学位論文要旨



No 217454
著者(漢字) 板岡,健之
著者(英字)
著者(カナ) イタオカ,ケンシ
標題(和) エネルギー利用に伴う環境外部費用評価のための健康リスク削減価値の経済評価に関する研究
標題(洋)
報告番号 217454
報告番号 乙17454
学位授与日 2011.02.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17454号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,康正
 東京大学 教授 長崎,晋也
 東京大学 准教授 木村,浩
 東京大学 准教授 吉田,好邦
 東京大学 客員教授 谷口,武俊
内容要旨 要旨を表示する

政策評価の重要性が叫ばれて久しい。政策の費用効率性を評価するには政策オプションの費用便益分析が求められるが、環境便益や健康便益等の非市場財を供給する政策の便益評価においては、非市場財を経済価値付けするための基礎的情報が市場から直接的に入手できないため、実施が容易ではない。

非市場財である環境保全・改善をもたらす政策の便益に関しては、環境経済学を中心とした環境経済評価の進展により、その成果が政策便益分析に活用されつつある。その一方、同様に非市場財である健康リスク削減を便益としてもたらす交通政策や公衆衛生政策や環境政策については、便益の経済評価があまり実施されてない状況にある。

エネルギー政策やエネルギー計画の立案においても、その事業の公共性ゆえに費用便益分析が求められるが、その便益評価においては、エネルギー利用に伴う環境外部性の経済評価が、大気汚染やCO2排出削減の効果評価で重要となっている

外部費用の推定においては費用の中で最大の割合を占める健康リスクの貨幣化に利用される統計的生命価値(Value of Statistical Life: VSL)や統計的疾病価値(Value of Statistical Illness: VSI)の値が、外部費用の推定値に大きな影響をもたらす。

既往研究では、海外においてエネルギー利用の外部費用の大きさが評価されており、評価に使用するVSLやVSIの値も検討されているが、発電システムのもたらすリスク特性のVSLへの影響については分析が十分に行われていない。日本においては、エネルギー利用の外部費用の研究がわずかしか無く、評価に利用するVSLやVSIについてほとんど検討がなされていない。本研究は、このような背景の下、エネルギー利用のもたらす外部費用の大きさの推定に最大の影響を与えるVSLやVSIについて、特にVSLに重点をおいて研究を行うものである。

本研究は、エネルギー利用のもたらす外部費用の推定に最大の影響を与えるVSLおよびVSIについて、以下の問いに答えることを目的とする。

* エネルギー利用のもたらす外部費用の推定に利用すべきVSLはどの程度の大きさ?

* すべてのリスク削減の背景において、一定のVSLを一律に適用できるか?(リスク削減の背景によって評価に適用するVSLに調整が必要か?)

そこでVSL計算の基となる健康リスク削減に対するWTPについて、リスク削減に対する信頼性について検証(スコープ反応性の検証)し、リスクの背景のWTPへの影響について検証することを具体的研究課題として、本研究では3つの社会調査(アンケート調査)を実施し、エネルギー利用における外部費用の推定に適用可能な健康リスクの削減に対するWTPを、表明選好法を用いて測定を行うとともに、測定データから研究課題に関する仮説について分析した。研究課題は以下のとおりである。

* リスク削減に対するWTPの信頼性の検証(スコープ反応性の検証)

* リスクの背景のWTPへの影響の検証

・年齢の影響

・ リスクのベースラインの違いの影響

・ 災害忌避の影響

・ リスクのラベルの影響

・ リスクの潜在期間の影響

・ 利他的選好の影響

本研究の3つの社会調査の中では、非常に小さなリスクベースラインおよびリスク削減量に対するWTPを計測しVSLを算出した、社会における死亡影響削減の経済価値の評価(第4章)の結果以外では、ある程度共通するオーダーのVSLが算出された。個人の死亡リスク削減の経済価値の評価(第3章)で1~3億円というVSLが推定され、疾病リスク削減の経済価値の評価(第5章)において、死亡リスクの評価に近いと考えられる肺がんのリスクについてのVSIは3億円であることが示された。これにより、公共財として提示した非常に低いリスク削減に対するWTPをもとにしたVSLでない限りは、およそ1~3億円のレベルのVSLであることが示された、欧米の先行研究で確認された値に近いことが示された。

特に、第3章の社会調査においてCVMによって評価された死亡リスク削減に対するWTPは、外部スコープテストにパスしており(効果の数量の違いに対してWTPが異なっている)、リスク削減に対するWTPの基本的な信頼性が確認された。

本研究では、リスクの背景がVSLの大きさに影響を与えることがいくつか確認された。まず、ベースラインとリスク削減のオーダーの違いは、リスク削減のオーダーほどにはWTPが変化しないことで、VSLの値に大きな影響をもたらすことが第4章で示された。さらに、オーダーレベルについて同じ大きさのリスクについては、年齢の影響、ラベルの影響、およびリスク潜伏期の影響が存在することが明らかになった。この内、リスク潜伏期の影響については、時間選好による割引率として取り扱うことができることが明らかになったため、経済評価の枠組みでは、VSL自体の調整を行うべき論拠とならない。しかし、特にラベルの影響は明白であることから、3つの社会調査におけるWTPの値を根拠とした場合、リスクのオーダーが同じ場合でも同じVSLを異なる背景に適用できないことが明らかになった。その一方、利他的選好は、便益に対する時間選好に非常に大きな影響を与えることが、公共財と市場財のシナリオによる評価の比較によって示され、VSLを適用する際の割引率の選択についても背景の考慮が必要であることが明らかになった。

VSLおよびVSIの利用方法に関しては、この研究のような実証的な検討の枠外において、一定の判断が必要となる。伝統的なVSLの考え方に沿って、市場財として死亡リスク削減をもたらす商品に対するWTPを基にし、死亡リスク削減の背景にかかわらず共通のVSLを利用する場合は、本研究の第3章で算出されたVSLおよび第5章で算出された肺がんについてのVSIの値が参考となると考えられる。この場合、VSLは1から3億円となる。

その一方、人々の死亡リスク削減における背景やリスク特性に対する選好とそれが反映されたWTPを重視する場合には、本研究の第4章における発電事業の現実的なシナリオによって公共財にる死亡影響削減(死亡リスク削減)に対するWTPを計測した、コンジョイント分析の結果をもとにしたVSLを利用できる。その場合、リスクによって異なったVSLを利用してよいという政策評価においてあまり一般的でない考え方を導入することになるため、基本的には感度分析的な位置づけとならざるを得ない。

最後に本研究で推定された健康リスク削減に対するWTPをもとにしたVSLおよびVSIを利用して外部費用評価を行い、事例を通じた適用における示唆を得た。

発電事業の外部費用についての既往研究結果を基に、そこで利用されているVSLを本研究で算出された複数のVSLを入れ替えることにより、石炭火力発電、天然ガス複合発電、原子力発電について本研究のVSLによる電源ごとの外部費用の概算を行った。これらに、内部費用(私的費用)を加えて総費用を算出したところ、内部費用においては3つの発電方式はそれぞれ7円/kWh台で大差なかったが、石炭火力発電はどのVSLを使っても、外部費用の影響により、総費用の面で他の発電方式より劣る結果となった。天然ガス複合発電、原子力発電については、市場財による同一のVSLで外部費用を算出したところ、原子力発電のほうが一桁小さく、総費用においても原子力発電が一番小さかった。しかし、コンジョイント分析のWTPに基づいて、火力発電と原子力発電で別のVSLを利用して外部費用を評価したところ、総費用において原子力発電が天然ガス複合発電を上回る場合もあった。

本研究のCVM調査で算出されたような、欧米では一般的な大きさのVSLを利用して健康リスク影響を中心にエネルギー利用の外部費用を推計する場合は、日本の発電所の場合、基本的に環境性能が高いため、石炭火力以外はそれほど大きな値とならないことが分かった。その一方、発電方式別の死亡リスクに対する一般の人々の現実的な選好を反映したVSLを利用した外部費用評価した場合は、場合によっては内部費用(私的費用)を上回る大きさとなることが分かった。

これらの結果を基に、エネルギー利用における外部費用の推計に当たって利用すべきVSLの大きさやその反映方法について、以下のような提言および示唆をまとめた。

* VSLの利用は死亡リスク削減に対するWTPの存在と測定を前提としている。本研究における表明選好法による調査では、WTPが存在し、リスク削減の大きさに対しての感度もあることが示されている。このことから日本においても、健康リスク削減をもたらす政策の費用便益分析や外部費用評価において、健康リスク削減に対するWTPに基づくVSLやVSIを利用すべきである。

* VSLの大きさは、リスク削減の背景によって異なる。特に、ベースラインからのリスク削減量のオーダーによって大きく異なってくる。個人の死亡リスク削減をもたらす市場財に対するWTPを基にした厚生経済学の伝統的な枠組みでのVSLが適用できるリスク削減のオーダーは年間の削減幅で10万分の1から1万分の1のオーダーであろう。このような条件を満たす本研究結果から示唆されるVSLは1~3億円程度である。環境対策が進んでエネルギー利用がもたらす健康リスクの大きさが小さくなっていることと、本研究のCVMの外部スコープテストで比例性が確認できなかったことを考慮すると、年間1万分の1のリスク削減に対するWTPを基にし、肺がんのVSIとも重なる3億円という値の方がより適切であろう。一般的な外部費用費用や費用便益分析ではこのような値を利用すべきある。

* VSLを利用した死亡リスク変化の貨幣換算の方法としては、海外ではVSL方式(死亡回避数方式)とVLY方式(損失余命方式)が用いられているが、本研究では死亡リスクの削減に対するWTPの年齢に比例した低下が確認されなかったことから、少なくとも年齢にかかわらず一定のVLYを使うこと(=年齢が増加するに従ってその死亡回避に低い経済価値を与えること)は否定され、VSL方式を利用すべきである。VLYを利用する場合は、年齢などの属性を考慮して調整が必要となる。また、高齢者に対するVSLの調整を行う必要性は小さい。より小さなVSLを適用する場合は対象年齢70以上で行うべきである。

* 火力発電および原子力発電の死亡リスクのような相当に低い期待値の死亡リスクでさえ、一般の人々が公共財としてのリスク削減に対して効用を感じることは、伝統的な経済学における利己的かつ合理的な個人を仮定した評価だけでは、人々の社会の死亡影響の削減に対する選好、特に利他的な選好を反映しておらず、公共の意思決定の材料としては十分でないことを示唆している。特に、低確率大被害の事故や災害への対策に関しては、期待値では低いリスクでさえも公共施策の観点からは市民の同意が得られる可能性も示唆している。この分野の費用便益分析においては、伝統的なVSLによる評価とは別に、感度分析においてこのような選好に基づくVSLでの評価も行うべきであろう。

* 火力発電というイメージ(ラベル)がリスクの受容側(リスク削減へのWTPの低下)に働いたことは、新たなリスクの説明において、既存の類似のリスクとの比較や、類似のリスクの受容の事例、先例の説明などのリスクコミュニケーションの手法が有効であることも示唆している。

* 本研究では対象としなかったが、エネルギー利用の外部費用において大きな部分を占めると考えられる温暖化を通じた外部費用に関しても、どちらかというと利他的な選好が大きな割合を占めると考えられ、このような公共財としてのリスク削減を通じた利他的選好に対しても意思決定において考慮する必要があることも示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

エネルギー環境対策の実施において、施策の費用効率性を評価する費用便益分析が求められており、エネルギー利用に伴う環境外部性の経済評価が、大気汚染やCO2排出削減の費用便益評価では重要となっている。外部費用を推計する際の重要な要件の一つが、経済価値化されたリスクの指標であり、特に非市場財である健康リスクの変化を経済価値化する際に利用する統計的生命価値(Value of Statistical Life: VSL)や統計的疾病価値(Value of Statistical Illness: VSI)については、日本の文脈でのVSLやVSIの検討自体が少なく、海外でも1990年代の研究から、リスク特性のVSLへの影響やその利用の手法論についての検討が十分でないことが明らかになっている。

本論文は、VSLやVSIの推定の元となる死亡リスク削減や疾病リスク削減に対する支払い意思額(Willingness To Pay: WTP)の測定方法について検討すると共に、その大きさを推定し、さらにリスク特性の影響を分析し、環境外部費用推計へのVSLやVSIの適用方法やその限界を評価したものである。本論文は8つの章で構成されている。

第1章は序論であり、前述のような研究の背景および目的と研究課題の設定を行っている。

第2章では健康リスク削減価値の経済評価の方法論について整理を行い、研究課題に関する既往の研究における問題点と未解決点の抽出を行っている。

第3章から第5章は社会調査(アンケート)を実施し、研究課題について表明選好法により検証を行った章である。第3章では個人の死亡リスク削減という市場財に対するWTPを測定し、伝統的なVSLの考え方に基づいたVSLの値を得ると共に、VSLの利用のための最も根源的な課題である、リスク削減に対するWTPの信頼性の検証(スコープ反応性の検証)を行うと共に、リスク削減に対するWTPにおける、年齢の影響、リスクの潜在期間の影響を検証している。第4章では発電事業の背景設定を行いながら、施策実施による社会の死亡影響削減を公共財として提示してWTPを測定し、リスクの背景のWTPへの影響の内、リスクのベースラインの違いの影響、災害忌避の影響、リスクのラベルの影響、利他的選好の影響の検証している。これらの結果を踏まえて、現実的なリスク背景の下でのVSLを測定している。第5章では疾病リスク削減について市場財および公共財として提示し、重篤度の異なる疾病のリスク削減に対するWTPを測定しVSIを算出すると共に、公共財のシナリオに反映されるWTPに対する利他的選好の影響、リスクの潜在期間の影響を検証している。

第6章では第3章から第5章の結果の小括であり、死亡リスク削減に対するWTPのスコープ反応性を明らかにし、WTPの基本的な信頼性を確認すると共に、リスク背景がVSLの大きさに影響を与えることを明らかにしている。また、ベースラインリスクと削減リスクの間にオーダーの違いがある場合は、VSLの推計値に大きな影響をもたらすことを示し、さらに、オーダーレベルで同じ大きさのリスクについては、年齢の影響、ラベルの影響およびリスク潜伏期の影響が存在することが明らかしている。

第7章では、第6章でまとめた研究結果を、エネルギー利用における外部費用推計へ適用した事例を示している。燃料電池自動車普及プログラム評価への適用例では、VSLやVSIを適用して大気汚染削減の外部便益を算出することにより、エネルギー環境問題において大気汚染は依然として取り組む価値のある分野であることを明らかにしている。また、発電における外部費用評価への適用では、火力発電所の外部費用は立地による部分が大きく、原子力発電所の外部費用は、伝統的な評価方法に基づいたVSLの値では、火力発電所の外部費用より相当小さいものとなるが、発電のリスク特性が反映されたVSLで評価を行うと、天然ガス火力発電所の外部費用を超える場合(都市部立地)もあることを示している。

第8章で結論として、伝統的なVSLの考え方によってリスク削減の背景にかかわらず共通のVSLおよびVSIを利用する場合は、VSLは1から3億円となることを示している。その一方、リスク削減における背景やリスク特性によってWTPが変化すること明らかになったことから、それらの選好が反映されたVSLを利用した施策評価の必要性も、特に原子力発電を考える場合などは、少なくとも感度分析的には必要であることを示している。

以上のように本論文は、エネルギー利用に伴う環境外部性の経済評価を目的として、健康リスク削減価値の推計を社会調査に基づいて実証的に行うとともに、適用方法やその限界についても検討したもので、エネルギー環境対策に関連する工学分野の進展に寄与するところが少なくない。よって、本論文は博士(工学)の請求論文として合格であると認められる。

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