学位論文要旨



No 217401
著者(漢字) 板坂,則子
著者(英字)
著者(カナ) イタサカ,ノリコ
標題(和) 曲亭馬琴の世界 : 戯作とその周縁
標題(洋)
報告番号 217401
報告番号 乙17401
学位授与日 2010.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17401号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 安藤,宏
 東京大学 教授 古井戸,秀夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、板本や稿本、日記や書翰などの資料から曲亭馬琴の創作過程を辿り、また全作品の構成を分析することから馬琴の潜在意識の中にある発想の型を見出し、曲亭馬琴という戯作者の隠された姿を顕すことを目的としている。さらにその馬琴が生み出す戯作が社会の中でどのように読まれたのかを考察し、馬琴作品が読書史の中で果たした役割、戯作の社会的位置を探ることも目指した。

第一章(論文1~3)では、馬琴の短編合巻で徹底して用いられた「役者似顔絵」の使用という手法を通して馬琴の短編合巻の創作方法を見る。これによって草双紙に於ける画像と文章の総合研究を目指し、化政期合巻の世界の特徴を探ったものである。第二章(論文4~9)は、読本の中で『占夢南柯後記』と『南総里見八犬伝』の二作に絞り、馬琴がどのように作品を纏め上げていったかを追った。『南柯後記』では、稿本と板本の比較から本作の執筆過程を再現し、馬琴の物語創作法を考察した。『八犬伝』では物語の構造を作品中に示した文章から読み解き、その執筆過程を示した。第三章(10、11)では、10「馬琴戯作における想像力の原型」は本書の中核を担う論である。草双紙と読本の中に見られる馬琴の戯作創作の基本となる型を捉え、それらがすべて家族という閉ざされた人間関係に関わるものであることを見ていく。さらにその源が、おそらくは瀧澤家に於ける馬琴の在り方に発すること、また馬琴の中にある男性性と女性性の問題に行き着くであろうことを提示した。第四章(12~14)は、馬琴が複雑な感情を持つ女性読者に対して、戯作はどのような対応を行ってきたかを見た。すなわち読者論を中心とするが、戯作の登場で「娯楽としての読書」が定着する中で、「読書」が社会の中でどのように扱われてきたのかを辿り、後期戯作の主要読者となる女性を対象とする為に、馬琴がどのような創作法を採っていったかを考究した。

なお末尾に、馬琴の著作を網羅した詳細な「曲亭馬琴著作年表」を付した。

それぞれの各論内容は以下の通りである。

1 化政期合巻の世界ー馬琴合巻と役者似顔絵

化政期合巻では挿絵中の登場人物に歌舞伎役者の似顔絵を用いた作が見られる。馬琴は全62作の短編合巻中52作に取り入れ、率先してこの手法を作り上げていった戯作者である。役者似顔絵を用いた合巻の見方とその特徴を考察した。

2 馬琴著作の稿本に見る「役者」と「役柄」

馬琴著作の現存稿本に入る馬琴の書き込みから、役者の似顔を登場人物に取り入れる手法が馬琴にどのような影響を与え、画工との連携はどのように行われたのかを、草双紙と読本に分けて考察する。

3 馬琴合巻における似顔絵使用役者一覧

馬琴合巻、ひいては化政期の合巻全般に通じる役者似顔絵使用の方法研究の基礎資料として、馬琴の合巻における似顔絵を使用された役者の一覧を示した。

4『占夢南柯後記』の成立

読本『占夢南柯後記』には稿本が全冊現存している。本稿ではその調査報告、およびそこから窺われる馬琴読本の創作法を考察している。

稿本には多くの貼紙訂正の他に、後から操作した切り継ぎ箇所が見られる。これらの資料を用いて執筆途中の構想の変化を忠実に再現した。

また構想の変化を追うと、物語は全体構想が新しく加えられたのではなく、途中に挿入される情の場面の書き込みが膨らんでいったことが判る。この現象は馬琴の代表作すべてに共通する。馬琴は物語の縦糸を増やすのではなく、物語世界を豊穣に彩るエピソードを執筆の過程で増やしていく戯作者である。

5 『占夢南柯後記』稿本にみる画師北斎と作者馬琴

『占夢南柯後記』の画師は葛飾北斎であるが、本作の執筆を巡って馬琴と北斎は反目を募らせたといわれている。口絵、挿絵を稿本と板本と並べて示し、馬琴からの朱筆書き入れを記す。さらにこの時期の北斎挿絵に見られる注意力の衰えを示して、北斎と馬琴の離反理由を推測する。

6 『八犬伝』の構想ー物語の陰陽、あるいは二つの世界ー

『八犬伝』の中に見られる二つの物語世界を通して『八犬伝』の特性を考える。

『八犬伝』は内容的に見ると、丶大の元に八犬士が集結する場を以て前後に分けられる。一方、馬琴からは五輯以前と六輯以後という境界が提示されている。物語の後半部は勝利に向けた明るい戦いであるにもかかわらず馬琴の筆は暗く滅びを見据え、対して前半部は闇の妖怪たちがうごめく世界であるにも拘わらず、物語は魅惑的に広がり続ける陽の世界となる。この陰陽の反転こそ、『八犬伝』という作品の特異性である。

7「稗史七則」発表を巡って

『八犬伝』九輯には「稗史七則」と呼ばれる高名な一文が存在する。4人の批評家グループと馬琴の間で交わされた『八犬伝』評答から「七則」発表前後の内容の揺れを示し、その発表理由を探った。

8『南総里見八犬伝』の執筆

本稿では板本・日記・書翰等の資料を用いて『八犬伝』の執筆過程を詳細な表に纏め、刊行速度の変化の理由を示した。

09『南総里見八犬伝』の書誌…初版本と稿本

A『南総里見八犬伝』の初板本

『八犬伝』は全九八巻106冊、近世後期を代表する読本であるため現存する板本の数も多い。善本五本を選び、初板本の書誌事項を纏めて紹介する。

B『南総里見八犬伝』の稿本

『八犬伝』稿本は現在49冊の存在が知られている。馬琴失明以後の稿本に見る画稿作成の事情を推測し、全49冊の稿本の書誌データを載せる。

10 馬琴戯作における想像力の原型(アーキタイプ)ー馬琴と「小夜の中山伝説」

馬琴は享和二年の京坂旅行の途次で求めた「小夜の中山」縁起を用いて、文化元年に黄表紙『小夜中山宵啼碑』を出したが、この作品に見られる五つの話型は以後の馬琴の戯作の中で、さまざまに形を変えて使われ続ける。

(1) 妊娠中の女性が殺される

(2) 女性の死体から子どもが生まれる

(3) 子どもの親にとって敵の立場に当たる者が養育する

(4) 妹は兄、または共に育った者を慕う、または恋する

(5) 兄は妹を殺す、または害を与える

これらの型は、物語構造を持つ黄表紙では8作中4作に、合巻では70作中の20作に、読本では41作中の16作で採り入れられている。これらの型を通して、「母の死」は母の「聖性」ではなく「母」や「妻」であっても「死」という苛酷な試練を通ることで主人公にとって真に信頼すべき人物になっていくということを示し、敵としての「父」や、愛憎が表裏する兄妹といった凄まじい人間関係の中で、物語の主人公の隠された孤立という、馬琴戯作に特徴的な世界構造が窺える。これらの特徴は馬琴の無意識下に発するものであり、馬琴の想像力の基底そのものを構成する型ということができよう。それらは馬琴の作品において、儒教的道徳律からはみ出ることのない明るい表層部の人間関係の裏に、馬琴特有の呪詛に似た影に覆われたもう一つの世界を創り上げていく。

11瀧澤家の人々…女性たちをめぐって…『吾仏の記』から

瀧澤家の家譜『吾仏の記』から家系図を作成し、瀧澤家の中の馬琴の特性を見る。瀧澤家の男たちは孝順で徳高く薄幸、短命の人々であり、対して女たちは自分を中心に生きたふてぶてしく長命の人々として馬琴は記録した。馬琴は瀧澤家の男性の中で只一人、女性たちに近い強靱な生命力を持った人間である。馬琴の同族の女性たちへの苦悩と憎しみは近親憎悪的な複雑さを作り出す。これらは馬琴読本に描かれる女性達に共通してみられる悲劇性の源であり、馬琴戯作世界の下部構造を形作るものといえるのではないだろうか。

12草双紙の読者…婦幼のあらわすもの

初期草双紙の読者対象は「子ども」であると言われるが、子どもの存在が描かれることはほとんどない。合巻期に入り読者が女性中心に変わると本文部分に女性読者への呼びかけが載るようになるが、多くは「婦幼」として子どもとの組み合わせで書かれる。また合巻では草双紙の女性読者は、怠惰と悪妻の象徴として描かれていく。草双紙本文でずっと読者として指名される「子ども」は、現実の子どもというよりも教養のない人々の表象として使われ続けたことを草双紙の画像(イメージ)と本文(テキスト)から丹念に辿る。

13楚満人と馬琴ー草双紙におけるヒロイン像の変遷

女性読者の登場は草双紙の歴史とどう関わったか。南仙笑楚満人と曲亭馬琴を採り上げ、作品中での女性主人公の描き方の変遷を追う。

楚満人の作は女性中心の視点で描かれたことから、台頭してきた女性読者に受け容れられた。この姿勢は後期草双紙の方向性をいち早く採り入れたものといえる。

対して馬琴は、本来は女性主人公を軽く扱う戯作者である。しかし読者を意識してさまざまな試みを続け、主人公の性の転換(リバーサルジェンダー)による再構築手法、男性と女性が外観を取り替える異性装(トランスジェンダー)、合体した男女の双子といった両性具有(アンドロギユヌス)の主人公が多くの作で活躍する。馬琴はこの路線で草双紙の人気を獲得する。馬琴が切り拓いたこれら「性の越境」手法は、現代日本に於ける少女マンガや少女小説に引き継がれ、日本の女性向けサブカルチャーの大きな特徴となる。

14浮世絵に見る女性読書像の変遷

浮世絵に於ける256図の「女性と本」、または「女性読書図」を表に纏め、そこから時代による女性読書像の変遷を考察する。時代を三区分し、表象としての女性読書図の変遷を、読書対象としての書物の内容、読書主体としての読者の階級、そして読書環境として読書の姿勢の三点から見ていく。読書が教養から娯楽へ変化するに随い、読書の社会的位置が下がり、その様相が女性読書図の中に端的に表れていくことを指摘する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、曲亭馬琴(1767~1848)の読本や合巻を中心とした小説作品の構想の詳細な分析を通じて、馬琴小説の発想・技法や、構想の生成・変容の具体相とその要因を明らかにし、あわせて当時の読書界における馬琴作品の受容様相と、戯作の社会的な位置について、多方面から考察したものである。本書の構成は、第一章「馬琴合巻―化政期合巻と役者似顔絵」が「化政期合巻の世界―馬琴合巻と役者似顔絵」等の三節、第二章「馬琴読本―版本と稿本から見た物語の創造」が『占夢南柯後記(ゆめあわせなんかこうき)』に関する二節および『南総里見八犬伝』に関する四節、第三章「馬琴戯作の原型―想像力の基底と瀧澤家」が「馬琴戯作における想像力の原型(アーキタイプ)―馬琴と「小夜の中山」伝説」等二節、第四章「戯作の読者と読書―草双紙と浮世絵」が「草双紙の読者―婦幼の表すもの」等三節からそれぞれ成る。

第一章は、化政期の馬琴の短編合巻で多用される、挿絵中の登場人物に歌舞伎役者の似顔絵を用いる手法について、稿本を含めて網羅的検討を加え、馬琴がこの手法を積極的に推進した作家であったこと、しかし実在の役者の似顔を取り込むことが、徐々に筋立ての自由を拘束するようになったため、後にこれを放棄するに至ることを明らかにする。

第二章は、『占夢南柯後記』の稿本と版本を比較し、巻数を増やすため施された切り継ぎや加筆の箇所を逐一明らかにした上で、新たに挿入された部分は主筋に関わるものではなく、脇筋に属する世話物的な人情描写の場面であることを指摘し、この人情中心の長い場面の挿入が、他の馬琴読本にも共通する特徴であることを明らかにする。また『南総里見八犬伝』については、日記や書簡等を博捜して執筆過程を復元し、膨大な諸本調査の上に初版の書誌的特徴を把握し、稿本の精査から挿絵作成の事情を考察するという基礎的研究とともに、『八犬伝』の構成に深く踏み込み、前半部が馬琴の意図を越えて登場人物が動かしてゆく世界であるのに対して、後半部が馬琴の意図によって統御された世界であることを明らかにする。

第三章は、小夜の中山伝説に依拠した『小夜中山宵啼碑(さよのなかやまよなきのいしぶみ)』に見える「妊娠中の女性が殺される」「兄は妹を殺す、または害を与える」等の五つの話型が、以後の小説にも頻出することを指摘し、表面的には儒教的規範にそった形で描かれている小説内の家族的人間関係の裏に、馬琴の無意識下に存在する、暗部としての人間関係への傾斜があることを指摘し、これに実際の瀧澤家の女性をめぐる人間関係の投影があることを明らかにする。

第四章は、草双紙の主たる読者とされる子供と女性につき、実際の作品中における読者の描かれ方を丹念に追い、また草双紙の女性読者への対応の工夫を、馬琴と南仙笑楚満人(なんせんしようそまひと)を例に挙げて丁寧に論じる。

本論文は、読本のみならず、読本とジャンル的に密接な関係がある合巻を取り上げ、ジャンル横断的な視点から、馬琴小説全体に共通する構想や技法を考察した所に重要な意義がある。かつその考察が、稿本にまで詳細な検討を加え、一作品における構想の変化を十分に踏まえたものであることが評価できる。その結果、馬琴小説における人情描写の意味や、小説内人物の原型的な人間関係の基盤にあるものが、初めて明らかにされた。また、馬琴合巻における役者似顔絵の網羅的な調査、『八犬伝』の初版本の書誌学的考察等も今後の馬琴研究に大いに裨益するものである。膨大な作品を残す馬琴ゆえ、今後もここで直接扱われた作品以外にも考察を広げ、また別の観点からの考察も必要となるだろうが、馬琴小説にジャンルを越えて共通する重要な構想や技法のいくつかを明らかにしたことは、馬琴研究史上高く評価できる。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断した。

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