学位論文要旨



No 217457
著者(漢字) 加藤,百合
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,ユリ
標題(和) 明治期露西亜文学翻訳論攷
標題(洋)
報告番号 217457
報告番号 乙17457
学位授与日 2011.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17457号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 教授 沼野,充義
 早稲田大学 名誉教授 安井,亮平
内容要旨 要旨を表示する

明治期の文学活動の根幹には翻訳という営為が深く関わっていた。翻訳をしなかった小説家はいないと言ってもよい。翻訳年表上に現われる時代思潮、文学理念は、日本文学年表上のそれとよく呼応し、年代的にもほぼ一致する(二〇年代は紅露逍〓時代、三〇年代はロマン主義文学者時代、四〇年代は自然主義/反自然主義文学者時代等)。明治時代、翻訳は各国文学史の紹介ではなく、日本近代文学形成過程において適宜学習し吸収すべき材源であり、模倣反復されて創作に生かされる作品の見本であった。

ロシア文学の翻訳史は「重訳」の歴史として始まった。批評に耐え得る名訳或いは意義ある訳とされるものの中に、寧ろロシア語原典からの「直接訳」は有意に少ない。

近代化が即ち西欧化であり、イギリス等を規範にした日本では、中等教育から高等教育に至るまで英語の広く厚い層が形成され、専門家が輩出され、英米文学の古典(カノン)は着々と翻訳紹介されてきた。しかし、ロシアの言語文化について知る日本人は少なく、ましてロシア文学の古典(カノン)が何か、凡その概念すら持っていた日本人はいないに等しかった。

その一方で、ロシア文学は「少数の者に特権的に享受され、エキゾチシズムのため時折紹介されるような遠い異国文学の一つ」に留まっていなかった。ヨーロッパの影響下に発達した後発文学と見做されていたロシア文学は一九世紀後半にリアリズム小説の黄金時代を迎え、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキー、少し遅れてチェーホフ等がヨーロッパに逆流して翻訳紹介され、その結果、ヨーロッパ経由の西欧(英)語訳が日本にも入ってきた。明治維新以来近代化の道を歩みつつあった日本人は、急速な近代化に伴う様々な苦悩を人間的(ヒューマニスティック)に描いたロシア文学に出会い、衝撃を受けたのである。そこには、ロシア文学特有の「余計者」――自国の伝統から切り離された西洋型知識人――の苦悩や、功名心と劣等感の葛藤、自我と恋愛の相克など、明治の日本人に強く迫るものが見出された。西欧(英)語を介してロシア文学を「重訳」紹介した日本人は、ヨーロッパのロシア文学ブームの中続々と刊行された欧米語訳の作品や研究書をまずその情報の源泉としたのであった。かくして明治時代には、ロシア語の知識――現在常識的には翻訳に必須――の有無に関わりなく、翻訳(重訳)することが自分と読者のために必要であると痛感しロシア文学「重訳」に取り組んだ文学者が続々と現れたのである。翻訳は彼らの文学活動に如何なる位置を占めていたのか、何をどのように翻訳すべきだったのか──一流の文学者達によるロシア文学の翻訳について、その理念と実践を顧みることは、彼らの文学観を、そして明治期の文学状況を考証することに他ならない。

本論は以上のような視点から明治日本のロシア文学翻訳事情――翻訳の担い手、翻訳の目的、方法論、受容の実態――を具体的に考察したものである。

各章の構成を次に述べる。とりあげた翻訳はほぼ時代順である。

第一章では、高須治助(たかすじすけ)による訳業をとりあげる。当時から「重訳」であり翻案に近い抄訳とされて顧みられることの少なかった高須のプーシキン翻訳が、ロシア語からの「直接訳」であったことを確認した上で、既成の文藝の型への成形を問題とする。

第二章では、二葉亭四脾の初期の訳業を再検討する。名訳とされる二葉亭のツルゲーネフ翻訳が、文藝翻訳としては特異な、極端に至った「直訳」(一字一句そのまま移そうとする翻訳方法を表し、「重訳」に対する「直接訳」とは意味を異にする)であることを確認し、二葉亭の当時の翻訳の理念を追究する。

第三章では、森〓外をとりあげる。初期三部作に見られるドイツ・ロマン派の作品の影響を指摘し、翻訳によって獲得された文体や表現が創作の開始に不可欠だったことを確認する。ロシア文学からの翻訳作品選択の特殊性を〓外の文脈から論ずる。

第四章では、優れた英文学翻訳者であった触田魯庵の『罪と罰』の翻訳を取り上げる。『罪と罰』の訳文に見られる二葉亭の関与を詳細に検証し、また続く『復活』翻訳に当たって交わされた二人の往復書簡を検討することで、翻訳の「協同」の実態を具体的に論ずる。

第五章では、文豪尾崎紅葉のロシア文学翻訳史上の功績を論ずる。紅葉には翻案はあるが単独の訳業はない。しかし弟子の翻訳を自らの訳業の謂わば下訳と考えて、各国文学の積極的な摂取を進めたと言える。本論では、ロシア語からの「直接訳」でチェーホフを日本に紹介した瀬沼夏(か)葉(よう)の訳業を再考し、紅葉が、弟子であった夏葉の訳業にどの程度関与したか、言い換えれば、チェーホフ翻訳紹介の主体はどちらであったのかを論ずる。

第六章では、昇(のぼり)曙夢(しょむ)をとりあげる。ロシア語を知る曙夢はロシアの書籍雑誌から直接、当時文学者として出発したばかりの若い作家の新しい作品を翻訳紹介した。明治四〇年代、大逆事件後の日本の青年達が時代の閉塞感を感じていた折も折、同時代の世紀末文学翻訳の影響は大きかった。日本の既成文壇は自然主義が席巻していたが、当時の読者が実際には、ロシアで自然主義文学の次に勃興した象徴主義文学を曙夢の翻訳によって数多く読んでおり、それが大正時代以降の幻想/怪奇趣味を準備していた可能性も指摘する。

第七章では総論として、アンドレーエフの翻訳史を検討する。アンドレーエフは二十年足らずの短い期間に大流行し、様々な立場の翻訳者が相互に解釈を戦わせた。最も高踏的な作品としての読みから極めて社会的な作品としての読みまで大きく分かれ、上田潰から社会主義者達まで翻訳者の交代が目覚しく行われ、作品選択も全く対照的であった。翻訳が、原作者や原作品を読み替え受容の側から積極的に作り変える過程であることを意識化する好例である。

外国文学を翻訳するという行為には、他国の文学を翻訳する者が自国の文学伝統へと対象を「変容」させる局面と、反対に、自国の文学伝統を揺さぶり拡大することによって対象をそのまま「受容」しようとする局面がある。

明治期の初期の翻訳はまず相手を「変容」させることから始まった。プーシキンの『大尉の娘』を「情史」であると捉えた高須治助は、当時服部撫松らの盛んに行った漢文小説、また、漸く読者が慣れつつあった英国家庭小説の要素を加えた「露国情史」として翻訳を構成した。プーシキンの原作の味わいの大きな部分が取りこぼされたのは、彼の語学力の不足等によると言うよりは、当時の翻訳が求めていた「変容」の自然な結果であった。

他面、明治という、日本文学が新たな形式と内容を模索していた時代、翻訳を文学活動の枢要な一部として実践した作家達は、外国文学の柔軟な「受容」に旺盛であった。

既成の日本語での「リプロヂュース」を放棄した二葉亭四脾は、ツルゲーネフ文学の持つ特長を「変容」させず、そのまま読者に提示しようと実験的翻訳を行った。「あひゞき」「めぐりあひ」という、原題のまずは直訳と言ってよい訳題のもとに、原文の文体を「コンマ、ピリオドにいたるまで」徹底的に模写したのである。多くの読者にとって、それは読み易い文章とは言えず、理解されたとは言い難い。しかし、何か新しい、これまでになかった異物が日本文学の中に投げ込まれたという印象を与え、その後の「受容」の幅を大きく拡げることになった。

「受容」は自身の「変容」をもたらし、さらに、単なる受動から能動的な発信へ、つまり創作へと駆り立てる。森〓外は、まず、翻訳によって生ずる特有の「(翻訳)文体」を利用し、様々な文体を日本語に翻訳して自己の小説文体を修練した。彼は、続いて短編小説という形式を翻訳で身につけ、自らの創作活動を開始したのである。

翻訳に携わった者の殆どが原語であるロシア語を知らなかったという状況は、「重訳」でなくても、日本の文学者達の間で、原作の発見、読解、訳出、訳文の推敲までの一連の作業を何らかの形で分担させた。触田魯庵の『罪と罰』で翻訳されたのは一次的には英訳テキストであり、二葉亭との二次的協力関係において完成した。尾崎紅葉は弟子の「下訳」を校閲したが、作品選択、価値判断、最終的な文章の彫琢等は彼の仕事であった。これらの特殊な協力体制においては、もはや外国語を日本語に直した者をそれだけで翻訳の主体と呼ぶことは難しい。一個人の占有ではない、極めてダイナミックな「受容」の可能性がここにはある。

外国文学の翻訳者は、まず作品を「受容」する読者の側に立つが、翻訳が完了したとき、それを一般読者に供給する作者の立場に変わる。翻訳者は、読者の「受容」への媒介者としての責任を負うのである。明治時代の翻訳事情を、翻訳者による「受容」と(最終的読者の「受容」のための)「変容」とのせめぎ合いと見ることによって、再認識される事実は多い。

明治期の、文学修業として実践された作家の翻訳が一段落するのは、小説文体も一応の安定と自由を得た明治四〇年代になってからであった。その頃昇曙夢が、モダニズムへの熱中から広い視野を持った「ロシア文学者」としての活動に移り、「新外語」露文科出身の新進「ロシア文学者」達の旺盛な翻訳活動も始まり、彼らがロシアの作家達の全集を次々に共訳してゆくことで、網羅的にロシア文学の古典(カノン)が日本語となっていった。ロシア文学史も書かれ、ロシア文学の正統な読み方が示された。翻訳家という職掌は作家から独立し、彼らは、自らの読みを打ち出さず、ロシアで誰が何をどう書いているかを日本人に知らしめる役割を担うようになった。それと並行して、翻訳とは原典から直接なされなければならないとする倫理の浸透によって、重訳者達の名は翻訳史から消されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

加藤百合氏の「明治期露西亜文学翻訳論攷」は、明治期におけるロシア文学の翻訳・紹介のありかたに、一つの歴史的な展望を与えようとした試みである。

明治期のロシア文学の翻訳については、これまで二葉亭四迷の訳業や内田魯庵訳の『罪と罰』翻訳といった個々の営為について、独立した研究が試みられてきた。だが、明治期のロシア文学の翻訳について、その歴史的変遷を通時的に記述したという点において、本論文が挙げ得た成果は大きい。明治期において、翻訳をめぐりどのような態度があり得たか、どのような翻訳が評価され、評価の態度にいかなる変化があったかが、ロシア文学を例に、鮮やかに跡づけられている点は特筆に値する。翻訳一般についての考察の枠組みを提供しうる研究であり、欧米の文学を積極的に受容した、明治期の日本近代文学に関する比較文学研究への貢献として、高く評価できる。

明治期のロシア文学受容は、たとえば、明治期の英米文学の受容とは、かなり様相を異にする。それは、ロシア語学習をめぐる特殊事情と、それと密接に関係するロシア語修得者の絶対数の少なさに起因する。明治期において、ロシア文学は、英語やフランス語、あるいはドイツ語といった言語を経由して、重訳を通して享受されることが多かったし、重訳への抵抗感もさほど大きくはなかった。目標言語(target language)としての日本語の訳文の完成度をこそ重んじる風潮があったためでもある。基本的に英語からの重訳であった内田魯庵の『罪と罰』の翻訳が好評を以て受け止められたのも、そのような文学的土壌があったからであった。それが、明治四十年代に昇曙夢が登場するにいたって、事情は大きく変化する。それ以後、ロシア文学はロシア語原典から翻訳することを原則とするようになる。それとともに、翻訳をめぐる態度も、現在のような原典からの翻訳を重んじる姿勢へと変化することになるのである。

本論文は、第一章「高須治助―日本初訳の露西亜文学」、第二章「二葉亭四迷―初期のツルゲーネフ翻訳」、第三章「森鴎外―創作のための翻訳」、第四章「内田魯庵―協同訳『罪と罰』」、第五章「尾崎紅葉―翻訳に果たした役割」、第六章「昇曙夢―風土・文学・言語」、第七章「誰が翻訳したのか―翻訳による原作の再創造」と、序章及び終章からなる。以下、論文の構成に従って概略を記す。

第一章では、高須治助が明治16年に出版した『露国奇聞 花心蝶思録』が、プーシキンの『大尉の娘』のロシア語原典からの翻訳であることを確認した上で、これが省略の多い、文学的には影響力を持ち得なかった訳であったことを論じる。あわせて、当時のロシア語学習の環境を、東京外国語学校露語科の歴史とからめて記述する。

第二章では、既に多くの研究の蓄積がある二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳をめぐって、句読点の使用法等、その「直訳」としての性格を再検討している。この章では、ロシア語原文と訳文との具体的な比較が行われ、加藤氏のロシア語ロシア文学の学識が遺憾なく発揮されている。

第三章では、ドイツ語からの重訳により多様なヨーロッパ文学を紹介した森鴎外の訳業の意味を考察する。鴎外の作品選択にヨーロッパ文壇によるロシア文学評価が大きな影を落としたこと、鴎外が重訳の意義について何ら疑問を抱かなかったことが確認される。

第四章は、名訳とされた内田魯庵の『罪と罰』の成立について記述する。魯庵は、英訳からの重訳を行ったが、翻訳にあたっては二葉亭四迷に疑問点をただしており、これが二人の協同訳としての性格を有し、質の高い翻訳を実現していることを確認する。この章でも、ロシア語原文、英訳テクスト、日本語訳が具体的に比較検討されている。

第五章では、尾崎紅葉による訳業の意味が再検討される。弟子たちの下訳に拠りながら、日本語の訳文の彫琢に意を注いだ紅葉は、ロシア文学については、瀬沼夏葉の協力を得た。ここでは夏葉の訳業の性格が、夏葉と紅葉の関与の度合いも含めて、具体的に検討される。

第六章では、ニコライ神学校でロシア語を習得した昇曙夢の訳業の意義が記述・検討される。昇曙夢は、自然主義に傾いていた明治四十年代の明治文壇において、ロシアの象徴主義文学を精力的に紹介し、後の世代に大きな影響を残した。また、曙夢にいたって、ロシアの現代文学が、ロシア語原典を通じて翻訳されることになる。また、ロシア文学のみならず、ロシア文化一般に強い関心を示した曙夢の、ロシア学全般が高く評価される。

第七章は、明治四十年代に、上田敏、森鴎外、昇曙夢らによって、競って翻訳されたアンドレーエフの作品を取りあげることで、この時期において、ロシア文学がどのように受容されていたか、また翻訳についてどのような考え方があったかを描き出している。

序章と終章では、このように具体的に記述される明治期のロシア文学翻訳の様態をふまえた上で、作家たちの文体修行の一環としてあった翻訳という営為が、やがては原典の言語に深く通じた、専門的な翻訳家の仕事と位置づけられて行くことになる、歴史的変遷が確認される。

以上のように要約される本論文に対して、審査委員からはまず、明治期のロシア文学の翻訳と受容を歴史的に概観するというテーマ設定自体の、研究史上の意義が認定された。重訳と協同訳、翻訳と創作の関係等に着目した点、現在では忘れられつつある昇曙夢の仕事を再評価した点、語学力を生かして実証的な分析を行っている点なども評価の対象となった。一方で、分析にあたっての用語・概念に再考の余地があること、ロシア文学の受容における明治期の特殊性に一層の考慮が必要であること、個々の章で取りあげられている問題についてさらに掘り下げる余地のあることなどが、具体的に指摘された。また、先行研究へのさらなる目配りが必要であること、書誌の表記等に改善すべき点があることなども指摘されたが、これらはいずれも本論文が持つ本質的な学問的価値を損なうものではないことが確認された。

よって本審査委員会は、加藤百合氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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