学位論文要旨



No 217438
著者(漢字) 伊藤,寿浩
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,トシヒロ
標題(和) 牛トロウイルスに関する疫学的研究
標題(洋) Epidemiological Analysis of Bovine Torovirus
報告番号 217438
報告番号 乙17438
学位授与日 2011.01.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17438号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 教授 白子,幸男
 東京大学 准教授 水谷,哲也
 東京大学 准教授 久和,茂
 東京大学 准教授 堀本,泰介
内容要旨 要旨を表示する

コロナウイルス科はエンベロープを有する一本鎖(+)RNAウイルスで、コロナウイルス属とトロウイルス属から構成される。コロナウイルス属に含まれるウイルスの多くは消化器官や呼吸器官に感染性を有するが、一部のウイルスは肝臓や腎臓、神経系など多様な指向性を示すことが知られている。一方、トロウイルス属は多型性のエンベロープを有する直径120~140nmのウイルスで、コロナウイルス属と同様、ウイルス粒子の表面に棒状のスパイク蛋白が放射状に分散する。しかし、ヌクレオカプシドがらせん対称のドーナツ様構造を呈することから、コロナウイルス属と形態学的に区別される。トロウイルス属は宿主別にヒト、牛、豚及び馬トロウイルスに分類され、ヒトと牛、馬のトロウイルスは腸炎との関わりが報告されている。しかし、Bernevirusとして他のトロウイルスとは区別される馬トロウイルスを除き、トロウイルス属のウイルスは分離が困難であることから、トロウイルス属に関する研究はコロナウイルス属に比べて遅れている。

牛トロウイルス(Bovine torovirus、以下BToV)は1982年にアメリカで発生した子牛の集団下痢の糞便より初めて検出され、後に本件における集団下痢の原因ウイルスとして同定された。また、感染便を用いた実験感染により、牛の空回腸、結腸や盲腸の絨毛・陰窩細胞に感染し萎縮や壊死を起こすこと、その結果下痢を起こすことが確認された。しかし、BToVは牛のウイルス性下痢に関わる牛コロナウイルス(BCV)や牛ロタウイルスと異なり、培養細胞を用いたウイルス分離が極めて困難であることから、糞便の電子顕微鏡観察やELISA法、RT-PCR法によるウイルス検出により浸潤調査が進められてきた。その結果、これまでに欧米を中心にBToVの検出が報告されている(1991: オランダ、1992:ドイツ、1998:カナダ、2002・2003: アメリカ、2006: オーストリア)。なかでもRT-PCR法は、得られた遺伝子断片の配列解析により他のウイルスとの比較が可能となることから、遺伝子情報の蓄積・解析が進んでいる。DrakerらはBToV感染糞便よりBToVウイルスゲノムの全長を解読し、BToVは約24.5kbのゲノムサイズを有し、RNA polymerase、spike (S)、membrane、hemagglutinin-esterase (HE)及びnucleocapsid (N)遺伝子より構成されることを示した。SmitsらはS及びHE蛋白の相同性を指標に、野外株間での多様性について報告しており、コロナウイルス属においてS蛋白が抗原性状と深く関わっていることが知られていることから、BToVの抗原性状にも多様性の存在する可能性が考えられる。しかし、これまでにBToVの抗原性状の比較は行われていない。一方、日本を含むアジア地域ではBToVの広域な浸潤調査は行われておらず、その感染実態や欧米で検出されたBToVとの異同については不明である。そこで、著者は国内で採取した牛由来材料を用いてBToVの浸潤状況調査を行うとともに、既報のBToVとの遺伝子学的比較解析を行った。また、その過程で4株の細胞増殖性BToVの分離に成功したため、それらの基礎的ウイルス性状及び抗原性状の解析を行うとともに、分離株を用いた野外での抗体調査を行った。

本研究は以下の5章より構成される。

第1章: 糞便を用いたBToVの疫学調査

2004年から2005年にかけて1道11県より採取した牛の糞便231検体(下痢便167検体、正常便64検体)を用い、RT-PCR法によりBToVのN遺伝子の検出により国内におけるBToVの検出状況と疾病との関連性を調べた。また、得られたBToV陽性検体よりさらにS遺伝子の塩基配列解析を行い、BToVの遺伝学的多様性について検討した。

糞便231検体のうち、1道3県より得た15検体(6.5%)からBToVが検出され、国内で広範囲にBToVが浸潤していることが確認された。このうち、正常便由来のものが1検体(1/64、[1.6%])であったのに対し、下痢便では14検体(14/167、[8.4%])と明らかに高い検出率を示した。さらに下痢便由来の14検体のうち7検体からはBCVが同時に検出されたが、それ以外ではBCVやRV、病原性大腸菌等の下痢に関する病原体は検出されず、BToV感染と下痢との疫学的関連が示唆された。S遺伝子の塩基配列解析を実施した結果、検体間で91.6%~99.8%の相同性を有していたが、同じ地域で得られた検体の間では特に相同性が高かった。また、系統樹解析の結果、国内に分布するBToVは少なくとも3種類のクラスターに分類されることが明らかとなった。以上の結果から、国内においてBToVは常在し、牛の下痢の一因として関与している可能性が考えられた。また、地域毎に独自の進化が進んでいる可能性が示唆された。

第2章: 鼻汁を用いたBToVの疫学調査

BToVと同じく牛の下痢を引き起こすBCVは、消化器系と呼吸器系の双方の感染因子となることが知られている。Hoetらはオハイオ州の一農場において牛の鼻汁からのBToVの検出を報告しており、BToVにおいても呼吸器に対する侵襲性が予想される。しかし、BToVと呼吸器疾病との疫学的関連性については検討が行われていない。また、鼻汁より検出されたBToV(rBToV)と糞便由来BToV(eBToV)との間での遺伝学的関連性の有無についても報告が無い。以上のことから、著者は2006年から2008年にかけて1道15県より採取した牛の鼻汁311検体(呼吸器症状陽性牛205検体、健常牛106検体)よりBToV-N遺伝子の検出を試み、rBToVの検出状況と疾病との疫学的関連性を調べた。また、rBToVとeBToVの遺伝子解析を行いBToVの多様性について検討を行った。

鼻汁311検体のうち7検体(2.3%)からBToVが検出された。これら7検体は5県6農場に由来したが、いずれも呼吸器症状を示した若齢子牛より採取した検体であった。次いで、S及びHE遺伝子の配列解析を実施した結果、rBToV間ではSで91.1%~100%、HEで90.8%~100%の相同性を有し、既報のeBToVとの間ではSで89.6%~99.0%、HEで70.6%~99.0%の相同性を示した。系統樹解析の結果、3検体はeBToVのクラスター2、また1検体はクラスター1の近縁に位置づけられた。また他の検体はクラスター1とクラスター3の中間に位置づけられた。以上の結果から、BToVはBCVと同様に牛の消化器だけでなく呼吸器系組織にも感染性を有し、牛の呼吸器疾病との疫学的な因果関係が示唆された。一方、rBToVとeBToVとの間には遺伝学的に本質的な差異は認められなかった。

第3章: 新規に分離したBToV 4株のウイルス性状及び抗原性状と遺伝子性状との相関

BToV遺伝子が検出された糞便をヒト直腸癌由来細胞(HRT-18細胞)に接種・継代することにより4株の細胞増殖性BToVの分離に成功した。分離ウイルスは、いずれの株もマウス赤血球に対してHA活性を有していたが、鶏赤血球に対してはHA活性を示さなかった。BToV 4株のS遺伝子について、既報のBToVと比較した結果、分離ウイルスはGifu-2007TI/Eを除いてクラスター1とその近縁に位置づけられた。一方、Gifu-2007TI/Eはクラスター2の近縁に位置づけられた。次に、これらの分離ウイルスについて交差中和試験及び交差HI試験を行い、抗原関連値(R%)を指標に株間の抗原性状の相違を調べた。その結果、中和試験ではR%:19.8~100%、HI試験ではR%:14.0~89.4%を示したが、Gifu-2007TI/Eを除いた場合には前者でR%:56.6~100%、後者でR%:44.2~89.4%と高い交差性を有していた。このことから、Gifu-2007TI/Eを除いた3株は互いに極めて強い交差性を有し、Gifu-2007TI/E株はこれらとは抗原性が多少異なったものの、血清型の違いとして定義づけるほどの相違はないことが考えられた。以上の結果から、中和及びHI試験により識別される、少なくとも2種類のBToV血清亜型が存在し、また、それはS蛋白の相同性と関わっている可能性が示された。

第4章: BToV分離ウイルスを用いた感染試験

BToVの感染試験に関する報告は少なく、呼吸器経路に対する感染性も実験感染では確かめられていない。そこで、細胞で増殖が可能なBToV分離株を用いた感染実験を行い、消化器経路と呼吸器経路におけるウイルスの動態と抗体応答の推移を調べた。

HRT-18細胞培養Hokkaido-2008TI/E株を5か月齢の牛に接種し、臨床観察をおこなうとともに糞便と鼻汁より排泄されるウイルスの定量を行った。その結果、実験感染牛に体温や元気、食欲に異常は認められなかったものの、攻撃後4日から10日にかけて軟便を呈した。消化器症状が観察され始めたのとほぼ同時期から、糞便よりBToVの排出が観察され、特に攻撃後4日から7日には顕著なウイルス排出が確認された。同期間中、糞便に比べ少量ではあったが鼻汁からもウイルス排出が確認された。攻撃開始後7日より血清抗体の上昇が確認され、抗体価の推移はHIおよび中和試験で良く相関していた。これらの結果から、BToVは牛の消化器経路と呼吸器経路の双方に感染性を有し、また、HI及び中和抗体を指標に感染の確認が可能であることが示された。

第5章: BToVの野外牛における血清疫学調査

BToVの抗体検出には、これまで感染牛の糞便材料が用いられており、実験手技が困難であったため、広範囲での血清疫学調査はおこなわれていなかった。そこで、分離ウイルスを用いて2005年から2010年にかけて1道16県より採取した健康牛群12群、臨床症状(消化器症状、呼吸器症状、発熱)を呈した牛群36群のペア血清についてBToVに対するHI抗体価の測定を行った。その結果、多くの個体は初回採血の時点でBToVに対するHI抗体を保有していたが、健康牛群の多くは月齢を経るに従って抗体価の低下が見られたのに対し、疾病牛群の一部では臨床症状観察後に抗体の上昇が確認された。特に、呼吸器症状が見られた牛群でその程度は顕著であった。以上の結果から、BToVは牛の疾病に関わる一因子として広く浸潤している可能性が、血清学的にも示された。

BToVが初めて分離報告されたのは2007年で、牛の下痢症に関わる病原体として認識されたのはごく最近であり、本ウイルスの感染と病原性等については検討すべき課題が多く残されている。本研究は、今後重要性を増すであろうBToVの疫学研究と防除対策確立の一助となると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

トロウイルス属はコロナウイルス科に属する、エンベロープを有するプラス一本鎖RNAウイルスで、宿主別にヒト、牛、豚及び馬トロウイルスに分類され、このうちヒトと牛、馬のトロウイルスは腸炎との関わりが報告されている。しかしトロウイルス属のウイルスは、培養細胞を用いてのウイルス分離が困難であることから、ウイルス性状の解析はコロナウイルス属に比べて遅れている。

本研究の対象である牛トロウイルス(Bovine torovirus、以下BToV)は1982年にアメリカで発生した子牛の集団下痢の原因ウイルスとして同定された。BToVはウイルス分離が困難であるため、糞便からのウイルス検出による浸潤調査が進められており、これまでに欧米を中心に7カ国でBToVの検出報告がなされている。また、抗原性状との関わりが考えられるスパイク(S)遺伝子を指標にBToVの野外検体間で相違が見られることから、抗原性状の多様性が示唆されているが、その検証は行われていない。一方、日本を含むアジア地域ではBToVの広域な浸潤調査は行われておらず、その感染実態や欧米で検出されたBToVとの異同については不明である。そこで、申請者は国内でのBToVの浸潤状況調査と遺伝学的多様性の検討を行った。また、その過程で得られた4株の細胞増殖性BToVの血清学的交差性及び牛での病原性を調査するとともに、野外での血清疫学調査を行った。本研究は以下の5章より構成される。

第1章: 糞便を用いたBToVの疫学調査

1道11県より採取した牛の糞便231検体を用いてBToVの疫学調査を行った結果、1道3県より得た15検体(6.5%)からBToV特異遺伝子が検出されたが、正常便由来のものが1.6%であったのに対し、下痢便では8.4%と高い検出率を示し、BToV感染と下痢との疫学的関連が示唆された。S遺伝子の塩基配列解析の結果から、国内のBToVは海外のBToVに類似する一方で、地域毎にある程度の差異が認められ、少なくとも3種類のクラスターに分類された。以上の結果から、日本国内でBToVは牛の下痢症の一因として広く浸潤し、また、地域毎に独自の分化が進んでいる可能性が示唆された。

第2章: 鼻汁を用いたBToVの疫学調査

BToVは牛の消化器官だけでなく呼吸器官に対する病原性も予想されることから、1道15県より採取した牛の鼻汁311検体を用いてBToVの疫学調査を行った。その結果、鼻汁311検体のうち呼吸器症状を示した若齢子牛7検体(2.3%)からBToV特異遺伝子が検出され、BToVの呼吸器疾病との疫学的な因果関係が示唆された。S遺伝子の塩基配列解析の結果、鼻汁由来ウイルスと糞便由来ウイルスとの間に本質的な差異は認められなかった。

第3章: 新規に分離したBToV 4株のウイルス性状及び抗原性状と遺伝子性状との相関

BToV特異遺伝子が検出された牛の下痢便をHRT-18細胞に接種・継代することで4株の細胞増殖性BToVの分離に成功した。分離ウイルス4株はS遺伝子の特徴から、Gifu-2007株を除いて同一あるいは近縁のクラスターに位置づけられた。分離ウイルスについて血清学的交差性を調べた結果、Gifu-2007株でのみ若干の抗原性の違いが認められた。以上の結果から、分離株間で少なくとも2種類のBToV血清亜型が存在し、また、それはS遺伝子の特徴と関わっている可能性が示された。

第4章: BToV分離ウイルスを用いた感染試験

BToV分離株を用いて牛での実験感染を行った結果、体温や元気、食欲に異常は認められなかったものの、軽度の消化器症状と呼吸器症状を呈し、糞便と鼻汁中へのウイルス排泄が観察された。以上の結果からBToVが消化器経路と呼吸器経路の双方へ感染性を有することが実験感染により確認された。

第5章: BToVの野外牛における血清疫学調査

1道16県48農場より採取した牛のペア血清について、BToV分離ウイルスを用いて抗体測定を行った。その結果、健康牛群の多くは時間経過とともに抗体価は低下したのに対し、疾病牛群の約半数では臨床症状観察後に抗体の上昇が確認され、特に呼吸器症状が見られた牛群でその程度は顕著であった。以上の結果から、BToVは牛の疾病に関わる一因子として広く浸潤していることが、血清疫学的に示された。

BToVが初めて分離報告されたのは2007年で、牛の下痢症に関わる病原体として認識されたのはごく最近であり、本ウイルスの感染と病原性等については検討すべき課題が多く残されている。本研究は、今後重要性を増すであろうBToVの疫学研究と防除対策確立の一助となると考えられる。

以上本論文は、牛の呼吸器病および消化器病における病原因子としてのBToVについて詳細な研究を行い、従来困難であったウイルス分離に成功し、日本における浸潤状況を明らかとしたものであって、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)論文として価値のあるものと認めた。

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