学位論文要旨



No 217419
著者(漢字) 西村,清和
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,キヨカズ
標題(和) イメージの修辞学―ことばと形象の交叉
標題(洋)
報告番号 217419
報告番号 乙17419
学位授与日 2010.10.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17419号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 教授 渡辺,裕
 東京大学 教授 小田部,胤久
 東京大学 教授 田中,純
 國學院大學 教授 谷川,渥
内容要旨 要旨を表示する

本論が扱う「イメージ」とは、心的イメージと視覚的イメージである。言葉とイメージの交叉をめぐる議論の伝統は、シモニデスの「詩は語る絵、絵は沈黙せる詩」やホラティウスの「詩は絵のごとく」といった格言、古代修辞学における、人物像や芸術作品についての言葉による記述(描写)としての「エクフラシス」の伝統、またダ・ヴィンチの『絵画論』やレッシングの『ラオコーン』に見られるような、詩と絵画という姉妹芸術に関する「パラゴーネ(優劣比較論)」などに見られるように、古くて長い。本論は、表現行為やこれを受けとる美的経験において、言葉とイメージの関係が問われるような個々の事例をとりあげ、そこにひそむ問題をさまざまな観点から論じようとするものである。

本論は四部にわかれている。第I部「ことばとイメージ」は、言葉とイメージをめぐる原理的な問題をあつかう。第1章は、言葉の意味とはそれが喚起する心的イメージであるとする古来の、そして現代においても一般に流通している考えかたを検討する。本論は、この問題についての近代から現代に至る代表的な哲学、心理学、想像力論を参照しつつ、言葉の意味はイメージではないし、イメージは知覚がもつ地平や細部を欠く点で知覚とは決定的に異なるということを認めた上で、しかしイメージは特にそれが「記憶負荷を軽減する」機能をもつ点で、小説の特に詳細な描写の場面などでは、これを理解するのに積極的に寄与すると結論する。この結論を受けつぐ形で第2章では、これも伝統的に文彩のなかでもとりわけ生き生きとしたイメージにかかわると考えられてきた隠喩をとりあげる。本論は、特に1950年代のブラックの論考以降、哲学や文化論の領域において提出された様々な隠喩論を詳細に検討することを通じて、それらが挙げる事例がおおむね類比や象徴といった他の概念で捉えられるべき現象であると批判した上で、「リチャードはライオンだ」という文に見られる隠喩は、述語におかれた「ライオン」を話題の中心にある主語「リチャード」を述語限定するための修飾語として用いるという独自のルールにしたがった言語使用であると主張する。この「述語限定理論」の立場からすれば、隠喩はもっぱら言語的な現象であり、それゆえ画像や映像の形でリチャードとライオン双方の視覚イメージを並置するいわゆる視覚的隠喩は、厳密な意味で隠喩とはいえず、これらは類比や象徴等と呼ばれるべきものである。第3章は、伝統的なイコノグラフィーやイコノロジーに対する批判をつうじて提起された現代の「イメージの解釈学」(ベーム)や「美術史解釈学」(ベッチマン)、「イコニーク」(イムダール)、またバルトやブライソンらの見解を検討することで、画像における「読む」経験と「見る」経験の違いを論じる。実際「見る」経験が「読む」経験に還元されるわけではないからこそ、「物語る絵(歴史画)」の多彩な歴史と伝統があり小説の映画化への欲望がある。

第II部「小説の映画化」では、言葉と映像の関係を二つの論点に即して論じる。第4章では、小説と映画それぞれにおける「描写」のやり方と、それを受容する読者・観客の経験の違いをジュネットやチャットマン、メッツ、イーザーら、1960年代以降のナラトロジーや受容美学の議論を参照しつつ論じる。ここで「描写(記述、ekphrasis, descriptio)」とは古典的修辞学におけるテクスト・タイプの一つとして、「物語(叙述、narratio)」に対置されるものである。言葉はその本性からして物語のメディアであり、映像は描写のメディアである。それゆえ言葉における「意味の統辞法」にとってはいかに描写するかが課題であり、映像における「知覚の統辞法」にとってはいかに物語るかが課題である。もうひとつの論点は、小説と映画における「物語」の方式の比較であるが、第5章が扱うのは「語りのモード(叙法)」における「視点」の分析である。小説の叙法についてのプィヨン、バルト、トドロフ、ジュネットらの分類を具体例を引証しつつ修正する形で、これを(1)〈全知〉の視点、(2)〈情況〉の視点、(3)〈ともにある〉視点、(4)〈外部から〉の視点とした上で、この語りのモードに対応する効果をいかに、どこまで映画の語りが開発してきたかを論じる。〈全知〉の神の視点は古代叙事詩に典型的な叙法であるが、これに対して登場人物によりそう〈ともにある〉視点は18世紀以来の近代小説とそれが新たに拓いた内面のリアリズムの叙法である。これまでの映画論はしばしば、映画の語り手はカメラであり、それゆえ語りの視点は画面の全体を俯瞰する〈全知〉の視点であるとしてきた。だが本論は、1910年代以降ハリウッドが開発してきた最も自然な叙法こそ、三人称〈ともにある〉視点であると主張する。

第III部「「物語る絵」のナラトロジー」は、映画における叙法の分析をふまえて、絵画における語りのモードを分析する。第6章は、西洋中世からルネサンス以降近代にいたる絵画をとりあげるが、その際ケンプやバクサンドール、リングボム、ブライソン、アルパース、フリードをはじめとする多彩な美術史研究の蓄積を参照するとしても、それは新たな美術史を提示しようとするのではなく、絵画が物語を語る際の「視点」の基本的なパターンを抽出するためである。それは同時に、絵についての言葉による記述(エクフラシス)の様式の変化、つまりはこれらの絵を受容する態度の変化を、アルベルティやヴァザーリ、ド・ピールやディドロらのテクストの解釈をつうじて概観することにもなる。ルネサンス以前には聖なるテクストの優位のもと、できごとを語る視点は描かれた物語世界に対して、その外からこれを俯瞰し構成する時空を越えた超越的な〈全知〉の視点である。ルネサンス以後遠近法が導入されるに及んで、絵画平面は言葉から自立した物語世界の時・空間のリアリティーを獲得する。しかしなおここでの語りの「視点」は遠近法の消失点に対応する物理光学的な「視角」に重ねあわされており、そのかぎりでそれは特定の一点に定位しつつも、画面の外から物語世界の全体を構成する超越論的な〈全知〉の視点である。しかしやがて画面の前に立つ観者の物理的な視角とは別に、観者を物語世界内部の登場人物の視点に共感的に立たせようとする試みが現れてくる。その推移を本論は、「指示者」のモチーフ、「母と子」のモチーフ、「後ろむき」のモチーフ、そして18世紀に流行する「没入」のモチーフとたどることで、登場人物の内面によりそう近代小説の〈ともにある〉視点の語りとパラレルな絵画における美的イリュージョニズムの成立を見届ける。第7章は、19世紀における小説経験とパラレルな絵画表現の展開を、絵画とこれを受容する観者との関係を軸に精力的に論じたケンプの研究を批判的に取りあげつつ、前章で得た絵画における〈ともにある〉視点の語りの確立をエッグやクリンガーらの作品を例に確認する。ケンプらは結局のところ、観者が画面にむきあう「視角」と、登場人物の位置に観者を立たせる「視点」とを同じものとして重ねあわせてしまうのだが、〈ともにある〉視点とは、「視角」と「視点」とを切り離すところに成立したものである。

第IV部「小説と挿絵」の第8章は、第III部で確認できた物語る絵の語りの変化を、言葉の物語との緊密な関係に立つ挿絵の、西洋における歴史の概略を19世紀までたどることで、改めて確認する試みである。挿絵においても16世紀以降新しい語りの端緒が見られるようになるが、小説成立の世紀である18世紀において特に注目すべきはグラヴローである。本論では、ルソー『新エロイーズ』に、ルソー自身の指示に従う形でグラヴローが作画した挿絵をとりあげ、そこには既に〈ともにある〉視点の語りの端緒が見てとれることを確認する。そしてこの端緒が、以後19世紀をつうじて、コドウィエツキー、ストザードへと受けつがれ、1850年代のギルバートや60年代のラファエル前派に属するエヴァレット・ミレイらの挿絵において確立する様を見届ける。第9章は、まさにこの60年代に西洋の近代小説と近代絵画および挿絵を様々な形で移入した明治日本において、当時の小説家や画家、また読者や観者がこれらをどのように受容し消化していったかを「改良」という観点から検証する。坪内逍遙にとって小説の改良とは、それまでの戯作から「美術(芸術)」としての小説への昇華である。かれはゾラの自然主義にならって、近代のリアリズム小説を「只傍観してありのままに模写する心得」と理解するが、これはなお古典的な〈全知〉の視点以上ではなく、〈ともにある〉視点の語りについての理解はなお望むべくもない。帰朝後に発表された森鴎外の短編や、二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳には例外的に〈ともにある〉視点の語りが見られるものの、この語りと、それと相まってリアリティーを描くに適した口語体の確立は、やはり明治30年前後に求めるほかはない。そしてこれとパラレルに、戯作者が記者となった新聞の物語記事に浮世絵師が挿絵を提供した明治10年代から、容斎派と呼ばれる日本画家たちによる挿絵の20年代を経由して、20年代末にはじまる洋画家たちの挿絵への参入、30年代の小坂象堂やその影響を受けた无聲會の自然主義、また梶田半古や鏑木清方らの、洋画特にアール・ヌーボーを採りいれた新しい日本画による挿絵が流行するに至る。こうして明治30年代に入って、挿絵画家にも読者にもようやく理解されはじめた〈ともにある〉視点に基づく内面のリアリズムの受容と消化は、自然主義をベースとした当時の小説と挿絵とにおいて同時に進行しつつあったということができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「ことばとイメージ」の交叉について、ことばとイメージという異なるメディアによる表現がそれぞれいかなる美的効果を持つのか、という修辞学的観点から考察したものである。

本書は大きく 4部に分かれる。第1部「ことばとイメージ」は、言葉とイメージをめぐる原理的な問題を扱う。第1章は、「ことば」の意味をめぐるいわゆる「ピクチャー・セオリー」を批判しつつ、「ことば」に付随するイメージとは、ある語が社会的・文化的に備えている意味素の集合のなかから、いくつかの意味素が文脈に応じて現実に選択されて表現された(「現働化」された)ものである、と捉える。その上で、第2章は言語的隠喩において心的イメージの果たす錯綜した役割、および視覚的イメージにおける隠喩の不可能性を論じ、第3章は詩と絵画の比較論(パラゴーネ)の検討を通して、特に「ことばの意味」に還元されることのない「絵画的イメージ」のあり方に焦点を当てる。

第2部「小説の映画化」(第4章、第5章)は、まず小説の語りの「叙法」ないし「視点」を〈全知〉の視点、〈情況〉の視点、〈ともにある〉視点、〈外部から〉の視点に分類した上で、映画の映像がこれらの視点をいかに実現したのか、映画の「文法」に踏み込んで解明する。

第3部「『物語る絵』のナラトロジー」(第6章、第7章)は、西洋の中世から近代にいたる絵画のなかに、ナラトロジーのいう「語りの視点」の3つのパターン、すなわち中世の超越的・遍在的な〈全知〉の視点、ルネサンスの超越論的・透視図法的な〈全知〉の視点、近代の情況内在的な〈ともにある〉視点を明らかにする。とともに、筆者はこの3つ目の〈ともにある〉視点の確立が、観者の物理的に占める〈視角〉と美的戦略としての語りの〈視点〉の分離を可能にしたことを強調し、両者を同一視することによって従来生じてきた語りの〈視点〉をめぐるさまざまな理論的アポリアを解消する。

第4部「小説と挿絵」(第8章、第9章)は、第3部で確認された物語る絵の「語りの視点」の変化を、15世紀以来の挿絵の歴史に即して改めて検討する試みであり、第9章では視野を日本へと広げ、江戸の戯作とその挿絵との対比を通して、近代日本において小説と挿絵に〈ともにある〉視点が定着した過程を論じる。

筆者は膨大な先行研究を渉猟しそれを逐一批判する形で自らの論理を構成しており、それゆえに議論は説得的である。もとより、筆者が理論的に分析する物語の叙法の「パターン」が、はたして文学史的・美術史的にどのような展望を開きうるかは、今後の課題として残されている。だが、「ことばとイメージ」をめぐる従来の学説のアポリアを一つ一つ解きほぐす手腕は見事であり、今後のこの主題に関する研究にとっての最重要文献となることは間違いない。よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

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