学位論文要旨



No 217420
著者(漢字) 池,周一郎
著者(英字)
著者(カナ) イケ,シュウイチロウ
標題(和) 夫婦出生力の低下に関する社会人口学的研究 : 有配偶完結出生力低下の反応拡散モデル
標題(洋)
報告番号 217420
報告番号 乙17420
学位授与日 2010.10.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 第17420号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 教授 白波瀬,佐和子
 東京大学 准教授 赤川,学
 東京大学 准教授 稲葉,寿
 国立社会保障・人口問題研究所 室長 鈴木,透
内容要旨 要旨を表示する

本論は、18世紀末からヨーロッパで始まり、我が国を含めて多くの国で夫婦出生力が 2.1 近傍へと低下した現象を、社会学的・人口学的観点から研究するもので、以下の内容からなっている。まず、我が国の関東平野やヨーロッパにおける出生力低下の拡散という様相が、アニメーション的な図を利用して視覚的に示される.次に、先行研究である初期拡散説に関して紹介を行った後に、反応拡散系という数理モデルを夫婦の子ども数の低下という現象に適用する。具体的には、我が国の国勢調査データへ反応拡散モデルを適用し、統計学的にある程度の当てはまりを達成し、モデルを記述する方程式の係数の推定値を得ている。推定された係数を基にして、この反応拡散系の数理的な分析を更に行い、「進行波」という反応拡散過程の進行する速度に関する分析から、ヨーロッパの出生力低下の始まりの地点と時期を推定することに成功している。その上で、現代の先進国の低出生と反応拡散過程との関連を考察している。最後にフランスおよび他のヨーロッパ諸地域の出生力低下と反応拡散モデルとの合致が検討される。

より具体的には次のように議論が展開されている。

第I部 第1章では、1960年代に行われたヨーロッパ出生力研究プロジェクトの成果として提案された初期拡散説と、初期資本主義における人口動態に関する歴史人口学の研究成果が紹介される。1970年代にプリンストン大学のA. J. Coaleを中心として、ヨーロッパ出生力の歴史的な変動に関して、ヨーロッパの研究者も巻き込んだ詳細な実証的研究が行われた。しかしCoale等は、「高出生力」から「低出生力」への移行の因果的なメカニズムを構成する要因を特定化することに成功しなかった。その代わりに、出生力の低下には「地理的な拡散」という様相があることを見出したのであった.彼らのこの業績は「初期拡散説」と呼ぶことができるが、この初期拡散説は、出生力の低下が拡散現象であることを帰納的に指摘するにとどまり、演繹的な拡散モデルを提示することができなかった。

そこで、本論は、社会人口学的な視点から夫婦出生力の低下がこれまでどのように説明されてきたかをレビューした後に、特に初期拡散説に欠けていた出生力の低下を説明する演繹的な数理モデルの構築を試みる。そのために、第2章では、数理的なモデルとして説明すべき出生力低下の特徴をまとめる。一般の低下パターンは、初期と後期が穏やかで中期が急激であるという特徴をもつ。そして出生力低下は不可逆的で上方硬直的である。そこで、このような特徴に注目して、国民国家を対象として、伝播・拡散の基礎的なモデルである logistic modelで時系列の完結出生力(または夫婦の完結出生力)の変化を記述する。

第3章では、出生力低下を拡散現象と把握した先行研究を紹介し、拡散現象の特性と先行研究の拡散仮説やそのモデルの限界を明らかにする。既存の拡散説は、「何が拡散するのか」という問には、決定的な解答を与えることができないでいる。本論は、出生力の低下という拡散現象が、本質的には空間の子ども数の時系列での変化現象と捉えれば説明できることに注目し、空間の子ども数のパターン形成として拡散現象を説明する必要性を説明する。

第4章では、空間におけるパターン形成のモデルとして最近各分野で活発に研究されている「反応拡散系」を出生力低下現象に適用するために、子ども数の時間と空間に関する変化の過程を検討する。「夫婦の子ども数選択は周囲に依存して変化する」ことを仮定すれば、ひとたび何らかの理由である地点で高出生力の安定性の崩壊が始まると、不可逆な子ども数の低下過程が始まる。この過程は時間経過とともに地理的に拡がりながらその地点各々においてはその深度を深めていくのである。この子ども数の時間的・空間的変化が反応拡散系として方程式で記述される。そしてこのモデルが、現象をうまく説明する可能性があることを、子ども数低下のindexが正規分布することにより示している。この正規分布の分散が時間に比例して増加すること、即ち が観察されることは、子ども数の変化が反応拡散過程として記述されうることについての、数理生態学におけるG. J. Skellamによる中央ヨーロッパにおけるマスクラットの反応拡散の研究成果に比肩しうるかなり決定的な証拠である。

第5章では、「反応拡散仮説」から、夫婦の子ども数の時間的・空間的変化を、格子確率モデルとして拡散項と反応項からなる差分方程式として書き下す。この空間の子ども数分布に関する差分方程式(DESDC: Difference Equation of Spatial Distribution of Children)の極限移行として子ども数分布の偏微分方程式が導かれる。またモデルの前提である子ども数決定の等方性(isotropy)と確率論的な性質について考察を加える。

第6章では、そのモデルの高い説明力を明示するために、方程式を東京・大阪・北海道のデータに当てはめる。それは同時に未知の拡散係数と反応係数を推定することでもある。また空間の子ども数分布に関する差分方程式(DESDC)の格子空間の格子の大きさを限界まで大きくすれば、隣接した格子区間全てを吸収した反応項のみの差分方程式(MFDDE: Macro Fertility Decline Difference Equation)へと変化する。これはロジスティック方程式と等価なモデルである。この極限的な差分方程式によって、各国の出生力低下が非常によく近似されることを示す。

第7章では、これまで1次元の空間での定式化であったものを2次元に拡張し、より現実の地理的な空間へと近似したモデルを提案する。また、2次元の空間における拡散係数 、反応係数を再び推定し、それらを定数として想定して検討を加えた。係数が定数であることの帰結として、偏微分方程式の解である「コルモゴロフ=ペトロフスキー=ピスクノフの進行波」は、空間の原点(特異点)から、1次元空間を想定するとの速度で空間に拡大していくことがR. A. Fisherにより明らかにされている。筆者は、2次元空間を想定した場合には、の速度で反応拡散が空間に拡大していくことを独自に明らかにした。我が国の2地点間の出生力低下の始まりの時差から計算される速度と、推定された係数から推測される進行波の速度(velocity)は、かなり近似していて約10km/年である。

そして、この約10km/年で「進行波」が空間を進む速度を利用すると、時間を逆走することにより、反応拡散が始まった原点=出生力低下の起源(偏微分方程式からは特異点と呼ぶ)の場所と時間が推定可能である。反応拡散の洋の東西を問わない普遍性を前提とすれば、解の同型性(isomorphism)の論理的帰結として、10%の出生力低下時点のヨーロッパ諸国とフランスとの時間差は、特異点が生じてからの経過時間と考えることができる。それゆえヨーロッパ諸国の特異点からの距離が、時差×進行波の速度(約10km/年)により推定でき、さらには、2地点以上の距離から特異点の形成の地点と時点を推定することができる。上記の方法により、ヨーロッパでの出生力低下の始まりが、南西フランスのアキテーヌ盆地あたりで、1770年頃であることが推定される。このように、反応拡散モデルを用いることで、夫婦の子ども数の変化に関して、その低下開始地点や時期について新しい推定をうることができる。

第II部では、あらためて反応拡散仮説から現代と過去の出生力低下を検討する。第8章では、現在日本の出生率は低下しているが、今日の我が国の夫婦出生力は低下した訳ではなく、むしろ相対的にかなり安定していることを示す。

次に、発展途上国の出生力低下問題から、経済発展は、多くの場合、夫婦の子ども数を減らすようには作用せず、むしろ反応拡散の特異点形成の阻害要因として作用することを示す。

第9章では、ヨーロッパ出生力研究プロジェクトが収集・整理したデータを再検討し、Coale & Treadway が提示しているデータにおいては、アキテーヌ盆地のLot-et-Garonne が最低の出生力を記録している地点だということを再発見している。反応拡散の特異点は反応拡散過程の中では最低の出生力を示すことが理論から導かれる。それゆえ、Lot-et-Garonneが反応拡散の特異点であると推定して、ヨーロッパへの拡散が反応拡散モデルと合致しているかどうかを検討している。その結果、幾つかの未解決な問題点はあるものの、反応拡散の妥当性に関して概ね良好な結果を得た。

例えば、ドイツのBremen からLot-et-Garonneの県庁所在地Agen までは約1150kmある。10km/年の速度で進行波が進むなら、1150km÷10 =115年後に出生力低下が始まることになる。Bremenは1880年頃に出生力の低下を開始している。Agenでの特異点形成は、約1770年頃だから、進行波の到達時点は1770+115=1885となり、ほぼ理論通りの結果となる。フランス国内の低下に関しても、モデルはヨーロッパ出生力研究プロジェクトのデータをよく説明し得ることが判った。

西欧でもわが国でも近代化とともに出生力の低下が生じたのであるが、これは反応拡散過程として説明されるという仮説を本論は提案し検証した。本論は、出生力変動に関して、時間と空間に即して人々の出生行動の変化を観測し、その変化則を数理的に定式化するという視点からの初めての試みである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、18世紀後半以降に生じた夫婦出生力低下現象に関し、拡散仮説の上に立った反応拡散モデルを独自に構築して、拡散のメカニズムの解明に新しい知見を提示したものである。出生力低下に関する歴史人口学では、社会経済的な要因を重視し、出生力低下に先行して死亡率の低下があったとする従来の人口転換論に対して、1960年代のヨーロッパ出生力研究プロジェクト以来、それには適合しない実証研究が蓄積されており、むしろある地点での子ども数の低下が地理的に周囲に伝播していったとする拡散説が有力視されている。しかし拡散のメカニズムを具体的に定式化した研究は少ない。本論文は、反応拡散方程式による観測データの解析を通じて、拡散の具体的なメカニズムを明らかにしている。

論文は全10章からなり、第1章では人口転換理論の実証研究として出発したヨーロッパ出生力研究プロジェクトが拡散説に辿り着いた経緯と初期拡散論者の議論を紹介する。第2章と第3章では、ロジスティック・モデルから出生力低下の数理的な特徴を分析し、出生力低下の空間的な広がりを示す実証データに関する既存モデルを検討して、それらには空間的な拡散メカニズムが定式化されていないと指摘する。第4章から著者独自のモデルが展開される。まず、拡散方程式から出生力低下の初期に正規分布が現れることが導出され、北海道のデータによって検証される。第5章では、拡散方程式にもとづいて、拡散過程がある特異点から始まることが指摘される。第6章は国勢調査データから、反応拡散方程式の2つの係数μとαが推定され、その理論値が東京、大阪、北海道の観測値とかなり良く適合することが示される。また、マクロな空間での出生力低下に関する差分方程式がヨーロッパ諸国の出生力低下と非常によく近似することがグラフで検証される。第7章では、反応拡散方程式の解である進行波の速度についてのR. A. Fisherの知見を活用して、方程式を2次元空間に拡張した場合には進行波が速度で拡がることを独自に導き、日本の観測データからこの速度を約10km/年と推定している。更にこの推定値をヨーロッパのデータに適用して、出生力低下の始まりの地点(特異点)が1770年頃の南西フランス・アキテーヌ地方であると推定している。第8章と第9章では、現代の先進国の夫婦の出生力低下が反応拡散方程式の安定状態にあることを指摘した上で、ヨーロッパ出生力研究プロジェクトの研究成果からも特異点がアキテーヌ地方であることを再発見し、フランスおよび他のヨーロッパ諸地域の出生力低下と反応拡散モデルがかなり良く合致することが確かめられる。第10章では、本論文の全体を振り返って、反応拡散説の妥当性が確認されている。

本論文は、夫婦出生力の低下に関して独自の反応拡散方程式に基づいて統計データを分析し、これまで帰納的に指摘されるにとどまっていた拡散仮説に演繹的な体系を与えている。モデル構築、データの分析のしかた、論の運び方など、きわめて独創的で革新的な論考になっており、この分野における研究水準を大きく進展させたものとして高く評価することができる。以上により、本審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値するとの結論をえた。

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