学位論文要旨



No 217436
著者(漢字) 山岸,裕美
著者(英字)
著者(カナ) ヤマギシ,ヒロミ
標題(和) 下面発酵ビール酵母の不安定性と低温増殖不良原因遺伝子に関する研究
標題(洋)
報告番号 217436
報告番号 乙17436
学位授与日 2010.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17436号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 太田,明徳
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 大矢,禎一
 東京大学 准教授 有岡,学
内容要旨 要旨を表示する

下面発酵ビール酵母の遺伝子に関する研究は、近縁種であるS. cerevisiae実験室酵母の知見を参考に行われてきたが、下面発酵ビール酵母特有の性質に関する研究はそれでは不十分であった。その原因としては、S. cerevisiae実験室酵母に比べて下面発酵ビール酵母の染色体数が多く、染色体が完全に同定されていないことが考えられた。下面発酵ビール酵母の遺伝子に関する研究を行うためには、保有するすべての遺伝子を対象とする必要があった。そこで、本研究ではまず、下面発酵ビール酵母の染色体をS. cerevisiae 及びS. bayanusの染色体と比較することにより同定した。S. bayanusの染色体のうち、8、9、12、14番染色体は、S. cerevisiaeの染色体が組み換わったキメラ構造をとっているため、サザンハイブリダイゼーションによりS. cerevisiae染色体と区別することができる。サザンハイブリダイゼーションの結果から、下面発酵ビール酵母は、S. cerevisiaeとS. bayanus由来の双方の染色体を併せ持つことが確認された。一方、上面発酵ビール酵母はS. cerevisiae由来の染色体のみを有することが確認された。

ビール醸造において、酵母は長期間繰り返し使用されるため、性状が変化した酵母が出現することがある。安定なビール品質を得るためには、性状が変化した酵母を簡単に検出する必要がある。下面発酵ビール酵母の重要かつ変化しやすい特性として、低温での発酵能が上げられる。発酵能を評価する方法としては、フラスコスケールで発酵させたときのエキスの低下や炭酸ガス放出による重量減少を測定する方法があるが、時間がかかる上に実際にビール工場で起きている現象を再現できているとはいえない。発酵能の正確で簡易で迅速な評価方法の確立が強く望まれていた。そこで、本研究では下面発酵ビール酵母から発酵優良株と発酵不良株を単離し性状の比較を行うことにより、発酵不良株の検出方法を開発することを試みた。下面発酵ビール酵母NBRC2003の繰り返し培養した培養液から発酵優良株と発酵不良株を単離した。発酵不良株の表現型を解析したところ、低温増殖不良/高温耐性を示した。すなわち、高温耐性株は低温増殖不良であり、低温増殖不良の結果として発酵不良であることが明らかとなった。その他の下面発酵ビール酵母の高温耐性株についても同様の表現型が確認された。この高温耐性を利用することにより、工場で使用している酵母の発酵能を簡易で迅速に評価することができるようになった。

次に、この低温増殖不良原因遺伝子に関しての解析を行った。下面発酵ビール酵母では、使用できる選択マーカーが限定されること及び形質転換頻度が低いことから、S. cerevisiae実験室酵母を用いて低温増殖不良原因遺伝子をクローニングし、その結果を下面発酵ビール酵母に応用しようと考えた。S. cerevisiae 実験室酵母YPH500の高温耐性株を単離し表現型を調べたところ、高温耐性株は低温増殖不良であり、一部の単離株は接合能を失っていた。S. cerevisiae実験室酵母YPH500の高温耐性/低温増殖不良/接合不能株にS. cerevisiae 遺伝子ライブラリーを形質転換することにより、これらの性質を相補する遺伝子としてKEX2をクローニングした。KEX2遺伝子はαファクターのプロセッシングを行う蛋白質kexinをコードする遺伝子であることから、本遺伝子が接合不能の形質を相補したのではないかと考えられた。そこで、YPH500KEX2破壊株を造成し、表現型を調べたところ、高温耐性/低温増殖不良/接合不能であった。このことから、低温増殖不良の原因遺伝子の1つはKEX2であると考えられた。S. cerevisiae実験室酵母BY4741及びBY4741-Δkex2の形態を、Calmorphを用いて比較したところ、BY4741に比べてBY4741-Δkex2の方が細胞の大きさが大きく、細胞の形が丸く、細胞のアクチン領域が大きく、芽のない細胞におけるアクチン脱局在細胞の割合が大きかった。

下面発酵ビール酵母は、S. cerevisiaeとS. bayanusの交雑体であり、S. cerevisiae由来染色体2セットとS. bayanus由来染色体2セットを併せ持っている。そこで、下面発酵ビール酵母の低温増殖不良にKEX2遺伝子が関与しているかを調べるため、下面発酵ビール酵母BF1のSc-KEX2破壊株及びSb-KEX2破壊株を造成した。得られたSc-KEX2破壊株はSc-KEX2の1本だけが破壊され1本は残っていた。このSc-KEX2破壊株は、BF1に比べて高温耐性があったが、低温増殖能は変わらなかった。Sb-KEX2破壊株はSb-KEX2の1本だけが破壊され1本は残っていた。このSb-KEX2破壊株は、BF1に比べて高温耐性があり、低温増殖能は不良であった。下面発酵ビール酵母BF1及びBF1-Sb-kex2破壊株の形態を比較したところ、S. cerevisiaeで観察されたような細胞の形態、アクチン領域、アクチン脱局在細胞の割合などに有意な差は検出されなかった。完全な表現型の一致は観察されなかったが一部の結果から、Sb-KEX2は下面発酵ビール酵母の低温増殖能に関係していると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

下面発酵ビール酵母(Saccharomyces pastorianus)の遺伝子に関する研究は、主として近縁種であるS. cerevisiae実験室酵母の知見を参考にして行われてきた。しかし、ビール製造における諸性質に関しては、下面発酵ビール酵母特有の性質を研究する必要性が指摘されてきた。本論文は、下面発酵ビール酵母の染色体構造の解析を行うとともに、低温増殖不良株に関する詳細な解析を行ったもので、6章からなる。

第1章の序論に続き、第2章では、パルスフィールド電気泳動及び多数の遺伝子をプローブとして用いたサザンハイブリダイザーションを行うことにより、下面発酵ビール酵母の染色体の同定を行い、下面発酵ビール酵母の染色体の構造を明らかにした。まず、下面発酵ビール酵母の染色体をS. cerevisiae 及びS. bayanusの染色体と比較することにより同定した。下面発酵ビール酵母の染色体には、S. cerevisiae実験室酵母に由来する染色体がすべて含まれ、更にS. bayanusに由来する染色体も含まれており、下面発酵ビール酵母はS. cerevisiaeとS. bayanusの交雑体であることが染色体構造から明らかとなった。

第3章では、下面発酵ビール酵母低温増殖不良株の単離と表現型解析について検討した。ビール醸造において、酵母は長期間繰り返し使用されるため、低頻度ではあるが性状が変化した酵母が出現することが問題となっている。特に、下面発酵ビール酵母の重要かつ変化しやすい特性として、低温(25℃)での発酵能不良株の出現があるが、発酵能を評価する方法はフラスコスケールでの発酵試験を行うという煩雑な方法が主要な方法であった。そこで、低温発酵能の低下した株を単離し、その表現型の詳細な解析から、これらの株は、高温(34-35℃)での生育が可能となっていることを見いだし、発酵タンク中の低温増殖不良株を簡便に検出する方法を確立した。

続いて、第4章では、この低温増殖不良原因遺伝子に関しての解析を行った。下面発酵ビール酵母では、使用できる選択マーカーが限られていること及び形質転換頻度が低いことから、S. cerevisiae 実験室酵母YPH500の高温耐性株を単離し、これらの中で低温増殖不良株を調べたところ、一部の株は接合能を失っていた。高温耐性/低温増殖不良/接合不能株にS. cerevisiae 遺伝子ライブラリーを形質転換することにより、これらの性質を相補する遺伝子をクローニングし、その塩基配列からKEX2が原因遺伝子であることを明らかにした。YPH500 KEX2破壊株を造成し、表現型を調べたところ、高温耐性/低温増殖不良/接合不能を示した。このことから、低温増殖不良の原因遺伝子の一つはKEX2であると考えられた。S. cerevisiae実験室酵母BY4741及びBY4741-Δkex2の形態を、酵母の画像解析システムであるCalmorphを用いて比較したところ、Δkex2株の方が細胞が大きく、形が丸く、アクチン領域が大きく、芽のない細胞におけるアクチン脱局在細胞の割合が大きかった。

第5章では、下面発酵ビール酵母のKEX2遺伝子を破壊することにより、低温増殖性への影響を調べた。下面発酵ビール酵母は、S. cerevisiaeとS. bayanusの交雑体であり、S. cerevisiae由来染色体とS. bayanus由来染色体を併せ持っている。そこで、下面発酵ビール酵母の低温増殖不良にKEX2遺伝子が関与しているかを調べるため、下面発酵ビール酵母BF1のSc-KEX2破壊株及びSb-KEX2破壊株を造成した。得られたSc-KEX2破壊株は、BF1に比べて高温耐性があったが、低温増殖能は変わらなかった。Sb-KEX2破壊株は、BF1に比べて高温耐性があり、低温増殖能は不良であった。下面発酵ビール酵母BF1及びBF1-Sb-kex2破壊株の形態を比較したところ、S. cerevisiaeで観察されたような細胞の形態、アクチン領域、アクチン脱局在細胞の割合などに有意な差は検出されなかった。以上のように、S. cerevisiae実験室酵母とは完全な表現型の一致は観察されなかったが、Sb-KEX2が下面発酵ビール酵母の低温増殖能に関係していることが示唆された。第6章では、総括と展望が述べられている。

以上、本研究は、下面発酵ビール酵母の染色体構造の解析を行うとともに、低温増殖不良株の簡易な判別法を確立するなど、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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