学位論文要旨



No 217458
著者(漢字) 宋,炳巻
著者(英字)
著者(カナ) ソン,ビョンクォン
標題(和) 1940年代東アジアにおける地域主義と韓日米関係
標題(洋)
報告番号 217458
報告番号 乙17458
学位授与日 2011.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17458号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木宮,正史
 東京大学 教授 古矢,旬
 東京大学 准教授 外村,大
 立教大学 教授 李,鍾元
 東京女子大学 教授 油井,大三郎
 中京大学 教授 浅野,豊美
内容要旨 要旨を表示する

植民地朝鮮経済に対する戦前と戦後の評価には、戦前と戦後を繋げる思惟の連続性が存在しており、東アジアの植民地構造に関する言説は通奏低音として底流していた。しかし、戦前と戦後のその構造に対する評価が異なっていたのは日本の敗戦とともに発生した変化のためであった。戦後東アジア地域構造の再編は戦前構造の再構築過程でもあったことを第1章から第7章までの各論で分析してみた。

第1章では、戦前に謳歌されていた朝鮮経済開発論がもつ成功物語に対し、その開発が可能であった理由として「人為的な採算性の形成」という側面、すなわち「日本の特殊要請」という部分に注目してみた。東北アジア地域の戦前型地域構造を日本を中心とする垂直分業構造として捉えた鈴木武雄の植民地朝鮮経済論を分析した。鈴木は、植民地朝鮮を舞台にして開花していた産業は、朝鮮産業ではなく、朝鮮で発達した「日本」の産業であると明快な評価を下した。その特徴は、アウタルキー経済、「満州」や朝鮮という後背地の存在、そして国際的比較生産費を超越する開発ということである。戦前型地域構造は、政治・軍事的要因が経済的要因より優位に立つ形で人為的に採算性を形成したアウタルキー経済であった。朝鮮は日本の後背地として、「満州」は日本と朝鮮の後背地として日本と地域経済統合を形成していたのである。「経済的内鮮一体論」として表現されるように朝鮮経済が日本の国民経済に完全に統合され、一地方経済のように機能していた。日本の政治・軍事的要求に基づいて外部から人為的に創出され、統制された採算性が朝鮮経済の発達の主要条件であった。日本の後背地として朝鮮の経済的意義を強調した鈴木は、当時の東アジア地域経済構造を「発条」のように把握し、地域の中心から周辺へと階層的な地域システムのなかで朝鮮の位置を強調した。鈴木の朝鮮認識は敗戦直後の日本経済再建構想や対朝鮮交渉にも影響を与えることになった。

第2章では、敗戦直後の日本経済再建構想において、先進国である欧米と後進国である「東亜諸国」との間に戦後日本の中間的性格を見出し、日本経済再建の活路を戦前の地域秩序を再活用する方法で導きだしたことを分析した。高技術で高価の欧米製品を購入にためらう「東亜諸国」に相対的に低技術で安価な日本製品を輸出し、原料資源を輸入する関係を設定していたのである。そのためな旧「外地」経済に対する再認識過程には、朝鮮経済の認識をめぐる議論では鈴木論のように引揚げグループの認識が採用されていったことを明らかにした。

第3章では、とくに戦後の朝鮮経済認識に絞って分析し、戦前の朝鮮経済認識が敗戦直後にも変化することがなかったことを明らかにした。植民地朝鮮経済の脱植民地化過程で朝鮮経済が大きな打撃や深刻な調整を余儀なくだろうとする認識は、実は戦前における植民地朝鮮経済の成功物語の裏返しであったことを明らかにした。当時の朝鮮経済開発の主要因であった日本の植民地支配とこれにに基づく日本側の「主体的」開発という二つの条件が、日本の敗戦とともに消失すると、当然朝鮮経済開発も持続できなくなったのである。植民地開発が持続できなくなる要因は、日本の敗戦と植民地支配の終了であったのである。すなわち、戦前と戦後における朝鮮経済に対する評価は採算性の確保と後背地という問題をキーワードとして考察できると考えた。採算性の確保問題は、その人為的な創出要因が消滅した後にはその採算性を維持することができなくなり、戦前型地域構造の特徴であったアウタルキー経済構造は崩壊するしかなかった。しかし、実質的にアメリカが単独に占領した日本と異なり、北朝鮮と満州地域は米軍の統制地域の外で存在していたことは、そのような地域的な再統合の試みが失敗に終わる大きな一因となると考えられる。戦後の悲観論の根拠は戦前の成功物語の裏返しでもあった。朝鮮経済の工業化に対する戦後の懐疑的な結論はこのような問題からもたらされた。

第4章では、アメリカの戦後構想にも植民地朝鮮経済が日本経済の一部として完全に編入されているという認識を日本側と共有していた。アメリカ側は朝鮮経済の「喪失」が日本経済、とくに戦時経済体制に大きな打撃を与えるという認識に立って、網ひとつの植民地朝鮮経済の成功物語の裏返しであった日本の非軍事化朝鮮経済を日本から分離する経済分離政策構想を打ち出した。しかし、朝鮮経済の自立可能性に対して否定的な認識は朝鮮信託統治構想の経済的な側面に横たわっていた。南朝鮮地域と日本を同時占領したアメリカは、朝鮮に対する連合国合同信託統治の開始前に、そして日本では講和条約を締結前に該当することになる占領期に在朝鮮・在日本占領機構の占領行政上の便宜を図る形で、その運営統合を遂行することになる。

第5章では、戦時期に形成され、戦後直後にポーレー使節団の賠償案に反映されたアメリカの初期賠償政策構想を分析した。対日懲罰という性格をもっていたと認識されていた初期賠償政策構想が東アジア地域経済秩序の再編を試みる側面をも併せ持っていたことを明らかにした。「非軍事化」と「民主化」を基本政策としていたアメリカの対日政策の目的は、日本の侵略戦争の能力や戦時経済構造を破壊することに置かれていた。その論理のなかで、戦時経済として開発された朝鮮経済も「非軍事化」と「民主化」政策に照らして再編対象になる可能性が存在していた。そのなかで、戦時期の日本中心の垂直分業構造を、日本という中心を除去し、アメリカがコントロールする形で水平的分業構造へ転換するという政策構想が存在していた。その構想がよく機能するために必要とされた「満州」と北朝鮮地域が切断されて東側へ編入したことは、初期賠償政策構想の変換をもたらし、アメリカがコントロールし、日本を下位パートナーとする垂直的分業構造へ変わっていった。「満州」と北朝鮮が日本の後背地から離脱し、南朝鮮だけが残った状況では日本の後背地として機能することは難しくなったのである。このような問題を解決する方法として登場したのは、アメリカが介入し、統制する、日本を下位パートナーとする東アジアを垂直的産業構造として再統合し、同時に東南アジアへのアクセスを試みることであった。後背地としての一体性を要求する戦前型の地域構造は、賠償に関する考察からも明らかになったようにアメリカの介入と統制による水平的産業構造への統合という構想も存在していた。地域経済統合構想は日本、南北朝鮮、そして「満州」を含む東アジア地域レベルにおいても存在した。

第6章では、南朝鮮・日本の占領司令部の間の政府貿易を石炭貿易の分析を通じて分析した。「満州」と北朝鮮地域の資源へのアクセスが分割占領によって切断されていた占領初期に司令部間の政府貿易の統合運営が行われたことを明らかにした。占領軍の需要に応じるために、植民地経済関係の崩壊がもたらした危機に対する現実的な反応として、従来の経済関係を生かす形で政府貿易が行われた。政府貿易は民間物資供給計画、そしてアメリカの対外援助と密接に関係していた。占領軍側の統合運営の動きに対し、日本側では消極的ではあったものの、両地域の経済連携を構想していた。アメリカ(米軍)の統制下で、戦前からの経済構造を再活用することは、アメリカの戦後基本政策の中で、韓日経済関係の断絶・分離政策と対外貿易への復帰というコンテクストの中で、矛盾することではなかった。すなわち、統制の下で対外貿易を許容する問題は、断絶政策の下での実際的な対外貿易の運営も、米軍の統制という変数を取り入れれば、政策上の矛盾ではなくなる。この部分は、アメリカ(米軍)が南朝鮮地域と、北朝鮮-満州地域を経済的に再び結び付けようとソ連側と協商する場面でも同じ感覚であったと思われる。やはり、統制下の置かれた交易という側面を考えれば、理解できなくもない。南北朝鮮間の交易が運営されていることも実際は米ソ間の協議による統制の下で、機能していたことを注目しなければならない。東京の占領機構内に、このような朝鮮担当部署が公式的になくなるのは、やはり一九四七年頃で、第二次米ソ合同委員会の再開、南朝鮮過渡政府の設置とその時期がオヴァラップすることと関連している。

1940年代の東北アジアでは三つの地域主義、または地域主義構想が相次いで現れてきたといえる。まず、戦前から戦中にかけて「日本帝国」の覇権が主導する「一種の歪められた形で登場したアジア地域主義」である。地域経済的には垂直的産業分業の形をとっていた。次に、アメリカの戦後構想と初期賠償政策構想に現れた日本という覇権的中心を除去した地域主義構想がそれである。それはアジア地域経済の均等発展を前提とした水平的な産業分業の形として構想された。最後に、東アジア冷戦の拡散とともに再びアメリカのコントロールを前提しながら、日本を中心とする垂直分業に基づいた地域経済統合構想が打ち出された。戦時期と敗戦直後の時期は、戦前と戦後との単純な狭間ではなく移行帯(或は遷移層、transition zone)としての意味をもっていた。別の見方をすると「可能性(模索)の時期」でもあったのである。この時期は朝鮮では植民地と信託統治の間として、日本では「帝国」と「独立=講和」の間の時期に当たる。この時期は、朝鮮はもちろん、日本にも解放空間かつ占領期として規定することができる。朝鮮では解放空間として言説が定着し、日本では占領期として定着して行った。この時期は東アジア地域における水平的な産業分業の構造を模索していた時期でもあった同時に、程度の差は存在していても、垂直的産業分業を展望しながら日本の経済再建をも構想していた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近年、注目を集める「東アジア共同体」を形成する原動力である東アジア地域主義の源流を、第二次世界大戦前後の日本と朝鮮半島との関係に焦点を当て解明していこうとする時宜にかなった試みである。戦前日本において、植民地朝鮮は「大東亜共栄圏」の中で大陸兵站基地として位置づけられたが、日本の敗戦とともに、米ソの分割占領を経て大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という南北分断国家として独立した。そのうち、日本と韓国とは、米国との関係を媒介とした地域的分業関係に位置づけられ、戦後の東アジア国際関係の形成と展開に重要な役割を果たした。本論文は、こうした韓日米関係が第二次世界大戦をはさんで、どのような政治力学に基づいてどのように変容し再編されたのかを、日米両国の一次史料を駆使して実証的に明らかにしようとしたものである。

本論文は第二次世界大戦をはさんだ1940年代を対象として、日米両国が、地域における産業分業のパターンを中心に異なる3類型の地域主義を、順次構想しただけでなく、それらが相互に交錯し影響を及ぼしたと主張する。第I期地域主義は、日本が覇権的に主導する垂直的産業分業の構造を持ち、戦前の「大東亜共栄圏」によって体現されたとする。第II期地域主義は、日本の覇権を除去した、東アジア諸地域の均衡のとれた経済発展を前提とした水平的な産業分業構想であり、米国の初期戦後構想に反映された。第III期地域主義は、米国が主導したという点では第II期と同様であるが、下位パートナーとしての日本を中心とする垂直的産業分業に基づいた地域経済統合を構想したという点で第II期とは異なる。

東アジア地域主義に関する先行研究は、その多くが第III期の地域主義にだけ着目するものであった。また、戦前との関連を自覚した研究であっても、第I期地域主義と第III期地域主義との関連だけに注目するものがほとんどであった。本論文は、今まで注目されてこなかった第II期地域主義にも焦点を当てることで、第I期地域主義が第II期地域主義を経て第III期地域主義へと変容するダイナミズムを、実証的に明らかにすることに成功している。そして、第III期地域主義が内包する政治力学を明らかにすることで、その後の展開にも示唆を与える。日本の敗戦が第I期と第II期とを分け、東アジアへの冷戦の波及が第II期と第III期とを分けるが、先行期の構想がその後の構想にどのような影響を及ぼしたのか、三類型の地域主義の相互作用を明らかにする。

本論文は、第I期の構想が日本の敗戦で終わったのではなく戦後再建構想の中で基本的には維持されたということに着眼した、第1・2章からなる第I部、そして、それに部分的には影響されながらも、その代案的克服として提示された第II期地域主義の構想を、米国の戦後政策構想の中で位置づけるとともに、第II期の構想が、冷戦によって第III期の構想へと変容する過程を明らかにする、第3・4・5章からなる第II部、以上の二部により構成される。

第1章は、日本政府による戦後経済再建構想を網羅的に分析し、経済再建のために朝鮮などの旧「外地」との経済関係の再構築が必要であるという認識が支配的であったことを明らかにした。

第2章は、そうした認識を主導した京城帝大教授であった経済学者鈴木武雄に関する資料を新たに発掘し、その言説を分析した。鈴木は、植民地朝鮮の経済発展が日本との「経済的内鮮一体化」に基づいたものであったことを理由に、独立後の朝鮮経済の自立が日本との経済関係の再構築なしには困難であるだけでなく、日本にとっても朝鮮の「喪失」が痛手になるという認識に基づき、日本と朝鮮の双方にとって経済的提携が必要であるという戦後の地域的経済再建構想を基本的な認識として保持していた。このように、第I期地域主義の構想が戦後にも継承されたことを鈴木武雄の言説分析を通して明らかにしたことで、さらに、米国の戦後構想に対しても、こうした構想が部分的に影響を与えたことが示唆されている。

第3章は、米国による戦後東アジアの政策構想を分析したうえで、朝鮮に対する信託統治構想が持つ経済的意味を分析した。対日非軍事化政策は朝鮮経済の日本からの分離政策を帰結させると共に、それによってもたらされる朝鮮経済の自立可能性への危惧が朝鮮に対する信託統治構想の経済的根拠となったことを明らかにした。但し、そうした経済的分離政策にもかかわらず、日本と南朝鮮に対する占領を米国が同時に行ったことが、両地域の経済的統合を便宜的に行うようにさせたことも明らかにした。

第4章は、ポーレー使節団の賠償案を詳細に分析して、日本の非軍事化を促進するための米国の対日賠償政策が、日本という中心を除去して水平的な産業構造を持つ分業体制を東アジアに構築しようとしたことを明らかにし、第II期地域主義の基軸となった構想を摘出した。そのうえで、満州や北朝鮮地域がソ連占領という歴史の現実により地域的分業体制から切り離されることにより、こうした第II期地域主義の構想の実現が困難であるという認識が台頭する過程も明らかにした。

第5章は、第II期から第III期へと地域主義構想が変容する過程の一つの事例研究として、韓日の政府間石炭貿易を取り上げ、東アジアへの冷戦の波及に伴い日本の戦略的価値が再評価され、占領による事実上の経済的統合運営という実態が既成事実となり、それによって米国主導の下で韓日の垂直的な分業体制が次第に定着する過程を明らかにした。

以上のように、本論文は、日本が主導した第I期から、米国主導の第II期、そして第III期へと地域主義構想が変容するダイナミズムを、独自の資料発掘と既存資料の再解釈に基づき、地域主義構想の相互作用にも留意しながら明らかにした。このことで戦前から戦後につながる東アジア国際関係の歴史的理解に関する新たな視角を提供したという重要な意義を持つ。

さらに、本論文は、以下のようなオリジナリティを持つことによって、以後の研究にも重要な貢献を果たすと評価できる。

第一に、朝鮮植民地経営において重要な役割を果たした鈴木武雄に関する研究に新たな可能性を提示したという点である。鈴木の戦後直後の言説を知りうる資料を新たに発掘し、日本と朝鮮の経済関係に関する戦前と戦後の評価の連続性を抽出し、それが日本自身の戦後再建構想にも影響を及ぼしたことを明らかにすることで、戦後日本外交の基本理念をめぐる思想史的文脈に鈴木武雄を位置づけた。

第二に、信託統治構想を再解釈し、それに関する新たな知見を提供したという点である。従来、朝鮮信託統治構想は朝鮮人自身の統治能力不足を前提とした独立猶予論であり、だからこそ、李承晩ら右派民族主義者の反対に直面して挫折したという評価が一般的であった。本論文では、その経済的根拠として、第一に、朝鮮を経済的に自立させる日朝の経済的分離政策が日本の非軍事化のために必要であると考えられたこと、第二に、朝鮮の経済的自立は即時には困難であり、そのための時間的猶予として信託統治の期間が必要であると考えられたこと、以上の二点を指摘した。こうした知見は、韓国現代史における信託統治構想の再解釈という点で重要な貢献をなしうる。

第三に、対日賠償をめぐるポーレー使節団の活動を、その地域統合構想を射程に入れて再評価し、第II期地域主義として摘出したことである。ポーレー使節団に関する既存解釈は、戦後初期、実現されなかった米国の対日賠償政策の一つのエピソードとして取り上げられる程度であった。本論文では、日本という「発条の中心」を除去し、アジア諸国の均等発展を図ることによって東アジア秩序の安定を図るという、意欲的な試みであったと再評価することで、その後の戦後史の展開を構造的に説明することを可能とした。

第四に、東アジア冷戦史、国際関係史に対する再解釈という点である。東アジアは、日本の敗戦と冷戦の波及という理由で、戦前と戦後が断絶的に理解される傾向が強かった。それに対して、戦前と戦後の連続性に基づく理解が必要だという主張が近年提起されるようになっている。本論文も、地域主義構想という観点から、朝鮮半島を中心とする東アジア国際関係を戦前と戦後を通貫して理解するための重要な一つの視座を提供し、東アジア冷戦史、国際関係史に対して新たな理解の可能性を提示することに成功している。

以上のように、本論文は、新たな資料を発掘し、それを最大限利用することで、地域主義を軸とした東アジア国際関係の歴史的再解釈を試みた画期的な成果として、韓国現代史、日韓関係史、東アジア冷戦史、国際関係史など多様な領域において、今後参考にされるべき先駆的研究として位置づけることができる。そして、これは、韓日米という三か国にわたる著者の本格的研究の成果である。

しかし、本論文には、いくつかの弱点もしくは課題も指摘される。

第一に、地域主義に関する韓国側からの視点が明確な形で抽出されていないという点である。地域主義構想を明確に提示しうる主体が大国である日米であったということを前提としても、また、独立以前もしくは独立間もない韓国が、自らを取り巻く東アジア地域に関する構想を持つ余裕がなかったとしても、当時、南朝鮮および韓国で活動した左派から右派に至る種々の政治勢力が、どのような国家を建設するのかという構想は持っていたはずである。それと関連して、どのような東アジア地域を好ましいと考えたのか、日米との関係をどのように構想したのかという問題意識も当然持っていたはずである。したがって、韓国の視点から東アジア地域主義の構想を抽出することはある程度は可能であるし、また必要な研究課題でもある。

第二に、本論文の鍵となる地域主義概念に関して、より徹底した吟味が必要だという点である。本論文では、地域における産業分業構想を地域主義として規定し、それを誰が主導したのか、地域内における水平的分業なのか垂直的分業なのかという点を基準として類型化した。しかし、ブロック経済を主導した日本とグローバルな自由貿易を主導した米国との違いが戦前と戦後の地域主義の根本的な差異にも反映されたのではないか、さらに、第II期を独立した一段階として考えるべきものなのかというような疑問も提起された。さらに、地域主義の単位としての「東アジア」に関して、一方で東南アジアと東北アジアの双方を含んでいると言明しているにも関わらず、東北アジアだけが念頭に置かれた記述が多いという批判も提起された。

第三に、第5章の位置づけが必ずしも明確ではないという点である。米軍占領下に置かれた日本と南朝鮮間の政府間石炭貿易の事例を、米国主導下の日韓の垂直的分業体制への移行事例だと位置づけるが、それは冷戦によって帰結されたというよりも、占領による統合的運営という便宜的な側面が強かったのではないかという点が指摘された。また、そもそも石炭貿易が垂直的分業の事例と言えるのかいう疑問も提起された。

第四に、各章において利用可能な資料を最大限利用しているという点で実証性は高いが、史料利用に関して史料批判をより徹底して行う余地があるという問題点が提起された。

このような点には、なお議論を深める余地は認められるものの、これらの点は本研究の価値と学界への貢献を減ずるものでは決してない。したがって、本審査委員会は、本論文提出者が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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