学位論文要旨



No 217459
著者(漢字) 長田,洋輔
著者(英字)
著者(カナ) ナガタ,ヨウスケ
標題(和) スフィンゴシン-1-リン酸による筋衛星細胞活性化の制御機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 217459
報告番号 乙17459
学位授与日 2011.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17459号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 松田,良一
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 教授 太田,邦史
 東京大学 教授 村田,昌之
 東京大学 准教授 坪井,貴司
 東京大学 教授 石浦,章一
内容要旨 要旨を表示する

背景・目的

骨格筋はわれわれが体を動かすため,姿勢を維持するため,呼吸をするために働く.骨格筋の機能は筋線維と呼ばれる巨大な細胞が担っている.成体の骨格筋は安定な組織であり,消化器や皮膚の上皮組織のように日常的な細胞が入れ替わりは起こらない.しかし,過負荷や損傷などの刺激が加わることで骨格筋は驚異的な再生能力を発揮する.骨格筋の再生能は骨格筋特異的な幹細胞である筋衛星細胞によって行われる.筋衛星細胞とは筋線維の基底膜直下に存在する単核の細胞であり,平静時には活動を休止している.筋損傷などの刺激により筋衛星細胞は活性化され,細胞分裂を開始する.筋衛星細胞の細胞分裂によって産生された筋前駆細胞は,分化・融合して新たな筋線維の形成あるいは既存の筋線維の修復を行う.

筋衛星細胞が筋再生に動員されるためには休眠状態から活性化状態への移行が必要になる.筋細胞の増殖・分化については長年の研究により多くの重要な情報が蓄積されてきたが,筋衛星細胞活性化については基礎的な事柄についても十分な知見が得られていない.これまでに,筋衛星細胞の活性化は筋前駆細胞の増殖とは異なるメカニズムによって制御される可能性が指摘されている.また,骨格筋組織中には線維芽細胞など非筋細胞も存在しているため,正常な筋再生の際には筋衛星細胞に特異的な活性化が起こる必要があると考えられている.私は単一筋線維培養系あるいは筋衛星細胞由来の細胞株C2C12を用いて,筋衛星細胞活性化の制御機構について研究することとした.

本研究ではスフィンゴ脂質が筋衛星細胞の活性化を制御する可能性に着目した.スフィンゴ脂質はセラミド骨格を持つ脂質の総称であり,その一種であるスフィンゴミエリンは細胞膜の主要な構成要素である.スフィンゴミエリンは形質膜上でコレステロール,他のスフィンゴ脂質,タンパク質と会合して脂質マイクロドメインを形成する.さらに,生理活性を持つスフィンゴ脂質セラミドやスフィンゴシン-1-リン酸(sphingosine-1-phosphate, S1P)の前駆体でもある.スフィンゴ脂質はさまざまな細胞機能の発現に関与していることが明らかにされはじめている.

近年,特定の遺伝子産の機能を調べる上で低分子干渉RNA(small interfering RNA, siRNA)を用いた遺伝子ノックダウンが広く利用されるようになった.特にリポトランスフェクション法は特別な施設・装置を必要とせず,簡便かつ迅速にsiRNAを細胞に導入することができる.しかし,通常のリポトランスフェクション法は休眠状態のC2C12細胞に対しては有効に働かなかった.休眠状態の細胞に対するsiRNA導入法を確立することができれば,筋衛星細胞の活性化を研究するために極めて有用な手段となると考えた.

そこで,本研究では筋衛星細胞活性化にスフィンゴ脂質が関与する可能性について検討し,スフィンゴ脂質代謝系による筋衛星細胞活性化の制御機構を明らかにすることを目的とした.その過程では,休眠状態の筋細胞に対するsiRNA導入法を確立し,遺伝子ノックダウン法を活用して研究を進めることとした.

実験結果・考察

スフィンゴ脂質が筋衛星細胞の活性化に関与する可能性を検討するために,はじめに細胞表面のスフィンゴミエリンの動態を調べることとした.スフィンゴミエリンはカベオラやラフトといった脂質マイクロドメインの構成要素として働くとともに,生理活性を持つ脂質の前駆体でもある.スフィンゴミエリン結合タンパク質ライセニンによってスフィンゴミエリンの免疫細胞化学的検出を試みたところ,C2C12細胞培養系では休眠状態のリザーブ細胞がスフィンゴミエリンを高レベルで発現すること,単一筋線維培養系では休眠状態の筋衛星細胞がスフィンゴミエリンを高レベルで発現することを発見した.さらに,細胞表面のスフィンゴミエリンは筋衛星細胞あるいはリザーブ細胞活性化の過程で減少することを明らかにした.このことはスフィンゴミエリンが筋衛星細胞の活性化あるいは自己複製に関与する可能性を示唆しており,本研究ではスフィンゴ脂質代謝と筋衛星細胞活性化の関係に注目して研究を進めた.

S1Pは多くの細胞に対して細胞分裂促進効果を示すことが知られている.本研究では,S1Pがリザーブ細胞および筋衛星細胞に対しても細胞分裂促進効果を示すことを明らかにした.その一方で,スフィンゴ脂質代謝系の阻害剤を用いてS1P産生の阻害を行うと,血清によって誘導される筋衛星細胞活性化が顕著に抑制された.カルジオトキシン注射によりマウス前頸骨筋の変性を引き起こすと,通常であれば7日後には中心核を持つ幼弱な筋線維が多数形成される.ところが,S1P産生を阻害すると再生筋線維形成が大幅に抑制され,生体内での筋再生におけるS1Pシグナルの重要性を示唆する結果を得ることができた.また,ライセニンとバクテリア由来スフィンゴミエリン分解酵素を組み合わせることによって形質膜内外のスフィンゴミエリンの可視化を試み,血清添加10分後に起こるスフィンゴミエリンの分解が形質膜内層で起こることを明らかにした.

筋衛星細胞活性化の分子機構を解明するためには,siRNAを用いた遺伝子ノックダウンが有効であると考えた.リザーブ細胞に対して通常の方法でsiRNA導入を試みても遺伝子ノックダウンは起こらなかったが,穏やかなトリプシン処理を行うことでsiRNAの導入効率が大幅に改善し遺伝子発現の効果的な抑制を確認することができた.

血清によって誘導される筋衛星細胞およびリザーブ細胞の活性化がS1Pによって媒介されることがわかったため,より詳細な分析を実施するために無血清培養条件下でリザーブ細胞の活性化を引き起こす成長因子等を探索した.その結果,上皮成長因子(epidermal growth factor, EGF)あるいは血小板由来成長因子(platelet-derived growth factor, PDGF)とインスリンを組み合わせることによって血清と同等にリザーブ細胞の活性化を引き起こすことを明らかにした.そして,EGFによって誘導されるリザーブ細胞活性化はスフィンゴシンキナーゼの阻害剤および遺伝子ノックダウンによって抑制されること,EGF添加によりリザーブ細胞のスフィンゴシンキナーゼ活性が上昇することがわかった.また,EGFによって誘導されるERK1/2のリン酸化は,スフィンゴシンキナーゼの阻害によって抑制された.S1Pは細胞内セカンドメッセンジャーとして,あるいは細胞表面のS1P受容体(S1P1~S1P5)のリガンドとして機能する.本研究では,EGFによって誘導されるリザーブ細胞活性化はS1P2のアンタゴニストによって抑制されること,細胞外に加えたS1PはS1P2依存的にERKリン酸化を引き起こすことを明らかにした.これらの結果から, EGFはS1P産生を引き起こし,S1PはS1P受容体を介する情報伝達系により,筋衛星細胞活性化シグナルの増強,拡散,そして持続させることに役立っていると考えた.

まとめ

スフィンゴミエリンが休眠状態の筋衛星細胞において高レベルで発現し,筋衛星細胞活性化の過程で減少することを明らかにした.このことからスフィンゴミエリンが筋衛星細胞の活性化あるいは休眠状態の維持に関与する可能性が示唆されたため,本研究ではスフィンゴミエリン代謝が筋衛星細胞活性化の制御に関与する可能性について詳細に検討した.

阻害剤およびsiRNAを用いた実験から血清あるいはEGFによって誘導される筋衛星細胞の活性化がS1Pによって媒介されることを明らかにした.EGFがSPHK活性を上昇させること,S1PがS1P受容体を介してERKリン酸化を引き起こすこと,アンタゴニストによるS1P受容体の阻害によりリザーブ細胞活性化が抑制されたことなどから,S1PはEGF刺激を受けた筋衛星細胞によって産生・分泌され,筋衛星細胞表面に存在するS1P受容体を介して活性化シグナルを増強,拡散,持続させると考えた.

筋衛星細胞活性化に関与する遺伝子産物の機能を解析するために,休眠状態の細胞であるリザーブ細胞に対してsiRNAを導入する方法を確立した.通常の方法でリポトランスフェクション法を行った場合,休眠状態のリザーブ細胞に対しては十分なsiRNA導入は起こらなかったが,穏やかなトリプシン処理を施すことによってsiRNA導入効率が劇的に改善し,効果的な遺伝子ノックダウンが実現できることを発見した.このことは筋衛星細胞の活性化ばかりでなく自己複製においても極めて有効な手段となることが期待される.

本研究により,S1Pはポジティブ・フィードバック・ループによってEGFシグナルを増強し,筋衛星細胞を効率的に活性化させることが示唆された.筋衛星細胞活性化におけるS1Pの役割を明らかにしたのは本研究が初めてであり,筋衛星細胞活性化を制御する分子機構の解明に向けて大きく前進すると期待している.進行性筋疾患や加齢に伴う筋再生能の低下は筋衛星細胞の量的低下でなく,質的低下による部分が大きいとする報告がある.本研究で得られた知見は,そのような場面に応用することで筋再生能の回復に役立つ可能性も考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文「スフィンゴシン-1-リン酸による筋衛星細胞活性化の制御機構に関する研究」は,7章から成っており,第1章:序論,第2章:実験材料と方法,第3章:筋衛星細胞におけるスフィンゴミエリンの動態,第4章:S1Pは筋衛星細胞活性化を媒介する,第5章:休眠状態の細胞に対する遺伝子ノックダウン方法の確立,第6章:リザーブ細胞に対しS1P 産生を誘導する成長因子の探索,第7章:総括となっている.

本論文は骨格筋の幹細胞である筋衛星細胞が筋再生初期に活動を開始する過程,つまり筋衛星細胞活性化に着目し,スフィンゴ脂質による制御機構の解明を目的としたものである.スフィンゴ脂質はセラミド骨格を持つ脂質の総称であり,その一種であるスフィンゴミエリン(SM)は細胞膜の主要な構成要素である.SMは,脂質マイクロドメイン形成,セラミドやスフィンゴシン-1-リン酸(S1P)の前駆体としての機能を持つが,筋衛星細胞活性化における役割についてはこれまでに報告がない.

第3章ではスフィンゴ脂質が筋衛星細胞の活性化に関与する可能性を検証するために,SM結合タンパク質ライセニンを用いて細胞表面のSMの動態を調べた.SMの免疫細胞化学的検出により,マウス筋衛星細胞由来の細胞株C2C12細胞培養系では休眠状態のリザーブ細胞がSMを高レベルで発現すること,単一筋線維培養系では休眠状態の筋衛星細胞がSMを高レベルで発現することを示した.さらに,細胞表面のSMは筋衛星細胞あるいはリザーブ細胞活性化の過程で減少することを明らかにした.

第4章ではSM代謝産物であるS1Pが筋衛星細胞活性化の制御因子として働く可能性に着目した.S1Pはリザーブ細胞および筋衛星細胞に対して細胞分裂促進効果を示し,S1P産生の阻害は筋衛星細胞活性化を顕著に抑制することを明らかにした.さらに,S1P産生を阻害することによってマウス前頸骨筋における再生筋線維形成が大幅に抑制されたことから,筋再生におけるS1Pシグナルの重要性が示唆された. また,ライセニンとバクテリア由来SM分解酵素を組み合わせることによって形質膜内外SMの可視化を試み,血清添加10分後に形質膜内層でSM分解が起こることを明らかにした.

第5章では,休眠状態のリザーブ細胞に対してsiRNAによる遺伝子ノックダウンを実現する方法を検討した.リザーブ細胞には通常のリポソームトランスフェクション法は有効でなかったが,穏やかなトリプシン処理を行うことによりsiRNAの導入効率が大幅に改善することを発見し,アダプタータンパク質Grb2の効率的な発現抑制を示した.

第6章では無血清培養条件下でリザーブ細胞の活性化を引き起こす成長因子等を探索し,上皮成長因子(EGF)とインスリンを組み合わせることでリザーブ細胞の活性化が起こることを明らかにした.インスリンとEGFによるリザーブ細胞活性化はスフィンゴシンキナーゼ(SPHK)の阻害剤および遺伝子ノックダウンによって抑制されること,EGF添加によりSPHK活性が上昇すること,EGFによるERKリン酸化はSPHK阻害剤によって抑制されることを示した.さらに,S1P受容体の1つであるS1P2が,EGFによるリザーブ細胞活性化,およびS1PによるERKリン酸化に関与することを明らかにした.

第7章では以上の結果を総括し, S1PはEGF刺激を受けた筋衛星細胞によって産生・分泌され,筋衛星細胞表面に存在するS1P受容体を介して活性化シグナルを増強,拡散,持続させると考察している.

本論文により,S1Pが筋衛星細胞の活性化に寄与することが明らかになった.筋衛星細胞活性化におけるS1Pの役割を明らかにしたのは本研究が初めてであり,筋衛星細胞活性化を制御する分子機構の全容解明に向けて大きく前進することが期待される.したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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