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17396号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 名誉教授 梶,幹男
 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 准教授 宮下,直
 名古屋大学 教授 戸丸,信弘
内容要旨 要旨を表示する

森林伐採や気候変動等によって世界規模で森林の生物多様性が脅かされている。この中で、特に山岳地における森林植物の保全は喫緊の課題となっており、これらの種の適応進化の原動力にもなる遺伝的変異の保全についても、その重要性が認知されつつある。

生態学的には、「集団内遺伝的変異の空間分布の偏り」及び「集団内遺伝的組成の空間分布の偏り」は、自然選択の影響を別にすると、種の現在の分布域の中心位置にあたる集団で遺伝的変異が大きく遺伝的分化が小さくなると考えられる(中心-辺縁仮説;Central-Marginal仮説)。他方、歴史的な影響を受けている場合、種の過去の分布中心位置にあたる集団で依然として遺伝的変異を高く維持している可能性が高い(Rear-edge仮説)。

しかし、山岳地における植物種の遺伝的変異及び遺伝的組成の空間分布は、平地で観察されてきたものや2次元平面を仮定した理論上の推測とは異なる可能性が考えられる。特に標高(垂直傾度)及び尾根(水平傾度)並びにそれに沿って生じる環境の変化(生態学的因子)が、過去の気候変動等(歴史的因子)と共に、変異や組成の空間分布に特有の構造化(偏り)を引き起こしている可能性がある。

本研究では、先ず上述したテーマに関する先行研究を網羅的に収集・分析し、共通して見られるパターンを模索した。次に、日本の温帯落葉広葉樹林に広く分布するミズナラ(Quercus crispula)及びコナラ(Quercus serrata)を対象に、山岳地における景観スケールでの遺伝的変異及び遺伝的組成の空間分布を複数の山系において中立なマイクロサテライトマーカー(SSR)で評価し、どの様な要因がどの様に空間分布を構造化させるかについて論じることとした。

秩父山地におけるコナラ属の遺伝構造

秩父山地はその全域が多雪の影響を受けにくい太平洋側気候区に属する山塊であり、水平方向で見れば、均一な植生で占められている。この場合、遺伝的変異や組成の分布は、標高による隔離のみの影響を受けていると考えられる。そこで、同山地一帯の標高850~1750mの範囲内でミズナラ19集団を、標高140~1200mの範囲内でコナラ15集団を採取し、核SSR7座を用いてそれぞれ分析した。

ミズナラでは、A(1000m以下…中間温帯)、B(1000~1500m…冷温帯)およびC(1500m以上…亜寒帯)群のヘテロ接合度期待値HEは0.770、0.793および0.785であり、3群間で有意な違いが検出された。この結果は、ミズナラが冷温帯を分布の中心(最適環境)にしている結果と考えられ、標高軸に沿ったCentral-Marginal仮説が支持された。19集団間の分化は比較的高かったが(FST=0.013、G'ST=0.090)、標高や尾根に沿った明瞭な遺伝構造は認められなかった。秩父山地では、標高600m及び1240m地点におけるミズナラでも開花期に一部重複があることや、コナラ属の種子を長距離散布する鳥類が存在すること等が既に報告されており、集団間の盛んな遺伝子流動及び当該種の連続分布が主因と考えられた。

他方、コナラでは標高と集団内の遺伝的変異に明瞭な関係は認められず、水分条件の良い谷間の集団で高い変異、乾燥した尾根・山頂に分布する集団で低い変異(HE)を示した。従って、標高による影響よりも、凹凸地形とそれに伴う水分条件の異質性といった生態学的因子により、集団間で遺伝的変異の空間分布に構造化が生じていた。他方、明瞭な遺伝構造は認められず、盛んな遺伝子流動及び当該種の連続分布がその主因として考えられた。

日光山系におけるコナラ属の遺伝構造

本州では2000m級の尾根が太平洋側地域と日本海側地域の物理的境界になっている。また太平洋側の大半は少雪の太平洋側気候区(PO区)に属する一方、日本海側および太平洋側の北端は、多雪の日本海側気候区(JS区)に属する。即ち、尾根よりも少し南方にほぼ平行に走る形で気候区の境界(例:ミヤコザサ線)が形成されている。さらに、コナラ属は最終氷期に太平洋や日本海の海岸低地帯にrefugiaを形成し、氷期後に分布が内陸や北日本に拡大した可能性が指摘されている。こうした生態学的及び歴史的因子により、物理的及び環境的な2本の境界を挟み植生が異なっている。従って、標高に加え、尾根による物理的・環境的境界を挟んで、コナラ属の変異や組成の空間分布にも構造化が生じている可能性がある。また、JS区の高地や蛇紋岩地帯には、ミズナラの矮性変種ミヤマナラが分布し、過去の温暖期にミズナラの垂直分布が現在よりも上方へシフトしていた時代の遺存集団とも考えられている。そこで、同山系で変種ミヤマナラを含むミズナラ25集団及びコナラ8集団を採取し、核SSR7座、葉緑体SSR6座を用いて遺伝的変異や遺伝的組成の分布を評価した。

葉緑体SSRによる分析では、両種間でハプロタイプが共有され、共に強い集団間分化を維持していた(GST=ミズナラ: 0.816, コナラ: 0.642)。また、太平洋側にはハプロタイプA、日本海側ではハプロタイプBが優占し、さらにその境界域に位置する栃木県北部では稀なハプロタイプが複数検出された。従って、日光山系がコナラ属の種子散布を介した過去の分布変遷にあたって地理的障壁になっており、特にハプロタイプAと複数の稀なハプロタイプが過去の寒冷期に尾根を越えて北上できなかった可能性が示唆された。

核SSRによる分析の結果、標高傾度に沿っては変異の分布に傾向が認められなかった。しかし、ミズナラではJS区の方でPO区よりも有意に小さいHEが観察され、多雪環境がミズナラの成長や繁殖に負の影響を及ぼしている可能性が示唆された。また、ミズナラの方がコナラよりも顕著な集団間分化を示し、近隣結合樹でも、特にミヤマナラ集団およびPO区の中でも多雪かつ傾斜地に位置するミズナラ集団は、他集団から相対的に分化していた。Bayesian clusteringによる解析では、これらの集団に、特に遺伝的浮動が強く作用してきた特有の遺伝的クラスターが卓越していた。従って、多雪下の傾斜地(や蛇紋岩地帯)という局所的な環境により、集団内変異は喪失し、遺伝的浮動により分化が進んできたことが示唆された。

木曽山脈南部におけるコナラ属の遺伝構造

南北方向に走る木曽山脈では、太平洋側地域及び日本海側地域の物理的境界がどこかに存在すると考えられる。また、同山脈の南側に広がる丘陵の花崗岩地帯では、ミズナラ又はコナラの亜種フモトミズナラの分布が知られており、過去の寒冷期にミズナラの垂直分布が現在よりも下方へシフトしていた時代の遺存集団とも考えられている。そこで、同山脈南部における標高750~1650mの範囲で、ミズナラ18 集団を採取し、核SSR7座および葉緑体SSR6座で解析を行った。また、同山脈南部の周囲よりフモトミズナラ2集団及びコナラ2集団も解析に供試した。

葉緑体SSRによる分析では、尾根の南東側に南方系統のハプロタイプC・Fが優占するのに対し、尾根の北西側では、北方系統のハプロタイプBが優占した。即ち、尾根によって両系統は緩やかに隔離されたまま分化が維持されていた。

ミズナラ18集団の核SSRによる分析結果では、葉緑体SSRの分析により明らかにされた北方系統、南方系統及び混生系統の3群に分けて解析した結果、北方系統では標高1300m付近に最も高いHEのピークを示し、標高傾度に沿ったCentral-Marginal仮説が支持された。その他の2系統では、outlier1集団を除き、HE及びARともに低標高側の集団で有意に高い傾向が認められ、ミズナラが低地から高地へ分布拡大をした際に働いた遺伝的浮動等の影響がその原因と推察された。他方、標高や尾根による隔離の影響は認められなかった。フモトミズナラは、近隣結合樹上でミズナラ集団から相対的に分化し、Bayesian clusteringによる解析では、ミズナラと共通の遺伝的クラスターを共有していた。上述した標高傾度に沿ったHE及びARの有意な減衰と共にこの結果は、フモトミズナラが過去の寒冷期のミズナラの遺存分布であることを示唆する。

総合考察

本研究の結果により、山岳地における集団間で遺伝的変異や遺伝的組成の空間分布に様々な構造化が生じていることが判明した。

標高による隔離に起因する遺伝的変異の分布の構造化は、Central-Marginal仮説が標高軸に沿って起こり、分布の中心に当たる中標高域で高い変異が認められた。しかし、過去の気候変動によって分布中心が上方もしくは下方から現在の位置にシフトした個所では、Rear-edge仮説に従い、過去の分布中心で依然とした高い変異を維持していた。標高による隔離に起因する遺伝的組成の分布の構造化は、コナラ属の場合、標高という因子だけでは生じにくい。しかし、気候変動による分布変遷(歴史的因子)に伴って、一時的に分布が高地や低地に拡大し、その際に生じた新しい辺縁集団が多雪や地質といった特殊な生態学的因子の影響下で存続した場合には、標高域間分化が進むことが示唆された。尾根による隔離に起因する変異の分布の構造化も、尾根単独では生じにくいが、特に多雪等の生態学的因子の付加によって生じ得た。また、尾根を挟んだ分化は、特に葉緑体ゲノムにおいては歴史的な分布変遷により生じ、現在でも維持されている場合が多い。

以上により、表層的には多様なパターンを示す、山岳地のコナラ属に関する遺伝的集団構造について統合的な理解を可能にすると共に、今後の研究の課題について提示した。

審査要旨 要旨を表示する

これまで、植物種の遺伝構造は、対象植物が平面的に分布することを仮定して論じられてきた。しかし、多くの森林は山岳地に存在しており、森林樹木の遺伝構造は山岳地の地形や標高などを考慮して議論する必要がある。本研究では、日本の温帯林に広く分布するミズナラ及びコナラを対象とし、山岳地における景観スケールでの遺伝的変異及び遺伝的組成の空間分布を、マイクロサテライトマーカー(SSR)を用いて複数の山系において評価し、どの様な要因がどの様に空間分布を構造化させるかを論じた。

まず、秩父山地の標高850~1750mでミズナラ19集団を、標高140~1200mでコナラ15集団を採取し、核SSR7座を用いてそれぞれ分析した。ミズナラでは、1000m以下、1000~1500mおよび1500m以上に分けた3群間に、ヘテロ接合度期待値(HE)の有意な違いが検出され、標高傾度に沿ったCentral-Marginal仮説が支持された。コナラでは谷間の集団で高いHE、尾根・山頂の集団で低いHEを示した。すなわち、凹凸地形とそれに伴う水分条件の異質性といった生態学的因子により、集団間で遺伝的変異の分布に構造化が生じていると考えられた。

次いで、日光山系において、変種ミヤマナラを含むミズナラ25集団及びコナラ8集団を採取し、核SSR7座、葉緑体SSR6座を用いて遺伝的変異や遺伝的組成の分布を評価した。葉緑体SSRによる分析では、両種間でハプロタイプが共有され、共に強い集団間分化を維持していた。また、太平洋側と日本海側では異なるハプロタイプが優占し、種子による分布拡大において、日光山系が地理的障壁になっていることが示唆された。核SSRによる分析の結果では、標高傾度に沿う変異の分布に傾向は認められなかった。しかし、ミズナラでは日本海気候区で太平洋側気候区よりも有意に小さいHEが観察され、多雪環境が成長や繁殖に影響を及ぼしている可能性が示唆された。近隣結合樹では、ミヤマナラ集団および多雪かつ傾斜地に位置するミズナラ集団は、他集団から相対的に分化していた。また、Bayesian clusteringでは、これらの集団で、遺伝的浮動が強く作用してきた特有の遺伝的クラスターが卓越していた。すなわち、多雪下の傾斜地など局所環境により、集団内変異の喪失と遺伝的浮動による分化が進んだことが示唆された。

さらに、木曽山脈南部の標高750~1650mの範囲で、ミズナラ18 集団を採取し、核SSR7座および葉緑体SSR6座で解析を行った。また、同山脈南部の周囲よりフモトミズナラ2集団及びコナラ2集団も解析に供試した。葉緑体SSRによる分析では、尾根の南東側に南方系統のハプロタイプが優占するのに対し、尾根の北西側では、北方系統のハプロタイプが優占した。即ち、尾根によって両系統は緩やかに隔離されたまま分化が維持されていた。ミズナラの核SSRによる分析結果を、葉緑体SSRから明らかにされた3群に分けて解析した結果、北方系統では標高1300m付近で最も高いHEのピークを示し、標高傾度に沿ったCentral-Marginal仮説が支持された。その他の2系統では、1集団を除きHE及び遺伝子多様度(AR)ともに低標高側の集団で有意に高い傾向が認められ、低地から高地への分布拡大の際の遺伝的浮動等がその原因と推察された。他方、集団間分化は小さく、標高や尾根による隔離の影響は認められなかった。フモトミズナラは、近隣結合樹上でミズナラ集団から相対的に分化していた。Bayesian clusteringでは、ミズナラと共通の遺伝的クラスターを共有し、特に遺伝的浮動が強く作用したクラスターが優占していた。この結果は、上述の結果と共に、フモトミズナラがミズナラの遺存分布であることを示唆する。

以上の研究により、山岳地における集団間で遺伝的変異や遺伝的組成の空間分布に様々な構造化が生じていることが判明した。コナラ属の場合、標高による隔離に起因する遺伝的組成の分布の構造化は、標高という因子だけでは生じにくい。気候変動による分布変遷(歴史的因子)に伴う一時的分布拡大と、その際生じた辺縁集団が多雪や地質といった特殊な生態学的因子の影響下で存続した場合には、標高域間分化が進むと示唆された。

以上本研究は、多様なパターンを示す山岳地の樹木種の遺伝的集団構造について、コナラ属樹木を材料として解析し、わが国の山地性樹木について初めて統合的な理解を試みたものである。樹木の遺伝構造形成要因を地域スケールで示したばかりでなく、そうした理解に基づく森林保全策立案にも貢献する成果であり、学術上、応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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