学位論文要旨



No 217429
著者(漢字) 松本,昌彦
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,マサヒコ
標題(和) 計算科学を用いた転移交差飽和法に関する理論的研究
標題(洋)
報告番号 217429
報告番号 乙17429
学位授与日 2010.12.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17429号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 清水,敏之
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 井上,将行
 東京大学 教授 船津,高志
内容要旨 要旨を表示する

〈序論〉

タンパク質とリガンドの相互作用部位の解明は、生物学的に重要であるだけでなく、創薬にも重要な知見を与える。近年開発された溶液NMR実験法である交差飽和法は、1H-1H間の距離を反映する双極子相互作用を利用した高分子量タンパク質複合体の相互作用部位を決定する手法であり、従来用いられてきた化学シフト摂動法や水素・重水素交換法に比較して、より正確に相互作用部位を決定できることが示されている。

転移交差飽和法(TCS法)は、交差飽和法を相互作用の弱い巨大タンパク質複合体に適用できるように拡張した手法である。しかし実際の適用にあたっては、実験条件を適切に設定しなければ、相互作用部位を求められないか、または、誤った結果が得られることが分かっている。本研究では、TCS法の適用可能範囲を明らかにし、合理的な実験条件の設定を可能とすることを目的とした。そのために、(1)TCS法の理論的記述を確立し、(2)シミュレーションにより各パラメータの影響を明らかにし、(3)理論による結果を実験的に検証することとした。

<結果と考察>

1. TCS法の理論的記述の確立

TCS法では、リガンド分子内のプロトン密度を下げる目的で、10% H2O/90% D2Oの混合溶媒を用いる。このため、サンプルはタンパク質の交換性プロトンがHまたはDで置換された異性体であるisotopomerの混合物になる。異なるisotopomerでは分子内のプロトンの空間的分布が異なるため、磁化の挙動も異なる。このため、磁化の理論的記述はisotopomerごとに行う必要があり、観測される磁化は全てのisotopomerに由来する磁化のアンサンブル平均になる。

TCS法におけるリガンドおよびレセプターのプロトンの磁化の時間変化は、自己緩和、交差緩和、化学交換、飽和伝播を表す項で記述される。リガンドの任意のk番目のisotopomerのプロトンについての方程式、解離状態のレセプターのプロトンについての方程式、複合体のリガンドおよびレセプターのプロトンについての方程式は連立方程式になり、行列を用いて表すことができる。ここで、TCS法では、レセプター分子は高分子量、高プロトン密度であるので、全てのレセプタープロトンが速やかに飽和されると仮定すると、レセプタープロトンの式が消える。さらに、リガンドの結合飽和度をpbとすると、結合速度はpbと解離速度定数koffのみで表され、TCS法の化学交換速度はpbとkoffのみで表される。ラジオ波照射開始時に全てのリガンドプロトンの磁化が平衡磁化であると仮定して方程式を解くことにより、リガンドのk番目のisotopomerのプロトンiの磁化の時間変化を表す式が得られる。任意のプロトンiについて観測されるアンサンブル平均の磁化は、リガンドのk番目のisotopomerのプロトンiの磁化と、k番目のisotopomerの存在比率の積の総和で表される。以上の理論に基づいて、TCS法をシミュレーションするソフトウェアを開発した。

2. シミュレーションによる各パラメータのTCS法への影響の検討

TCS法の各パラメータの影響は、モデルスピン系を用いたシミュレーションにより調べることとした。モデルスピン系は、直線上に3 A間隔でならんだ3個のL1, L2, L3プロトンでリガンドを構成し、レセプターは巨大分子を模倣するために一辺に13個のプロトンを配置した立方体とした。分子間距離は5 Aとした。

(1) 溶媒のプロトン濃度の影響

プロトン濃度100%ではリガンド分子内のプロトン密度が高いため、双極子相互作用により飽和は高い効率でL1プロトンからL2, L3プロトンへも伝播し、全てのプロトンが同程度のシグナル強度減少を示した。溶媒のプロトン濃度を低下させていくと、リガンド分子内の双極子相互作用が抑制され、レセプターとの相互作用界面に存在するL1プロトンがL2, L3プロトンに比べて顕著なシグナル強度減少を示すようになった。仮想的に双極子相互作用がない条件でシミュレーションした結果とプロトン濃度10%の結果がほぼ同等であることから、プロトン濃度10%は双極子相互作用が十分抑制された条件であることが分かった。実際には、プロトン濃度を低くするとシグナルの観測感度も低くなるため、10%から30%のプロトン濃度を用いるのが良いと考えられる。

(2) リガンド結合飽和度pbと解離速度定数koffの影響

1000 s(-1)から0.1 s(-1)のいずれのkoffでも、pb=0.01ではわずかなシグナル強度減少しか見られなかった。pbが増加すると飽和効率は上昇し、pb=0.5ではkoffが1 s(-1)以上の条件でL1プロトンがL2, L3プロトンに比べて顕著なシグナル強度減少を示した。koffが1 s(-1)より小さくなると飽和効率は減少し、koffが0.1 s(-1)ではpb=0.5でも十分な飽和効率は得られないことが分かった。pbとkoffがTCS法に及ぼす影響の理解を深めるために、個々のリガンド分子が経験する結合時間を考え、これをEffective saturation time(EST)を呼ぶことにした。10000個の擬似リガンド分子を用いて、確率的に結合・解離を発生させることにより、ESTの分布を算出した。その結果、pb=0.5の飽和効率が良い条件では、ESTはpbとラジオ波照射時間の積を中心に分布した。pb=0.1の場合でも同様の結果が得られた。飽和効率の低いpb=0.01では、ラジオ波照射時間1秒では38%のリガンドのESTが0秒になっており、これらのリガンドが1秒の間に1度も結合しなかったことが分かった。同様に、ラジオ波照射時間3秒でも5.6%のリガンドが1度も結合していないことを示しており、これがpb=0.01では飽和効率が低い原因であることが分かった。

(3) レセプターの回転相関時間の影響

双極子相互作用は、分子量が増大すると強くなるため、飽和効率は上昇する。レセプターの回転相関時間が10 ns、分子量~25 kDaでは分子量が小さいため飽和効率は低く、pb=0.5でなけれはL1プロトンを分離して観測できなかった。レセプターの回転相関時間が100 ns、分子量~250 kDaでは飽和効率が上昇し、pb=0.1でもL1プロトンを分離して観測することができた。レセプターの回転相関時間が1 μs、分子量~2.5 MDaでは、pb=0.5では飽和効率が非常に高いため、L1プロトンを分離して観測するためには短いラジオ波照射時間を用いるか、または、これまで適用が難しかったpb=0.01を用いる必要があることが分かった。

3. 実験による検証

以上の理論的考察に基づいて実験を行い、シミュレーションとの比較を行った。実験には、UbiquitinとYeast ubiquitin hydrolase (YUH)の相互作用の系を用いた。Ubiquitin-YUHの複合体は結晶構造が明らかにされており、また、ubiquitinと野生型YUHとの結合はKd=18μM, koff ~ 100 s(-1)であり、ubiquitinとYUH(C90S)との結合はKd=37nM, koff ~ 0.2 s(-1)である。シミュレーションに用いたモデルスピン系は、L1プロトンの分子間1H-1H間距離の-6乗の総和がGly47のアミドプロトンと一致するように、分子間距離を5 Aから3.75 Aに変更して用いた。Ubiquitinと野生型YUHを4:1の量比で加えて行ったTCS実験の結果と、その実験条件を反映したkoffとpbで行ったシミュレーションの結果を比較した結果、結合界面にあるGly47のアミドプロトンとL1プロトンはほぼ同等のシグナル強度減少を示し、結合界面から離れたSer20とL2, L3プロトンはほぼ同等のシグナル強度減少を示した。同様に、ubiquitinと野生型YUHを10:1の量比で加えた実験結果とその条件を反映したシミュレーション結果の比較、また、ubiquitinとYUH(C90S)を4:1で加えた実験結果とその条件を反映したシミュレーション結果を比較した結果、いずれの条件でも実験結果とシミュレーションはよく一致した。以上の結果より、シミュレーションに基づいて実験条件を設定することが有効であることが示された。

<総括>

本研究では、TCS法の理論的記述を確立し、シミュレーションいより各パラメータの影響を明らかにした。その結果、TCS法の交換速度がリガンド結合飽和度pbと解離速度定数koffのみで記述できることを示した。また、TCS法の飽和効率は、pbが大きいほど高くなることを示した。また、TCS法の適用可能範囲は、koffが0.1 s(-1)より大きい範囲であることを明らかにし、koffが10 s-1以上では、pbが0.1以上が望ましく、koffが1 s(-1)以上では、pbが0.5以上が望ましいことを明らかにした。また、回転相関時間が1 μs、分子量~2.5 MDaの系では、pb=0.01でも適用可能であることを明らかにした。さらに、シミュレーションに基づいて合理的に実験条件を設定することが可能であることを示した。本研究の成果に基づいて、TCS法がこれまで解析が困難であったタンパク質複合体に適用され、生物学的研究および創薬研究において新たな知見をもたらすことが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

計算科学を用いた転移交差飽和法に関する理論的研究と題する本論文は、NMR法の1つである転移交差飽和(TCS)法について、理論的記述を確立し、シミュレーションおよび実験によりTCS法の適用可能性を解析した成果を述べたものである。本論文は4つの章からなり、第1章において序論を、第2章においてTCS法の理論的記述を、第3章においては実験の材料および方法を、第4章においてシミュレーションによりTCS法の適用可能性を解析し、実験による検証を加えている。

第2章においては、TCS法の理論的記述を述べている。まず、TCS法の試料中のisotopomerを考慮する重要性について述べている。TCS法では重水素化したリガンドタンパク質とプロトン濃度が低い溶媒を用いることから、試料中のリガンドタンパク質のプロトンの空間的分布はisotopomerごとに大きく異なり、そのためTCS法を理論的に記述にするためにはisotopomerごとのスピンの緩和を考慮しなくてはならないことを述べている。つづいて、弱く相互作用するリガンドとレセプターの系にラジオ波を照射した場合のプロトンスピンの時間変化を表す式からTCS法におけるプロトンスピンの時間変化を表す式を導出し、最後にすべてのisotopomerに由来するシグナルのアンサンブル平均としてTCS法で観測されるシグナル強度を表す式を導出している。ここでは、通常TCS法に用いられるレセプター分子の分子量が大きいために、レセプターのプロトンスピンはラジオ波照射に伴い速やかに飽和されることが考慮されている。また、溶媒のプロトン濃度が非常に低く、リガンド分子内のプロトンが実質的に孤立した条件でのTCS法の理論的記述も導出している。

第4章においては、TCS法の理論的記述に基づいたシミュレーションを用いて、TCS法に関与する物理パラメータの影響を解析した結果と、ubiquitinとyeast ubiquitin hydrolase(YUH)の相互作用系を用いたTCS法の実験結果について述べている。シミュレーションには3個のプロトンから成るリガンドと133個のプロトンから成るレセプターのモデルスピン系を用いている。まず、溶媒のプロトン濃度がTCS法に及ぼす影響について解析している。レセプターの回転相関時間が10ns,100ns,1000nsの条件において溶媒のプロトン濃度を変えてシミュレーションを行い、その結果、どのレセプターの回転相関時間でも溶媒のプロトン濃度が10~30%がTCS実験に適切であると結論している。つづいて、リガンド結合飽和度、解離速度定数、レセプターの回転相関時間がTCS法に及ぼす影響について解析している。その結果、TCS法はレセプターの回転相関時間が10nsから1000nsの範囲で適用可能であること、また、レセプターの回転相関時間によってTCS法に適切なリガンド結合飽和度と解離速度定数の範囲が異なることが明らかにされている。

次に、TCS法の飽和効率について、リガンドが実際にレセプターと結合している時間に着目して考察を加えている。ここでは、リガンドが結合状態にある平均時間、および、個々のリガンド分子が結合状態にある時間をシミュレーションにより算出してその分布を求め、リガンド結合飽和度および解離速度定数が適切な範囲にない場合に飽和効率が非常に低くなる現象を説明している。

さらに、ubiquitinとYUHの相互作用系を用いて、シミュレーション結果を検証している。実験には、相互作用が強いubiquitin-YUH(C90S)の系と相互作用が弱いubiquitin-YUH(wt)の系を用い、いずれの場合も、実験条件を模した条件でのモデルスピン系を用いたシミュレーションで同等の結果が得られたことから、シミュレーションを参考としたTCS実験条件の設定が可能であると結論している。

以上、本研究の成果は、創薬の重要なターゲットである巨大分子とタンパク質の弱い相互作用の系において、相互作用部位および構造の解明に大きく貢献するものであり、これを行った学位申請者は博士(薬学)の称号を得るにふさわしいと判断した。

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