学位論文要旨



No 217427
著者(漢字) 西田,友広
著者(英字)
著者(カナ) ニシタ,トモヒロ
標題(和) 中世の検断と国制
標題(洋)
報告番号 217427
報告番号 乙17427
学位授与日 2010.11.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17427号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 准教授 小島,毅
 東京大学 教授 近藤,成一
 東京大学 准教授 桜井,英治
 放送大学 教授 五味,文彦
内容要旨 要旨を表示する

本論は、日本中世の国制を検断の分析を通して考察したものである。

検断とは日本中世において主に現代の刑事的事件についての取締りと犯人の断罪を示す言葉であるが、この検断を含む国家的軍事警察機能は、黒田俊雄氏の権門体制論、佐藤進一氏の東国国家論などにおいて諸国守護権と呼ばれ、日本の中世国家像を論じる際の一つのキーワードとなってきた。

この諸国守護権は、従来は朝廷から鎌倉幕府に委譲された権限として位置づけられてきた。しかし、川合康氏をはじめとする近年の鎌倉幕府研究や、石井紫郎氏・新田一郎氏による検断体制の変化から国制の変化を論じる研究を踏まえると、鎌倉幕府が諸国守護権を担うということの実態や、朝廷も含めた中世社会全体における諸国守護権のあり方を明らかにすることが、中世国家像を論じる上で必要であることがわかる。

このような先行研究を踏まえ、本論では朝廷・幕府それぞれの動きと相互関係の中から、どのようにして新たな国制が形成されてゆくのかを、検断を通して考察した。

まず第一部では鎌倉幕府の検断について検討し、その制度的枠組みや、その中心的担い手であった守護の活動の具体像、また他権門への影響について明らかにした。

第一章「鎌倉幕府検断体制の構造と展開」では鎌倉幕府がどのように諸国守護権を担ったのか、その制度的変遷について全体的な枠組みを提示した。一一九〇年、幕府は御家人を統率して諸国守護権を担う存在として朝廷から位置づけられたが、この諸国守護権には個々の御家人の領主権力の上に立つ高次の権力としての側面と、御家人の領主権力としての検断を公的に位置づけ保障する側面とがあった。一二二一年の承久の乱を経て、幕府は本所一円地への守護不入を決定して、地頭領・本所一円地体制と呼びうる体制を構築し、その上で、組織的な検断機構の整備を進めた。その後、深刻化する悪党問題に対処するため、幕府では本所一円地住人をも検断に動員しようとするが成功せず、滅亡を迎えたのである。

第二章「鎌倉幕府の検断訴訟手続きと注進状」では、鎌倉幕府の検断訴訟手続きにおいて、大きな役割を果たした守護の注進状について、その文書としての性格や意義、作成過程などを、両使の請文と比較しながら明らかにした。守護注進状は幕府訴訟に向けた事前手続きとして、訴人の訴えにより守護機構の実検・審理を経て作成された。守護注進状をめぐる検断訴訟手続きは十三世紀最末期には成立しており、守護注進状の提出は幕府法廷における最も有効な挙証手段であった。この守護注進状の成立の背景には、幕府検断機構の整備にともなう、守護の幕府検断における中心的役割に対する中世社会全体の認知があった。

第三章「守護所の活動と構造」では管国現地での守護所の活動の具体像や、現地守護所の活動を実際に担った人員構成について明らかにした。現地の守護所では鎌倉や京都にいる守護や守護側近の守護代と連携しながら、実検・問答・証拠収集などが行われ犯罪事実の確定が行われており、訴陳状の交換による訴訟手続きについても、鎌倉・六波羅法廷に準じた手続きが行われていた。また、守護機構全体としてみると、交代してゆく守護正員・守護代と、守護の交代とは無関係に現地守護所を支える「在守護所御家人」とでも言うべき存在があった。この「在守護所御家人」は国衙在庁官人の系譜に連なる国御家人であり、かれらが守護の管国統治を支えていた。また郡単位に設置される郡守護代・郡守護使の存在も複数の国で確認でき、かれらも守護の管国統治を支える存在であった。

第四章「鎌倉幕府の検断と権門寺院」では、独自に大和国一国に対する検断権を行使した興福寺と幕府の検断との関係について検討し、幕府の検断が寺社権門の検断に優越してゆく様相を提示した。すなわち、西大寺所蔵聖教の紙背文書から一三二四年に興福寺が直面していた悪党問題とその対応策について分析し、興福寺が幕府の検断政策に従い、それを請け負うことによって、大和国一国に対する自らの支配を維持しようとしていたことを明らかにした。また、このような状況に至る、鎌倉後期の大和国をめぐる興福寺・幕府の動向を整理した。

第二部では朝廷の検断について、衾宣旨という全国に犯人追捕を命じる文書を素材として検討し、朝廷の検断の実像と、それが要請された背景、またそれが果たした機能について明らかにした。

第五章「衾宣旨とその効力」では衾宣旨の文書としての性格や意義、その効力のあり方について明らかにした。衾宣旨は本所検断権の自立や幕府の成立により、その諸国守護権の危機に直面した朝廷が、全ての検断権保持者を総体として朝廷に直結する形で再編成することを試み、そのような朝廷の諸国守護権を体現する文書として成立し、右弁官下文の形式を採った。承久の乱による武力の崩壊により、朝廷は自ら直接に衾宣旨の効力を保障することはできなくなった。しかし、衾宣旨は紛争当事者による武力行使に正当性を与え、また第三者の武力を動員するものとして機能した。諸権門は自らの支配領域内では自ら武力を行使できたが、他権門の支配領域内では武力を行使できず、ここに衾宣旨を要請する動機があった。朝廷は衾宣旨によって諸権門の武力行使を媒介することで、諸国守護権を行使したのである。

第六章「衾宣旨と権門寺院」では鎌倉後期の石山寺で発生した事件を素材として、衾宣旨がなぜ必要とされたのかについて具体的に提示した。石山寺の堂衆の追捕を命じた衾宣旨の背景には仁和寺出身の座主守恵と従来からの寺僧との対立があり、この対立は東大寺・延暦寺が石山寺の末寺化を図る中で、守恵が石山寺の支配強化を図ったことによるものであった。守恵によって追放された寺僧は東大寺を頼って朝廷に訴えており、自ら武力を有する守恵が衾宣旨を要請した背景には、他権門と結びつく敵対者に対抗する上で衾宣旨が有効と考えられたことを示している。

第七章「衾宣旨と鎌倉幕府」では、鎌倉後期における衾宣旨と幕府の検断手続きとの関係、幕府による衾宣旨要請事例の検討を通じて、衾宣旨と鎌倉幕府の関係を検討した。悪党問題の深刻化の中で、朝廷・本所は検断について幕府への依存を強めてゆく。近藤成一氏が明らかにした「悪党召し捕りの構造」の成立によって朝廷の断罪は幕府の武力によって実現されることとなり、衾宣旨が幕府によって施行される例も見出される。六波羅の御教書が衾御教書と呼ばれるようになり、本所の要請による衾宣旨発給事例は見られなくなってしまう。一方、後醍醐天皇の討幕運動に対し、幕府は後伏見上皇に関係者追捕のための衾宣旨発給を要請した。このことは幕府による検断への本所一円地住人動員のあり方の限界を示すものである。またこの衾宣旨発給は、これ以降に展開する南北朝内乱期の政治構造の出発点としても評価できる。

第三部では第一部・第二部での検討を踏まえ、検断をめぐる朝廷・幕府の相互関係について検討し、諸国守護権の分裂と再統合の過程を明らかにした。

第八章「幕府権力の生成と朝廷の対応」では鎌倉幕府の成立から承久の乱までの時期について、諸国守護権をめぐる朝廷・幕府両者の動向を明らかにした。朝廷と敵対する関係から出発した幕府は、自らの軍事力を諸国守護権の掌握によって正当化し成長してゆく。朝廷は建久新制において幕府を既存の朝廷機構とともに諸国守護権を担う存在として位置づけ、諸国守護権は朝廷・幕府の間に分裂することとなる。幕府では御家人による諸国守護権の独占が、朝廷では分裂した諸国守護権の回収が目指され、このような両者が衝突したのが承久の乱であった。

第九章「幕府検断の展開と朝廷・寺社本所」では承久の乱を契機とする朝廷・幕府の新たな関係設定の様相を明らかにし、鎌倉後期の悪党問題を契機とする諸国守護権統合の動きを提示した。承久の乱後、朝廷と幕府は相互関係の再設定が必要となり、一二三八年の将軍上洛を期に、検断については地頭領・本所一円地体制による権限の住み分けが行われた。この地頭領・本所一円地体制の中、幕府では検断機構の整備が行われ、朝廷の衾宣旨も寺社権門の世界を中心として機能し続けた。鎌倉後期の悪党問題の深刻化の中で、諸国守護権は幕府を中心に再統合されるが、幕府は本所一円地住人をその検断に動員することができず、再統合された諸国守護権を御家人のみで支えるという矛盾の中で滅亡してしまう。

終章では、以上の三部にわたる検討をまとめ、また、新しい検断システムの形成過程と、中世日本の国制について論じた。新たな検断システムは幕府の検断体制に朝廷・本所が依存・参加することで成立するが、幕府はそのシステムに本所一円地住人を動員することができなかったため、御家人のみで支えねばならず、滅亡してしまう。また諸国守護権をめぐる検討からは、朝廷・幕府両者は共に独自の国家と捉えることができ、荘園制を踏まえ、同一の国土の上に朝廷・幕府の二つの国家が存在したと考えることができる。この二つの国家のうち、朝廷が分裂し、その片方が幕府と結びつくことで、新しい一つの国家へと再編成されてゆくのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「検断」と呼ばれる刑事事件の処理のあり方(警察、検察、断罪)を通じて、日本中世の国制に迫ろうとしたものである。鎌倉幕府の成立によって、中世国家が朝廷(公家)・幕府(武家)の二大要素から構成されるに至った事情に応じて、第一部で鎌倉幕府、第二部で朝廷、第三部で両者の相互関係を扱うという、整然とした構成になっている。扱われる時代はほぼ鎌倉時代に限定されている。

第一部第一章では、中世国家の軍事・警察機能を「諸国守護権」と名づけ、鎌倉幕府がそれを担っていくことを通じて、朝廷と並ぶ国家的存在として自己形成を遂げるが、御家人を超えて武士階級一般にまで権力基盤を拡大しえず、滅亡への道をたどった、と展望する。第二章・第三章では、幕府の検断機能の要を占めた守護をとりあげ、権断手続きのなかで作成される守護注進状という文書と、守護の管轄する「国」の現地に置かれた守護所の活動を通じて、幕府の検断機構が整備されていく様相を明らかにする。第四章は、一通の紙背文書を通じて、幕府検断が権門寺院のそれに優越していく状況を示す。

第二部は、朝廷が全国に犯罪人の追及・逮捕を命じるときに出された「衾宣旨(ふすまのせんじ)」という文書に初めて本格的な分析を加えたもので、事例の網羅的な収集をもとに、様式・機能・効力を古文書学の手法で分析し、さらに権門寺院や鎌倉幕府が衾宣旨にどう対応したかを明らかにする。結論としては、衾宣旨を朝廷のもつ諸国検断権を体現する文書と評価し、幕府による諸国守護権の占有という通説を批判する。

第三部は、第一部・第二部の検討を総括して、鎌倉幕府権力の生成から滅亡にいたる推移を、検断をめぐる朝廷・寺社本所との関わりという観点から、時系列的に叙述する。終章では、検断を通じて見れば、朝廷と幕府はともに独自の国家と捉えることができ、両者が同一の国土の上に並存していたのが鎌倉時代の国制だと結論づける。

鎌倉時代の土地制度を、幕府が御家人を地頭に任命して現地支配に介入する「地頭領」と、地頭が設置されない「本所一円地」の二系列でとらえ(「地頭領・本所一円地体制」)、前者では、守護が入部して検断を実行することで、御家人の領主検断が「諸国守護権」に接続され、幕府を国家的軍事・警察機能の担い手たらしめた、という見取り図は、本論文の核心をなすものである。この観点の確立によって、第一に、守護の役割の決定的重要性が視野にとらえられるととともに、守護のもとでの支配機構が幕府の模倣に止まらない独自性を備えており、次代の守護領国制の母胎となったことが明らかにされた。第二に、「本所一円地」を支配下に組み込む論理をもちえなかったことが幕府の命取りになる、という展望が開け、幕府が「本所一円地」の検断に衾宣旨の発給を求めたという事実とあいまって、朝廷を「諸国守護権」の主体として位置づけるという視角へと繋がった。

幕府と朝廷以外の検断主体については、寺社本所について多少の言及はあるものの在地社会等を扱っていないこと、また、第三部で独自の分析作業が不十分なため、第一部・第二部の要約に終わった観が否めないことなど、改善すべき余地はあるが、検断という視点を堅持して粘り強い作業を積み重ね、中世国家の姿までを見通したことは、本論文の大きな成果である。よって本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績として認めるものである。

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