学位論文要旨



No 217425
著者(漢字) 酒井,直隆
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,ナオタカ
標題(和) ピアノ演奏の動作解析と手の障害
標題(洋)
報告番号 217425
報告番号 乙17425
学位授与日 2010.11.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17425号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,宏正
 東京大学 教授 高増,潔
 東京大学 教授 浅間,一
 東京大学 教授 佐久間,一郎
 電気通信大学 教授 横井,浩史
内容要旨 要旨を表示する

本研究ではピアニストの演奏による手の障害を、光マーカーによる三次元動作解析によって、ピアノ演奏における楽器と手のマン・マシン・インターフェースの観点で検討した。

ピアノ演奏は、座位でキーボードに向かい、手指を一本ずつ独立させてキーを叩く動作という点で、タイプライターのキーボード操作と類似している。しかしタイプライターのキーボード機構が過去100年で機械式から電動式へと移行し、指にかかる負担が大きく軽減されるなど機械側の変革で身体への負担が減じられたのに対し、ピアノは1700年代初頭に発明され150年前に変革期を迎えたものの、以来今日まで機構にほとんど変化が見られなかった。このためタイプライターの過度な操作による頸肩腕の痛みは、電動タイプライターの出現により激減したが、ピアノの弾きすぎによる上肢の障害は100年間も潜在的な患者を生みながら今日に至ってきた。現在、ピアニストの手の障害は音楽家の世界で大きな問題となっている。

タイピストの障害では他方で人間工学的な研究が行われ、デスクの高さと肘の高さの関係が重視され、タイプライターを叩く動作の疲労軽減が図られた経緯がある。ピアノは鍵盤の高さが一定で調整不可能なため、椅子の高さが問題になってくるが、これを科学的に検討した研究は報告されていない。

以上の状況を踏まえ、本研究ではまずピアニストの手のオーヴァーユース障害の実態を調査し、特に原因となる手指の動作内容を検討し、抽出された障害を起こしやすい動作の三次元解析を行い、さらに椅子の高さが手の動作に与える影響を検討した。その結果、次の諸点が明らかとなった。

1.ピアニストの手の障害の実態調査

ピアニストのオーヴァーユース障害の内容は、腱鞘炎および腱炎28%、付着部炎24.5%、筋肉痛19%、関節痛12%、神経障害14%、頸部および肩甲部痛2.5%であった。腱鞘炎は全体の四分の一程度を占めるに過ぎず、一般に考えられているより少なかったが、筋肉・腱・骨への付着部という、筋肉の一連の組織にかかわる障害が全体の71.5%であった。オーヴァーユース障害を起こした際に練習していたピアノのテクニックは、オクターヴと和音だけで全体の74%を占めていた。この2種類のテクニックに共通するのは母指と小指を開く(外転する)点であり、この肢位で打鍵することが手に負担をかけるものと考えられた。調査前は強く打鍵することが障害の原因であろうと予想されたが、実際には人間の手にとって不自然な肢位での打鍵が障害の原因となっていた。

以上のピアニストの手の障害の実態調査より、障害の原因解明のために筋肉の使い方すなわち手指の関節運動の解析が必要であることが示唆され、この関節運動には単に手指の屈伸運動だけでなく、手指を外転させる運動をも検討すべきであることが明らかとなった。

2.ピアノの基本テクニック演奏時における手の動作解析

反射性マーカーを用いた三次元動作解析システムExpert Vision Systemを用いて、もっとも基本的なテクニックである音階と和音の演奏動作を解析した。ピアニストの音階演奏では指をアーチ型に保ったままMP関節(指の付け根の関節)を屈曲させて打鍵しており、手関節の動きはほとんどなかった。これに対し和音の演奏では、MP関節も含めて指が固定されたまま、手関節を屈曲させて打鍵していた。このように、ピアノ演奏のテクニックの相違によって、手指の動作は大きく異なっていた。

本解析結果では打鍵の瞬間に、キーの反力によりDIP関節(指の最も先端の関節)が過伸展していたが、これは演奏するピアニストが自覚しておらず、動作解析がピアノ演奏において、これまで報告されていない、隠れた部分を明らかにし得ることを示唆していた。

この事実はピアノ演奏法の研究と教育に、客観的な動作解析手法が必要であることを示唆しており、手の三次元動作解析法はピアノ音楽の演奏法と教育法の双方の発展にとって、画期的な解析手段になり得ると考えられた。

3.オクターヴ演奏と手の大きさの関係

オクターヴ演奏の三次元動作解析を行ったところ、ピアニストは打鍵の瞬間だけ手を広げて(外転させて)おり、打鍵時に緊張、打鍵の合間に弛緩という組み合わせを無意識のうちに実行していた。これにより、絶えず手を緊張させることなく、オーヴァーユース障害が予防されるものと考えられた。この周期的な手の緊張パターンも、演奏者は自覚しておらず、動作解析で明らかになった事実であった。また、手の小さいピアニストは大きいピアニストに比べ、オクターヴ演奏では小指よりも母指を大きく広げて(外転させて)打鍵していた。このためにオーヴァーユース障害が母指の伸筋、外転筋にかかわる部位に頻発するものと考えられた。

4.ピアノ演奏と椅子の高さとの関係

ピアノでは鍵盤の高さが固定されているため、椅子の高さによってのみ、手と鍵盤の高さ調整が可能である。このため椅子の高さがピアノ演奏に与える影響を動作解析によって検討したところ、椅子の高低による前腕の傾きの違いは手関節の屈伸によって代償されており、椅子の高さが違っても指先が鍵盤のキーを打つ角度は変わらなかった。この結果から、椅子の高さが不適切で手関節が無用な屈伸(掌背屈)を強いられた場合に手根管症候群を起こす危険性があると考えられた。逆に演奏により手根管症候群を発症した例に対しては、本研究の動作解析により適切な椅子の高さを特定することが、治療および再発予防に有用であると考えられた。

5.ピアニストの手の、オーヴァーユース障害の予防

楽器を操作する演奏家側が楽器の改変を希望しないことから、ピアニストの手のオーヴァーユース障害の予防法は、楽器側の機械的因子よりも身体側の因子の改善が中心となる。このために障害の実態調査からオーヴァーユースの原因となるテクニックを抽出し、動作解析によってそのテクニックがどの部位の筋肉に負担をかけているかを解明することが重要であった。

身体側の障害対策としてはストレッチ運動で筋肉の収縮効率を高めるとともに、筋力訓練で筋肉の収縮力を増加させることが重要である。ストレッチ運動では障害の主因であった母指および小指外転位での打鍵動作のために、母指と小指の外転肢位でストレッチ運動することを演奏前から行う。また前腕筋群のストレッチ運動として、手関節および手指の屈伸ストレッチも有効と考えられる。ストレッチ運動では頸肩腕症候群の予防のための頸椎ストレッチも有用である。

筋力訓練は握力増強訓練が中心となるが、一般に使用されるV字型グリップよりもテニスボールを握る方が、すべての指の屈曲力を均等に増加させる効果がある。

ピアニストの障害の予防策として、練習時間配分と練習環境も重要な要素である。練習時間は一般作業のように60分以内と規定することは困難で、一定時間ごとに10~15分間の休憩をとることが必要である。練習環境としては気温、冷房装置による上肢の冷却、適切な照明と換気など一般作業と共通する諸条件が満たされるよう勘案すべきである。

6.ピアノ演奏における動作解析の有用性

三次元動作解析は、演奏するピアニスト自身すら自覚していない手指の運動を解析することが可能であった。打鍵の瞬間にDIP関節が過伸展すること、オクターヴ演奏では母指と小指の外転角度が打鍵時にのみ増大していること、椅子の高さによる前腕の傾斜が手関節の屈伸によって代償されているなど、いずれもピアノ演奏法や障害予防に重要であるが、演奏者自身は自覚していなかった。このように、動作解析は目に見えない、演奏者すら気づいていない手指の微妙な動きを明らかにすることが可能であり、ピアノ教育や演奏法の改善だけでなく、障害予防にもきわめて有用であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

酒井直隆(さかいなおたか)提出の本論文は「ピアノ演奏の動作解析と手の障害」と題し,全6章よりなり,ピアノ演奏による手の障害の原因を、実態調査と動作解析という二つの手法を用いて解析し、さらにはその解析に基づきと予防法を提案している。

第1章では,研究の背景を説明し,研究の目的と論文の構成について述べている。キーボード操作を要する機械としてはタイプライターとピアノが代表的存在であり、タイプライターは19世紀に発明されて以来機構改良によって、操作に要する手の負担が軽減し、タイピストが頸部や肩の痛みを起こす頚肩腕症候群が激減した。これに対しピアノは18世紀に発明されて以降打鍵機構が改良された結果、キーの重量が増加しピアニストの手に過重な負担を強いる結果となった。このためピアノ演奏による手の障害が19世紀末から報告され、現在もピアニストにとって深刻な問題になっている。以上を背景に、本論文ではピアニストの手の障害の実態調査を行い、オーバーユース障害の原因となる演奏テクニックを抽出した上で動作解析を行って、演奏動作と障害の関係を明らかにすることを目的とした。

第2章では,手の障害について議論を行う準備として、手の構造について述べ、人体の運動の基本が関節運動であり、これは脳が末梢神経を通じて関節の屈筋と伸筋を収縮させることで行われることなどの医学的基礎事項についてまとめている。それに基づき、機械操作による上肢の障害は、腱鞘炎、付着部炎、筋肉痛、捻挫、関節炎、手根管症候群、肘部管症候群、頚肩腕症候群のいずれかになることを示し、各々の病態をまとめている。

第3章では、このような障害の原因について述べている。まず機械操作による運動器障害全般について、その原因が身体的訴因、精神的因子、作業内容の3つが挙げられること、このうちの作業内容には作業姿勢と作業方法の因子が存在し、人間工学による改善例を示した。

次いでこのような原因を解析するための、人の動作解析手法の先行研究を調査している。1980年代まで主流であった筋電は解像度が低いため、90年代に入ると光反射マーカーを用いた動作解析が主流となった。これに対して、同氏が手指に微小マーカーを装着して2台以上のビデオ画像から各マーカー位置を計算する手法を提案し,他研究者の報告によるものよりも同等以上の精度を得ている。

本研究では、ピアノ演奏における手の障害の原因を明らかにすることを目的の一つとしているが、そのための基礎データとして、第4章では、障害の実態調査を行い、その結果について述べている。ピアニストのオーバーユース障害の実態調査では腱鞘炎および腱炎が28%、付着部炎24.5%、筋肉痛19%、関節痛12%、神経障害14%、頸部および肩甲部痛2.5%であった。オーバーユース障害の原因となったピアノ演奏テクニックは、オクターブと和音が全体の74%を占めていた。オクターブと和音に共通するのは母指と小指を外転させたまま打鍵することであり、この動作がオーバーユース障害に関係するものと考えられた。なお、ピアノ機構の発展の結果手の負担が増加した歴史についても述べている。

第5章では,第4章で明らかになった障害を引き起こす演奏テクニックについて、ピアニストの手の動作解析を行っている。三次元動作解析装置Expert Vision Systemをベースとして計測システムを構成し、直径3mmの反射マーカーを被験者の右中指背側、手背、前腕背側に貼り付け、ピアノ演奏を4台のビデオカメラで撮影し解析した。ピアノの基本テクニックである音階と和音の演奏動作では、音階がMCP関節の屈伸で打鍵されていたのに対し、和音では手関節の屈伸が中心であった。オクターブと和音演奏時の母指と小指の外転角の解析では、打鍵の瞬間のみに最大外転して手の緊張を最小限にとどめていたが、この現象をピアニスト自身は自覚していなかった。また手の小さいピアニストはオクターブ演奏に際し、母指を外転させてハンドスパンを補っており、この事実はオーバーユース障害が母指の伸筋および外転筋に多く発生することを裏付けていた。椅子の高さがピアノ演奏に及ぼす影響について解析したところ、椅子の高低による前腕の傾き角の相違は、手関節の屈曲角によって調整され、その結果指先がピアノのキーを打鍵する角度は一定に保たれていた。

第6章では考察と結論を述べている。実態調査と動作解析の結果の概要を述べるとともに、ピアノ演奏による手のオーバーユース障害の予防策を検討している。その内容は母指と小指の外転ストレッチ体操と、外転筋および伸筋の筋力強化を行うとともに、打鍵時のみ外転させる訓練を表面筋電をフィードバックとして行わせる。また手の動作解析の今後の展望として、高速度ビデオカメラの導入、力学的解析、筋電の併用などが考えられた。

以上を要約するに,本研究により,ピアノ演奏による手のオーバーユース障害の実態が明らかとなり、原因となったピアノテクニックの動作解析を行うことでオーバーユースの機序が解明された。また、これを元にして障害の予防策も明らかとなった。本研究は楽器と手の間のマン・マシン・インターフェースの問題解決に大きな貢献をしたと同時に、動作解析の、機械による運動器障害の原因解明への有用性を実証し、今後の課題についても明らかにした。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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