学位論文要旨



No 217448
著者(漢字) 浅野,静
著者(英字)
著者(カナ) アサノ,シズカ
標題(和) ビール醸造における微生物検査法の迅速化に関する研究
標題(洋)
報告番号 217448
報告番号 乙17448
学位授与日 2011.02.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17448号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 大西,康夫
 東京大学 准教授 石井,正治
 東京大学 准教授 有岡,学
内容要旨 要旨を表示する

ビールは抗菌性を示すホップ成分を含むとともに、pHが低いこと、アルコールを含むこと、溶存酸素が極めて低いこと、および酵母による発酵工程を経るため、栄養分が少ないことなどから、微生物学的に安定な食品といわれている。しかしながら、一部の微生物種はこのような過酷な条件下でも生育することができ、ビールに混入すると混濁や異臭を引き起こすことが知られ、ビール混濁性菌と呼ばれている。ビール混濁性菌による汚染事故は、100 mlあたり数個レベルという低い菌数で引き起こされるのに加えて被害の規模が大きいため、消費者の信用の失墜と企業への多大な損失をもたらすことは必至であり、ビール醸造においては厳しく管理されている。特にビール工場では、少量の微生物混入が大きな被害を引き起こすことから、製造ラインのみならず、工場環境全体を含めた微生物管理が重要視されている。一方、Lactobacillus属菌やPediococcus属菌に代表されるビール混濁性細菌は従来から知られる菌種は多くないものの、これまでの知見から同一菌種内でも株レベルでビール混濁性が全く異なることが知られており、検査法をはじめ微生物制御が困難な一面がある。さらに、近年相次いでビール混濁性を示す新菌種が発見されるなど、これまで広く行われてきた個別の菌種特異的同定法には限界が見えてきた。

そこで、本研究では漏れのないビール混濁性細菌の迅速検査法の確立を目的として、第一に、ビール混濁性細菌の検査で用いられる菌種特異的シンプレックスPCR法を改良し、包括的で簡便に既知ビール混濁性細菌を検出するマルチプレックスPCR検査法の開発を試みた。また第二に、ビール馴化を高度に繰り返した結果、一般的な乳酸菌検査培地であるMRS培地に難培養性を示す乳酸菌株を見出したことを利用して、このような難培養株やこれまでビール混濁性の報告がない未知のビール混濁性乳酸菌を検出できるマイクロコロニー法の開発を行うことにより、目的の実現を図った。

従来、ビール混濁性細菌の検査には、培養法により検出された菌に対してグラム染色や顕微鏡観察、および糖の資化性試験などの生化学的調査を行うことで菌種同定する手法が用いられてきた。しかしながら、こうした手法から得られる結果は曖昧であるとともに、判定に長時間を要するため、製品の品質管理上満足できる水準ではなかった。そこで、1990年代から生化学的試験よりも精度ならびに信頼性の高い菌種特異的なPCR検査がビール産業においても広く受け入れられるようになってきた。すなわち、性状試験によってある程度菌種を絞り込んだ上で、既知のビール混濁性細菌種に特異的なプライマーを用いたPCR法により同定する手法である。しかし、ビール混濁性細菌を網羅的に検出するためには既知菌種すべてに対応するPCR法を適用しなければならないため、個々のビール混濁性細菌種についてシンプレックスPCR法で菌種同定および混濁性判定をおこなうことは煩雑であった。

そこで、これまで強いビール混濁性細菌として報告されている12菌種を対象としたマルチプレックスPCR法を構築することとにした。マルチプレックスPCR法とは、1反応系に複数のプライマーを含み、複数菌種を一括して検査するPCR検査法である。本法の構築は、実用性を考慮して3つのグループに分けて開発をおこなった。すなわち、ビール混濁性乳酸菌6菌種、Lactobacillus brevis、L. lindneri、L. paracollinoides、L. coryniformis、L. plantarum、およびL. caseiを一括して検出するL. multiplex、Pectinatus属2菌種Pectinatus cerevisiiphilusおよびPect. frisingensisを一括して検出するP. multiplex、ならびにビール混濁性球菌4菌種Pediococcus damnosus、Ped. inopinatus、Ped. claussenii、およびMegasphaera cerevisiaeを一括して検出するC. multiplexを開発した。各マルチプレックスPCR法の性能を調査したところ、いずれも実用水準を満たした検出感度、特異性、および同種異株に対する反応性を有していることが示された。

さらに、マルチプレックスPCR法で使用するプライマーが確実に反応することを確認すするため、λファージDNA配列と対象ビール混濁性細菌の遺伝子配列を組み合わせた人工陽性対照DNA溶液の作製法を開発した。これにより、微生物試験環境に対象菌DNA溶液を持ち込むことなく、1反応系ですべてのプライマーの反応性を確認することが可能となった。以上の結果、簡単で迅速なビール混濁性細菌の網羅的検査法を構築することができた。

このように、マルチプレックスPCR法による網羅的検査法が構築できた一方、菌種同定的検査法は培養法での菌検出が前提となるため、検査培地ですべてのビール混濁性細菌を検出できていない場合には検査漏れが生じる可能性があった。また、過去の微生物汚染事故において混濁したビールから分離された菌は、一般的にビール業界で使用されている検査培地では検出できない状態であったことや、ビール環境に馴化したビール混濁性乳酸菌は、ホップ耐性能を始めとする生理学的性状が変化することなど、ビール環境で棲息する株と実験室株の違いが示唆されていた。そこで、加熱殺菌を行わない、いわゆる生ビール醸造工程において多用されているフィルター除菌工程において、ビール混濁性乳酸菌がビール馴化によってもたらす微生物リスクについて調査した。その結果、ビール馴化している乳酸菌は通常の実験室株よりも除菌フィルターを通過しやすくなっていることが明らかとなり、その要因の一つが矮小化であることが示唆された。さらに、ビール混濁性を示すL. lindneriならびにL. paracollinoidesについて、高度にビール馴化を繰り返し性状調査を行ったところ、MPN法や蛍光活性染色法では一定数の生菌数が確認できるのに対して、MRS培地では全く検出できなくなる現象が観察され、ビールへの高度な適応によってMRS培地での難培養化が引き起こされることが示唆された。すなわち、ビールに極度に馴化した乳酸菌株は、フィルター除菌工程をすり抜け、培地で検出されることなく品質事故を引き起こす可能性が示唆された。

これらのことから、通常使用する実験室株だけではなく、ビール馴化株、あるいはMRS培地で難培養性を示す株を漏れなく検出できる微生物検査法を開発する必要性が浮上してきた。

一般的に、ビール工場における微生物検査においては、100 mlあたり数個レベルという高い検出力が求められる一方で、製品の出荷に合わせて早期に微生物汚染の判定を行う必要がある。しかしながら、確実な検出力を持つ培養法は長期培養時間が必要とされ、他方、培養に依存しない直接FISH法では迅速性は高いものの、非微生物粒子由来のノイズや死菌も検出してしまうといった問題があった。そこで本研究では、難培養株も含めて包括的にビール混濁性乳酸菌を検出できるABD培地と、蛍光染色法を組み合わせた新規検査系の開発を行い、ビール混濁性乳酸菌を3日以内で検出する方法を確立した。まず第一ステップとして、ABD培地上での短時間培養によりビール混濁菌を特異的に増殖させ、第二ステップとして、自動検出できる蛍光顕微鏡にて蛍光染色された微小マイクロコロニーを高感度に検出する。この方法における検出感度および特異性を調査したところ、数回分裂した程度のマイクロコロニーを検出できる感度を有し、さらにビール混濁性を持たない工場環境頻出菌に対して擬陽性反応を示さないことが確認された。

また、検出されたマイクロコロニーに対して、ビール混濁性乳酸菌のrRNA遺伝子と相補する配列を持つ蛍光プローブを用いてFISH法を行ったところ、煩雑な操作を必要とせず菌種同定できたことから、連続してビール混濁性乳酸菌判定ができるマイクロコロニーFISH法が構築できたことが示された。このことから、ビール混濁乳酸菌を迅速かつ選択的に検出し、必要に応じて菌種同定を行う検査系を構築できたと考えている。

本研究により、既報のビール混濁性細菌だけでなく、ビールに高度に適応しMRS培地に難培養性を示す株、および未知のビール混濁性乳酸菌種を漏れなく迅速に検出することが可能な微生物管理手法を確立できた。

審査要旨 要旨を表示する

ビールは抗菌性を示すホップ成分を含むとともにpHが低いこと、アルコールを含むこと、溶存酸素が極めて低いことなどから、微生物学的に安定な食品といわれている。しかし、一部の微生物はこのような過酷な条件下でも生育することができ、ビールに混入すると混濁や異臭を引き起こすことが知られ、ビール混濁性菌と呼ばれている。このような汚染事故は、100 mlあたり数個レベルという低い菌数で引き起こされるのに加えて被害の規模が大きいため、ビール醸造においては厳しい微生物管理が必要とされている。

本論文はビール混濁性細菌の迅速検査法の確立を目的として行われたものであり、5章からなる。第1章の序論に続き、第2章では、強いビール混濁性細菌として報告されている12菌種を対象としたマルチプレックスPCR法の構築について述べている。ビール混濁性乳酸菌6菌種、Lactobacillus brevis、L. lindneri、L. paracollinoides、L. coryniformis、L. plantarum、およびL. caseiを一括して検出するプライマーL. multiplex、Pectinatus属2菌種Pectinatus cerevisiiphilusおよびPect. frisingensisを一括して検出するプライマーP. multiplex、ならびにビール混濁性球菌4菌種Pediococcus damnosus、Ped. inopinatus、Ped. claussenii、およびMegasphaera cerevisiaeを一括して検出するプライマーC. multiplexを構築し性能を調べたところ、いずれも実用水準を満たす検出感度、特異性を有していることが確認された。

第3章では、ビール製造工程で使用されている除菌フィルター性能を評価する目的で、供試菌とその培養条件について詳細な検討を行った。その結果、ビール環境に順応しているビール混濁性乳酸菌は通常の実験室株よりもフィルターを通過しやすくなっていること見いだした。その要因の一つが細胞の大きさの矮小化であることが示唆されたため、通常使用されるMRS培地培養株では正確なフィルター性能評価ができていない危険性が認められた。そこで、強いビール混濁性を示すL. lindneriならびにL. paracollinoidesについて、さらに高度にビール馴化を行い、性状調査を行ったところ、植え継ぎ回数が増加するに従って、両株は徐々にMRS培地上の生育性が低下することを見いだした。さらに、ビールで40回から70回程度の植え継ぎを行った株、および30回植え継いだ後ヒートショックを施した株では、蛍光活性染色法などでは一定数の生菌数が確認できるのに対して、MRS培地で全く検出できなくなる現象が観察された。これらのことから、ビールに極度に馴化した乳酸菌株は、通常使用される培地で検出されることなく品質事故を引き起こす可能性が示唆された。また、ビール環境に順応したビール混濁性乳酸菌は、メンブレンフィルターを用いた除菌工程、およびMRS培地を使用した微生物検査を逃れる可能性が示唆され、ビール馴化株、あるいは難培養株を用いた微生物管理の重要性を示した。

第4章では、難培養株も含めて包括的にビール混濁性乳酸菌を検出できるABD培地と、蛍光染色法を組み合わせた新規検査系の開発を行い、ビール混濁性乳酸菌を3日以内で検出する方法を確立した。本法では第一ステップとして、ABD培地上での短時間培養によりビール混濁菌を特異的に増殖させ、第二ステップとして、自動検出できる蛍光顕微鏡にて蛍光染色された微小マイクロコロニーを高感度で検出する。この方法における検出感度および特異性を調べたところ、数cells/検体レベルの混入混濁菌を検出できる感度を有し、さらにビール混濁性を持たない工場環境頻出菌に対して擬陽性反応を示さないことが確認された。また、検出されたマイクロコロニーに対して、ビール混濁性乳酸菌のrRNA遺伝子と相補する配列を持つ蛍光プローブを用いてFISH法を行ったところ、煩雑な操作を必要とせず菌種同定できたことから、連続してビール混濁性乳酸菌判定ができるマイクロコロニーFISH法が構築できたことが示された。第5章では、総括と展望が述べられている。

以上、本研究は、ビール混濁性細菌のビール馴化による形態や生理学的性質の変化について詳細な解析を行なうとともに、これらの知見をもとにしたビール醸造における微生物検査法の迅速化を確立したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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